アイソトープの利用はいつ頃から? わかりやすく解説!

アイソトープの存在もまた原子の不思議の1つです。
水素爆弾のところで重水素・三重水素というのがでてきました。

くりかえしますと、ふつうの水素では原子核は1個の陽子で、そのまわりを2個の電子がまわっています。

ところが重水素の原子核は、1個の陽子のほかに1個の中性子を持っています。
また、三重水素には1個の陽子、2個の中性子がふくまれています。

そこで、重水素、三重水素の原子量はふつうの水素のそれぞれほぼ2倍、3倍になります。

このように、原子量は違っても.科学的な性質(たとえば酸素と結合して水をつくるといった)がほとんどまったく同じ物質をイギリスのフレデリック=ソディは同位体(アイソトープ)と名づけました。


はじめのころは、ごく特別なものだけに同位元素があると考えられていましたが1919年に、イギリスのフランシス=ウィリアム=アストンは原子の重さ(原子量)のわずかの違いを区別できる質量分析器というたいへん便利な装置を開発、これを使ってほとんどすべての元素が同位体をもっていることをつきとめました。

ソディは1921年、アストンは1922年いずれも同位体の研究でノーベル化学賞をうけました。
さて、同位体の中には放射能をもっているものもあります。

フランスのアンリ=ベクレルが1896年、ウラン化合物の放射能を発見ついで1898年、同じくフランスのピエール=キュリー・マリー=キュリー夫妻は放射能をもつ元素ポロニウムとラジウムを発見し、分離することに成功しました。

これらの放射性元素は、放射線で(アルファ線・ベータ線・ガンマ線)をはなちながらしだいに壊れていき、別の元素にかわってしまいます。

たとえば、ラジウムは鉛にかわってしまいます。

元素は不変なもの、と長いあいだ信じられていたことが放射性元素の発見でくつがえされてしまったのです。

アルファ線というのは、ヘリウムの原子核(陽子2、中性子2)の流れです。
アルファ線がでて、原子核が壊れることがアルファ崩壊といいます。

アルファ崩壊が起こると、もとの原子の原子番号は2、質量数ぱ4だけ少なくなります。

ベータ線は、中性子が陽子にかわるときに出る電子の流れでベータ線が出てベータ崩壊が起こると陽子が1つ増え中性子が1つ減ることになりますのでもとの原子の原子番号は1つだけ増え質量数はかわりません。

ガンマ線は、透過力の非常に強い、一種の電磁波です。

さて、放射性元素から出る放射線は、さまざまな利用面か持っています。
たとえば、ラジウムから出るガンマ線はいまでもガンの治療などに用いられています。

しかし、利用の道が広いのは放射性同位体です。



たとえば、放射能をもっているウラン235は放射能を持たないウラン238への放射同位体こそがその核分裂性を利用して、原爆や水爆をつくりまた原子力発電をおこなわせることについてはすでに述べました。

このような放射性同位体は、原子炉の中などで人工的につくりだすこともできます。

たとえば、放射能をもたないウラン238に中性子をあてるとプルトニウム239という放射能をもった人工放射性同位体が得られます。

これも原爆で原子力発電の核燃料に用いられます。

とくに用途の広い放射性同位体に、原子炉の中で鉄に中性子をあてて得られるコバルト60です。

これに強いガンマ線を放出し、しかも、ラジウムよりたいへん多量に供給できるのでラジウムのかわりとして、ガンの治療にさかんに利用されています。

またコバルト60のガンマ線を使って、農作物の品腫改良もさかんにすすめられています。

たとえばイネの種にコバルト60からのガンマ線をあてるといろいろなかわりもの(突然変異体)ができますがその中から優秀なものを選び出していくというわけです。

日本の農林省農業技術研究所も茨城県大宮町にガンマーフィールドという大規模な、放射線による農作物の品種改良試験農場をもっておりすでにいくつかの輝かしい成果をあげています。

このガンマ線は工業界でもさかんに利用されています。

たとえば合成繊維やプラスチックをつくるときにこの放射線をあてると、ふつうでは起こりにくい化学反応が簡単に進行していろいろなめずらしい、新しい利用面をもったものがつくれるのです。

日本原子力研究所の高崎研究所は、放射線の工業への利用を専門に研究しているところです。

同位体の中にはトレーサー(追跡子)として使われるものもあります。
放射性同位体のリン32・ヨウ素132などです。

リンは骨の成分であり、ヨウ素は甲状腺から分泌されるサイロキシンというホルモンの成分です。

そこで、放射性のリンやヨウ素を体内に入れることによってリンやヨウ素がどのような経過で骨やホルモンの中にふくまれていくかつまりは生体のからくりがつかめるというわけです。

また、炭素14も同じような目的につかうことができます。
ふつうの炭素は原子量が12ですから、炭素14はそれよりも重い同位体です。
この重い炭素をふくむ二酸化炭素をつくり、これを植物に吸わせます。

すると、植物が二酸化炭素と水と太陽光線とからぶどう糖でんぷんなどをつくりあげる光合成のしくみが炭素14の行方を手がかりにして解き明かされるというわけです。

また古代の化石植物(あるいは建造物)などにふくまれる炭素14を分析してその年代を知る放射線年代測定法にもさかんに利用されています。




原子力発電のはじまりはいつ頃? わかりやすく解説!

原子力の利用は、不幸なことに核兵器という全人類を破滅に導くような悪魔の兵器をつくるということではじまりました。

そしてこの軍事面での原子力の利用はいまもなお続いています。


しかし一方では、原子の核の中に潜められているエネルギーをたとえば電気にかえてエネルギー問題を解決しようという研究もすすめられています。

アメリカがビキニ環礁で水爆実験をおこなったつぎの年すなわち1955年にスイスのジュネーブで、第1回国際原子力利用平和会議が開かれました。

このときソ連は出力5000キロワットの原子力発電所をすでに運転中と発表して世界中を驚かせました。

原子炉の中で、充分にコントロールしながら(制御棒というものを使い、余分の中性子を吸収させます)ウラン235や天然ウランなどの核燃料を燃やす(連鎖的核分裂反応を起こさせる)と非常にたくさんの熱が放出されます。

この熱で水を高温・高圧の蒸気にかえあとはふつうの火力発電と同じように電気を起こさせるのが原子力発電です。

ソ連で5000キロワットの原子力発電所が動き出してからまだ10年そこそこしか経っていないのに今日では全世界ですでに70基以上の発電炉が運転されており1000万キロワット以上の電気が原子力によってつくられています。

また小型で性能のよい原子炉を商船や砕氷船・潜水艦に乗せれば1年以上も燃料の補給なしに走り続けることができます。

アメリカの原子力商船サバナ号、ソ連原子力砕氷船レーニン号アメリカやソ連のたくさんの原子力潜水艦がその例です。

もちろん原子力の平和利用にも問題はあります。

たとえば原子力発電による電気代が今までの火力発電による電気代と同じくらいにすることができるかどうか燃えカスである死の灰を安全に処理できるかどうか(原子炉の数が増えるにしたがい、この問題は悩みの種になっています)原子炉は事故を起こさないか、絶対の安全が確保されるかどうか(イギリスでもアメリカでも事故が起こり、死の灰がばらまかれたことがあります)といったことなどです。

しかし、これらの問題はいずれは満足のいくように解決されるでしょう。
怖いのは、やはり軍事利用の原子炉の問題です。



たとえば1968年5月6日、佐世保港に寄港していたアメリカの原子力潜水艦ソードフィッシュ号は異常に高い放射線をふくんだ水を排出して(アメリカは排出しないと言い張りましたが)、日本国民に大きな不安の種をまきつけました。

公海上では米ソの原子力潜水艦がどんなにたくさんの放射能をまきちらし海水を汚染しているかわかりません。

原手力潜水艦の沈没事故もありました。
座礁あるいは、衝突して原子炉が壊れ一挙に多量の放射能がばらまかれる危険もあります。

それにプランクトンに吸収され、それを食べた小魚の体にうつり小魚を食べた大形の魚の体内に入ることになります。

そのあいだに、放射能はしだいに濃縮された形となり魚を食料とする人間の体を、しだいしだいに蝕んでいく危険も考えられます。

さて、核燃料ウラン資源が、いつかはなくなってしまうことも考えなければなりません。
そこで、海水の中に無限にある重水素を利用する核融合による発電ということもさかんにすすめられています。

この方法ですと、危険な死の灰もほとんどでないということで大きな期待をもたれてはいるのですが、いつ実用化されるか予測することはできない状態です。




水素爆弾が登場・開発されたのはいつ頃? マンハッタン計画とは?

マンハッタン計画

アメリカはただちに、アメリカの科学者およびアメリカに亡命していた世界中のすぐれた科学者たちを集めまたアメリカの工業力をあげて原子爆弾開発計画(ニューヨークにあるマンハッタン工兵管区の陸軍大佐レスリー=グローブスがその推進役に任命されたため、マンハッタン車両という暗号名でよばれました)に着手しました。

その直接の動機は、ハンガリーからアメリカに亡命した物理学者レオ=シラードがアインシュタインを通じてときの大統領ルーズベルトに進言したためです。

たくさんの科学者、技術者たちの夜も日もない突貫的な研究の末2年後1945年の夏に入ろうとするころついに最初の原子爆弾(プルトニウム爆弾)がニューメキシコ州ロスアラモスの研究所で完成7月6日、アラモゴルドの砂漠で爆発実験がおこなわれました。

そして同じく1945年の8月6日にはウラニウム爆弾リトル=ボーイが広島にそして3日後の8月9日にはプルトニウム爆弾ファットマンが長崎に投下され一挙に何十万というたくさんの日本人を殺ししかもそのときの死の灰にさらされた人たちはいまだに恐ろしい放射能障害のために、地獄の苦しみにあっているのです。

この原子爆弾(原爆)は1つでそれまでに使われていた最も性能の高いTNT(トリニトロトルエン)火薬2万トン分に相当する破壊力をもっていました。


水素爆弾の登場

日本の軍部も、原爆の前にはついに幸福に踏み切らざるをえなかったのです。

原爆の開発をルーズベルト大統領にすすめたアインシュタインはそれが実際に使用された(そのときはトルーマン大統領にかわっていましたが)ことにたいして、ひどく良心の傷みを覚えました。

アインシュタインはナチスドイツに先を越されないよう原爆をつくることをすすめはしましたがそれを使うべきではないと考えていたのです。

たとえば1945年6月1日にアインシュタインらは政府にたいし「……もしアメリカが、この新しい無差別殺傷兵器の最初の使用者となるならばアメリカは世界世論の支持をうしなうばかりか、軍備拡張競争に油を注ぐことになろう……」とに言っています。

しかし、アインシュタインらの願いは聞き入れられず日本人がこの悪魔の兵器の力を試すためのモルモットにされてしまったのです。

しかもアインシュタインの予想どおり、戦後軍備拡張競争はますます激しさを増しかぎりない不安と恐怖をはらんだ、冷戦状態をうみだしたのです。

アメリカに引き続き、ソ連もまた原爆をつくることに成功しました。
そこでいっそう強力な兵器をというわけでこんどは水素爆弾(水爆)の開発がはじまりました。

アインシュタインはもちろん、マンハッタン計画の最高指導者として原爆開発に力をつくしたロバート=オッペンハイマーもこの水爆の開発に反対しました。

しかし、あくまでもソ連より優位にたたなければという軍部の強い意見にかんたんに押し切られアインシュタインは「こんど生まれてきたら、決して科学者、ことに原子物理学者になんかなるまい。

最小限の精神の自由が保てるような、大工か行商人にでもなりたい」という言葉を残して死に、オッペンハイマーは赤よばわりされいっさいの原子力研究活動から締め出されてしまいました。

さて、水爆というのは、小型の原爆のまわりを重水素や三重水素(ふつうの水素の原子核に1個の陽子しかもっていませんが重水素のそれは、1個の陽子と1個の中性子、三重水素は1個の陽子と2個の中性子をもっていて原子量がふつうの水素のそれぞれ2倍になっている)やリチウムのような軽い(原子量の小さい)原子でつつんだものです。



起爆装置をはたらかせて、芯になっている原爆を爆発させると1億で℃くらいの高温になりそれがまわりの重水素やリチウムなどのかるい原子核をくっつけ
(分裂の反対で、融合といいます)より重い原子核をつくります。

このときには原爆の爆発以上のものすごいエネルギーが放出されます。
たとえば、1952年、アノリカは南太平洋のエニウェットク環礁で最初の水爆実験をしました。

この水爆はたいへん効率の悪いものでしたがそれでも広島に落とされた原爆150発分の力をもっていました。

1953年、ソ連はアメリカの水爆よりもずっと性能のよい水爆を完成しました。

それは原爆のまわりを、重水素とリチウムを結合させた重水素化リチウムというものでつつんだものです。

アメリカの最初の水爆は重水素と三重水素の気体を零下20℃に保って液化しそれで原爆のまわりをつつんだものですからしかけ全体がたいへん大がかりになり水爆というよりは水爆装置ともいうべきものでした。

これにたいし、ソ連が採用した重水素化リチウムははじめから固体ですから、面倒な装置などは必要がなくまたずっと小型にすることもできたのです。

もちろんアメリカもすぐソ連の後を追いました。
そして1954年2月1日、アメリカは最初の重水素化リチウム水爆の爆発実験をビキニ環礁でおこないました。

このとき、日本の漁船第五福竜丸は立入り禁止区域外にいたにもかかららず、多量の死の灰をを浴び乗組員のひとり、久保山愛吉さんは、ついに放討能障害で命をうばわれました。

この水爆の破壊カは、広島型原爆の実に700倍といわれました。
しかもそれは爆発力についてだけのことであってそのとき飛び散る死の灰の害は、これらにひどいものと思われます。

そして、このような水爆にいまアメリカ・ソ連の両国に何百発も用意されているのです。
さらにイギリスもフランスも、そして隣の中国も原爆や水爆の開発に成功しています。

いま世界中には、この地球を、全人類、全生物を10回でも20回でも完全に破滅させるに充分な量の核爆弾がたくわえられているのです。

しかも、これらの核兵器は爆撃機に積まれ原子力潜水艦に積み込まれさらにはミサイルの弾頭にセットされていつでも投下、あるいは発射できる態勢を整えているのです。

このような危険な状態を、1日も早くなくさなければなりません。




核分裂の発見はいつ頃? エネルギー問題とは? わかりやすく解説!

エネルギー問題

世界全人類が抱えているいちばん大きい問題の1つに、エネルギー問題があります。

人類は古くから家畜のエネルギーや風力(風車)・水力(水車)を利用することを知っていました。

さらに18世紀に入ると、蒸気のエネルギーを利用する道が開けさらに電気のエネルギーを利用することもできるようになりました。


電気のエネルギーは、光としても熱としても動力としても利用できます。
したがって竃気の消費量は年をおって増えていきます。

人々は、まず水力を利用して水車発電機を高速回転させて電気をつくりました(水力発電)。

また石炭や石油や天然ガスなどを燃やし、その熱で蒸気をつくり高圧をかけ、この強力な蒸気によってタービンをまわし発電機をはたらかせて電気をつくりました(火力発電)。

しかし、水力は無限に利用できるものではありません。
日本のように高度に工業が発達し、しかも国土の狭い国では開発できる候補地はもうほとんど残されていません。

いっぽう、石油や石炭の量もかぎられています。
いつかは掘りつくしてしまうことでしょう。

掘りつくしてしまわないまでも、必要なだけの量を賄うことができるかどうか将来は甚だ不安であると見込まれています。

しかも電気エネルギーの消費量は急ピッチで伸びています。

たとえば、世界のエネルギー消費量は1キログラムあたり7000キロカロリーの石炭に換算して1949年には24億トンだったものが、15年後の1964年にはその2倍の50億トンにまで急増しました。

人類がエネルギー資源のなくなることをどんなに恐れているかみなさんもおわかりになると思います。

こうして新しいエネルギー源の開発たとえば太陽熱や地熱や潮力などを利用する道が熱心に研究され一部はすでに実用化されています(たとえばエレクトロニクスのところで述べた太陽電池)。

またエネルギーを有効に利用する道たとえば熱を直接に電気にかえようという
いわゆる直接発電の研究もすすめられています。

しかし、それでエネルギー資源の乏しくなることを大幅にふせぎとめることはまず無理のようです。

そこへ登場してきたのが原子力発電です。



核分裂の発見

1938年といいますから、ナチスドイツのヒトラーが政権をとり世界中を戦争の暗雲がおおいはじめたころドイツの物理学者オットー=ハーンやハインリッヒ=シュトラスマンらは天然ウランの中にわずか0.7パーセントふくまれているウラン235に中性子をあてると原子核が分裂(核分裂)して、原子量のより小さい原子にかわりそのときにたいへんな量のエネルギーを放出することを発見しました。

ひき続きフランスのジョリオ=キュリー・イレーヌ・キュリー夫妻でも同じような事実を発見しました。

原子核の中には驚くべき多量のエネルギーが潜んでいることに人々は一斉に注目しはじめました。

ウラン1キログラムは、石炭3000トン分のエネルギーを持っているというから驚きます。

このエネルギーを利用すれば、どのように強大な破壊力を持つ悪魔の兵器がつくられるか、ナチスドイツも、そして連合国側もただちにそのことに気づきました。

ドイツはチェコのヨアヒムシュタールのウラン鉱山をおさえました。
連合国側はあわてました。

しかし、ファシストたちの手を逃れてアメリカに亡命したイタリアの物理学者
エンリコ=フェルミ(1938年、ノーベル物理学賞を受けるためにストックホルムに行き、そのままアメリカに脱出しました)が1942年、シカゴ大学構内に秘密につくった実験施設で原子核の連鎖的核分裂反応を発見するにおよんで連合同側はナチスドイツに一歩先んじることができました。

連鎖的核分裂反応というのは、ウラン原子核が分裂するとき中性子という粒子が飛出しますが、これがつぎのウラン原子を分裂させつぎつぎと分裂反心を続けさせていくことです。




人工衛星と有人衛星が開発されたのはいつ頃? わかりやすく解説!

国際地球観測年がはじまるまえにアメリカとソ連は人口衛星による観測計画を発表しました。

この両国の競争では、ソ連のほうが先に人工衛星(スプートニク1号)の打ち上げに成功しました(1957年)。

人類史上はじめて、人工の月(人工衛星)が打ち上げられたことによりいよいよ宇宙時代がはじまったのです。


その後、アメリカも人工衛星の打ち上げに成功またイギリス・カナダ・フランスなどもそのあとを追い今日までに打ち上げられた人工衛生の数はもう1000個以上にになっていると思われます。

これらの人工衛生の中には、ソ連のルーニク3号のように私たちがいままで見ることができなかった月の裏側の写真を撮り地球上に電送してきたものもあります(1959年打ち上げ)。

またアメリカのタイロス1号(1960年打ち上げ)のような気象観測用の衛生またテレビや電話の中継をする静止衛星(1963年打ち上げのシンコム1号)もあります。

さらに、ソ連の金星1号(1961年打ち上げ)火星2号(1962年打ち上げ)アメリ力の金星科学調査衛生マリナー2号(1962年打ち上げ)や最初の火星写真を電送してきたマリナー4号(1964年打ち上げ)などのように金星・火星のような、ほかの惑星の探査に乗り出したものもあります。

しかし、宇宙時代も象徴する、最も目覚ましい出来事は人間の乗り込んだ人工衛星、有人衛星の打ち上げ、そして地上への回収の成功でしょう。

この分野でも、まずソ連が成功しました。

1961年、ユーリー=ガガーリン少佐の乗り込んだボストーク1号が地球を1周して無事地上に帰り着きガガーリン少佐は宇宙飛行士第1号になったのです。

この年、同じくソ連のゲルマン・チトフ少佐が地球を17周することに成功しました。



アメリカでは、ようやく1962年、ジョン・ダレン中佐のマーキュリー衛生船による地球3周が最初の成功になりました。

その後もアメリ力とソ連の有人衛生の競争は激しくなりました。

たとえば1963年にはソ連のテレシコワさんがボストーク6号で宇宙飛行に成功
世界初の女性宇宙飛行士になり1964年には同じくソ連の3人乗り宇宙船ボスホート1号が飛行に成功さらに1965年に打ち上げられたボスホート2号ではレオーノフ中佐が初の宇宙遊泳(軌道飛行中の宇宙船から、命綱をつけて船外、つまり宇宙空間に出て作業をしてみること)に成功しました。

いっぽう、アメリカでは1965年ジェミニ6号とジェミニ7号が宇宙でのランデブー(接近していっしょに飛行を続けること)に成功しジェミニ7号は2週間飛行を続けるという史上最長時間の宇宙飛行に成功しました。

また1966年にはジェミニ8号が史上最初のドッキング(宇宙空間)で衛星船どうしをつなぎあわせること)に成功しました。

1968年、アメリ力の打ち上げたアポ口8号は、3人の宇宙飛行士を乗せて人類史上はじめて、月をまわって帰ってきました。

人類がはじめて、肉眼で直接月の裏側を見たわけです。

その後、人間を月に送り届けることが目的であるアメリカのアポロ計画はちゃくちゃくと進行し、1969年の3月には、アポロ9号が地球をまわる軌道の上で、月面着陸船を積んでランデブー・ドッキング・宇宙遊泳などをおこないました。

さらに5月には、アポロ10号が、月をまわる軌道に乗り月面からわずか15キロメートルの高さにまで近づき月面の写真撮影などをおこないました。

このような準備を積み重ねたうえで、1969年、7月21日、アポロ11号に乗ったアームストロング・オルドリン・コリンズの3人の宇宙飛行士のうちアームストロング・オルドリンのふたりが、月面に降り、月の岩石を採集しました。




ロケットが発達しはじめたのはいつ頃? わかりやすく解説!

20億光年の彼方の宇宙の様子を知るとか巨大な星雲同士の衝突を見るということは確かに驚くべきことです。

しかし、地球上の私たちの生活により密接な関係があるのははるかに近い空間、つまり地球の上空1000キロメートルとか2000キロメートルとかいった程度までの空間です。


そこで、地球の上空2000キロメートルくらいまでの高さにわたって大気層を例えば10キロメートルごとに何層にも水平に切ってそれぞれの高度での空間状態を観測する手段がほしいわけです。

この観測は飛行機や気球では無理です。そこへ登場してきたのがロケットです。

ロケットの原型は、すでに古代中国で戦争の兵器として使われていた火箭(火の矢)だということですが、これは近代のロケットとはまるで違ったものです。

現在、世界のいくつかの国で兵器や空間観測用に使われているロケットの原型は第二次大戦中にナチスドイツが開発したV2号、その他のロケット弾などです。

ロケットというのは、その後尾のノズル(ふん射孔)からたくさんのガスをふきだし、その反動で飛ぶもので、空気の密度の非常にうすい高層空間をも飛ぶことができます。

はじめのころの観測用ロケットはせいぜい数十キロメートルくらいでしたが現在では1000キロメートル以上に達することができます。

このロケットに、温度や風向・風速・放射線・地磁気などを測定するための機械装置を積み込み、それぞれ決められた高度のところではたらくようにしておき観測データはテレメーター(遠隔通信装置)で地上に送信させるようにすればそれぞれの高度の空間状態がつかめるわけです。



第二次大戦後、ナチスドイツがつくっていたロケットやその設計図を持ち出したアメリカとソ連はそれをもとにロケットの研究、開発をすすめました。

それが、中距離弾道弾(IRBM)や大陸間弾道弾(ICBM)として実をむすびそれらに核弾頭をつけることによりいわゆる押しボタン戦争の可能性までうみだしまかり間違えば、全地球を破滅させるような兵器となったのです。

いっぽう、科学観測用として開発されたロケットもまた急速に進歩発展を続け、得られたデータは、それまで知ることができなかった高層大気・高層空間(スペース)についての知識を大幅に増やすことに役立ってています。

日本でも、1957年7月1日から1958年12月31日まで世界60か国が参加して行われた国際地球観測年(IGY)をきっかけとして科学観測用ロケットの開発に乗り出しまず、おもちゃのようなペンシル型・ベビー型ロケットから出発10年のちには、全長12メートル、重さ1.5トンというラムダ型ロケットの開発に成功
さらに、1970年2月、4段式ロケット、ラムダ4S型5号機で初の国産人工衛星「おおすみ」を打ち上げることに成功しました。




宇宙開発がはじまったのはいつ頃? わかりやすく解説!

人類は、随分遠い昔から、宇宙やもろもろの天体に関心をよせてきました。

しかし、天休の科学的観測がおこなわれ、その観測結果にもとづいて正しい宇宙の姿が描かれはじめたのは、ルネサンス期以後のことです。


さて、20世紀に入ると天文学はますます大きな発展をとげます。

その原因の第一は、科学者たちが自分の観測した結果にもとづいて自由な考えかたをしてもよいようになったこと(コペルニクスやガリレオの時代は、キリスト教によって厳しい制限をうけていました)、また、望遠鏡などの観測手段が非常な進歩をとげたこと数学の発達などもその理由にあげられます。

まず、1904年、アメリカのカーリフォルニア州ウィルソン山の頂上にウィルソン山天文台が開設されました。

この天文台に1917年、口径258センチの反射望遠鏡がすえつけられました。

反射望遠鏡はもともと、イギリスの科学者アイザク・ニュートンが1670年ごろに発明したもので、それまでの屈折望遠鏡の対物レンズのかわりに凹面鏡を使い、物体からくる光をこの鏡で反射させさらに第二の鏡でこの反射光を観測に適当な場所に集めるようにしたものです。

反射望遠鏡を使うと、星雲のように非常に弱い光しか出していないものの観測もできます。
そこで、ウィルソン山天文台はつぎつぎと新しい星を発見したのです。

ついで、1948年、同じくカリフォルニア州パロマー山天文台に口径508センチの大反射望遠鏡が完成するにおよんで宇宙をさぐる私たちの目は、さらに果てしなく遠いところにまでおよぶことになりました。

この世界一の大反射望遠鏡は、20億光年の彼方の星まで探ることができるのです。
ところが、電波望遠鏡というのを使えば、さらに遠くの星まで探ることができるのです。

天体が電波を出しているということは、誰も予想していなかったことですが1931年、アメリカのベル電話研究所の技師、カール・ジャンスキーという人がまったく偶然の機会から、ある種の電波が天空の彼方から送られてきていることを発見しました。

あまりにも予想外のことでしたのではじめはジャンスキーの発見に疑いをもつ人が多かったのですが第二次大戦中、やはり偶然に太陽からの強い電波が受信されそれ以来、天体からの電波に関する研究がにわかにさかんになり電波天文学という新しい分野がうまれたのです。



それまでの天文学は、いわば光を手がかりにしていました。
ところがこんどは電波という新しい武器が使えるようになったわけです。

電波を出している星、いわゆるラジオ星はつぎつぎと発見され今日ではその数が数千個にも達しています。

これらの星の存在は、光学的研究によって築き上げられたそれまでの天文学による宇宙像を大きくかえさせることになりましたが電波天文学の発達にともない、反射望遠鏡による天体観測にも思いがけない新しい面が開けてきました。

たとえば、こんなことがあります。

1952年、イギリスの電波天文学者ライルとスミスは電波をたよりに白鳥座のラジオ星(2億光年)の位置を正確に決定しましたがこのデーターにもとづいて、パロマー山の508センチ反射望遠鏡をその位置に向けてみたところ、そこではなんとそれぞれ1000億の恒星をふくむ2つの大星雲が激しく衝突しあっているさまがみられたのです。

広大な宇宙空間における、巨大な星雲同士の衝突これほど恐ろしい劇的な眺めも待たないでしょう。

こうして、いわば偶然の機会から誕生した電波天文学はあるいは、それまでの天文学を助けあるいはその限界を越える宇宙の先の先まで探り続け宇宙についての私たちの知識をさらにさらに広げ続けているのです。

いま活躍している世界最大級の電波望遠鏡はイギリスのチェシャー州ジョドレルバンク天文台に備えられているものでそのパラボラ型アンテナの直径は76メートルもあります。

この電波望遠鏡が、アメリカやソ連の打ち上げる人工衛星や人間衛生の宇宙飛行の様子を捕えています。




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