エレクトロニクスが発展と応用とは? わかりやすく解説!

エレクトロニクスの発展は、つきるところを知らないかのようです。

たとえば、モーターのついている機械はかなりの音を立てるのがふつうです。
しかし、ソニーのマグネットダイオードのようなものをスイッチにすればまったく音のしないものができるはずです。

また、ビスマスとテルルの合金に微量の不純物をくわえた半導体を使うと動く部分も、音を出す都分も全くない冷凍装置ができます。

しかもこの場合、電流の方向を加えてやることで、逆に加熱装置にもかえられるのです。
一つの装置で冷やしたり温めたり、という正反対のはたらきが同時にできるこれはどう考えても不思議なようですがエレクトロニクスの利用はそんなことも可能にします。


電子レンジというものはすでに実用化されて、家庭用のものまで売られています。
これを使うと、肉や魚が何秒とか何十秒という短い時間で調理されてしまいます。

これはマグネトロンという特殊な真空管から発振される数千メガサイクルというたいへんな周波数をもった高周波を使うと肉や魚をつくっているいちばん基本的な単位である原子がものすごく揺さぶられそのときでる熱、つまり自分自身が出した熱で自分を料理してしまうということになるのです。

同じ原理で、木材など、なかなか乾燥しにくいものや乾燥がいちように行き渡りにくいものなども、短時間にまんべんなく乾燥させることができます。

太陽電池というものもかなりよく利用されはじめました。
これはホウ素をしみこませたケイ素のうすい板(これも半導体です)が肝心な装置なのですが、この板に太陽の光があたると光が電気にかわるしくみになっているのです。

1954年にアメリカのベル電話研究所で開発されたのが最初ですが日本でもかなり早くから実用化がすすめられ1958年には福島県の信夫山に建てられた無人超短波中継局の電源用に太陽電池が使われました。

これをはじめとして、あちこちの無人灯台などでも使われるようになりました。

アメリカやソ連の人工衛星も太陽電池を電源としていることはみなさんも知っているでしょう。

しかし、いっぱん用の太陽電池の生産は日本が世界一でたとえば、エジプトの砂漠のあちこちに立てられている灯標の電源にも日本の太陽電池が利用されています。

そのうちに、各家庭が屋根を太陽電池でふき自家発電に切り替えるような時代がくるかもしれません。

照明の世界にもエレクトロニクスは夢を運んでくれます。
たとえば、壁全体、天井全体を発光させるいわゆる面照明という新しい照明のしかたをエレクトロニクスは実現させてくれるのです。

これは硫化亜鉛をまぜた塗料を、壁や天井にぬっておきこれに電圧をかけると、ある一定の電圧以上になったとき全体が光りだすのです。

交流電圧をかけると、周波数をかえることによっていろいろな色の光を出させることもできます。




電子計算機・電卓の歴史とは? わかりやすく解説!

さて、電子計算機こそは、エレクトロニクスがうみだした最も偉大な産物といえるかもしれません。

計算には暗算・筆算、それにそろばんや手まわしの計算機を使うやり方などがあります。
しかし、そんな計算はたかがしれています。

20世紀の後半近くになってはじめて登場しその後、日進月歩の勢いで進歩、発展を続けている電子計算機の計算能力にくらべればまるで問題になりません。

電子計算機は数学の専門家が一生かかっても計算しきれないような計算でもおそらく何秒かのうちにやってのけるでしょう。


電子計算機がつくられるまえに電気計算機がうまれました。
それは基本的にはリレー(継電器)を利用したものです。

リレーというのは、電流を通したり切ったり、あるいは方向をかえることによって接点を開閉し、その接点につながるほかの回路の電流が流れたりきれたりする装置のことです。

このリレーをたくさんくみあわせて計算するのがリレー計算機です。
1944年に、アメリカのハーバード大学で世界最初の全自動電気計算機(マーク1型)が完成しました。

このリレーのかわりに真空管やトランジスタに抵抗・コンデンサーをくみあわせた回路を使うのが電子計算機なのです。

電気計算機と電子計算機では、計算のスピードがまるで違います。
たとえば、1946年にペンシルベニア大学で完成した世界最初の真空管式電子計算機(エニアック)はさきに述べた電気計算機より1500倍も計算スピードが速いのです。

しかしながら、この電子計算機も出来てから20年たたないうちにすでに過去のものとなり今日ではそれよりも何千倍も能力の勝る電子計算機ができています。

電子計算機の進歩はまったくすばらしいものだということができます。

さて、電子計算機の世界でも小型高性能化がすすめられています。
はじめのころは、全部、真空管式でしたから性能を高めようとすれば真空管の数を増やさなければなりません。

そうすると、装置全体がたいへん大きいものになるしまた真空管は故障しやすいため、たえず検査し、監視を続けなければなりません。

しかし、トランジスタが電子計算機の悩みをも解決してくれました。
今日の電子計算機は、ほとんど全部トランスジスタ式になり性能がすばらしい、小型のしかも安定したものになっています。

1958年、アメリカのテキサス=インストルメントという会社が集積回路(IC)というものを開発しました。

これは配線部分を印刷することにより卜ランジスタや抵抗を非常に小さい容積にまとめたものでたとえば米粒の大きさの中に卜ランジスタ20個、抵抗40個を詰め込むことができます。

この集積回路はラジオやテレビにも使われていますが電子計算機にくみこむことにより、小型化することができます。

アメリカ空軍は1961年、缶詰ほどの大きさの電子計算機をつくり人工衛星などに詰め込んでいます。



ところで、電子計算機はこのようにすばらしい進歩を続けていますがなんのためにそれほど計算のスピードを上げなければならないのでしょうか。

それは、科学技術の進歩、社会の進歩に伴って手にあまるような膨大な計算を必要とする問題や一瞬のうちに答えを出さなければならないような問題が非常に多くなったからです。

たとえば、ある惑星の軌道を決めるのに天文学者が昼も夜もついで計算して15年もかかったという例があります。

これでは、一生計算し続けてもなにほどのこともわからないわけです。
それが、いまの電子計算機を使えば、おそらく数分以内に答えがでてしまうでしょう。

もっと身近な例で、国勢調査・人口動態調査というのがあります。
日本のように人口の多いところになりますと総理府統計局のお役人さんがいくらがんばっても集計を終えるまでに3年も4年もかかります。

つまり、やっと国勢調査の結果がでたときには人口は調査結果とは全然ことなっていることになり。

つぎの調査をしなければならないときになって、やっとまえの調査結果がわかるということが、これまではやむを得ないこととされていました。

しかし、電子計算機を使えば、データをそろえるまでに年くらいはかかっても、何時間かのうちに結果を集計することができます。

事実、アメリカで電子計算機が発明されたのは国勢調査をできるだけはやくまとめたいという要求からです。

アメリカの大統領選挙でも、日本の衆・参議院の選挙でも電子計算機を使うのが、あたりまえになっています。

また国鉄のみどリの窓ロにいけば、列車っ座席のあるなしはたちどころにわかり、昔のようにいらいらしながら何時間も待つ必要はなくなりました。

これも、全国にはりめぐらした情報網を中央制御でする電子計算機を利用しているおかげです。

そのほか、複雑なレンズの設計、マンモスタンカー・超高層ビルの設計長期予報のための天気図の作製、銀行や大企業の事務管埋などにも電手計算機はいまや欠くことができないものになっています。

また、電子計算機は計算ばかりでなくたとえば、言葉の翻訳、さらには作詞で作曲の仕事までできるのでこの方面の仕事をさせるためのに開発しているものは電子頭脳とか、人工頭脳の名でよばれています。

電子計算機(コンピューター)は人間社会を夢の理想郷(コンピュートピア)にかえてくれるかもしれません。




テレビ・ラジオが発明、登場したのはいつ頃? わかりやすく解説!

エレクトロニクスはほとんどあらゆる科学・技術・産業応分野、また私たちの生活のすみずみまでも大なり小なりの関係をもっています。

ここでは、エレクトロニクスが主役となっている分野にかぎって話をすすめていくことにしましょう。


通信への利用

19世紀までの通信手段としては、1837年にモールスが発明した電信機、1876年にベルが発明し、エジソンによって改良された電話機、そして1895年にマルコーニとポポフがほとんど同時に発明した無線電信機などがありました。

このうち、無線通信は空中を伝わる電波を利用します。
しかし、はじめのころの無線通信は、電波が不安定で雑音も多く安定した無線通信ができませんでした。

さきにお話ししたように、1907年、ド・フォレストが三極真空管の開発に成功しました。

当初は、真空管には電波を検出する検波というはたらきと弱い電流を強い電流にする増幅というはたらきだけしかないと思われていましたが1913年ころには発信する作用もあるということがわかりました。

さらに振動数をかえる変調というはたらきをもたせることもできることがわかりました。
つまり、送信にも受信にも使用でき、しかも非常に安定した通信が可能になったのです。

まず、ラジオが登場しました。

1920年、アメリカのウェスティングハウス社がペンシルベニア州ビッツバーグにKDKA局を建てたのがはじまりです。

そのつぎの年、ニューヨークボクシングの試合をラジオ放送してたいへんな評判をとっだのがきっかけとなり、ラジオは急速に広まっていきます。

1924年には同じくアメリカのゼネラル=エレクトリック社がカリフォルニア州オークランドに建てたKGY局からの放送電波が太平洋をひとまたぎして日本の茨城県平磯にまでとどきました。

日本でも、1925年3月12日、東京放送局(NHKの前身)芝浦仮放送所からJOKAの第一声が流されました。

この日は「放送記念日」に指定されています。

つぎに登場するのはテレビです。

テレビを最初に発明したのはイギリスのジョン・ロギイ・ベアードということになっています(1925年)が今日のテレビとはまるで様子が違うものでした。

現在の方式のテレビ基礎は1933年にロシア生まれのアメリカの電気技術者ウラジミル・ツポリキンが撮像管(アイコノスコープ)を発明したとときにできました。



さて、ラジオやテレビは送信機も受信機もどんどん進歩します。
ことに受信機がトランジシスタ化、すなわち真空管のかわりにトランジスタをくみこむことによってたとえばラジオはポケットサイズ、テレビでは5インチのマイクロテレビといった具合に急速に小型化されました。

ポケットサイズのトランジスタラジオは1956年、5型のマイククロテレビは1956年いずれも日本(ソニー)が世界に先がけて発売しました。

集積回路というのを使うと、さらに小型化できます。

たとえば、タバコの箱の半分ほどの大きさしかないマイクロラジオはすでに市販されています。

テレビについては、もう本格的なカラー時代がきています。
さきにのべたイギリスのベアードは1944年赤・緑・青3色の蛍光体をハチの巣形にならべ3色のピラミッドのようにし、電子ビームを3方向からあてて色つきの像をつくる方法を発明していたのです。

このベアード方式に20万個もの細かい穴を開けたシャドーマスクというものをくみあわせたのがいまいちばん多く使われているカラーテレビ受像方式なのです。

ほかにもいろいろな方式がありますがアメリカでは今述べた方式(NTSC方式)を正式に採用、日本でもこれにならって、1956年12月にNHKがカラーの実験放送を開始(本放送開始は1960年9月)して以来民間放送各社もぞくぞくとカラー放送に踏み切りました。




日本のエレクトロニクスが進歩し始めたのはいつ頃?

日本の科学者・技術者たちは、エレクトロニクスの世界でどんな新しいものをうみだしたでしょうか。
ここでは、基礎的な分野でとくに著しい貢献をした、2、3の例を挙げておきましょう。

東京大学の後藤英一博士が1955年に発明したパラメトロンというのがあります。

これは、フェライト(酸化鉄に、いろいろな金属の酸化物を結合させたものでつくった環状の磁心を主体にし、これにコイルとコンデンサーをくみあわせたもの)これは増幅作用もありますし、記憶させることもできトランジスタと同じように電子計算機にも利用できます。


また、電話交換機や電信機、工業用制御機などにも広く利用されています。

つぎはエサキダイオードです。

これはソニーの研究員だった江崎玲於奈博士が1959年に発明したダイオードです。

ダイオードというのは、もともとは陰極とプレート(陽極)だけをもつ二極真空管にたいして名づけられた名前なのですがそれと同じはたらきをする半導体をもダイオードと呼ぶようになりました。

いろいろな種類のダイオードがあるのですがエサキダイオードは電圧をあげると、ふつうの場合とは逆に電流が流れにくくなるという特性(負性抵抗)をもっています。

ダイオードもトランジスタと同じように非常に純度の高い半導体(ゲルマニウムとかシリコン)を材料にしてつくります。

そこでふつうは純度を高くすることばかりに目を奪われるのですが江崎博土は逆に、不純物を多くしたらどんな結果がでるか実験してみたのです。

すると驚くべきことに、さきに述べた負性抵抗という特性があらわれたのです。

江崎博士は卜ンネル効果という理論を引用しました。
その説明はたいへん難しくなりますから、ここでは省きますが江崎博士の偉いところは、新しく見つかった減少にたいして立派な理論づけもしたということです。

トランジスタの発明者ショックリー博士もエサキダイオードをほめたたえていたということです。

その応用面ですが、非常に高速のスイッチ作用(回路を切ったりつないだりする作用)をもっていますので、電子計算機の論理回路や記憶回路にくみこむのがいちばんの利用面でしょう。



もう1つソニーの例をあげますが、1968年、山田敏之という29才の研究員がマグネット=ダイオードというすばらしい半導体の開発に成功しました。

これは磁気に感じるダイオード、すなわち磁界のかけかたでその中を通る電流の量を調節することができまた磁極の置き方で電流を流したりせき止めたりすることができるものです。

磁気に感じるダイオードはすでに1880年アメリカの物理学者ニドウィン・ハーバード・ホールが発明していますがソニーのマグネット=ダイオードはこれよりも1000倍も感度が良い上に非常に安くつくることができるということです。

ラジオ・テレビ・電気洗濯機・掃除機・冷蔵庫・ドライヤー・発電機にまで広く利用することができるでしょう。

最後に、松下電器産業の若い研究者グループが1968年に開発した感圧素子というのがあります。

これは圧力によって電流を調節できるダイオードです。
これも、機械的な接点のないスイッチご利用できますし重量計や血圧計、マイクロホンやピックアップにも使えるでしょう。

とにかく、最近ようやく日本のエレクトロニクスが世界のエレクトロニクスになりはじめたことをうなずかせる、うれしい発明の数々です。




トランジスタが登場したのはいつ頃? わかりやすく解説!

アメリカのベル電話研究所にいたすぐれた物理学者ウィリアム・ブラドフォード・ショックリーは1935年ごろから、結晶空管と同じような増幅作用をもたせることはできないだろうかということをひたすら考え続けていました。

すでに鉱石検波器(特殊な鉱石と金属あるいは鉱石と鉱石とを軽く接触させて高周波を整流する装置)というものがあり、真空管が実用化される以前のラジオ受信機(鉱石ラジオ受信機)に用いられていたのですからショックリーの狙いは、必ずしも的外れではなかったのです。


しかし、その前途は険しく、ベル研究所の膨大な投資、たくさんの優秀な研究員たちの努力があってしかもなお、実に15年という長い年月の末ショックリーのアイデアはようやく実をむすび最初のトランジスタ、いわゆる点接触型トランジスタがうまれたのです。(1948年)

点接触型トランジスタというのはデルマニウムの結晶の小片にホイスカー電極とよばれる細い金属の針を2本極めて接近させた位置に立てただけのものでした。

しかし、この結晶はたしかに真空管と同じように弱い電流を強くする増幅作用を持っていたのです。
ショックリー、そしてブラッテン・バーディンというふたりの協力者の見事な勝利でした。

残念なことに、この点接触型トランジスタはつくるのがたいへん難しいしショックに弱いという欠点がありました。

そこでショックリーらはさらに努力を続け1950年には点接触型の欠点をすべて取り除いたトランジスタ(電極の針を立てずに、ペースに層状に結合させたもの)をつくりあげることに成功しました。

トランジスタはこのようにアメリカでうまれたものです。

しかし、その実用化のめどがまだ立たないいうちにその技術を導入して、小型のトランジスタラジオをつくりあげたのは当時の東京通信機工業、いまのソニーです。(1955年)

トランジスタは、すばらしい利点を備えています。
しかも、その進歩はまるで留まるところを知りません。

たとえば、結合型をさらに改良したメサ・ランジスタそれよりもさらに安定したブレーナー・ランジスタそしていま話題の集積回路(IC)と、高密度集積回路(LSI)とまさに日進月歩の勢いです。




エレクトロニクスのはじまりはいつ頃? わかりやすく解説!

エレクトロニクス

エレクトロニクスという言葉は50年ほど前までは少なくとも一般の人たちにとってはあまり耳なれない言葉であったかと思われます。

しかし、今日では、それはほとんど全ての人になんの抵抗も感じさせない、いわばいっぱん的な言葉にかわってしまってはいないでしょうか。

とはいうものの、その内容は決して通り一遍のものではなく年とともにしだいにその幅と深みを増してゆくのですから「ああそんなことか」とかんたんに理解していただけるような性質のものではありません。

しかし、ラジオやテレビがエレクトロニクスの産物だと聞けば真空管やトランジスタを応用する世界なのだなとおぼろげながらわかったような気もするでしょう。

エレクトロニクスはふつう「電子装置とその応用に関する科学、技術の分野」であるとされています。

ここにいう電子装置とは、真空・ガス体あるいは半導体の中を電子が移動するときに生じるさまざまな特性を利用するもののことです。

そこで、エレクトロニクスは、電子工学とか電子技術と訳されています。

しかし、エレクトロニクスは、やはり電子という不思議なものの動きや物理的な性質を研究する分野です。

それはともかくとして、エレクトロニクスの発達はさまざまな意味で、いま世界を大きくかえようとしてます。


エレクトロニクスのはじまり

エレクトロニクースは、エレクトロン(電子)に関する学問およびその応用技術ですから、まず、電子の存在が確認されていなければなりません。

原子の中に電子があることは、1892年にオランダの物理学者ヘンドリック・ローレンツが唱えました。
実際に、電子の流れをつかんだのはイギリスのジョセフ・ジョン・トムソンです。(1897年)

その経緯はこうです。

まず、ドイツの技術者のガイスラーという人が2本の電極を入れた放電管の中で、真空放電をおこなわせることに成功したのですがこのとき、陰極からでる放射線に陰極線という名がつけられました。

トムソンは、この陰極線が電界や磁界によって曲げられるという事実からこれは負の電荷をもった微粒子、すなわち電子の流れであることをつきとめたのです。

ついで1904年、同じくイギリスのジョン・フレミングはガイスラー管を発展させて真空にした管の中に陽極と陰極を向い合せにした二極真空管をつくりました。

フレミングの真空管はかんたんな整流や検波にしか使えないものでした。

アメリカのド・フォレストは1907年陽極と陰極との間に制御格子(グリッド)をおくことにより、陽極・陰極間の電流を制御しまた増幅できる三極真空管を発明しました。

真空管は、まず有線電話通信(電話はすでに1876年、アメリカのアレキサンダー・グラハム・ベルによって発明されていました)の中継用に用いられましたがまもなく無線通信の世界で、さらに大きい活躍をすることになりました。

真空管は真空中における電子の動きを利用するものですからもちろん、エレクトロニクスの分野に属するものですがそれが20世紀のはじめにあらわれ、しかも実用化されているのですから思えばエレクトロニクスの歴史もずいぶんと古いものです。






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