海上輸送の進歩しはじめたのはいつ頃? わかりやすく解説!

巨大タンカー時代

現在でも、夏の海にはたくさんのヨットを見ることができますがこのヨットは本来、帆に風をうけて海上を走るものです。

それと同じ原理の帆船は、すでに紀元前3500年もの昔から走っていたそうです。


とすると、船というものは一向に進歩しなかったのでしょうか。そんなことはありません。

たとえば、第二次大戦中に活躍したプリンス=オブ=ウェールズ・大和・武蔵などの戦艦、サラトガなどの航空母艦、あるいはクイーン=エリザベス号・ユナイテッド=ラアーツ号などの豪華な客船などを思い浮かべても船が改良され、進歩していることがよくわかります。

しかし船舶界における最も目覚ましい進歩は巨大なタンカー(マンモス=タンカー)ではないでしょうか

1960年当時、世界最大のタンカーはアメリカのユニバース=アポロン号でした。
この船は日本の造船所でつくられたものですがなんと10万トン、ユナイテッド=ステーツ号の2倍も大きいのです。

ところがそれから数年のうちに、タンカーの大型記録はつぎつぎと打ち破られれていくのです。

たとえば、1963年に完成した日章丸は13万5000卜ン、1964年の東京丸は15万トン、1965年の出光丸は25万5000トンそして1971年には37万2400トンの超巨大タンカー日石丸が日本の造船所で進水したのです。

このような巨大タンカーができるようになったのには船の前半と後半を別々にドックでつくりこれらを洋上でつなぎあわせるといった新しい造船技術の進歩があったからです。

この技術は日本で開発されたものです。

日本の造船業は、1971年には全世界でつくられる船の約50パーセントをつくったといわれています。



造船技術の進歩

さきに述べた洋上接合法は最も新しい造船技術ですがほかにもさまざまな技術的進歩がみられます。

まず第一はリベットエ法にかわる溶接法です。

リベッ卜というのは鋲のことで古くは、それぞれの大きさに切断した鋼板や骨格になる材料を1つ1つリベッ卜でくみ立てていましたが溶接法の進歩により、工場内で溶接によりつくりあげたブロックを順にくみ立てていくという流れ作業ができるようになったのです。

また、鋼板を切り取るにも、小さな図面を光学的あるいは電子的に拡大しそのまま自動力ッターで切り抜いていくという方法が考えだされています。

さらに船首にコブのような球状体をつけそれがつくる波によって船体白身のつくる波を打消し波の抵抗を弱める方法なども開発されました。

造船技術の進歩は、潜水艦や水中よく船をうみ、船の底から空気をふきだし船と水とのあいだに空気のクッションをつくりながら進むホーバークラフトなども実現しました。

さらに、プロペラでなく飛行機のようにジェット機関を使う船も研究されていますし原子力を利用する原子力船もすでにつくられています。




汽車から電車、新幹線・自動車が登場・発達したのはいつ頃? 陸上交通の進歩とは?

汽車から電車へ

世界最初の汽車はまずイギリスで走りました。
1825年、ジョージ・スチーブンソンがストックトン~ダーリントン間に蒸気機関車ロコモーション号を走らせたのでした。

それからおよそ半世紀後の1872年には日本でも汽車が走りはじめました。
新橋(いまの汐留貨物駅)と横浜(桜木町)の間27.3キロメートルという短い距離を第1号機関車が走り出したのです。


日本の鉄道が急速な発展をとげたのは戦後、1957年に東海道本線の電化が完成してからです。

電車の歴史も決して新しいわけではありません。

たとえば、日本でも1890年に東京の上野公園で開かれた博覧会にはじめて電車が登場し人気をよびましたし1895年には京都で市内電車が営業運転を開始しています。

世界的には、1881年ドイツのリヒテルフェルでおよそ5キロメートルの区間、36人乗りの小型電車が走ったのが最初です。

はじめは市内電車だけでしたが、やがて地下鉄がうまれます。
世界最初の地下鉄は1863年にロンドンで開通した蒸気機関市でひっぱる地下鉄道を1905年に電化したものです。

日本では1927年、東京に最初の地下鉄がうまれました。

市電も地下鉄も短距離をむすぶだけのものでしたがやがて郊外電車がうまれ、また京都・大阪・神戸といった群市間をむすぶ中距離電車が誕生し、さらに湘南電車が完成して電車による長距離輸送のめどがたち、ついに1957年の東海道本線全線電化、1958年からは東京~大阪間をビジネス特急こだま号が走るようになるとともに日本の鉄道は活気を帯びはじめたのです。

国鉄では1975年までに全線の76パーセントを電化のこりはディーゼル機関車を走らせ煙を吐く汽車を全部なくしてしまう計画をすすめています。

新幹線の登場

1964年10月、東海道新幹線が開通しました。
この新幹線を超特急ひかり号は最高時速210キロメートル平均速度172キロメートルで走ります。

この新幹線は5年の歳月と、3800億円の巨費を投じて完成されたものです。

これに刺激されて、イギリスではロンドン~グラスゴー間に時速241キロメートルの高速電車をアメリカでは、ワシントン~・ニューヨークー~ボストン間に時速225キロメートルの電車を、それぞれ走らせる計画です。

また日本でも新たに、山陽新幹線を建設しここに時速250キロメートルの電車を走らせる予定です。



自動車の発達

現在の自動車の大部分は、ガソリンエンジンを原動機としています。
ライト兄弟の飛行機もガソリンエンジンをつけたものでしたがこのエンジンは1876年、ドイツのゴットリッヒ・ダイムラーが発明したものでした。

ダイムラーは1886年、自分で発明したガソリンエンジンをつけた自動車をつくりました。
今日の自動車の原型になったのは、このダイムラーの自動車です。

同じく、ドイツのカルル・フリードリッヒ・ベンツもダイムラーとは別にガソリンエンジンを発明またスピードをかえる装置や電気着火法・気化器などを発明しました。

のち、ダイムーフーとベンツは協同して自動車製作工場を経営しました。

しかし、その後の自動車工業はアメリカで発展します。

1895年に、チャールズ・ドゥーリエ・フランク・ドゥーリエ兄弟がマサチューセッツ州スプリングフィールドにアメリカ最初の自動車工場をつくりましたが、それから10年もたたないうちにオールズ=モーター・ビュイック・パッカード・キャデラックフォード・オーバーランド・ダイヤモンドなどの自動車製作工場がぞくぞくと設収され、しだいに大工業にまで発展して今日にいたっています。

さて、アメリカの自動車工業ひいては世界の自動車工業をこんなにも急速に発展させた最大の功績者はヘンリー・フォードです。
彼は流れ作業ということを思いついたのです。

コンベアを利用して、部品から完成した自動車をつくる方法(トランスファーマシン方式)で自動車を早く安くつくることを可能にしました。

このトランスファーマシン方式は部品から完成品を自動的に生産するオートメーションを可能にしさらにエレクトロニクスをくみ入れることによりますます完全なものに発達していきます。

機械工業のオートメ化は化学工業のオートメ化をうみだしさらには事務や経営のオートメ化をも実現させつつあります。

自動車そのものの性能の発達も、もちろんたいへんなものです。
ことに電気自動車やロータリーエンジン自動車の将来には大きな期待がよせられています。




ジェット機が発明されたのはいつ頃? わかりやすく解説!

ジェット機の誕生

1939年にはじまった第二次大戦で、ふたたび飛行機は発展期をむかえることなりました。

さて、第二次大戦も終わりに近づくころドイツ空軍は、ブロペラがなく、機首に大きな穴の開いているそしてプロペラ機のスピードをはるかに上まわる不思議な戦闘機をつくり連合軍の飛行機をつぎつぎ落としました。

これこそ世界最初のジエッ卜機(ハインケルHe178型)だったのです。

このジェット機の最高時速は866キロメートルでした。


そのころ、イギリスでもジェット機の研究がかなりすすんでいました。
1941年5月、イギリス空軍のフランク・ホイットルが設計したグロスターE28型機が最初の試験飛行に成功しています。

このグロスター機は時速991キロメートルというそれまでのプロペラ機の記録を大幅に上まわるスピードを出しました。

アメリカのジェッ卜機の研究は、ドイツやイギリスにくらべてかなり立ちおくれていましたが、第二次大戦後、イギリスの研究をうけつぎ、まず1947年、ロッキード社がP80R型シューティング・スターというアメリカ最初のジェット機を製作しました。

このジェット機は時速1003キロメートルという快記録を出しました。
ジェット旅客機も第二次大戦機に開発がはじまりました。

まず1949年、イギリスは世界にさきがけて、四基のジェットエンジンをもち巡航時速790キロメートル、航続距離5710キロメートルというジェット旅客機コメットを就航させました。

このイギリスがほこるコメット機は、まもなく2機続けざまに地中海上で空中分解するという事故を引き起こしました。

機の破片はもちろん海底深く沈んでしまいましたがイギリスの航空省はこの破片を広い集め、徹底的に事故の原因をさぐりました。

この調査の結果が、その後のジェット機の安全設計にどんなに大きな貢献をしたかはかりしれません。

ともかく、ジェット旅客機の発達は時とともにすすみ1958年ころから、大型長距離旅客機ジェットにかぎるという時代にうつりました。



音速の壁を越える

飛行機のスピードが音速を越える、ということは航空関係者の長いあいだの夢でした。
現在のジェット旅客機はまだ音速の壁を越えておりません。

音速のことをマッハといいますが、いまの代表的なジェット旅客機、たとえばダグラスDC‐8とかボーイング727とかはマッハ0.8、ボーイング737は、マッハ0.7ぐらいのスピードしか出せません。

しかし、軍用機なら、マッハ2とか3とかいうものすごいスピードをもったものがあります。

最初に音速の壁を破ったのはアメリカのベル航空会社が試作したロケット機ベルX1号でした。

ロケットは第二次大戦中ドイツによって誘導弾(V2号)として実用化されていましたがそのロケットの原理を飛行機にとりいれたのがベルX1号なのです。

1947年、アメリカ空軍のパイロット、チャールズ・イーガー大尉の乗り込んだペルX1号は、マッハ1.2(時速1440キローートル)のスピード記録を出しました。

このXシリーズは.回を重ねるにしたがってつぎつぎとスピード記録をのばし、1967年にX15号は時速7254キロメートルを出しました。

このXシリーズはあくまでもスピードに挑む特殊な飛行機の開発を目指すものですがふつうのジェット戦闘機もつぎつぎと音速の壁を破りはじめました。

まず、1953年、アメリカ空軍のノースアメリカンF100や海軍のダグラスF100がマッハ1以上のスピードを記録しその3年後の1956年には口ッキードF104、コンベアF106などがマッハ2を越えました。

また、1968年、福岡市の九州大学構内に墜落としたF4ファントムジェット戦闘機はマッハ3に近い高速が出せます。

また.アメリカはすでに、マッハ3.5で飛べるスパイ機A11型をもっています。

超音速輸送機の開発

輸送用大型機はまだ音速を越えるものはありませんが超音速輸送機(SST)の開発も急ピッチですすめられています。

イギリスとフランスの協同開発によるマッハ2.2のアングロ・フレンチトコンコード、アメリカで開発中のマッハ3のSST、ソ連が1968年に完成したと発表したTU144(マッハ2以上)などSST開発競争はますます激しくなりました。




航空機が発達したのはいつ頃? 初期の飛行機とは?

昔から、人間はずいぶん長いあいだ自分の足で歩き荷物を運ぶ場合も、せいぜい馬の力を借りるくらいといったような生活を続けてきました。

しかしながら、交通機関がまるでうまれなかったわけではなく少しずつは進歩してきました。
交通機関・運輸機関が急に発達したのは、やはり、20世紀に入ってからのことです。

輸送・交通機関のなかでも、最も早く発達したのは、いかだや丸木舟です。
しかし今日では、ジエッ卜機が世界中の空をものすごいスピードで飛び交い高遠道路を自動車が突っ走り、海には巨大な夕ンカーが浮かんでいます。

それらの発達のおかげで、世界は日ましにせまくなり人間の生活はますます忙しくなっていきます。


初期の飛行機

はじめて飛行機が登場するのは、20世紀に入ってからのことです。
したがって、航空機こそまさしく20世紀の産物ということができます。

19世紀の末ごろ、アメリカにウィルバー・ライト、オービル・ライトというふたりの兄弟がいました。

家業の自転車製作業にはげみながらも飛行機熱にうかされ最初はグライダーの研究をすすめていましたがグライダーの大先輩ドイツのオットー・リリエンタールが1896年試験飛行中つい落死したので、グライダーに見切りをつけエンジンの動力で飛ぶ方法を考えはじめました。

1903年、ガソリンエンジンつきの複葉プロペラ機フライヤー号で22秒間の飛行に成功しました。

わずか12秒間でも、とにかく空に舞い上がり、実際に飛んだのです。
12月17日、寒い朝、ノースカロライナ州の砂浜でのことです。

ところがこの歴史的な実験に立ちあったのはわずか5人の友だちと群れ飛ぶ、かもめだけだったということです。

その後、1914年にはじまった第一次大戦で飛行機の性能はすばらしく向上しました。

たとえば、ライト兄弟の「フライヤー」号のエンジンはわずか12馬力、スピードは、時速48キロメートルだったのにたいし第一次大戦で活躍した飛行機には200馬力、時速250キロメートルくらいのものがざらにありました。



1918年末に第一次大戦が終わると、飛行機はたいして重要なものとはされなくなりました。
しかし、まもなく、今度は空の乗り物として注目されるようになりました。

まず、1919年にニューヨーク~シカゴ間に定期郵便飛行がはじまり同じ年イギリスはデ・ハビランド(DH19C)という戦時中の爆撃機を改造したものでロンドン~パリ間の定期旅客機航路をひらきました。

また、1927年、アメリカの無名の青年飛行家チャールズ・リンドバーグが自分で設計したライヤン単葉機、スピリッ卜・オブ・セントルイス号に乗ってニューヨークからバリまで大西洋を無着陸で横断飛行することに成功したのです。

ひき続き、スピードも航続距離も急速に向上しました。

1938年、日本の航研機(航空研究所試作長距離機)が木更津・銚子・太田・平塚をむすぶ1周400キロメートルのコースを63時間23分をかけて29周し、航続距離1万165キロメートルという世界記録をたてました。

またスピードのほうは1939年ドイツのメッサーシュミッ卜109九型戦闘機が275馬力のエンジンで時速755キロメートルという大記録をつくりました。




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