天文学の発達しはじめたのはいつ頃? 天才ガウスの計算とは?

天王星の発見

18世紀の中頃から、天文学も進歩しはじめました。

1755年、ドイツのカントは「宇宙は、はじめ、もやもやした星雲のようなものが渦をまいて運動をしはじめてそれがだんだん固まり、今日のような天体ができた」という星雲説を唱えました。

また、1781年、ハーシェルに、太陽から数えて7番目の惑星である天王星を発見しました。


この天王星の発見を、最も喜んだのはドイツの「未知惑星捜査連盟」(まだ発見されていない惑星を探す学者たちの集まり)の学者たちでした。

この学者たちにベルリン天文台長ボーデが1727年に発見したボーデの法則を信じていました。
その法則にしたがえば、まだ発見されていない惑星の位置がわかるはずでした。

ハーシェルの発見した天王星の位置はボーデの法則に、ぴったりあっていることがわかりました。

連盟の科学者たちは、この法則からまだ知られていない惑星の位置の見当をつけて、そこへ一斉に望遠鏡を向けました。

ところが、その惑星を発見したのは、連盟の学者ではなくイタリアのパレルモ天文台長ピアッツィでした。

しかし、ピアッツィは、その星を病気のために、わずか11日間しか観測できませんでした。

ピアッツィの報告が連盟に届いたときはその星が太陽の近くへ動いて観測することができませんでした。

危うく「見失われた星」となるところへ、救いの神があらわれました。
それは、ドイツの大数学者ガウスでした。



天才ガウスの計算

ピアッツィの11日間の観測した結果からガウスはその惑星の軌道を計算することに成功しました。
しかも、わずか5、6時間で計算したのです。

連盟の科学者たちは、やがてガウスの計算に導かれてビアッツィが発見した惑星ケレスを再び発見することができました。

それに続いて、パラス・ジュノ・ベスタなどの小惑星が続々と発見されました。

日本でも、東京天文台の第二代台長平山信博士と及川奥郎技師たちが東京・ニッポニア・三鷹・多摩・隅田・箱根・熱海・日光などおよそ10個の小惑星を発見しました。

また、1846年には海工星が発見されました。

続いてドイツのブンゼンとキルヒホフは、スペクトルを使って物質の性質を研究するスペクトル分析法をはじめこれが天文学にも応用されて、太陽や恒星はスペクトルで研究されるようになりました。

最近は探測器を使って天体を直接観察するようになっています。

地球の研究

科学者の月が宇宙に向けられているあいだに地球についての科学も進歩しました。

フランス革命のさなか、ラボアジエなど、フランス一流の科学者たちは地球の子午線の長さをはかり、メートル法をつくりあげました。

また19世紀になると、ドイツのフンボルトは南アメリカを探検して新しい地理学をひらきイギリスのライエルは地質を調べる学問をはじめました。

このようにして発達してきた天文学や地学は20世紀へと引き継がれていったのです。




光は粒か波か? 光の正体とは? わかりやすく解説!

ニュートンとホイヘンスとの争い

科学者の間には「光とは何か」という問題が、かなり昔からありました。

18世紀のはじめ、ニュートンが太陽の光が7つの色(スペクトル)にわけられることを発見して「光は、光を出すものから発せられた小さな粒のような物質に違いない」という光の粒子説を発表しました。

そのうち、イギリスのトーマス・ヤングが「波長の違う2つの光は、お互いに干渉して縞をつくる」ことを実験して光は波だという、波動説を唱えました。

イギリスのフック、オランダのホイヘンスなどの学者は、この考えかたに賛成しました。
そして、ニュートンとホイヘンスとのあいだで粒子だ波だという説の言い合いがはじまりました。


どちらも正しい

1864年に、イギリスのマクスウェルは「光は電磁波の一種である」という光の電磁波説を唱え、1888年になると、ドイツ人ヘルツが光は電磁波であることを実験で確かめました。

これで「光は波である」ということになりました。

ところが1905年、アインシェタインがあらわれて「光は光子という粒である」という光量子仮説を発表したので騒ぎは大きくなりました。

そのころ、金属に光をあてるとその金属の表面から電子が飛び出すことが発見されていました。

これを光電効果といいます。

この光電効果は、アインシュタインの光量子仮説で見事に説明することができたのです。

そして「光は波であると同時に、粒子である」ということがわかってきました。
このことについて、科学者たちが説明できるようになったのは原子についての科学が進歩してからでした。



200年の謎

ホイヘンスは、光の波動説を唱えたとき
「宇宙は、エーテルというもので満たされている」と考えました。
光はそのエーテルの振動だと考えなければ、波動説の説明ができなかったからです。

しかし、光の波動説を説明するためにはこのエーテルは、固体のような性質をもっていなければならないことがわかってきました。

すると、エーテルの中を動いている地球をはじめすべての天体は、その運動がさまたげられるはずです。

このようなことから「エーテルは、かたさがあると同時に、真空のようなものである」ということになります。

また1864年に発表された、マクスウェルの電磁波説では「エーテルは、電磁波を伝える仲立ちをするもの」となっていました。

しかし、エーテルがあるということを確かめることはできませんでした。
こうなると、エーテルというものは、この宇宙にはないことになります。

しかも、エーテルがなければ、電磁波があるということが説明できません。

1905年、アインシュタインの相対性理論によって「この宇宙には、エーテルというものはない」ということが見事に説明されたのです。

このように、ホイヘンスが言い出したエーテルは200年もの長いいだ、科学者たちを悩ませてきたのでした。




X線の発見はいつ頃? ラジウムの発見はいつ頃?

クルックス管の謎

1874年、イギリスの物理学者クルックスは、クルックス管を発明しました。
これは2つの電極をガラス管にふうじこめ、管内の空気を抜いて真空の状態に近づけたものです。

そして、この2つの電極に直流の高電圧を加えると陰極から陰極線がでて、真空放電がおこるのです。

1895年の末、ドイツのビュルツブルク大学の研究室でレントゲンはこのクルックス管の研究をしていて不思議なことを発見しました。

あるときレントゲンは、実験の準備をしていました。

部屋を暗くしてクルックス管か黒い厚紙でおおい光がもれるかどうかを試すため、クルックス管のスイッチを入れました。

光はどこからももれていませんでした。しかしそのとき、彼ははっとしました。

隣の机の上に置いてあったシアン化白金バリウムを塗った紙が、ぼんやり光っていました。

この紙は、光にあたらなければ光らないのです。
そこで彼は「もし光があるとすれば、このクルックス管のほかにはないはずだ」と考えました。

こうしてレントゲンは、クルックス管からいままでまったく知られていなかった光が出ていることを発見しました。

そして彼は、その光線を「まだよくわからない光線」という意味でX線とよびました。
のちにこのX線はレントゲンの名前を記念してレントゲン線とよばれるようになりました。


ウラニウム線の発見

そのころ、フランスの有名な科学者アンリ=ポアンカレは「クルックス管ばかりでなく、蛍光を発する物質は、すべてX線を出すに違いない」という意見を発表しました。

もちろん、この意見は間違っていました。

しかし、ほかでもないポアンカレの意見だったのでたいていの科学者は、その意見を信じてしまいました。
そういう学者のひとりに、フランスのアントワーヌ・アンリ・ベクレルがいました。

ベクレルは、ポアンカレの間違った意見にしたがって実験をすすめているあいだに「太陽の光を受けて蛍光を放つウラニウム塩も光を受けないウラニウム塩も、ともに写真乾板によく感光する」ということを発見しました。

つまり、ベクレルは、ウラニウムからも不思議な光が出ていることを発見したのです。

ウラニウム線もX線も「目に見えない、写真乾板を感光させる。空気に電気が通るようにする」というはたらきがあります。

このようなはたらきは、後に放射能と名付けられました。

しかしウラニウム線は、X線のように人間の体などを突き抜けることはできません。
そのかわり、ウラニウムやウラニウムの化合物は光をあてたり、温めたりしなくても自然にウラニウム線を出していることがわかってきました。



新しい元素を追って

ウラニウムの放射能には、不思議なことがありました。
ウラニウムの鉱石からウラニウムをとった残りかすがウラニウムより強い放射能をもっていることです。

キュリー夫人は、このかすを調べてみました。
そしてウラニウムのほかに、トリウムも放射能をもっていることがわかりました。
しかし、それでもウラニウム鉱の放射能の強さを説明することはできません。

ここでキェリー夫人は
「これらの鉱物の中には、ウラニウムやトリウムより強い放射能を出すいままでに知られていない新しい元素がふくまれているのではないだろか」と考えました。

そして、夫ピエールの協力を得て、その元素を探しました。
1898年、ついにキュリー夫人は、強い放射能を出す新しい元素を発見しました。

そして、それにポロニウムという名前をつけました。

自分で壊れる原子

この発見からわずか5か月後にキュリー夫妻はもう1つの元素があることをつきとめました。

その元素は、化学的にはバリウムという金属に似ていてウラニウムより数百万倍も強い放射能を餅、亜鉛鉱や蛍光板に蛍光を出させることができます。

キュリー夫妻にこの元素に、ラテン語の光という意味の言葉からラジウムと名付けました。
そして原子量をはかり88番目の元素として元素表へ書き入れました。

研究がすすむにつれて、ますます不思議なことがわかってきました。
ラジジウムに、アルファ線・ベータ線・ガンマ線という3つの放射線を出しながら、ほかの元素にかわり最後には鉛とヘリウムになってしまうです。

これまでの科学者たちは「原子は壊れないもの、元素はかわらないもの」と考えていましたから、驚いてしまいました。

キュリー夫妻のこの発見がきっかけとなって原子についての科学は、にわかに進歩しはじめました。




熱の正体とは? 温度計が発明されたのはいつ頃?

温度計の発明

熱さ、冷たさなどをはかろうとして考えだされたのが温度計です。
はじめてつくられた温度計は、空気温度計でした。

ガリレオの友達の医者は、早速これを改良して、病人の体温を測ったといわれています。

1714年、ドイツのファーレンハイトははじめて水銀温度計をつくり、氷が溶ける温度を32度人間の口の中の温度を96度と決めました。

これが、華氏温度めもりです。

その後、1742年には、スウェーデンのセルシウスは水が凍る温度を100度、水が沸騰する温度を0度とするいまの温度計とは反対の摂氏温度めもりのもとをつくりました。

これで温度を測る道具はできましたが温度とは何か熱とは何かというようなことは、まだわかりませんでした。


温度と熱とは違う

1763年、イギリスのブラックという学者は、熱について大切なことを発見しました。

同じ重さの銅・鉄・鉛など、いろいろな物質をとって同じ温度まで上げるのに、どれだけの熱量がいるかを実験してみました。

そして、物質によって、その熱量が違うことを発見しました。

このブラックの研究のおかげで温度と熱とは違うものだということがわかりました。
そして熱についての研究が、いままでより、ずっとすすみました。

熱は運動か物質か

1669年、ドイツのべッパーという学者は、おもしろい説を唱えました。
「物の中には、熱素という小さい粒がある。

物が燃えるときは、この熱素がたくさん出てくるから温度が高くなる。
だから、温度の高いものほど、熱素をたくさんもっているというのです。

これを熱素説といいます。

ブラックもこの熱素説を信じていたので、なんとかして熱素の重さをはかろうとしました。

しかし、そのたびに失敗しました。そこでブラックは、つぎのように考えました。

「熱素は、重さをはかることのできない物質である」

18世紀の終わりごろ、アメリカのランフォードという学者が、おもしろい実験をしました。

大砲の地金でつくった円筒を水の入った箱の中で回転するようにしました。
この円筒のはしに、中ぐり棒を押し付け摩擦が起こるようにしました。

そしてその円筒を2頭の馬で回転させ、摩擦で起きた熱を水に伝えました。
すると箱の中の水は、わずか2時間20分で沸騰したのです。

そこでランフォードは、熱は「物質ではなく、運動である」と考えました。

続いてイギリスのデービーも別の実験をおこない「熱は物体をつくっている小さな粒の特別の運動である」と考えました。

19世紀になると、イギリスのジュールはいろいろな実験から、熱は運動であって、仕事は熱にかわり熱は仕事にかわるということを発見しました。

このジュールの実験をもとにして、エネルギーについて大切な法則を打ち立てたのがヘルムホルツだったのです。




斜面の法則とは? エネルギー保存の法則とは?

夢からうまれた斜面の法則

大昔から人類は「少しでも楽に仕事をしたい」という夢を抱き続けてきました。
この夢は「永久機関」をつくろうという努力にかわりました。


永久機関というのは、外から力を加えないでも自分の力で回転して、いつまでも仕事をしてくれる機械のことです。

16世紀の終わりごろ、オランダのシモン=ステビンという科学者はつぎのような永久機関を考えました。

図のように、②の辺が①の辺の長さの2倍になるような直角三角形を考え③の辺が水平になるようにおきます。

これに14個の同じ重さの球を、あいだが同じになるようにくさりにつないで
この三角形にかけます。

「下にぶら下がった8個は、辺の上にのっている4個と2個の球のつりあいには関係がないから、4個と2個のつり合いだけを考えればよい。

4個の球は、重さが2個の球の2倍になるから、くさりは4個の球のほうへ引っ張られこのくさりは、①から②の方向へ動くに違いない」

ところが実際にやってみると、くさりに、びくとも動きませんでした。
そこで、ステビンは、そのわけを考えはじめました。

そして「4個の球が乗っている辺の長さが2個の球が乗っている辺の長さの2倍になっているときは4個の球の重さのはたらきと、2個の球の重さのはたらきは同じになる」ことを発見しました。

こうしてステビンは、斜面の法則を発見し、さらに研究をすすめ、それを1冊の本にまとめました。

そして彼は、その本の表紙にこう書きました。

「これは不思議だ。だが、ちっとも不思議ではない」



エネルギー保存の法則

ステビンが永久機関の夢を破ってから、仕事についての研究がはじまりまもなく科学者たちは、仕事の量をはかる法則を見つけだしました。
そして、エネルギーという考えにすすみました。

ポールを投げて、そのボールが軽いものにぶつかると、それを跳ね飛ばします。つまり、ボールは仕事をしたわけです。

このように、仕事をすることができる能力を、エネルギーといいます。
エネルギーという言葉を、はじめて使ったのは19世紀のはじめ、イギリスのトーマス・ヤングでした。

そして1847年には、ドイツのヘルムホルツは、エネルギーについての法則を発見しました。

大きさも重さも同じ、2つの球を用意し、滑らかな面の上に1つの球を置きます。

もう1つの球を転がして、止まっている球にあてると動いていた球は止まり、止まっていた球が動き出します。

つまり、動いていた球は、自分のもっていたエネルギーを失います。
そのかわり、止まっていた球は、そのエネルギーを受け取って動き出したのです。

すると、こういうことが言えます。

「エネルギーは、こちらで減れば、必ずあちらで増えます。そして、全体のエネルギーは減りも増えもしません」

これを、エネルギー保存の法則といいます。




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