ジェット機の誕生
1939年にはじまった第二次大戦で、ふたたび飛行機は発展期をむかえることなりました。
さて、第二次大戦も終わりに近づくころドイツ空軍は、ブロペラがなく、機首に大きな穴の開いているそしてプロペラ機のスピードをはるかに上まわる不思議な戦闘機をつくり連合軍の飛行機をつぎつぎ落としました。
これこそ世界最初のジエッ卜機(ハインケルHe178型)だったのです。
このジェット機の最高時速は866キロメートルでした。
そのころ、イギリスでもジェット機の研究がかなりすすんでいました。
1941年5月、イギリス空軍のフランク・ホイットルが設計したグロスターE28型機が最初の試験飛行に成功しています。
このグロスター機は時速991キロメートルというそれまでのプロペラ機の記録を大幅に上まわるスピードを出しました。
アメリカのジェッ卜機の研究は、ドイツやイギリスにくらべてかなり立ちおくれていましたが、第二次大戦後、イギリスの研究をうけつぎ、まず1947年、ロッキード社がP80R型シューティング・スターというアメリカ最初のジェット機を製作しました。
このジェット機は時速1003キロメートルという快記録を出しました。
ジェット旅客機も第二次大戦機に開発がはじまりました。
まず1949年、イギリスは世界にさきがけて、四基のジェットエンジンをもち巡航時速790キロメートル、航続距離5710キロメートルというジェット旅客機コメットを就航させました。
このイギリスがほこるコメット機は、まもなく2機続けざまに地中海上で空中分解するという事故を引き起こしました。
機の破片はもちろん海底深く沈んでしまいましたがイギリスの航空省はこの破片を広い集め、徹底的に事故の原因をさぐりました。
この調査の結果が、その後のジェット機の安全設計にどんなに大きな貢献をしたかはかりしれません。
ともかく、ジェット旅客機の発達は時とともにすすみ1958年ころから、大型長距離旅客機ジェットにかぎるという時代にうつりました。
音速の壁を越える
飛行機のスピードが音速を越える、ということは航空関係者の長いあいだの夢でした。
現在のジェット旅客機はまだ音速の壁を越えておりません。
音速のことをマッハといいますが、いまの代表的なジェット旅客機、たとえばダグラスDC‐8とかボーイング727とかはマッハ0.8、ボーイング737は、マッハ0.7ぐらいのスピードしか出せません。
しかし、軍用機なら、マッハ2とか3とかいうものすごいスピードをもったものがあります。
最初に音速の壁を破ったのはアメリカのベル航空会社が試作したロケット機ベルX1号でした。
ロケットは第二次大戦中ドイツによって誘導弾(V2号)として実用化されていましたがそのロケットの原理を飛行機にとりいれたのがベルX1号なのです。
1947年、アメリカ空軍のパイロット、チャールズ・イーガー大尉の乗り込んだペルX1号は、マッハ1.2(時速1440キローートル)のスピード記録を出しました。
このXシリーズは.回を重ねるにしたがってつぎつぎとスピード記録をのばし、1967年にX15号は時速7254キロメートルを出しました。
このXシリーズはあくまでもスピードに挑む特殊な飛行機の開発を目指すものですがふつうのジェット戦闘機もつぎつぎと音速の壁を破りはじめました。
まず、1953年、アメリカ空軍のノースアメリカンF100や海軍のダグラスF100がマッハ1以上のスピードを記録しその3年後の1956年には口ッキードF104、コンベアF106などがマッハ2を越えました。
また、1968年、福岡市の九州大学構内に墜落としたF4ファントムジェット戦闘機はマッハ3に近い高速が出せます。
また.アメリカはすでに、マッハ3.5で飛べるスパイ機A11型をもっています。
超音速輸送機の開発
輸送用大型機はまだ音速を越えるものはありませんが超音速輸送機(SST)の開発も急ピッチですすめられています。
イギリスとフランスの協同開発によるマッハ2.2のアングロ・フレンチトコンコード、アメリカで開発中のマッハ3のSST、ソ連が1968年に完成したと発表したTU144(マッハ2以上)などSST開発競争はますます激しくなりました。