キュビエの天変地異説とは?リンネとビュツフォンとは?

むかしの人は、生物はすべて、神や自然の力によってつくられたものでいつまでもかわることはないと考えていました。

しかし科学がすすむにつれて生物は、長いあいだに少しずつ形をかえやがて、かんたんなものから複雑なものへと発達したくさんの種類にわかれていくと考えられるようになりました。


進化説のおこリ

物質が変化するということは、かなり古くから考えられていました。
しかし、生物が変化するというような考えかたがおこったのは18世紀中ごろのことです。

リンネの種

スウェーデンの博物学者リンネ(1707~1778)はその一生のあいだに、たくさんの動物や植物を調べこのことを1738年に「博物学」という、有名な書物にまとめました。

彼は、この本の中ではじめて、いろいろな生物の名前のつけかたを決め生物は性質のかわらないたくさんの種にわかれる、ということを述べています。

しかしリンネは、晩年になってから、生物をかけあわせると親とは違ったものができることに気がつきました。

そして、生物は、長いあいだにはかわっていくことがあるといように「博物学」を書き改めました。

ビュツフォン

フランスのパリにある王立植物園の園長をしていたビュツフォン(1707~1788)は化石や生物についておこなった一生の仕事をまとめ「博物誌」という44巻にわたる大きな本を書きました。

彼は、そのころ大きな力をもっていた教会の反対を恐れて生物の種類が違うのは神様の知恵によるものであると述べその力をほめたたえていました。

しかし、同じ種類の動物でも、住む土地によっていくぶん違うという進化説の大事な内容の一部となっていることがらには気がついていました。

そのため、ビュッフォンを、生物の進化説のうみの親とする人もあります。

そのころ、イギリスでも、生物の進化に気づいた学者がおりました。
それはエラスムス=ダーウィンで、チャールズ=ダーウィンのおじいさんにあたる人です。

エラスムス=ダーウィンは、医者でしたがたくさんの動物について調べたことをまとめて「動物誌」という本を書きました。

その本の中で、いろいろな動物の器官をくらべ、ヒトの腕と鳥の翼は相同器官で、どちらも、もとは同じものであったといい進化の考えかたにふれています。

この人たちの進化に対する考えかたは、のちにラマルク(1744~1829)によってはじめて進化説としてまとめあげられました。

しかし、そのころは、まだ「種はかわらない」と考える人々がたくさんあっていつも、激しい論争がおこなわれていました。

キュビエの天変地異説

フランスの学工院会員であったキュビエ(1769~1832)は脊椎動物の化石を研究し、すぐれた仕事を残しました。

しかし、彼は生物の種について「種はかわらない」というリンネのはじめの考えを、かたく信じこんでいました。

ただ、化石に見られる動物たちが、いま住んでいるものとはたいへん違っているとには気がつきました。
しかし、生物が進化してきたとは考えませんでした。

そのためキュビエは、大むかしにいくども神話にあるノアの洪水のような天変地災(自然の様子が急にかわること)が起こりそのたびに地上の生物が死に絶え、新しい生物がつくりかえられたのだと考えました。

これを、キュビニの天変地異説とよんでいます。

この考えによれば「生物の種はかわることがない」ということになり進化という考えは、まったく認められないことになります。




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