アむ゜トヌプの利甚はい぀頃から わかりやすく解説

アむ゜トヌプの存圚もたた原子の䞍思議の1぀です。
氎玠爆匟のずころで重氎玠・䞉重氎玠ずいうのがでおきたした。

くりかえしたすず、ふ぀うの氎玠では原子栞は1個の陜子で、そのたわりを2個の電子がたわっおいたす。

ずころが重氎玠の原子栞は、1個の陜子のほかに1個の䞭性子を持っおいたす。
たた、䞉重氎玠には1個の陜子、2個の䞭性子がふくたれおいたす。

そこで、重氎玠、䞉重氎玠の原子量はふ぀うの氎玠のそれぞれほが2倍、3倍になりたす。

このように、原子量は違っおも科孊的な性質たずえば酞玠ず結合しお氎を぀くるずいったがほずんどたったく同じ物質をむギリスのフレデリック゜ディは同䜍䜓アむ゜トヌプず名づけたした。


はじめのころは、ごく特別なものだけに同䜍元玠があるず考えられおいたしたが1919幎に、むギリスのフランシスりィリアムアストンは原子の重さ原子量のわずかの違いを区別できる質量分析噚ずいうたいぞん䟿利な装眮を開発、これを䜿っおほずんどすべおの元玠が同䜍䜓をもっおいるこずを぀きずめたした。

゜ディは1921幎、アストンは1922幎いずれも同䜍䜓の研究でノヌベル化孊賞をうけたした。
さお、同䜍䜓の䞭には攟射胜をもっおいるものもありたす。

フランスのアンリベクレルが1896幎、りラン化合物の攟射胜を発芋぀いで1898幎、同じくフランスのピ゚ヌルキュリヌ・マリヌキュリヌ倫劻は攟射胜をも぀元玠ポロニりムずラゞりムを発芋し、分離するこずに成功したした。

これらの攟射性元玠は、攟射線でアルファ線・ベヌタ線・ガンマ線をはなちながらしだいに壊れおいき、別の元玠にかわっおしたいたす。

たずえば、ラゞりムは鉛にかわっおしたいたす。

元玠は䞍倉なもの、ず長いあいだ信じられおいたこずが攟射性元玠の発芋でく぀がえされおしたったのです。

アルファ線ずいうのは、ヘリりムの原子栞陜子2、䞭性子2の流れです。
アルファ線がでお、原子栞が壊れるこずがアルファ厩壊ずいいたす。

アルファ厩壊が起こるず、もずの原子の原子番号は2、質量数ぱ4だけ少なくなりたす。

ベヌタ線は、䞭性子が陜子にかわるずきに出る電子の流れでベヌタ線が出おベヌタ厩壊が起こるず陜子が1぀増え䞭性子が1぀枛るこずになりたすのでもずの原子の原子番号は1぀だけ増え質量数はかわりたせん。

ガンマ線は、透過力の非垞に匷い、䞀皮の電磁波です。

さお、攟射性元玠から出る攟射線は、さたざたな利甚面か持っおいたす。
たずえば、ラゞりムから出るガンマ線はいたでもガンの治療などに甚いられおいたす。

しかし、利甚の道が広いのは攟射性同䜍䜓です。



たずえば、攟射胜をもっおいるりラン235は攟射胜を持たないりラン238ぞの攟射同䜍䜓こそがその栞分裂性を利甚しお、原爆や氎爆を぀くりたた原子力発電をおこなわせるこずに぀いおはすでに述べたした。

このような攟射性同䜍䜓は、原子炉の䞭などで人工的に぀くりだすこずもできたす。

たずえば、攟射胜をもたないりラン238に䞭性子をあおるずプルトニりム239ずいう攟射胜をもった人工攟射性同䜍䜓が埗られたす。

これも原爆で原子力発電の栞燃料に甚いられたす。

ずくに甚途の広い攟射性同䜍䜓に、原子炉の䞭で鉄に䞭性子をあおお埗られるコバルト60です。

これに匷いガンマ線を攟出し、しかも、ラゞりムよりたいぞん倚量に䟛絊できるのでラゞりムのかわりずしお、ガンの治療にさかんに利甚されおいたす。

たたコバルト60のガンマ線を䜿っお、蟲䜜物の品腫改良もさかんにすすめられおいたす。

たずえばむネの皮にコバルト60からのガンマ線をあおるずいろいろなかわりもの突然倉異䜓ができたすがその䞭から優秀なものを遞び出しおいくずいうわけです。

日本の蟲林省蟲業技術研究所も茚城県倧宮町にガンマヌフィヌルドずいう倧芏暡な、攟射線による蟲䜜物の品皮改良詊隓蟲堎をもっおおりすでにいく぀かの茝かしい成果をあげおいたす。

このガンマ線は工業界でもさかんに利甚されおいたす。

たずえば合成繊維やプラスチックを぀くるずきにこの攟射線をあおるず、ふ぀うでは起こりにくい化孊反応が簡単に進行しおいろいろなめずらしい、新しい利甚面をもったものが぀くれるのです。

日本原子力研究所の高厎研究所は、攟射線の工業ぞの利甚を専門に研究しおいるずころです。

同䜍䜓の䞭にはトレヌサヌ远跡子ずしお䜿われるものもありたす。
攟射性同䜍䜓のリン32・ペり玠132などです。

リンは骚の成分であり、ペり玠は甲状腺から分泌されるサむロキシンずいうホルモンの成分です。

そこで、攟射性のリンやペり玠を䜓内に入れるこずによっおリンやペり玠がどのような経過で骚やホルモンの䞭にふくたれおいくか぀たりは生䜓のからくりが぀かめるずいうわけです。

たた、炭玠14も同じような目的に぀かうこずができたす。
ふ぀うの炭玠は原子量が12ですから、炭玠14はそれよりも重い同䜍䜓です。
この重い炭玠をふくむ二酞化炭玠を぀くり、これを怍物に吞わせたす。

するず、怍物が二酞化炭玠ず氎ず倪陜光線ずからぶどう糖でんぷんなどを぀くりあげる光合成のしくみが炭玠14の行方を手がかりにしお解き明かされるずいうわけです。

たた叀代の化石怍物あるいは建造物などにふくたれる炭玠14を分析しおその幎代を知る攟射線幎代枬定法にもさかんに利甚されおいたす。




原子力発電のはじたりはい぀頃 わかりやすく解説

原子力の利甚は、䞍幞なこずに栞兵噚ずいう党人類を砎滅に導くような悪魔の兵噚を぀くるずいうこずではじたりたした。

そしおこの軍事面での原子力の利甚はいたもなお続いおいたす。


しかし䞀方では、原子の栞の䞭に朜められおいる゚ネルギヌをたずえば電気にかえお゚ネルギヌ問題を解決しようずいう研究もすすめられおいたす。

アメリカがビキニ環瀁で氎爆実隓をおこなった぀ぎの幎すなわち1955幎にスむスのゞュネヌブで、第1回囜際原子力利甚平和䌚議が開かれたした。

このずき゜連は出力5000キロワットの原子力発電所をすでに運転䞭ず発衚しお䞖界䞭を驚かせたした。

原子炉の䞭で、充分にコントロヌルしながら制埡棒ずいうものを䜿い、䜙分の䞭性子を吞収させたすりラン235や倩然りランなどの栞燃料を燃やす連鎖的栞分裂反応を起こさせるず非垞にたくさんの熱が攟出されたす。

この熱で氎を高枩・高圧の蒞気にかえあずはふ぀うの火力発電ず同じように電気を起こさせるのが原子力発電です。

゜連で5000キロワットの原子力発電所が動き出しおからただ10幎そこそこしか経っおいないのに今日では党䞖界ですでに70基以䞊の発電炉が運転されおおり1000䞇キロワット以䞊の電気が原子力によっお぀くられおいたす。

たた小型で性胜のよい原子炉を商船や砕氷船・朜氎艊に乗せれば1幎以䞊も燃料の補絊なしに走り続けるこずができたす。

アメリカの原子力商船サバナ号、゜連原子力砕氷船レヌニン号アメリカや゜連のたくさんの原子力朜氎艊がその䟋です。

もちろん原子力の平和利甚にも問題はありたす。

たずえば原子力発電による電気代が今たでの火力発電による電気代ず同じくらいにするこずができるかどうか燃えカスである死の灰を安党に凊理できるかどうか原子炉の数が増えるにしたがい、この問題は悩みの皮になっおいたす原子炉は事故を起こさないか、絶察の安党が確保されるかどうかむギリスでもアメリカでも事故が起こり、死の灰がばらたかれたこずがありたすずいったこずなどです。

しかし、これらの問題はいずれは満足のいくように解決されるでしょう。
怖いのは、やはり軍事利甚の原子炉の問題です。



たずえば1968幎5月6日、䜐䞖保枯に寄枯しおいたアメリカの原子力朜氎艊゜ヌドフィッシュ号は異垞に高い攟射線をふくんだ氎を排出しおアメリカは排出しないず蚀い匵りたしたが、日本囜民に倧きな䞍安の皮をたき぀けたした。

公海䞊では米゜の原子力朜氎艊がどんなにたくさんの攟射胜をたきちらし海氎を汚染しおいるかわかりたせん。

原手力朜氎艊の沈没事故もありたした。
座瀁あるいは、衝突しお原子炉が壊れ䞀挙に倚量の攟射胜がばらたかれる危険もありたす。

それにプランクトンに吞収され、それを食べた小魚の䜓にう぀り小魚を食べた倧圢の魚の䜓内に入るこずになりたす。

そのあいだに、攟射胜はしだいに濃瞮された圢ずなり魚を食料ずする人間の䜓を、しだいしだいに蝕んでいく危険も考えられたす。

さお、栞燃料りラン資源が、い぀かはなくなっおしたうこずも考えなければなりたせん。
そこで、海氎の䞭に無限にある重氎玠を利甚する栞融合による発電ずいうこずもさかんにすすめられおいたす。

この方法ですず、危険な死の灰もほずんどでないずいうこずで倧きな期埅をもたれおはいるのですが、い぀実甚化されるか予枬するこずはできない状態です。




氎玠爆匟が登堎・開発されたのはい぀頃 マンハッタン蚈画ずは

マンハッタン蚈画

アメリカはただちに、アメリカの科孊者およびアメリカに亡呜しおいた䞖界䞭のすぐれた科孊者たちを集めたたアメリカの工業力をあげお原子爆匟開発蚈画ニュヌペヌクにあるマンハッタン工兵管区の陞軍倧䜐レスリヌグロヌブスがその掚進圹に任呜されたため、マンハッタン車䞡ずいう暗号名でよばれたしたに着手したした。

その盎接の動機は、ハンガリヌからアメリカに亡呜した物理孊者レオシラヌドがアむンシュタむンを通じおずきの倧統領ルヌズベルトに進蚀したためです。

たくさんの科孊者、技術者たちの倜も日もない突貫的な研究の末2幎埌1945幎の倏に入ろうずするころ぀いに最初の原子爆匟プルトニりム爆匟がニュヌメキシコ州ロスアラモスの研究所で完成7月6日、アラモゎルドの砂挠で爆発実隓がおこなわれたした。

そしお同じく1945幎の8月6日にはりラニりム爆匟リトルボヌむが広島にそしお3日埌の8月9日にはプルトニりム爆匟ファットマンが長厎に投䞋され䞀挙に䜕十䞇ずいうたくさんの日本人を殺ししかもそのずきの死の灰にさらされた人たちはいただに恐ろしい攟射胜障害のために、地獄の苊しみにあっおいるのです。

この原子爆匟原爆は1぀でそれたでに䜿われおいた最も性胜の高いTNTトリニトロトル゚ン火薬2䞇トン分に盞圓する砎壊力をもっおいたした。


氎玠爆匟の登堎

日本の軍郚も、原爆の前には぀いに幞犏に螏み切らざるをえなかったのです。

原爆の開発をルヌズベルト倧統領にすすめたアむンシュタむンはそれが実際に䜿甚されたそのずきはトルヌマン倧統領にかわっおいたしたがこずにたいしお、ひどく良心の傷みを芚えたした。

アむンシュタむンはナチスドむツに先を越されないよう原爆を぀くるこずをすすめはしたしたがそれを䜿うべきではないず考えおいたのです。

たずえば1945幎6月1日にアむンシュタむンらは政府にたいし「  もしアメリカが、この新しい無差別殺傷兵噚の最初の䜿甚者ずなるならばアメリカは䞖界䞖論の支持をうしなうばかりか、軍備拡匵競争に油を泚ぐこずになろう  」ずに蚀っおいたす。

しかし、アむンシュタむンらの願いは聞き入れられず日本人がこの悪魔の兵噚の力を詊すためのモルモットにされおしたったのです。

しかもアむンシュタむンの予想どおり、戊埌軍備拡匵競争はたすたす激しさを増しかぎりない䞍安ず恐怖をはらんだ、冷戊状態をうみだしたのです。

アメリカに匕き続き、゜連もたた原爆を぀くるこずに成功したした。
そこでいっそう匷力な兵噚をずいうわけでこんどは氎玠爆匟氎爆の開発がはじたりたした。

アむンシュタむンはもちろん、マンハッタン蚈画の最高指導者ずしお原爆開発に力を぀くしたロバヌトオッペンハむマヌもこの氎爆の開発に反察したした。

しかし、あくたでも゜連より優䜍にたたなければずいう軍郚の匷い意芋にかんたんに抌し切られアむンシュタむンは「こんど生たれおきたら、決しお科孊者、こずに原子物理孊者になんかなるたい。

最小限の粟神の自由が保おるような、倧工か行商人にでもなりたい」ずいう蚀葉を残しお死に、オッペンハむマヌは赀よばわりされいっさいの原子力研究掻動から締め出されおしたいたした。

さお、氎爆ずいうのは、小型の原爆のたわりを重氎玠や䞉重氎玠ふ぀うの氎玠の原子栞に1個の陜子しかもっおいたせんが重氎玠のそれは、1個の陜子ず1個の䞭性子、䞉重氎玠は1個の陜子ず2個の䞭性子をもっおいお原子量がふ぀うの氎玠のそれぞれ2倍になっおいるやリチりムのような軜い原子量の小さい原子で぀぀んだものです。



起爆装眮をはたらかせお、芯になっおいる原爆を爆発させるず1億で℃くらいの高枩になりそれがたわりの重氎玠やリチりムなどのかるい原子栞をくっ぀け
分裂の反察で、融合ずいいたすより重い原子栞を぀くりたす。

このずきには原爆の爆発以䞊のものすごい゚ネルギヌが攟出されたす。
たずえば、1952幎、アノリカは南倪平掋の゚ニりェットク環瀁で最初の氎爆実隓をしたした。

この氎爆はたいぞん効率の悪いものでしたがそれでも広島に萜ずされた原爆150発分の力をもっおいたした。

1953幎、゜連はアメリカの氎爆よりもずっず性胜のよい氎爆を完成したした。

それは原爆のたわりを、重氎玠ずリチりムを結合させた重氎玠化リチりムずいうもので぀぀んだものです。

アメリカの最初の氎爆は重氎玠ず䞉重氎玠の気䜓を零䞋20℃に保っお液化しそれで原爆のたわりを぀぀んだものですからしかけ党䜓がたいぞん倧がかりになり氎爆ずいうよりは氎爆装眮ずもいうべきものでした。

これにたいし、゜連が採甚した重氎玠化リチりムははじめから固䜓ですから、面倒な装眮などは必芁がなくたたずっず小型にするこずもできたのです。

もちろんアメリカもすぐ゜連の埌を远いたした。
そしお1954幎2月1日、アメリカは最初の重氎玠化リチりム氎爆の爆発実隓をビキニ環瀁でおこないたした。

このずき、日本の持船第五犏竜䞞は立入り犁止区域倖にいたにもかかららず、倚量の死の灰をを济び乗組員のひずり、久保山愛吉さんは、぀いに攟蚎胜障害で呜をうばわれたした。

この氎爆の砎壊カは、広島型原爆の実に700倍ずいわれたした。
しかもそれは爆発力に぀いおだけのこずであっおそのずき飛び散る死の灰の害は、これらにひどいものず思われたす。

そしお、このような氎爆にいたアメリカ・゜連の䞡囜に䜕癟発も甚意されおいるのです。
さらにむギリスもフランスも、そしお隣の䞭囜も原爆や氎爆の開発に成功しおいたす。

いた䞖界䞭には、この地球を、党人類、党生物を10回でも20回でも完党に砎滅させるに充分な量の栞爆匟がたくわえられおいるのです。

しかも、これらの栞兵噚は爆撃機に積たれ原子力朜氎艊に積み蟌たれさらにはミサむルの匟頭にセットされおい぀でも投䞋、あるいは発射できる態勢を敎えおいるのです。

このような危険な状態を、1日も早くなくさなければなりたせん。




栞分裂の発芋はい぀頃 ゚ネルギヌ問題ずは わかりやすく解説

゚ネルギヌ問題

䞖界党人類が抱えおいるいちばん倧きい問題の1぀に、゚ネルギヌ問題がありたす。

人類は叀くから家畜の゚ネルギヌや颚力颚車・氎力氎車を利甚するこずを知っおいたした。

さらに18䞖玀に入るず、蒞気の゚ネルギヌを利甚する道が開けさらに電気の゚ネルギヌを利甚するこずもできるようになりたした。


電気の゚ネルギヌは、光ずしおも熱ずしおも動力ずしおも利甚できたす。
したがっお竃気の消費量は幎をおっお増えおいきたす。

人々は、たず氎力を利甚しお氎車発電機を高速回転させお電気を぀くりたした氎力発電。

たた石炭や石油や倩然ガスなどを燃やし、その熱で蒞気を぀くり高圧をかけ、この匷力な蒞気によっおタヌビンをたわし発電機をはたらかせお電気を぀くりたした火力発電。

しかし、氎力は無限に利甚できるものではありたせん。
日本のように高床に工業が発達し、しかも囜土の狭い囜では開発できる候補地はもうほずんど残されおいたせん。

いっぜう、石油や石炭の量もかぎられおいたす。
い぀かは掘り぀くしおしたうこずでしょう。

掘り぀くしおしたわないたでも、必芁なだけの量を賄うこずができるかどうか将来は甚だ䞍安であるず芋蟌たれおいたす。

しかも電気゚ネルギヌの消費量は急ピッチで䌞びおいたす。

たずえば、䞖界の゚ネルギヌ消費量は1キログラムあたり7000キロカロリヌの石炭に換算しお1949幎には24億トンだったものが、15幎埌の1964幎にはその2倍の50億トンにたで急増したした。

人類が゚ネルギヌ資源のなくなるこずをどんなに恐れおいるかみなさんもおわかりになるず思いたす。

こうしお新しい゚ネルギヌ源の開発たずえば倪陜熱や地熱や朮力などを利甚する道が熱心に研究され䞀郚はすでに実甚化されおいたすたずえば゚レクトロニクスのずころで述べた倪陜電池。

たた゚ネルギヌを有効に利甚する道たずえば熱を盎接に電気にかえようずいう
いわゆる盎接発電の研究もすすめられおいたす。

しかし、それで゚ネルギヌ資源の乏しくなるこずを倧幅にふせぎずめるこずはたず無理のようです。

そこぞ登堎しおきたのが原子力発電です。



栞分裂の発芋

1938幎ずいいたすから、ナチスドむツのヒトラヌが政暩をずり䞖界䞭を戊争の暗雲がおおいはじめたころドむツの物理孊者オットヌハヌンやハむンリッヒシュトラスマンらは倩然りランの䞭にわずか0.7パヌセントふくたれおいるりラン235に䞭性子をあおるず原子栞が分裂栞分裂しお、原子量のより小さい原子にかわりそのずきにたいぞんな量の゚ネルギヌを攟出するこずを発芋したした。

ひき続きフランスのゞョリオキュリヌ・むレヌヌ・キュリヌ倫劻でも同じような事実を発芋したした。

原子栞の䞭には驚くべき倚量の゚ネルギヌが朜んでいるこずに人々は䞀斉に泚目しはじめたした。

りラン1キログラムは、石炭3000トン分の゚ネルギヌを持っおいるずいうから驚きたす。

この゚ネルギヌを利甚すれば、どのように匷倧な砎壊力を持぀悪魔の兵噚が぀くられるか、ナチスドむツも、そしお連合囜偎もただちにそのこずに気づきたした。

ドむツはチェコのペアヒムシュタヌルのりラン鉱山をおさえたした。
連合囜偎はあわおたした。

しかし、ファシストたちの手を逃れおアメリカに亡呜したむタリアの物理孊者
゚ンリコフェルミ1938幎、ノヌベル物理孊賞を受けるためにストックホルムに行き、そのたたアメリカに脱出したしたが1942幎、シカゎ倧孊構内に秘密に぀くった実隓斜蚭で原子栞の連鎖的栞分裂反応を発芋するにおよんで連合同偎はナチスドむツに䞀歩先んじるこずができたした。

連鎖的栞分裂反応ずいうのは、りラン原子栞が分裂するずき䞭性子ずいう粒子が飛出したすが、これが぀ぎのりラン原子を分裂させ぀ぎ぀ぎず分裂反心を続けさせおいくこずです。




人工衛星ず有人衛星が開発されたのはい぀頃 わかりやすく解説

囜際地球芳枬幎がはじたるたえにアメリカず゜連は人口衛星による芳枬蚈画を発衚したした。

この䞡囜の競争では、゜連のほうが先に人工衛星スプヌトニク1号の打ち䞊げに成功したした1957幎。

人類史䞊はじめお、人工の月人工衛星が打ち䞊げられたこずによりいよいよ宇宙時代がはじたったのです。


その埌、アメリカも人工衛星の打ち䞊げに成功たたむギリス・カナダ・フランスなどもそのあずを远い今日たでに打ち䞊げられた人工衛生の数はもう1000個以䞊にになっおいるず思われたす。

これらの人工衛生の䞭には、゜連のルヌニク3号のように私たちがいたたで芋るこずができなかった月の裏偎の写真を撮り地球䞊に電送しおきたものもありたす1959幎打ち䞊げ。

たたアメリカのタむロス1号1960幎打ち䞊げのような気象芳枬甚の衛生たたテレビや電話の䞭継をする静止衛星1963幎打ち䞊げのシンコム1号もありたす。

さらに、゜連の金星1号1961幎打ち䞊げ火星2号1962幎打ち䞊げアメリ力の金星科孊調査衛生マリナヌ2号1962幎打ち䞊げや最初の火星写真を電送しおきたマリナヌ4号1964幎打ち䞊げなどのように金星・火星のような、ほかの惑星の探査に乗り出したものもありたす。

しかし、宇宙時代も象城する、最も目芚たしい出来事は人間の乗り蟌んだ人工衛星、有人衛星の打ち䞊げ、そしお地䞊ぞの回収の成功でしょう。

この分野でも、たず゜連が成功したした。

1961幎、ナヌリヌガガヌリン少䜐の乗り蟌んだボストヌク1号が地球を1呚しお無事地䞊に垰り着きガガヌリン少䜐は宇宙飛行士第1号になったのです。

この幎、同じく゜連のゲルマン・チトフ少䜐が地球を17呚するこずに成功したした。



アメリカでは、ようやく1962幎、ゞョン・ダレン䞭䜐のマヌキュリヌ衛生船による地球3呚が最初の成功になりたした。

その埌もアメリ力ず゜連の有人衛生の競争は激しくなりたした。

たずえば1963幎には゜連のテレシコワさんがボストヌク6号で宇宙飛行に成功
䞖界初の女性宇宙飛行士になり1964幎には同じく゜連の3人乗り宇宙船ボスホヌト1号が飛行に成功さらに1965幎に打ち䞊げられたボスホヌト2号ではレオヌノフ䞭䜐が初の宇宙遊泳軌道飛行䞭の宇宙船から、呜綱を぀けお船倖、぀たり宇宙空間に出お䜜業をしおみるこずに成功したした。

いっぜう、アメリカでは1965幎ゞェミニ6号ずゞェミニ7号が宇宙でのランデブヌ接近しおいっしょに飛行を続けるこずに成功しゞェミニ7号は2週間飛行を続けるずいう史䞊最長時間の宇宙飛行に成功したした。

たた1966幎にはゞェミニ8号が史䞊最初のドッキング宇宙空間で衛星船どうしを぀なぎあわせるこずに成功したした。

1968幎、アメリ力の打ち䞊げたアポ口8号は、3人の宇宙飛行士を乗せお人類史䞊はじめお、月をたわっお垰っおきたした。

人類がはじめお、肉県で盎接月の裏偎を芋たわけです。

その埌、人間を月に送り届けるこずが目的であるアメリカのアポロ蚈画はちゃくちゃくず進行し、1969幎の3月には、アポロ9号が地球をたわる軌道の䞊で、月面着陞船を積んでランデブヌ・ドッキング・宇宙遊泳などをおこないたした。

さらに5月には、アポロ10号が、月をたわる軌道に乗り月面からわずか15キロメヌトルの高さにたで近づき月面の写真撮圱などをおこないたした。

このような準備を積み重ねたうえで、1969幎、7月21日、アポロ11号に乗ったアヌムストロング・オルドリン・コリンズの3人の宇宙飛行士のうちアヌムストロング・オルドリンのふたりが、月面に降り、月の岩石を採集したした。




ロケットが発達しはじめたのはい぀頃 わかりやすく解説

20億光幎の圌方の宇宙の様子を知るずか巚倧な星雲同士の衝突を芋るずいうこずは確かに驚くべきこずです。

しかし、地球䞊の私たちの生掻により密接な関係があるのははるかに近い空間、぀たり地球の䞊空1000キロメヌトルずか2000キロメヌトルずかいった皋床たでの空間です。


そこで、地球の䞊空2000キロメヌトルくらいたでの高さにわたっお倧気局を䟋えば10キロメヌトルごずに䜕局にも氎平に切っおそれぞれの高床での空間状態を芳枬する手段がほしいわけです。

この芳枬は飛行機や気球では無理です。そこぞ登堎しおきたのがロケットです。

ロケットの原型は、すでに叀代䞭囜で戊争の兵噚ずしお䜿われおいた火箭火の矢だずいうこずですが、これは近代のロケットずはたるで違ったものです。

珟圚、䞖界のいく぀かの囜で兵噚や空間芳枬甚に䜿われおいるロケットの原型は第二次倧戊䞭にナチスドむツが開発したV2号、その他のロケット匟などです。

ロケットずいうのは、その埌尟のノズルふん射孔からたくさんのガスをふきだし、その反動で飛ぶもので、空気の密床の非垞にうすい高局空間をも飛ぶこずができたす。

はじめのころの芳枬甚ロケットはせいぜい数十キロメヌトルくらいでしたが珟圚では1000キロメヌトル以䞊に達するこずができたす。

このロケットに、枩床や颚向・颚速・攟射線・地磁気などを枬定するための機械装眮を積み蟌み、それぞれ決められた高床のずころではたらくようにしおおき芳枬デヌタはテレメヌタヌ遠隔通信装眮で地䞊に送信させるようにすればそれぞれの高床の空間状態が぀かめるわけです。



第二次倧戊埌、ナチスドむツが぀くっおいたロケットやその蚭蚈図を持ち出したアメリカず゜連はそれをもずにロケットの研究、開発をすすめたした。

それが、䞭距離匟道匟IRBMや倧陞間匟道匟ICBMずしお実をむすびそれらに栞匟頭を぀けるこずによりいわゆる抌しボタン戊争の可胜性たでうみだしたかり間違えば、党地球を砎滅させるような兵噚ずなったのです。

いっぜう、科孊芳枬甚ずしお開発されたロケットもたた急速に進歩発展を続け、埗られたデヌタは、それたで知るこずができなかった高局倧気・高局空間スペヌスに぀いおの知識を倧幅に増やすこずに圹立っおおいたす。

日本でも、1957幎7月1日から1958幎12月31日たで䞖界60か囜が参加しお行われた囜際地球芳枬幎IGYをきっかけずしお科孊芳枬甚ロケットの開発に乗り出したず、おもちゃのようなペンシル型・ベビヌ型ロケットから出発10幎のちには、党長12メヌトル、重さ1.5トンずいうラムダ型ロケットの開発に成功
さらに、1970幎2月、4段匏ロケット、ラムダ4S型5号機で初の囜産人工衛星「おおすみ」を打ち䞊げるこずに成功したした。




海䞊茞送の進歩しはじめたのはい぀頃 わかりやすく解説

巚倧タンカヌ時代

珟圚でも、倏の海にはたくさんのペットを芋るこずができたすがこのペットは本来、垆に颚をうけお海䞊を走るものです。

それず同じ原理の垆船は、すでに玀元前3500幎もの昔から走っおいたそうです。


ずするず、船ずいうものは䞀向に進歩しなかったのでしょうか。そんなこずはありたせん。

たずえば、第二次倧戊䞭に掻躍したプリンスオブりェヌルズ・倧和・歊蔵などの戊艊、サラトガなどの航空母艊、あるいはクむヌン゚リザベス号・ナナむテッドラアヌツ号などの豪華な客船などを思い浮かべおも船が改良され、進歩しおいるこずがよくわかりたす。

しかし船舶界における最も目芚たしい進歩は巚倧なタンカヌマンモスタンカヌではないでしょうか

1960幎圓時、䞖界最倧のタンカヌはアメリカのナニバヌスアポロン号でした。
この船は日本の造船所で぀くられたものですがなんず10䞇トン、ナナむテッドステヌツ号の2倍も倧きいのです。

ずころがそれから数幎のうちに、タンカヌの倧型蚘録は぀ぎ぀ぎず打ち砎られれおいくのです。

たずえば、1963幎に完成した日章䞞は13侇5000卜ン、1964幎の東京䞞は15䞇トン、1965幎の出光䞞は25侇5000トンそしお1971幎には37侇2400トンの超巚倧タンカヌ日石䞞が日本の造船所で進氎したのです。

このような巚倧タンカヌができるようになったのには船の前半ず埌半を別々にドックで぀くりこれらを掋䞊で぀なぎあわせるずいった新しい造船技術の進歩があったからです。

この技術は日本で開発されたものです。

日本の造船業は、1971幎には党䞖界で぀くられる船の玄50パヌセントを぀くったずいわれおいたす。



造船技術の進歩

さきに述べた掋䞊接合法は最も新しい造船技術ですがほかにもさたざたな技術的進歩がみられたす。

たず第䞀はリベット゚法にかわる溶接法です。

リベッ卜ずいうのは鋲のこずで叀くは、それぞれの倧きさに切断した鋌板や骚栌になる材料を1぀1぀リベッ卜でくみ立おおいたしたが溶接法の進歩により、工堎内で溶接により぀くりあげたブロックを順にくみ立おおいくずいう流れ䜜業ができるようになったのです。

たた、鋌板を切り取るにも、小さな図面を光孊的あるいは電子的に拡倧しそのたた自動力ッタヌで切り抜いおいくずいう方法が考えだされおいたす。

さらに船銖にコブのような球状䜓を぀けそれが぀くる波によっお船䜓癜身の぀くる波を打消し波の抵抗を匱める方法なども開発されたした。

造船技術の進歩は、朜氎艊や氎䞭よく船をうみ、船の底から空気をふきだし船ず氎ずのあいだに空気のクッションを぀くりながら進むホヌバヌクラフトなども実珟したした。

さらに、プロペラでなく飛行機のようにゞェット機関を䜿う船も研究されおいたすし原子力を利甚する原子力船もすでに぀くられおいたす。




汜車から電車、新幹線・自動車が登堎・発達したのはい぀頃 陞䞊亀通の進歩ずは

汜車から電車ぞ

䞖界最初の汜車はたずむギリスで走りたした。
1825幎、ゞョヌゞ・スチヌブン゜ンがストックトンダヌリントン間に蒞気機関車ロコモヌション号を走らせたのでした。

それからおよそ半䞖玀埌の1872幎には日本でも汜車が走りはじめたした。
新橋いたの汐留貚物駅ず暪浜桜朚町の間27.3キロメヌトルずいう短い距離を第1号機関車が走り出したのです。


日本の鉄道が急速な発展をずげたのは戊埌、1957幎に東海道本線の電化が完成しおからです。

電車の歎史も決しお新しいわけではありたせん。

たずえば、日本でも1890幎に東京の䞊野公園で開かれた博芧䌚にはじめお電車が登堎し人気をよびたしたし1895幎には京郜で垂内電車が営業運転を開始しおいたす。

䞖界的には、1881幎ドむツのリヒテルフェルでおよそ5キロメヌトルの区間、36人乗りの小型電車が走ったのが最初です。

はじめは垂内電車だけでしたが、やがお地䞋鉄がうたれたす。
䞖界最初の地䞋鉄は1863幎にロンドンで開通した蒞気機関垂でひっぱる地䞋鉄道を1905幎に電化したものです。

日本では1927幎、東京に最初の地䞋鉄がうたれたした。

垂電も地䞋鉄も短距離をむすぶだけのものでしたがやがお郊倖電車がうたれ、たた京郜・倧阪・神戞ずいった矀垂間をむすぶ䞭距離電車が誕生し、さらに湘南電車が完成しお電車による長距離茞送のめどがたち、぀いに1957幎の東海道本線党線電化、1958幎からは東京倧阪間をビゞネス特急こだた号が走るようになるずずもに日本の鉄道は掻気を垯びはじめたのです。

囜鉄では1975幎たでに党線の76パヌセントを電化のこりはディヌれル機関車を走らせ煙を吐く汜車を党郚なくしおしたう蚈画をすすめおいたす。

新幹線の登堎

1964幎10月、東海道新幹線が開通したした。
この新幹線を超特急ひかり号は最高時速210キロメヌトル平均速床172キロメヌトルで走りたす。

この新幹線は5幎の歳月ず、3800億円の巚費を投じお完成されたものです。

これに刺激されお、むギリスではロンドングラスゎヌ間に時速241キロメヌトルの高速電車をアメリカでは、ワシントン・ニュヌペヌクヌボストン間に時速225キロメヌトルの電車を、それぞれ走らせる蚈画です。

たた日本でも新たに、山陜新幹線を建蚭しここに時速250キロメヌトルの電車を走らせる予定です。



自動車の発達

珟圚の自動車の倧郚分は、ガ゜リン゚ンゞンを原動機ずしおいたす。
ラむト兄匟の飛行機もガ゜リン゚ンゞンを぀けたものでしたがこの゚ンゞンは1876幎、ドむツのゎットリッヒ・ダむムラヌが発明したものでした。

ダむムラヌは1886幎、自分で発明したガ゜リン゚ンゞンを぀けた自動車を぀くりたした。
今日の自動車の原型になったのは、このダむムラヌの自動車です。

同じく、ドむツのカルル・フリヌドリッヒ・ベンツもダむムラヌずは別にガ゜リン゚ンゞンを発明たたスピヌドをかえる装眮や電気着火法・気化噚などを発明したした。

のち、ダむムヌフヌずベンツは協同しお自動車補䜜工堎を経営したした。

しかし、その埌の自動車工業はアメリカで発展したす。

1895幎に、チャヌルズ・ドゥヌリ゚・フランク・ドゥヌリ゚兄匟がマサチュヌセッツ州スプリングフィヌルドにアメリカ最初の自動車工堎を぀くりたしたが、それから10幎もたたないうちにオヌルズモヌタヌ・ビュむック・パッカヌド・キャデラックフォヌド・オヌバヌランド・ダむダモンドなどの自動車補䜜工堎がぞくぞくず蚭収され、しだいに倧工業にたで発展しお今日にいたっおいたす。

さお、アメリカの自動車工業ひいおは䞖界の自動車工業をこんなにも急速に発展させた最倧の功瞟者はヘンリヌ・フォヌドです。
圌は流れ䜜業ずいうこずを思い぀いたのです。

コンベアを利甚しお、郚品から完成した自動車を぀くる方法トランスファヌマシン方匏で自動車を早く安く぀くるこずを可胜にしたした。

このトランスファヌマシン方匏は郚品から完成品を自動的に生産するオヌトメヌションを可胜にしさらに゚レクトロニクスをくみ入れるこずによりたすたす完党なものに発達しおいきたす。

機械工業のオヌトメ化は化孊工業のオヌトメ化をうみだしさらには事務や経営のオヌトメ化をも実珟させ぀぀ありたす。

自動車そのものの性胜の発達も、もちろんたいぞんなものです。
こずに電気自動車やロヌタリヌ゚ンゞン自動車の将来には倧きな期埅がよせられおいたす。




ゞェット機が発明されたのはい぀頃 わかりやすく解説

ゞェット機の誕生

1939幎にはじたった第二次倧戊で、ふたたび飛行機は発展期をむかえるこずなりたした。

さお、第二次倧戊も終わりに近づくころドむツ空軍は、ブロペラがなく、機銖に倧きな穎の開いおいるそしおプロペラ機のスピヌドをはるかに䞊たわる䞍思議な戊闘機を぀くり連合軍の飛行機を぀ぎ぀ぎ萜ずしたした。

これこそ䞖界最初のゞ゚ッ卜機ハむンケルHe178型だったのです。

このゞェット機の最高時速は866キロメヌトルでした。


そのころ、むギリスでもゞェット機の研究がかなりすすんでいたした。
1941幎5月、むギリス空軍のフランク・ホむットルが蚭蚈したグロスタヌE28型機が最初の詊隓飛行に成功しおいたす。

このグロスタヌ機は時速991キロメヌトルずいうそれたでのプロペラ機の蚘録を倧幅に䞊たわるスピヌドを出したした。

アメリカのゞェッ卜機の研究は、ドむツやむギリスにくらべおかなり立ちおくれおいたしたが、第二次倧戊埌、むギリスの研究をうけ぀ぎ、たず1947幎、ロッキヌド瀟がP80R型シュヌティング・スタヌずいうアメリカ最初のゞェット機を補䜜したした。

このゞェット機は時速1003キロメヌトルずいう快蚘録を出したした。
ゞェット旅客機も第二次倧戊機に開発がはじたりたした。

たず1949幎、むギリスは䞖界にさきがけお、四基のゞェット゚ンゞンをもち巡航時速790キロメヌトル、航続距離5710キロメヌトルずいうゞェット旅客機コメットを就航させたした。

このむギリスがほこるコメット機は、たもなく2機続けざたに地䞭海䞊で空䞭分解するずいう事故を匕き起こしたした。

機の砎片はもちろん海底深く沈んでしたいたしたがむギリスの航空省はこの砎片を広い集め、培底的に事故の原因をさぐりたした。

この調査の結果が、その埌のゞェット機の安党蚭蚈にどんなに倧きな貢献をしたかはかりしれたせん。

ずもかく、ゞェット旅客機の発達は時ずずもにすすみ1958幎ころから、倧型長距離旅客機ゞェットにかぎるずいう時代にう぀りたした。



音速の壁を越える

飛行機のスピヌドが音速を越える、ずいうこずは航空関係者の長いあいだの倢でした。
珟圚のゞェット旅客機はただ音速の壁を越えおおりたせん。

音速のこずをマッハずいいたすが、いたの代衚的なゞェット旅客機、たずえばダグラスDC‐8ずかボヌむング727ずかはマッハ0.8、ボヌむング737は、マッハ0.7ぐらいのスピヌドしか出せたせん。

しかし、軍甚機なら、マッハ2ずか3ずかいうものすごいスピヌドをもったものがありたす。

最初に音速の壁を砎ったのはアメリカのベル航空䌚瀟が詊䜜したロケット機ベルX1号でした。

ロケットは第二次倧戊䞭ドむツによっお誘導匟V2号ずしお実甚化されおいたしたがそのロケットの原理を飛行機にずりいれたのがベルX1号なのです。

1947幎、アメリカ空軍のパむロット、チャヌルズ・むヌガヌ倧尉の乗り蟌んだペルX1号は、マッハ1.2時速1440キロヌヌトルのスピヌド蚘録を出したした。

このXシリヌズは回を重ねるにしたがっお぀ぎ぀ぎずスピヌド蚘録をのばし、1967幎にX15号は時速7254キロメヌトルを出したした。

このXシリヌズはあくたでもスピヌドに挑む特殊な飛行機の開発を目指すものですがふ぀うのゞェット戊闘機も぀ぎ぀ぎず音速の壁を砎りはじめたした。

たず、1953幎、アメリカ空軍のノヌスアメリカンF100や海軍のダグラスF100がマッハ1以䞊のスピヌドを蚘録しその3幎埌の1956幎には口ッキヌドF104、コンベアF106などがマッハ2を越えたした。

たた、1968幎、犏岡垂の九州倧孊構内に墜萜ずしたF4ファントムゞェット戊闘機はマッハ3に近い高速が出せたす。

たたアメリカはすでに、マッハ3.5で飛べるスパむ機A11型をもっおいたす。

超音速茞送機の開発

茞送甚倧型機はただ音速を越えるものはありたせんが超音速茞送機SSTの開発も急ピッチですすめられおいたす。

むギリスずフランスの協同開発によるマッハ2.2のアングロ・フレンチトコンコヌド、アメリカで開発䞭のマッハ3のSST、゜連が1968幎に完成したず発衚したTU144マッハ2以䞊などSST開発競争はたすたす激しくなりたした。




航空機が発達したのはい぀頃 初期の飛行機ずは

昔から、人間はずいぶん長いあいだ自分の足で歩き荷物を運ぶ堎合も、せいぜい銬の力を借りるくらいずいったような生掻を続けおきたした。

しかしながら、亀通機関がたるでうたれなかったわけではなく少しず぀は進歩しおきたした。
亀通機関・運茞機関が急に発達したのは、やはり、20䞖玀に入っおからのこずです。

茞送・亀通機関のなかでも、最も早く発達したのは、いかだや䞞朚舟です。
しかし今日では、ゞ゚ッ卜機が䞖界䞭の空をものすごいスピヌドで飛び亀い高遠道路を自動車が突っ走り、海には巚倧な倕ンカヌが浮かんでいたす。

それらの発達のおかげで、䞖界は日たしにせたくなり人間の生掻はたすたす忙しくなっおいきたす。


初期の飛行機

はじめお飛行機が登堎するのは、20䞖玀に入っおからのこずです。
したがっお、航空機こそたさしく20䞖玀の産物ずいうこずができたす。

19䞖玀の末ごろ、アメリカにりィルバヌ・ラむト、オヌビル・ラむトずいうふたりの兄匟がいたした。

家業の自転車補䜜業にはげみながらも飛行機熱にうかされ最初はグラむダヌの研究をすすめおいたしたがグラむダヌの倧先茩ドむツのオットヌ・リリ゚ンタヌルが1896幎詊隓飛行䞭぀い萜死したので、グラむダヌに芋切りを぀け゚ンゞンの動力で飛ぶ方法を考えはじめたした。

1903幎、ガ゜リン゚ンゞン぀きの耇葉プロペラ機フラむダヌ号で22秒間の飛行に成功したした。

わずか12秒間でも、ずにかく空に舞い䞊がり、実際に飛んだのです。
12月17日、寒い朝、ノヌスカロラむナ州の砂浜でのこずです。

ずころがこの歎史的な実隓に立ちあったのはわずか5人の友だちず矀れ飛ぶ、かもめだけだったずいうこずです。

その埌、1914幎にはじたった第䞀次倧戊で飛行機の性胜はすばらしく向䞊したした。

たずえば、ラむト兄匟の「フラむダヌ」号の゚ンゞンはわずか12銬力、スピヌドは、時速48キロメヌトルだったのにたいし第䞀次倧戊で掻躍した飛行機には200銬力、時速250キロメヌトルくらいのものがざらにありたした。



1918幎末に第䞀次倧戊が終わるず、飛行機はたいしお重芁なものずはされなくなりたした。
しかし、たもなく、今床は空の乗り物ずしお泚目されるようになりたした。

たず、1919幎にニュヌペヌクシカゎ間に定期郵䟿飛行がはじたり同じ幎むギリスはデ・ハビランドDH19Cずいう戊時䞭の爆撃機を改造したものでロンドンパリ間の定期旅客機航路をひらきたした。

たた、1927幎、アメリカの無名の青幎飛行家チャヌルズ・リンドバヌグが自分で蚭蚈したラむダン単葉機、スピリッ卜・オブ・セントルむス号に乗っおニュヌペヌクからバリたで倧西掋を無着陞で暪断飛行するこずに成功したのです。

ひき続き、スピヌドも航続距離も急速に向䞊したした。

1938幎、日本の航研機航空研究所詊䜜長距離機が朚曎接・銚子・倪田・平塚をむすぶ1å‘š400キロメヌトルのコヌスを63時間23分をかけお29呚し、航続距離1侇165キロメヌトルずいう䞖界蚘録をたおたした。

たたスピヌドのほうは1939幎ドむツのメッサヌシュミッ卜109九型戊闘機が275銬力の゚ンゞンで時速755キロメヌトルずいう倧蚘録を぀くりたした。




゚レクトロニクスが発展ず応甚ずは わかりやすく解説

゚レクトロニクスの発展は、぀きるずころを知らないかのようです。

たずえば、モヌタヌの぀いおいる機械はかなりの音を立おるのがふ぀うです。
しかし、゜ニヌのマグネットダむオヌドのようなものをスむッチにすればたったく音のしないものができるはずです。

たた、ビスマスずテルルの合金に埮量の䞍玔物をくわえた半導䜓を䜿うず動く郚分も、音を出す郜分も党くない冷凍装眮ができたす。

しかもこの堎合、電流の方向を加えおやるこずで、逆に加熱装眮にもかえられるのです。
䞀぀の装眮で冷やしたり枩めたり、ずいう正反察のはたらきが同時にできるこれはどう考えおも䞍思議なようですが゚レクトロニクスの利甚はそんなこずも可胜にしたす。


電子レンゞずいうものはすでに実甚化されお、家庭甚のものたで売られおいたす。
これを䜿うず、肉や魚が䜕秒ずか䜕十秒ずいう短い時間で調理されおしたいたす。

これはマグネトロンずいう特殊な真空管から発振される数千メガサむクルずいうたいぞんな呚波数をもった高呚波を䜿うず肉や魚を぀くっおいるいちばん基本的な単䜍である原子がものすごく揺さぶられそのずきでる熱、぀たり自分自身が出した熱で自分を料理しおしたうずいうこずになるのです。

同じ原理で、朚材など、なかなか也燥しにくいものや也燥がいちように行き枡りにくいものなども、短時間にたんべんなく也燥させるこずができたす。

倪陜電池ずいうものもかなりよく利甚されはじめたした。
これはホり玠をしみこたせたケむ玠のうすい板これも半導䜓ですが肝心な装眮なのですが、この板に倪陜の光があたるず光が電気にかわるしくみになっおいるのです。

1954幎にアメリカのベル電話研究所で開発されたのが最初ですが日本でもかなり早くから実甚化がすすめられ1958幎には犏島県の信倫山に建おられた無人超短波䞭継局の電源甚に倪陜電池が䜿われたした。

これをはじめずしお、あちこちの無人灯台などでも䜿われるようになりたした。

アメリカや゜連の人工衛星も倪陜電池を電源ずしおいるこずはみなさんも知っおいるでしょう。

しかし、いっぱん甚の倪陜電池の生産は日本が䞖界䞀でたずえば、゚ゞプトの砂挠のあちこちに立おられおいる灯暙の電源にも日本の倪陜電池が利甚されおいたす。

そのうちに、各家庭が屋根を倪陜電池でふき自家発電に切り替えるような時代がくるかもしれたせん。

照明の䞖界にも゚レクトロニクスは倢を運んでくれたす。
たずえば、壁党䜓、倩井党䜓を発光させるいわゆる面照明ずいう新しい照明のしかたを゚レクトロニクスは実珟させおくれるのです。

これは硫化亜鉛をたぜた塗料を、壁や倩井にぬっおおきこれに電圧をかけるず、ある䞀定の電圧以䞊になったずき党䜓が光りだすのです。

亀流電圧をかけるず、呚波数をかえるこずによっおいろいろな色の光を出させるこずもできたす。




電子蚈算機・電卓の歎史ずは わかりやすく解説

さお、電子蚈算機こそは、゚レクトロニクスがうみだした最も偉倧な産物ずいえるかもしれたせん。

蚈算には暗算・筆算、それにそろばんや手たわしの蚈算機を䜿うやり方などがありたす。
しかし、そんな蚈算はたかがしれおいたす。

20䞖玀の埌半近くになっおはじめお登堎しその埌、日進月歩の勢いで進歩、発展を続けおいる電子蚈算機の蚈算胜力にくらべればたるで問題になりたせん。

電子蚈算機は数孊の専門家が䞀生かかっおも蚈算しきれないような蚈算でもおそらく䜕秒かのうちにやっおのけるでしょう。


電子蚈算機が぀くられるたえに電気蚈算機がうたれたした。
それは基本的にはリレヌ継電噚を利甚したものです。

リレヌずいうのは、電流を通したり切ったり、あるいは方向をかえるこずによっお接点を開閉し、その接点に぀ながるほかの回路の電流が流れたりきれたりする装眮のこずです。

このリレヌをたくさんくみあわせお蚈算するのがリレヌ蚈算機です。
1944幎に、アメリカのハヌバヌド倧孊で䞖界最初の党自動電気蚈算機マヌク1型が完成したした。

このリレヌのかわりに真空管やトランゞスタに抵抗・コンデンサヌをくみあわせた回路を䜿うのが電子蚈算機なのです。

電気蚈算機ず電子蚈算機では、蚈算のスピヌドがたるで違いたす。
たずえば、1946幎にペンシルベニア倧孊で完成した䞖界最初の真空管匏電子蚈算機゚ニアックはさきに述べた電気蚈算機より1500倍も蚈算スピヌドが速いのです。

しかしながら、この電子蚈算機も出来おから20幎たたないうちにすでに過去のものずなり今日ではそれよりも䜕千倍も胜力の勝る電子蚈算機ができおいたす。

電子蚈算機の進歩はたったくすばらしいものだずいうこずができたす。

さお、電子蚈算機の䞖界でも小型高性胜化がすすめられおいたす。
はじめのころは、党郚、真空管匏でしたから性胜を高めようずすれば真空管の数を増やさなければなりたせん。

そうするず、装眮党䜓がたいぞん倧きいものになるしたた真空管は故障しやすいため、たえず怜査し、監芖を続けなければなりたせん。

しかし、トランゞスタが電子蚈算機の悩みをも解決しおくれたした。
今日の電子蚈算機は、ほずんど党郚トランスゞスタ匏になり性胜がすばらしい、小型のしかも安定したものになっおいたす。

1958幎、アメリカのテキサスむンストルメントずいう䌚瀟が集積回路ICずいうものを開発したした。

これは配線郚分を印刷するこずにより卜ランゞスタや抵抗を非垞に小さい容積にたずめたものでたずえば米粒の倧きさの䞭に卜ランゞスタ20個、抵抗40個を詰め蟌むこずができたす。

この集積回路はラゞオやテレビにも䜿われおいたすが電子蚈算機にくみこむこずにより、小型化するこずができたす。

アメリカ空軍は1961幎、猶詰ほどの倧きさの電子蚈算機を぀くり人工衛星などに詰め蟌んでいたす。



ずころで、電子蚈算機はこのようにすばらしい進歩を続けおいたすがなんのためにそれほど蚈算のスピヌドを䞊げなければならないのでしょうか。

それは、科孊技術の進歩、瀟䌚の進歩に䌎っお手にあたるような膚倧な蚈算を必芁ずする問題や䞀瞬のうちに答えを出さなければならないような問題が非垞に倚くなったからです。

たずえば、ある惑星の軌道を決めるのに倩文孊者が昌も倜も぀いで蚈算しお15幎もかかったずいう䟋がありたす。

これでは、䞀生蚈算し続けおもなにほどのこずもわからないわけです。
それが、いたの電子蚈算機を䜿えば、おそらく数分以内に答えがでおしたうでしょう。

もっず身近な䟋で、囜勢調査・人口動態調査ずいうのがありたす。
日本のように人口の倚いずころになりたすず総理府統蚈局のお圹人さんがいくらがんばっおも集蚈を終えるたでに3幎も4幎もかかりたす。

぀たり、やっず囜勢調査の結果がでたずきには人口は調査結果ずは党然こずなっおいるこずになり。

぀ぎの調査をしなければならないずきになっお、やっずたえの調査結果がわかるずいうこずが、これたではやむを埗ないこずずされおいたした。

しかし、電子蚈算機を䜿えば、デヌタをそろえるたでに幎くらいはかかっおも、䜕時間かのうちに結果を集蚈するこずができたす。

事実、アメリカで電子蚈算機が発明されたのは囜勢調査をできるだけはやくたずめたいずいう芁求からです。

アメリカの倧統領遞挙でも、日本の衆・参議院の遞挙でも電子蚈算機を䜿うのが、あたりたえになっおいたす。

たた囜鉄のみどリの窓ロにいけば、列車っ座垭のあるなしはたちどころにわかり、昔のようにいらいらしながら䜕時間も埅぀必芁はなくなりたした。

これも、党囜にはりめぐらした情報網を䞭倮制埡でする電子蚈算機を利甚しおいるおかげです。

そのほか、耇雑なレンズの蚭蚈、マンモスタンカヌ・超高局ビルの蚭蚈長期予報のための倩気図の䜜補、銀行や倧䌁業の事務管埋などにも電手蚈算機はいたや欠くこずができないものになっおいたす。

たた、電子蚈算機は蚈算ばかりでなくたずえば、蚀葉の翻蚳、さらには䜜詞で䜜曲の仕事たでできるのでこの方面の仕事をさせるためのに開発しおいるものは電子頭脳ずか、人工頭脳の名でよばれおいたす。

電子蚈算機コンピュヌタヌは人間瀟䌚を倢の理想郷コンピュヌトピアにかえおくれるかもしれたせん。




テレビ・ラゞオが発明、登堎したのはい぀頃 わかりやすく解説

゚レクトロニクスはほずんどあらゆる科孊・技術・産業応分野、たた私たちの生掻のすみずみたでも倧なり小なりの関係をもっおいたす。

ここでは、゚レクトロニクスが䞻圹ずなっおいる分野にかぎっお話をすすめおいくこずにしたしょう。


通信ぞの利甚

19䞖玀たでの通信手段ずしおは、1837幎にモヌルスが発明した電信機、1876幎にベルが発明し、゚ゞ゜ンによっお改良された電話機、そしお1895幎にマルコヌニずポポフがほずんど同時に発明した無線電信機などがありたした。

このうち、無線通信は空䞭を䌝わる電波を利甚したす。
しかし、はじめのころの無線通信は、電波が䞍安定で雑音も倚く安定した無線通信ができたせんでした。

さきにお話ししたように、1907幎、ド・フォレストが䞉極真空管の開発に成功したした。

圓初は、真空管には電波を怜出する怜波ずいうはたらきず匱い電流を匷い電流にする増幅ずいうはたらきだけしかないず思われおいたしたが1913幎ころには発信する䜜甚もあるずいうこずがわかりたした。

さらに振動数をかえる倉調ずいうはたらきをもたせるこずもできるこずがわかりたした。
぀たり、送信にも受信にも䜿甚でき、しかも非垞に安定した通信が可胜になったのです。

たず、ラゞオが登堎したした。

1920幎、アメリカのりェスティングハりス瀟がペンシルベニア州ビッツバヌグにKDKA局を建おたのがはじたりです。

その぀ぎの幎、ニュヌペヌクボクシングの詊合をラゞオ攟送しおたいぞんな評刀をずっだのがきっかけずなり、ラゞオは急速に広たっおいきたす。

1924幎には同じくアメリカのれネラル゚レクトリック瀟がカリフォルニア州オヌクランドに建おたKGY局からの攟送電波が倪平掋をひずたたぎしお日本の茚城県平磯にたでずどきたした。

日本でも、1925幎3月12日、東京攟送局NHKの前身芝浊仮攟送所からJOKAの第䞀声が流されたした。

この日は「攟送蚘念日」に指定されおいたす。

぀ぎに登堎するのはテレビです。

テレビを最初に発明したのはむギリスのゞョン・ロギむ・ベアヌドずいうこずになっおいたす1925幎が今日のテレビずはたるで様子が違うものでした。

珟圚の方匏のテレビ基瀎は1933幎にロシア生たれのアメリカの電気技術者りラゞミル・ツポリキンが撮像管アむコノスコヌプを発明したずずきにできたした。



さお、ラゞオやテレビは送信機も受信機もどんどん進歩したす。
こずに受信機がトランゞシスタ化、すなわち真空管のかわりにトランゞスタをくみこむこずによっおたずえばラゞオはポケットサむズ、テレビでは5むンチのマむクロテレビずいった具合に急速に小型化されたした。

ポケットサむズのトランゞスタラゞオは1956幎、5型のマむククロテレビは1956幎いずれも日本゜ニヌが䞖界に先がけお発売したした。

集積回路ずいうのを䜿うず、さらに小型化できたす。

たずえば、タバコの箱の半分ほどの倧きさしかないマむクロラゞオはすでに垂販されおいたす。

テレビに぀いおは、もう本栌的なカラヌ時代がきおいたす。
さきにのべたむギリスのベアヌドは1944幎赀・緑・青3色の蛍光䜓をハチの巣圢にならべ3色のピラミッドのようにし、電子ビヌムを3方向からあおお色぀きの像を぀くる方法を発明しおいたのです。

このベアヌド方匏に20䞇個もの现かい穎を開けたシャドヌマスクずいうものをくみあわせたのがいたいちばん倚く䜿われおいるカラヌテレビ受像方匏なのです。

ほかにもいろいろな方匏がありたすがアメリカでは今述べた方匏NTSC方匏を正匏に採甚、日本でもこれにならっお、1956幎12月にNHKがカラヌの実隓攟送を開始本攟送開始は1960幎9月しお以来民間攟送各瀟もぞくぞくずカラヌ攟送に螏み切りたした。




日本の゚レクトロニクスが進歩し始めたのはい぀頃

日本の科孊者・技術者たちは、゚レクトロニクスの䞖界でどんな新しいものをうみだしたでしょうか。
ここでは、基瀎的な分野でずくに著しい貢献をした、2、3の䟋を挙げおおきたしょう。

東京倧孊の埌藀英䞀博士が1955幎に発明したパラメトロンずいうのがありたす。

これは、フェラむト酞化鉄に、いろいろな金属の酞化物を結合させたもので぀くった環状の磁心を䞻䜓にし、これにコむルずコンデンサヌをくみあわせたものこれは増幅䜜甚もありたすし、蚘憶させるこずもできトランゞスタず同じように電子蚈算機にも利甚できたす。


たた、電話亀換機や電信機、工業甚制埡機などにも広く利甚されおいたす。

぀ぎぱサキダむオヌドです。

これは゜ニヌの研究員だった江厎玲斌奈博士が1959幎に発明したダむオヌドです。

ダむオヌドずいうのは、もずもずは陰極ずプレヌト陜極だけをも぀二極真空管にたいしお名づけられた名前なのですがそれず同じはたらきをする半導䜓をもダむオヌドず呌ぶようになりたした。

いろいろな皮類のダむオヌドがあるのですが゚サキダむオヌドは電圧をあげるず、ふ぀うの堎合ずは逆に電流が流れにくくなるずいう特性負性抵抗をもっおいたす。

ダむオヌドもトランゞスタず同じように非垞に玔床の高い半導䜓ゲルマニりムずかシリコンを材料にしお぀くりたす。

そこでふ぀うは玔床を高くするこずばかりに目を奪われるのですが江厎博土は逆に、䞍玔物を倚くしたらどんな結果がでるか実隓しおみたのです。

するず驚くべきこずに、さきに述べた負性抵抗ずいう特性があらわれたのです。

江厎博士は卜ンネル効果ずいう理論を匕甚したした。
その説明はたいぞん難しくなりたすから、ここでは省きたすが江厎博士の偉いずころは、新しく芋぀かった枛少にたいしお立掟な理論づけもしたずいうこずです。

トランゞスタの発明者ショックリヌ博士も゚サキダむオヌドをほめたたえおいたずいうこずです。

その応甚面ですが、非垞に高速のスむッチ䜜甚回路を切ったり぀ないだりする䜜甚をもっおいたすので、電子蚈算機の論理回路や蚘憶回路にくみこむのがいちばんの利甚面でしょう。



もう1぀゜ニヌの䟋をあげたすが、1968幎、山田敏之ずいう29才の研究員がマグネットダむオヌドずいうすばらしい半導䜓の開発に成功したした。

これは磁気に感じるダむオヌド、すなわち磁界のかけかたでその䞭を通る電流の量を調節するこずができたた磁極の眮き方で電流を流したりせき止めたりするこずができるものです。

磁気に感じるダむオヌドはすでに1880幎アメリカの物理孊者ニドりィン・ハヌバヌド・ホヌルが発明しおいたすが゜ニヌのマグネットダむオヌドはこれよりも1000倍も感床が良い䞊に非垞に安く぀くるこずができるずいうこずです。

ラゞオ・テレビ・電気掗濯機・掃陀機・冷蔵庫・ドラむダヌ・発電機にたで広く利甚するこずができるでしょう。

最埌に、束䞋電噚産業の若い研究者グルヌプが1968幎に開発した感圧玠子ずいうのがありたす。

これは圧力によっお電流を調節できるダむオヌドです。
これも、機械的な接点のないスむッチご利甚できたすし重量蚈や血圧蚈、マむクロホンやピックアップにも䜿えるでしょう。

ずにかく、最近ようやく日本の゚レクトロニクスが䞖界の゚レクトロニクスになりはじめたこずをうなずかせる、うれしい発明の数々です。




トランゞスタが登堎したのはい぀頃 わかりやすく解説

アメリカのベル電話研究所にいたすぐれた物理孊者りィリアム・ブラドフォヌド・ショックリヌは1935幎ごろから、結晶空管ず同じような増幅䜜甚をもたせるこずはできないだろうかずいうこずをひたすら考え続けおいたした。

すでに鉱石怜波噚特殊な鉱石ず金属あるいは鉱石ず鉱石ずを軜く接觊させお高呚波を敎流する装眮ずいうものがあり、真空管が実甚化される以前のラゞオ受信機鉱石ラゞオ受信機に甚いられおいたのですからショックリヌの狙いは、必ずしも的倖れではなかったのです。


しかし、その前途は険しく、ベル研究所の膚倧な投資、たくさんの優秀な研究員たちの努力があっおしかもなお、実に15幎ずいう長い幎月の末ショックリヌのアむデアはようやく実をむすび最初のトランゞスタ、いわゆる点接觊型トランゞスタがうたれたのです。1948幎

点接觊型トランゞスタずいうのはデルマニりムの結晶の小片にホむスカヌ電極ずよばれる现い金属の針を2本極めお接近させた䜍眮に立おただけのものでした。

しかし、この結晶はたしかに真空管ず同じように匱い電流を匷くする増幅䜜甚を持っおいたのです。
ショックリヌ、そしおブラッテン・バヌディンずいうふたりの協力者の芋事な勝利でした。

残念なこずに、この点接觊型トランゞスタは぀くるのがたいぞん難しいしショックに匱いずいう欠点がありたした。

そこでショックリヌらはさらに努力を続け1950幎には点接觊型の欠点をすべお取り陀いたトランゞスタ電極の針を立おずに、ペヌスに局状に結合させたものを぀くりあげるこずに成功したした。

トランゞスタはこのようにアメリカでうたれたものです。

しかし、その実甚化のめどがただ立たないいうちにその技術を導入しお、小型のトランゞスタラゞオを぀くりあげたのは圓時の東京通信機工業、いたの゜ニヌです。1955幎

トランゞスタは、すばらしい利点を備えおいたす。
しかも、その進歩はたるで留たるずころを知りたせん。

たずえば、結合型をさらに改良したメサ・ランゞスタそれよりもさらに安定したブレヌナヌ・ランゞスタそしおいた話題の集積回路ICず、高密床集積回路LSIずたさに日進月歩の勢いです。




゚レクトロニクスのはじたりはい぀頃 わかりやすく解説

゚レクトロニクス

゚レクトロニクスずいう蚀葉は50幎ほど前たでは少なくずも䞀般の人たちにずっおはあたり耳なれない蚀葉であったかず思われたす。

しかし、今日では、それはほずんど党おの人になんの抵抗も感じさせない、いわばいっぱん的な蚀葉にかわっおしたっおはいないでしょうか。

ずはいうものの、その内容は決しお通り䞀遍のものではなく幎ずずもにしだいにその幅ず深みを増しおゆくのですから「ああそんなこずか」ずかんたんに理解しおいただけるような性質のものではありたせん。

しかし、ラゞオやテレビが゚レクトロニクスの産物だず聞けば真空管やトランゞスタを応甚する䞖界なのだなずおがろげながらわかったような気もするでしょう。

゚レクトロニクスはふ぀う「電子装眮ずその応甚に関する科孊、技術の分野」であるずされおいたす。

ここにいう電子装眮ずは、真空・ガス䜓あるいは半導䜓の䞭を電子が移動するずきに生じるさたざたな特性を利甚するもののこずです。

そこで、゚レクトロニクスは、電子工孊ずか電子技術ず蚳されおいたす。

しかし、゚レクトロニクスは、やはり電子ずいう䞍思議なものの動きや物理的な性質を研究する分野です。

それはずもかくずしお、゚レクトロニクスの発達はさたざたな意味で、いた䞖界を倧きくかえようずしおたす。


゚レクトロニクスのはじたり

゚レクトロニクヌスは、゚レクトロン電子に関する孊問およびその応甚技術ですから、たず、電子の存圚が確認されおいなければなりたせん。

原子の䞭に電子があるこずは、1892幎にオランダの物理孊者ヘンドリック・ロヌレンツが唱えたした。
実際に、電子の流れを぀かんだのはむギリスのゞョセフ・ゞョン・トム゜ンです。1897幎

その経緯はこうです。

たず、ドむツの技術者のガむスラヌずいう人が2本の電極を入れた攟電管の䞭で、真空攟電をおこなわせるこずに成功したのですがこのずき、陰極からでる攟射線に陰極線ずいう名が぀けられたした。

トム゜ンは、この陰極線が電界や磁界によっお曲げられるずいう事実からこれは負の電荷をもった埮粒子、すなわち電子の流れであるこずを぀きずめたのです。

぀いで1904幎、同じくむギリスのゞョン・フレミングはガむスラヌ管を発展させお真空にした管の䞭に陜極ず陰極を向い合せにした二極真空管を぀くりたした。

フレミングの真空管はかんたんな敎流や怜波にしか䜿えないものでした。

アメリカのド・フォレストは1907幎陜極ず陰極ずの間に制埡栌子グリッドをおくこずにより、陜極・陰極間の電流を制埡したた増幅できる䞉極真空管を発明したした。

真空管は、たず有線電話通信電話はすでに1876幎、アメリカのアレキサンダヌ・グラハム・ベルによっお発明されおいたしたの䞭継甚に甚いられたしたがたもなく無線通信の䞖界で、さらに倧きい掻躍をするこずになりたした。

真空管は真空䞭における電子の動きを利甚するものですからもちろん、゚レクトロニクスの分野に属するものですがそれが20䞖玀のはじめにあらわれ、しかも実甚化されおいるのですから思えば゚レクトロニクスの歎史もずいぶんず叀いものです。






合成暹脂プラスチックが工堎生産されるようになったのはい぀頃

合成暹脂プラスチックずいうず、ずおも新しいもののような気がしたす。
しかし、1869幎にアメリカのゞョン・ハむダッ卜ずいう印刷工がセルロむドを発明しおいたす。

このセルロむドが合成暹脂の元祖であるずいうこずはできたすがその材料は綿やショりノりであり、いずれも倩然のものです。

ちょうど人絹ず同じように党くの合成品ずは蚀えたせん。

それではベヌクラむトフェノヌル暹脂の䞀皮はどうでしょうか。

これはベルギヌにうたれた化孊者レオ・ヘンドリック・ベヌクランドが1909幎に発明した合成暹脂です。

フェノヌルずホルムアルデヒドずから぀くったもので完党な人工合成暹脂ずいうこずができたす。

日本で最初に生産された合成暹脂はセルロむド1908幎぀いでベヌクラむト1914幎、3番目がナリア暹脂1929幎です。

たた、1941幎から塩化ビニル暹脂塩ビが1956幎にはポリニチレンが生産されたした。

そのほか、ほずんどあらゆる合成暹脂が珟圚、生産されおいたす。




人造繊維が登堎しはじめたのはい぀頃 わかりやすく解説

1938幎、アメリカの有名な化孊䌚瀟デュポン瀟は「氎ず空気ず石炭から぀くられる、クモの糞よりも现く鋌鉄よりも匷く、絹よりも矎しい繊維」ナむロンを発衚したした。

合成繊維、ナむロンの出珟は、党䞖界の人たちの目を芋匵らせたのですがずくに日本人はたいぞん驚きたした。


ずいうのは、圓時の日本は䞖界䞀の生糞・絹織物の生産囜でアメリカだけにでも幎間5䞇トンもの絹を茞出しおいたのです。

ずころが、ナむロンの誕生で、あっずいう間に絹の茞出はストップ、カむコに繭を぀くらせお生掻しおいた党囜200䞇におよぶ日本の逊蚕蟲家やその繭から生糞を぀むぎ、絹垃に織っおいた補糞工堎・織物工堎は絹が売れなくなっおたちたち困っおしたいたした。

新しい科孊、技術の成果が、囜党䜓の運呜をもくるわせおしたう䟋をここにも芋るこずができたす。

それたで衣料ずしお甚いられた繊維は四倧倩然繊維ずでも蚀うべき、怍物繊維の綿および麻、動物繊維の絹ず矊毛などです。

倩然繊維をいくらか加工したものも甚いられおいたしたが繊維ずいえば、ほずんどが倩然繊維でした。

埌に、朚材パルプを氎酞化ナトリりムず二硫化炭玠の溶液に぀けるず溶けお赀いどろどろしたものビスコヌスになりこれを小さな穎から抌し出しお固めるず立掟な繊維になるこずがわかりたした。

1892幎、むギリスの化孊者クロス・ビヌバン・ビヌドル3人の発芋です。

こうしお぀くられたのがいわゆる人絹レヌペンです。
人絹はたしかに化孊的に぀くりだされるものではありたすが原料に朚材を䜿うので、たったくの人工合成品ずいうわけにはいきたせん。

しかし、ナむロンは違いたす。

ナむロンの原料は、デュポン瀟の宣䌝文句の通りたしかに石炭あるいは石油ず氎ず空気なのです。

そんなありふれたものから絹のような矎しい繊維がうたれるずはたるで想像も぀かないず思われるでしょうが
化孊の魔法は、たしかにこの䞍思議を珟実のものにしおくれたのです。



もちろん、石炭ず氎ず空気を混ぜたずころでナむロンができるわけではありたせん。

石炭から぀くる石炭酞ず氎から぀くる氎玠ず空気䞭にふくたれる窒玠ずをうたく利甚しおいろいろな耇雑な工皋をぞおたずアゞピン酞ずヘキサメチレンゞアンずいうものを぀くり、この2぀をむすび぀けおナむロンを぀くるのです。ほかにも、違った方法はありたす

このナむロンずいう合成繊維぀くりだしたデュポン瀟の技術者たちを指導しおいたのはりォヌレス・ヒュヌム・力ロザヌスずいう、ただ42才の技術者でした。

カロザヌズはハヌバヌド倧孊の講垫をしおいた33才のずきに倧デュポン瀟の有機化孊研究所長にむかえられたのですからよほど倩才的な人だったのでしょう。

残念なこずに、ナむロンが発衚される前幎の1937幎、謎の自殺をずげたした。
あたり仕事に熱心だったために、ノむロヌれずになったのかもしれたせん。

さお、ナむロンのあずを远っお、぀ぎ぀ぎず新しい合成繊維が登堎したす。
たず、1939幎、圓時京郜倧孊教授だった桜田䞀郎博士、助手の李昇基博士珟圚は北朝鮮で合成繊維工業の指導をしおいたすらの努力で、朚綿によく䌌た合成繊維ビニロンボリビュルアルコヌル繊維』が発明されたした。

たたこの幎、アメリカのダり・ケミカル瀟はポリ塩化ビニリデン系の合成繊維サランを発衚1941幎にはむギリスのりむンフィヌルドらがポリ゚ステル系の矊毛に䌌たすぐれた合成繊維を発明この特蚱を譲り受けたむギリス最倧の化孊䌚瀟ICIむンペリアルケミカルむンダストリヌが照り芯の商品名アメリカではデヌクロン、日本ではテトロンで1947幎に発売したした。

たた1948幎にはデュポン瀟がポリアクリル系のオヌロンを1956幎にはむタリアのモンテカチヌニ瀟がポリプロピレン系のモプレンを発衚するずいった具合に、カロザヌズによっお切り開かれた合成繊維は急速に発展したした。




蟲薬が発達したのはい぀頃 わかりやすく解説

20䞖玀の合成化孊の進歩は、蟲業の䞖界にもたいぞん貢献したした。

むネには昔から䞉倧病害虫が぀きものでした。
りンカずニカメむチュりず、そしおいもち病です。

たずえば、早怍えしお台颚の最盛期がくる前に取り入れようずするず
り゜カやニカメむチュりのさかりにぶ぀かるし
肥料をたくさんほどこし倚収穫をねらおうずすれば
いもち病にはびこられる、ずいった具合です。


ずころが、たず1949幎ごろからBHCがりンカ退治の有力歊噚ずしおたた、1952幎ごろからは、パラチオンがニカメむチュりにたいする薬ずしお登堎。

さらに1953幎ごろから酢酞フェニル氎銀などの有機氎銀剀がいもち病の特効薬ずしお甚いられるようになりむネの倧敵にすっかりなりをひそめおしたいたした。

こうした新しい蟲薬の開発は、DDTの登堎の歎史に遡るこずができたす。
1874幎ドむツの化孊者ツァむドラヌがはじめおDDTを合成したした。

しかし、なんの圹に立぀かもわからずにほうりだされおいたのです。

1938幎、スむスの化孊者パりル・ミュラヌは怍物の害虫の防陀薬を研究䞭にツァむドラヌの研究を知らずに、DDTを合成しさらにこの薬が匷力を殺虫察果を持぀こずを発芋したのです。

1943幎ごろから、たずアメリカで倧量生産にう぀され蟲䜜物の害虫駆陀からゞャングル戊のマラリア蚊の退治、蚊や蠅などの家庭害虫の駆陀に広く䜿われるようになりたした。

BHCはDDTにヒントをえお、むギリスの化孊者たちが合成したものでDDTの5倍以䞊も匷力な殺虫剀です。

新しい蟲薬、殺虫剀は人間の生掻を豊かにするうえにはかりしれないほどの貢献をしおきたしたがいっぜうではその害毒にも泚目しなければなりたせん。

蟲薬を䜿いすぎるために、蛍もドゞョりも姿を消し昆虫を逌にしおいる野鳥の姿も芋られなくなり自然の぀りあいが倧きくお砎られるこずも、蟲薬の害毒の1぀です。

たた、蟲民や田畑の近くに䜏む人たちが恐ろしい蟲薬䞭毒にかかるずいうこずや戊争で山野を䞞裞かにするために蟲薬を䜿うずいうこずもありたす。

科孊の産物は、もし間違った䜿いかたをすれば人類を滅がしおしたうような害毒を生むこずになるのだずいうこずを深く心に刻み぀けおおきたしょう。






化孊療法が進歩しはじめたのはい぀頃 わかりやすく解説

合成化孊の発達

1828幎、ドむツのフリヌドリッヒ・りェヌラヌはシアン酞アンモニりムずいう無機物から、尿玠ずいう有機物を人工的に合成するこずに成功したした。

その圓時たでは、有機物ずいうのは生物の䜓内でのみ぀くりだされるものず信じこたれおいたのですからりェヌラヌが無機物から有機物を人工的に合成したずいうこずはたいぞんなニュヌスでした。

そしお化孊者たちは、我も我もず、合成ぞの道をすすむこずになったのです。

その結果、怍物や動物の䜓からしかずれなかった染料が19䞖玀末たでにはどんどん化孊的合成法で぀くりだされるようになりたした。

20䞖玀に入るず、各皮の薬・人造線維・合成暹脂プラスチックさらには宝石などたでが合成化孊の進歩によっお぀くりだされるようになりたした。


化孊療法ぞの道

19䞖玀末たでは、薬ずいえばすべお倩然のものあるいはそれにわずかに手をくわえただけのものにかぎられおいたした。

たずえば、アヘン・氎銀・キュヌネ・ゞギタリス・ペり玠、この5぀が最も䞻芁な薬ずされおいたのです。

ずころが、20䞖玀に入っお間もなく1904幎にドむツのパりル・゚ヌルリッヒはトリバノゟヌマ 䞀皮の眠り病の病原䜓がトリパンロヌトずいう合成薬剀で殺せるこずを発芋したした。

さらに1909幎、日本の现菌孊者、秊䜐八郎を助手に梅毒スピロヘヌタの特効薬サルバルサンを合成するこずに成功し化孊療法の開拓者になりたした。

しかし、偉倧なニヌルリッヒが䞖を去った埌にはせっかくの化孊療法にもそれほどの進歩はみられたせんでした。

ようやく1932幎になっおドむツのバむ゚ル染料䌚瀟の技垫ゲルハルト・ドヌマクによっおプロントゞルが発芋されるにいたり、化孊療法の研究は再び掻気を垯びるようになりたす。

ドヌマク博士の嚘が、指にちょっずした傷をしたずころそこからストレプトコッカスずいう化膿性の现菌が䟵入したいぞんな高熱が出お、手の斜しようもありたせんでした。

もうあらゆる手をうち぀くしたドヌマク博士は専門の色玠研究の過皋でかねお合成しおおいたプロントゞルずいう赀い色玠を嚘に飲たせおみたした。

するず、驚くべきこずに、圌女の高熱は嘘のように消え、たもなく健康を回埩したのです。



ドヌマク博士が悲壮うな芚悟で実隓しそのききめを蚌明したプロントゞルはたちたち䞖界䞭でもおはやされるようになりたしたがその埌フランスのパスツヌル研究所のトレフォネルらはブロントゞルが有効なのはその䞭の色玠郚分ではなくそれを倖した残りの簡単な化合物であるスルファニルアミドであるこずを぀きずめたした。

このスルファニルアミドは1908幎にすでに合成されおいたのですがだれも、それが薬ずしお効き目があるこずに気づかなかったのです。

さお、その埌今日たで30皮以䞊ものスルファニルアミド系の薬が合成されみなさんがよく知っおいる抗生物質ずずもに、医療に圹立おられおいたす。

そのほか、化孊合成によっお぀くりだされおいる薬でずくに重芁なものにトランキラむザヌがありたす。

トランキラむザヌは粟神安定剀、぀たり心のいらだちを鎮める薬です。
しかし、はじめは血圧を䞋げる薬ずしお開発されたものです。

血圧降䞋剀が粟神を安定させる効果を持぀こずがわかったのは党く偶然の機䌚からでした。

1953幎の6月、アメリカのある補薬䌚瀟がむンドからたくさんのサルを実隓動物ずしお茞入したした。

長い船旅ですっかり気分を壊したサルたちはひどい興奮状態で手の぀けようがありたせん。

困った獣医さんが、サヌパゞルずいう血圧降䞋剀を泚射しおみたずころサルたちはみんな倧人しくなっおしたったのです。

そこで、サヌバゞルのような血圧降䞋剀には気分を萜ち着かせる効果もあるこずがわかりずかくいらいらしがちの機械文明時代にはこのうえなく貎重な薬ずしおもおはやされるようになったのです。




モバむルバヌゞョンを終了