合成樹脂(プラスチック)が工場生産されるようになったのはいつ頃?

合成樹脂(プラスチック)というと、とても新しいもののような気がします。
しかし、1869年にアメリカのジョン・ハイヤッ卜という印刷工がセルロイドを発明しています。

このセルロイドが合成樹脂の元祖であるということはできますがその材料は綿やショウノウであり、いずれも天然のものです。

ちょうど人絹と同じように全くの合成品とは言えません。

それではベークライト(フェノール樹脂の一種)はどうでしょうか。

これはベルギーにうまれた化学者レオ・ヘンドリック・ベークランドが1909年に発明した合成樹脂です。

フェノールとホルムアルデヒドとからつくったもので完全な人工合成樹脂ということができます。

日本で最初に生産された合成樹脂はセルロイド(1908年)ついでベークライト(1914年)、3番目がユリア樹脂(1929年)です。

また、1941年から塩化ビニル樹脂(塩ビ)が1956年にはポリニチレンが生産されました。

そのほか、ほとんどあらゆる合成樹脂が現在、生産されています。




人造繊維が登場しはじめたのはいつ頃? わかりやすく解説!

1938年、アメリカの有名な化学会社デュポン社は「水と空気と石炭からつくられる、クモの糸よりも細く鋼鉄よりも強く、絹よりも美しい繊維」ナイロンを発表しました。

合成繊維、ナイロンの出現は、全世界の人たちの目を見張らせたのですがとくに日本人はたいへん驚きました。


というのは、当時の日本は世界一の生糸・絹織物の生産国でアメリカだけにでも年間5万トンもの絹を輸出していたのです。

ところが、ナイロンの誕生で、あっという間に絹の輸出はストップ、カイコに繭をつくらせて生活していた全国200万におよぶ日本の養蚕農家やその繭から生糸をつむぎ、絹布に織っていた製糸工場・織物工場は絹が売れなくなってたちまち困ってしまいました。

新しい科学、技術の成果が、国全体の運命をもくるわせてしまう例をここにも見ることができます。

それまで衣料として用いられた繊維は四大天然繊維とでも言うべき、植物繊維の綿および麻、動物繊維の絹と羊毛などです。

天然繊維をいくらか加工したものも用いられていましたが繊維といえば、ほとんどが天然繊維でした。

後に、木材パルプを水酸化ナトリウムと二硫化炭素の溶液につけると溶けて赤いどろどろしたもの(ビスコース)になりこれを小さな穴から押し出して固めると立派な繊維になることがわかりました。

1892年、イギリスの化学者クロス・ビーバン・ビードル3人の発見です。

こうしてつくられたのがいわゆる人絹(レーヨン)です。
人絹はたしかに化学的につくりだされるものではありますが原料に木材を使うので、まったくの人工合成品というわけにはいきません。

しかし、ナイロンは違います。

ナイロンの原料は、デュポン社の宣伝文句の通りたしかに石炭(あるいは石油)と水と空気なのです。

そんなありふれたものから絹のような美しい繊維がうまれるとはまるで想像もつかないと思われるでしょうが
化学の魔法は、たしかにこの不思議を現実のものにしてくれたのです。



もちろん、石炭と水と空気を混ぜたところでナイロンができるわけではありません。

石炭からつくる石炭酸と水からつくる水素と空気中にふくまれる窒素とをうまく利用していろいろな複雑な工程をへてまずアジピン酸とヘキサメチレンジアンというものをつくり、この2つをむすびつけてナイロンをつくるのです。(ほかにも、違った方法はあります)

このナイロンという合成繊維つくりだしたデュポン社の技術者たちを指導していたのはウォーレス・ヒューム・力ロザースという、まだ42才の技術者でした。

カロザーズはハーバード大学の講師をしていた33才のときに大デュポン社の有機化学研究所長にむかえられたのですからよほど天才的な人だったのでしょう。

残念なことに、ナイロンが発表される前年の1937年、謎の自殺をとげました。
あまり仕事に熱心だったために、ノイローゼとになったのかもしれません。

さて、ナイロンのあとを追って、つぎつぎと新しい合成繊維が登場します。
まず、1939年、当時京都大学教授だった桜田一郎博士、助手の李昇基博士(現在は北朝鮮で合成繊維工業の指導をしています)らの努力で、木綿によく似た合成繊維ビニロン(ボリビュルアルコール繊維』が発明されました。

またこの年、アメリカのダウ・ケミカル社はポリ塩化ビニリデン系の合成繊維サランを発表1941年にはイギリスのウインフィールドらがポリエステル系の羊毛に似たすぐれた合成繊維を発明この特許を譲り受けたイギリス最大の化学会社ICI(インペリアル=ケミカル=インダストリー)が照り芯の商品名(アメリカではデークロン、日本ではテトロン)で1947年に発売しました。

また1948年にはデュポン社がポリアクリル系のオーロンを1956年にはイタリアのモンテカチーニ社がポリプロピレン系のモプレンを発表するといった具合に、カロザーズによって切り開かれた合成繊維は急速に発展しました。




農薬が発達したのはいつ頃? わかりやすく解説!

20世紀の合成化学の進歩は、農業の世界にもたいへん貢献しました。

イネには昔から三大病害虫がつきものでした。
ウンカとニカメイチュウと、そしていもち病です。

たとえば、早植えして台風の最盛期がくる前に取り入れようとすると
ウソカやニカメイチュウのさかりにぶつかるし
肥料をたくさんほどこし多収穫をねらおうとすれば
いもち病にはびこられる、といった具合です。


ところが、まず1949年ごろからBHCがウンカ退治の有力武器としてまた、1952年ごろからは、パラチオンがニカメイチュウにたいする薬として登場。

さらに1953年ごろから酢酸フェニル水銀などの有機水銀剤がいもち病の特効薬として用いられるようになりイネの大敵にすっかりなりをひそめてしまいました。

こうした新しい農薬の開発は、DDTの登場の歴史に遡ることができます。
1874年.ドイツの化学者ツァイドラーがはじめてDDTを合成しました。

しかし、なんの役に立つかもわからずにほうりだされていたのです。

1938年、スイスの化学者パウル・ミュラーは植物の害虫の防除薬を研究中にツァイドラーの研究を知らずに、DDTを合成しさらにこの薬が強力を殺虫対果を持つことを発見したのです。

1943年ごろから、まずアメリカで大量生産にうつされ農作物の害虫駆除からジャングル戦のマラリア蚊の退治、蚊や蠅などの家庭害虫の駆除に広く使われるようになりました。

BHCはDDTにヒントをえて、イギリスの化学者たちが合成したものでDDTの5倍以上も強力な殺虫剤です。

新しい農薬、殺虫剤は人間の生活を豊かにするうえにはかりしれないほどの貢献をしてきましたがいっぽうではその害毒にも注目しなければなりません。

農薬を使いすぎるために、蛍もドジョウも姿を消し昆虫を餌にしている野鳥の姿も見られなくなり自然のつりあいが大きくて破られることも、農薬の害毒の1つです。

また、農民や田畑の近くに住む人たちが恐ろしい農薬中毒にかかるということや戦争で山野を丸裸かにするために農薬を使うということもあります。

科学の産物は、もし間違った使いかたをすれば人類を滅ぼしてしまうような害毒を生むことになるのだということを深く心に刻みつけておきましょう。






化学療法が進歩しはじめたのはいつ頃? わかりやすく解説!

合成化学の発達

1828年、ドイツのフリードリッヒ・ウェーラーはシアン酸アンモニウムという無機物から、尿素という有機物を人工的に合成することに成功しました。

その当時までは、有機物というのは生物の体内でのみつくりだされるものと信じこまれていたのですからウェーラーが無機物から有機物を人工的に合成したということはたいへんなニュースでした。

そして化学者たちは、我も我もと、合成への道をすすむことになったのです。

その結果、植物や動物の体からしかとれなかった染料が19世紀末までにはどんどん化学的合成法でつくりだされるようになりました。

20世紀に入ると、各種の薬・人造線維・合成樹脂(プラスチック)さらには宝石などまでが合成化学の進歩によってつくりだされるようになりました。


化学療法への道

19世紀末までは、薬といえばすべて天然のものあるいはそれにわずかに手をくわえただけのものにかぎられていました。

たとえば、アヘン・水銀・キューネ・ジギタリス・ヨウ素、この5つが最も主要な薬とされていたのです。

ところが、20世紀に入って間もなく1904年にドイツのパウル・エールリッヒはトリバノゾーマ (一種の眠り病の病原体)がトリパンロートという合成薬剤で殺せることを発見しました。

さらに1909年、日本の細菌学者、秦佐八郎を助手に梅毒スピロヘータの特効薬サルバルサンを合成することに成功し化学療法の開拓者になりました。

しかし、偉大なニールリッヒが世を去った後にはせっかくの化学療法にもそれほどの進歩はみられませんでした。

ようやく1932年になってドイツのバイエル染料会社の技師ゲルハルト・ドーマクによってプロントジルが発見されるにいたり、化学療法の研究は再び活気を帯びるようになります。

ドーマク博士の娘が、指にちょっとした傷をしたところそこからストレプトコッカスという化膿性の細菌が侵入したいへんな高熱が出て、手の施しようもありませんでした。

もうあらゆる手をうちつくしたドーマク博士は専門の色素研究の過程でかねて合成しておいたプロントジルという赤い色素を娘に飲ませてみました。

すると、驚くべきことに、彼女の高熱は嘘のように消え、まもなく健康を回復したのです。



ドーマク博士が悲壮うな覚悟で実験しそのききめを証明したプロントジルはたちまち世界中でもてはやされるようになりましたがその後フランスのパスツール研究所のトレフォネルらはブロントジルが有効なのはその中の色素部分ではなくそれを外した残りの簡単な化合物であるスルファニルアミドであることをつきとめました。

このスルファニルアミドは1908年にすでに合成されていたのですがだれも、それが薬として効き目があることに気づかなかったのです。

さて、その後今日まで30種以上ものスルファニルアミド系の薬が合成されみなさんがよく知っている抗生物質とともに、医療に役立てられています。

そのほか、化学合成によってつくりだされている薬でとくに重要なものにトランキライザーがあります。

トランキライザーは精神安定剤、つまり心のいらだちを鎮める薬です。
しかし、はじめは血圧を下げる薬として開発されたものです。

血圧降下剤が精神を安定させる効果を持つことがわかったのは全く偶然の機会からでした。

1953年の6月、アメリカのある製薬会社がインドからたくさんのサルを実験動物として輸入しました。

長い船旅ですっかり気分を壊したサルたちはひどい興奮状態で手のつけようがありません。

困った獣医さんが、サーパジルという血圧降下剤を注射してみたところサルたちはみんな大人しくなってしまったのです。

そこで、サーバジルのような血圧降下剤には気分を落ち着かせる効果もあることがわかりとかくいらいらしがちの機械文明時代にはこのうえなく貴重な薬としてもてはやされるようになったのです。




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