万有引力の法則を発見したのはいつ頃? ニュートンってどんな人?

月が落ちないわけ

ニュートンは、月が落ちないのはどういうわけだろうと考えました。
地球上のものはガリレオが調べたように高いところからはなすとまっすぐ落ちてしまいます。

それなのに地球のまわりをまわっている月は、どうして落ちないのでしょう。


ニュートンがケンブリッジ大学を卒業して大学に残って研究を続けていた時代のことです。

ちょうどそのころ、イギリスではペストがひどく流行、大学が休校になりました。そこでニュートンは、故郷のウルズソープ村に帰りました。

月がなぜ落ちないか、という考えが浮かんだのは、そのころのことだったようです。

誰でも知っている、「ニュートンとリンゴの話」はこのときのニュートンの考えをわかりやすく説明するたとえ話です。

月がなぜ落ちないかという問題については、ほかの学者たちも、熱心に研究していました。

紀元前においてすら、海の潮の満ち干から月と太陽と地球との間に引力がはたらいいていると考えた人がいます。

しかし、当時は、力を及ぼし合うものはくっついていなければならないというアリストテレスの説があったので、この引力の考え方は太陽の神秘的な力という説にすりかえられました。

また、ケプラーも、太陽がほかの星に及ぼす力は距離に反比例すると考えていました。

ニュートンと同じ時代の学者、ロバート・フックも「地球と月あいだや、地上の物体どうしのあいだには、力がはたらいている。

その力は、お互いの距離の二乗に反比例すると考えてはどうか」と言い出していました。

このように、ニュートンよりも前に万有引力の考え方を発見した人はたくさんいましたがだれもその考え方を証明することができなかったのです。

ニュートンが、万有引力の法則を発見したと言われるのは彼が自分でつくりあげた徴分学・積分学などの数学を用いて万有引力の法則を証明したからです。

そして、科学の歴史の中でも、いちばんすばらしい本といわれる「プリンキピア」の中で、この考えを詳しく書きました。

ニュートンはまた、別の本に、この考えの土台になる点をつぎのようにわかりやすく説明しています。

下の図を見てみましょう。

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①は地球の山の頂上にいる人で、そこから、水平に物を投げてみましょう。物は、①②のように落ちていきます。

ところが、投げる速さが大きくなればなるほど、①③,①④のように遠くのほうまで行きつくことになります。

それならば、こんどはもっと速く投げてみたらどうでしょう。
きっと①から出て地球をひとまわりし、また①にもどることもあるに違いありません。

月が落ちないのはこういうわけだと、ニュートンはいうのです。
まことにうまい説明だというほかにありません。



科学革命の時代

このように立派な仕事をしたニュートンはその後、死ぬまで王立協会の会長をつとめ、科学をすすめるのに力をつくしました。

死ぬ少しまえにニュートンは、こんなことを言っています。

「私は、自分のことを浜辺で遊びながら、小石を拾っている子どもだと思っている。
ときには、滑らかな小石や、きれいな貝がらが見つかることもある。
しかし、真理という大きな海は、私の前にまだわからないものを、いっぱいに称えている」

このようにして、新しい科学の土台はできあがりました。
しかし、自然のものごとには、ガリレオやニュートンの研究したことよりもっと難しい、複雑な問題があります。

世の中がすすむにつれて、このような問題も調べていかなければならないようになってくるのです。
しかしそれには、ガリレオやニュートンたちの考えがそれまでのどんな町代の考えよりも、はるかに役立ちました。

ですから、この時代のことを科学の歴史では、最初の科学革命時代とよんでいるのです。




ニュートンの研究とは? わかりやすく解説!

ニュートンの時代

ガリレオやケプラーたちがはじめた新しい科学に
いっそうしっかりした土台を築いたのはイギリスのアイザク・ニュートンです。

ガリレオがなくなって1年ほど経ったころ
ニュートンはウルズソープという小さい村の自作農の家にうまれました。


そのころ、レオナルドやガリレオをうんだイタリアはもう科学を育てていく力を失くしていました。
ケプラーのいたドイツも、長い戦争で、ひどく弱りはてていました。
そして新しい科学は、新しく興ったイギリスやフランス・オランダのような国々で伸び伸びと、育ちはじめていたのです。

ことにイギリスでは、ニュートンの子どものころにクロムウェル革命がおこり、青年時代には議会政治がはじまりかけていました。

科学者たちは、こういう時代の新しい息吹の中でお互いに研究したことを語りあう集まりをつくるようになっていました。

その中でも「目立たぬ学会」という集まりにはそのころのいちばんすぐれた学者が参加していました。

この学会は、のちに「王立協会」という名前になり、今でも続いています。
ニュートンも、若いころから、その会員になっていました。



研究をまとめる

ニュートンが、反射望遠鏡をつくったり太陽の光が7つの色にわかれるのを発見したことは、よく知られています。
また、いま高校や大学で勉強することになっている徴分学・積分学という数学をはじめたのもニュートンでした。

そればかりではありません。ニュートンは、もっと大きな仕事をしました。

それは、天体でも地球上の物体でも、目に見える物体の運動にはどんな法則があるかということを明らかにしたことです。

また、このような物体の運動を調べるにはいつも万有引力という力を考えに入れなけばならないことをはっきりさせたことも、すぐれた仕事といってよいでしょう。

それまでにも、惑星の運動についてはケプラーの法則がありました。

地球上で、物体を落としたり、投げ合ったりするときその物体がどんな道筋を通るかということについてはガリレオの法則がありました。

また、オランダのクリスティアン・ホイヘンスは振り子の連動の法則について、詳しい研究をしていました。

このほか、空気や水の研究もすすんでいました。

フランスのブレーズ・パスカルたちは、気圧や水圧について、たくさんの研究を積み上げていました。

しかし、このようなさまざまのことがらを、1つの学問にまとめあげその土台にもっと広い、しっかりした法則を見つけ出すことはまだ、誰もやっていませんでした。

これをやり遂げたのが、ほかでもないニュートンだったのです。
ニュートンの研究が出来上がってはじめて、いろいろな自然のことがらの間にもちゃんとしたつながりのあることがわかったのです。




地動説について書いた天文対話とは? ケプラーってどんな人?

地動説をめぐって

ガリレオは、落体の法則を発見したころ地動説についてもこれが天動説よりも正しいことに、はっきり気がついたのです。

その少し前から、ガリレオはドイツのケプラーと親しく手紙のやり取りをしていました。
その手紙の中でも、このふたりの学者は、だいたい地動説に賛成していました。


ケプラー

ケプラーは、ドイツの天文学者です。
のちに火星の運動をよく調べケプラーの法則という天文学のうえで大切な法則を発見しました。

これは、地球や火星などの惑星が太陽のまわりをどのようにまわっているかを、明らかにした法則です。

コペルニクスの地動説では太陽のまわりをまわる惑星の道筋は、円であるといっています。

ところがケプラーは、どの惑星の道筋も円ではなく長円でありその長円の1つ焦点にあたるところが太陽だということを明らかにしたのです。

望遠鏡とガリレオ

ちょうどそのころガリレオは、オランダで望遠鏡が発明されたという知らせを聞きました。
そこで早速、自分でもこの道具をつくってみようと思いたちました。

そして、いろいろ苦心したあげく、かなり倍率の高い望遠鏡からはじめて天体を調べるのに、役立てたのです。

ガリレオは、この望遠鏡を使って「月には山や谷があること、木星にも4つの衛星(月)があること銀河はたくさんの恒星からできていること、太陽には黒点があること」などがづぎつぎに発見しました。

そして、こういう発見は、地動説には、都合がい証拠だと考えました。
木星に4つの衛星があることは、天動説では考えられもしなかったことでした。

天動説の学者に、ガリレオの発見を嘘だと決めて、こんなことを言いました。

「木星に月などない。そんなものは、望遠鏡という道具がつくりだしたものだ。ガリレオは、勝手にそんな月があると思い込んでいるだけなんだ」

ガリレオも、これには呆れ返ってしまいました。そして、こんな手紙を書いています。

「ケプラー君、僕は腹のそこから、笑いたくてしかたがありません。このあいだも、僕はある先生に、どうかわたしのつくった望遠鏡で月や惑星を覗いてみてくださいとお願いしました。そうしたら、嫌だというのです。君がいてくれたら、この大先生のことをいっしょに大笑いできるのですがね」

このように、そのころは望遠鏡で見えるものさえ、本当にされない世の中なのでした。



天文対話

ガリレオがいたパドバの街はベネチア共和国という、かなり自由な国にありました。
カトリック教会の勢いも、それほど強くはありませんでした。
ですから、ここにいるかぎりガリレオが新しい説を唱えても安全だったのです。

ところがガリレオは、昔の恩人の勧めでフィレッツェ公国にうつることになりました。
この国のカトリック教会は、大きな力を持っていました。
そのためにガリレオは、この国でたいへんな不幸を受けることになったのです。

フィレンツェに移ってまもなく、古い考えの学者や神父たちはガリレオが地動説の肩をもっていると言うので、一斉に悪口を言い始めました。

ガリレオをまた、相手の人々の間違いを直そうと遠慮せずに自分の考えを述べました。

しかし、なかなか納得してもらえないばかりか、騒ぎはますます大きくなるばかりでした。

こうなっては、カトリック教会を指図していたローマ法王庁も黙って見ているわけにいかなくなりました。

1616年法王庁はとうとう命令を出して、誰も地動説を唱えてはいけないということになりました。

そのうちに、兼ねてから親しい友人が法王になりました。
ガリレオは、今度は大丈夫と喜んで「天文対話」という書物を書きはじめました。

これは「新科学対話」と同じように3人の人が話し合うという形で書いたものです。

この本ができたのは、1632年でした。

書きあげるまでに6、7年もかかり、そのうえ法王庁で2年もかかって厳重に調べてもらって出したのです。

宗教裁判

「天文対話」には、表向きは天動説が正しいように書いてあります。
しかしよく読むと、地動説が正しいとわかるようになっているのです。
そのうえ法王が言った言葉を、そのまま占い学者の言葉として書いたところもあったのでした。

悪いことに、このことはすぐ見破られてしまいました。
そしてまもなく、ガリレオは宗教裁判所に訴えられてしまったのです。
続いて厳しい取り調べを受け、1633年には、最後の判決が下されました。

ガリレオは、教会の偉い人々や裁判官の前で、地動説は間違っているということをはっきり言わなければならなくなりました。

そのうえ「天文対話」は出せないことになり死ぬまで法王庁の見張りを受けることになったのです。

こうしてガリレオは、大勢の人の前でひざまずき地動説は間違っているという誓いをたてました。

しかし、そのとき立ち上がって「それでも地球は動いている」と言ったと伝えられています。

このように、ガリレオは古い考えに負けることになりましたが正しい科学をあとに残したい、という気持ちがあったことは確かです。




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