無線通信が進歩したのはいつ頃? わかりやすく解説!

無線通信の進歩

電信も電話も、針金を伝わる電流を利用したものです。
しかし、いくら便利だといっても、長い針金が必要です。
この長い針金がなくて通信ができたらどんなに便利でしょう。

マクスウェルやヘルツの電磁波の研究が完成すると人々はこの電磁波を使って通信することを考えるようになりました。

ロシアのボポフと、イタリアのマルローニはほとんど同じときに、電磁波で通信することに成功しました。

これは1895年のことです。


ブランリの発見

1890年、フランスのエドアール=ブランリは金属の粉が電気をどのように導くかを研究していたとき思いがけないことを発見しました。

その日ブランリはガラス管にニッケル粉を閉じ込めてそれに電流を通してニッケル粉が電流を通すかどうかを実験していました。

ニッケルは電気をよく通しますが粉にすると、電気抵抗が大きくなって電流を導きません。

ところが、そのとき偶然に、近くで電気火花を飛ばしたところそのガラス管は電気を自由に通すようになりました。
これは、電磁波のために、金属粉の性質がかわったのです。

ブランリは自分の研究をパリ科学アカデミーの雑誌に発表したとき電磁波と金属粉とのことは、わずかに5,6行書いただけでした。

イギリスのオリバ=ロッジはブランリの論文を読んだときこのわずかな文を見落とさないで「ブランリの実験のガラス管は、きっとヘルツの検波器として利用できるに違いない」と考えました。

そしてロッジは実際にガラス管をつくって実験をして、この管をコヒーラと名付けました。

ヘルツが電磁波を発見したとき、それを電気光線と呼びましたが電波が光線のように目に見えないということは、やっかいな問題でした。

そこでヘルツは目に見えない電波を目に見えるようにする検波器をつくったのでした。



ふたりの発明家の研究

ロッジの論文を読んだポポフは、早速コヒーラを無線電信に利用しようとしました。

ところが困ったことが1つありました。
電磁波を受けて電気を通すようになったコヒーラは指で叩かないと、もとにもどりません。

そこでポポフは、リレーと電れいとの作用を利用して電波がくるたびにコヒ-ラをもどす装置を考案しまた電磁波を捕えるアンテナを発明しました。

1895年ヘテルスブルク大学(現在のレニングラード大学)でポポフは無線電信の実験を公開しました。

そして1898年には、クロンスタットに無電局が建てられ軍艦アフリカ号の遭難を救うなどの手柄を立てたのでした。

ところがイタリアのマルコーニは、まったくの素人とでした。
しかし、ボローニャ大学教授リーギの指導を受けこれまでの学者の研北や発明をうまく結びつけてポポフとは別に、無線電信機を組立てました。

そして、イギリスの資本の助けをかりて、無線電信の遠距離通信に成功しました。
1897年には、マルコーニ無線電信会社をつくりました。
しかしマルコーニの無線通信はモールス符号と、火花放電による電波を使ったものでした。

この電波は放電の度に出て、しばらく続くだけで、すぐに弱まってしまいます。

そこで人々は同じ強さの電波を続けて出すことはできないものかと、いろいろ研究しました。

アメリカやドイツの技術者は、特別のアークや、高周波発電機を発明しました。
しかし、実際に役立つものをつくることは中々難しいことでした。

ところが、マルコーニ電信会社の技帥フレミングは昔、クレソンの相談を受けていたときに見た、不思議なことを思い出しました。

白熱電球の中に、1枚の金属板を閉じ込め、フィラメントを熱します。
そして板をフィラメントの陽極につなぐと、電流が流れるのです。
フィラメントの陰極と板を結んだのでは電流は流れません。

フレミングはこの理屈を応用して、1904年、二極真空管を発明しました。

それから2年後の1907年に、アメリカのド・フォレストはフレミングの二極真空管に格子(グリッド)を入れ、三極真空管を発明しました。

そして、この発明を境に、無線通信の新しい時代が開けてきました。




電話機が発明されたのはいつ頃? 電灯と発電機が発明されたのは?

電話機の発明

電信機では、符号だけしか送ることができません。
もし、話す声をそのまま相手に伝えることができたら、どんなに便利なことでしょう。
そこで、声を伝える器械をつくる研究がはじまりました。

1876年、アメリカのベルは、電話機をつくることに成功しました。
ベルの電話機は、つぎのようなしくみになっていました。

まず、発信側には1本の棒磁石があります。
1つのはしにはコイルがあり、別のはしの近くには、うすい鉄板があります。

この鉄板は、音によって振れ動きます。

すると、磁石のコイルに誘導電流がおこりこの電流の強さは、鉄板のふれ具合によってかわります。

つまり、音の強い・弱い・高い・低いによって、電流の大きさがかわるのです。
この電流によって、発信側とまったく同じしくみの受信側の鉄板がふれます。

この鉄板の振れが、受信側にいる人には、音声になって聞こえます。
ベルの電話機は、すぐにエジソンが改良しました。

エジソンは、送話器で、鉄板の振動を電流の強弱にかえるのに炭素の粒を使ったのです。
いまの電話機も、もとはベルの受話器とエジソンの送話器のくみ合わせからできているのです。


電灯の研究

抵抗の大きな導線に電流を流すと、導線は熱と光を出します。

「この光を、ろうそくやガス灯のかわりに使うことはできないものだろうか」
ということは、だれもが考えることです。

そこで、たくさんの電気学者や発明家たちが電灯の研究に取りかかりました。
ガラス球の中に導線を閉じ込め、電流を通じます。
導線の種類をいろいろにかえて、この実験を繰り返しました。

そして、溶けにくくてよく光る導線としては、白金や炭素棒がよいことがわかりました。

ところが空気中では、導線が長持ちしません。

そのころは、能率のよい真空ポンプができていたのでガラス球の中を真空にしてみました。
こうすると、導線は長いあいだ明るく輝きました。

このようにして、電灯の研究はだんだんすすんできました。
ところが、ここに困った問題がおこりました。

それは電気の源になる、電源です。

そのころはまだ、今日のような発電機がないので、電源には電池を使っていました。

ある学者は、自分の家の明かりの電源に、電池を使いました。
ところが、電池の亜鉛板を補うのに、月給を全部つぎこんでも足りません。

電灯が実用の時代に入ったのは、発電機が完成しエジソンが電灯を据え付けるのに必要なすべての設備を考えだしてからのことなのです。



発電機の発明

ファラデーが、誘導電流を発見してから
多くの発明家は、発電機をつくることに苦心しました。

磁気のあるところでコイルを動かせば、電流ができることはわかっています。
ところが、実際に大きな電流を取り出すことは、中々できませんでした。

ファラデーが誘導電流を発見してから40年くらい後のことです。
ドイツの電気技術者にジーメンスという人がいました。
彼は電信機をつくったり、電信線をひいたりする仕事をしていた技術者です。

電気のいろいろなことについて経験が深かったので
いままでの発電機のよくない点がすぐわかりました。

そこで、彼は苦心して、流れの大きさがかわらない電流を
ひき続け取り出せる発電機をつくりました。

電気事業がすすむ

発電機が発明され電灯も完成すると、電気の事業はどんどんすすんでいきました。
そして電気は、化学工業にも使われるようになったのです。

電気分解を利用して、めっき・アルミニウム・水酸化ナトリウムの製造などが
おこなわれるようになりました。

また、電動機がつくられ工場などで新しい動力として
さかんに使われるようになりました。

発電所も建てられました。
はじめのころは、火力発電で、発電所は都会の中央に集まっていましたが
そのうちに、水力タービンが発達し、水力発電が考えられるようになりました。

そして発電所は、都会から離れた山奥に建てられるようになりました。

都会では、たくさんの電気を使います。
そこで、どのようにして電気を遠く離れた都会へ送るかが、問題になってきます。
そのために交流でなるべく電圧を高くすると
電気を送りやすいことがわかり、電圧をかえる変圧器も発明されました。

1895年には、ナイアガラ瀑布に水力発電所が建てられました。
この年は、電力が動力として広く使われる、門出の年となりました。




電信機が誕生したのはいつ頃? モールスの電信機とは?

電信機の誕生

ライデン瓶に針金をつなぎます。すると電気は、針金を伝わって流れます。

200年ほど昔「長い針金を使えば、電流の流れる速さをはかれるだろう」と考えた学者がいました。

そこで、川や湖を越えて針金を張り、電流を流しました。
しかし、電流はあまりに速くて、どんなに針金を長くしてもその速さは、はかれませんでした。

でも、この仕事は無駄だったわけではありません。
これから「針金さえ張れば、遠くまで電気を運ぶことができる。

電気を使って通信ができはしないか」という考えがうまれたのです。


ゼンメリングの電信機

ゼンメリングという人は、水の泡を利用した電信機をつくりました。
これは、アルファベットの文宇の数だけ電線が張ってあります。
電線には、それぞれAの電線、Bの電線という具合に名前がつけてあります。

Aという文字を送ろうと思えば、Aの電線に電流を流します。
すると、Aの電線の受け取る側に、水の泡ができます。

この泡は、電流が水を分解するときにできるものです。
通信を受ける側では、どの電線に水の泡ができるかを読みとれば送られてきた文字がわかります。

五針電信機

1837年には、電流の磁気作用を使った電信機が、イギリスで発明されました。

この電信機には、5本の磁針が使ってあります。
そして磁針は、電流の向きによって、左右に振れるようになっています。

5つの磁針のうち、2つの磁針の振れが2つの信号としてくみ合わせるとアルファベットの文字を全部しめすことができるのです。
これは、5針電信機とよばれています。

磁針を使う電信機は、数十人の学者や発明家が、苦心してつくりあげたものです。
しかし、磁針の振れが速すぎて、読みとりにくいので、ほとんど実用になりませんでした。



モールスの電信機

実際に使うことのできる電信機をつくったのは、アメリカの若い画家、モールスです。
彼は電磁石を使って、もっとかんたんな電信機ができないものかと考えました。
電信機に電磁石を使うということは、専門の電気学者や技術者が考えもしなかったことです。

モールスは、早速通信機をつくる仕事にとりかかりました。
しかし思わぬところでつまずきました。

それは、磁石の動きを紙テープの上に記録するしくみ通信に使う符号、遠いところまで通信線をひくことなどです。

モールスは、貧乏と戦いながら、1837年、やっと電磁石を使った電信機を完成しました。
しかしこれは、まだ実際には役立ちませんでした。

実用に役立つ電信機をつくりあげたのは、それから10年くらいのものことです。
それから20~30年のあいだに、ヨーロッパやアメリカでこの電信機がどんどん使われるようになったのです。

海底の電信線

陸上に電信線がひかれると、こんどは、海底に電信線をひく仕事がはじまりました。

19世紀の中ごろのことです。

イギリスなどでは、工業が発達し、外国との商品の取り引きがさかんでした。
どうしても、海の向こうの外国と通信する必要ができてきたのです。

1857年から10年間に渡って大西洋横断の海底電信線をひく計画が6回も実行されました。
しかしこの計画は、どれも失敗に終わりました。

机の上で考えた理屈のようにはいかなかったのです。
長い電線が途中で切れたり、信号がうまく届かなかったりしたのです。

そこで、物理学者が海底電線をひく船に乗り込んで、いろいろ失敗の原因を調べました。

そして1867年に、やっと電線をひくことに成功しました。
それからは通信の技術も、すばらしくすすんだのです。




電磁誘導と電磁波が発見されたのはいつ頃? わかりやすく解説!

ファラデーの実験

ファラデーの先生は、いろいろな発見や発明をしたイギリスの有名な科学者ハンフリー・デービー卿です。

あるときデービーは「あなたがこれまでにされた、いちばん大きな発見はなんですか」とある人に訊かれたことがありました。

するとデービー卿は、いきなりマイケル・ファラデーと答えたそうです。

デービー卿にとっては、自分がおこなったどんな発見よりもファラデーという天才を見つけたのが、いちばん大きな発見だったのです。

ファラデーは、貧しい鍛冶屋にうまれました。
印刷屋や製本屋ではたらきながら、科学の勉強をしたのです。

後に、デービーの助手になり、当時設立されたばかりの王立研究所で科学のいろいろな実験をしました。
電気の実験をしていたのは、このころです。

ファラデーは1821年、つぎの2つを実験しようと思いました。
1つは、電流によっておこる磁針の振れを回転運動にかえることもう1つは、電流が流れている針金を磁石のまわりに回転させることです。

そして、いろいろな実験装置をつくって、苦心を重ねました。
ファラデーは、なんど失敗しても、ねばり強く10年も研究を続け、ついに重大な発見をしました。


ファラデーの大発見

1831年のある日のことでした。

ファラデーは、鉄の輪へ2組のコイルを巻きつけたものをつくりました。
そして、1組のコイルに電流を流したり切ったりしました。

すると、電流を通さないほうのコイルにも、電流が流れるのです。
このようなはたらきを、電磁誘導といいます。

ファラデーは、さらに実験をすすめました。
そしてつぎのような場合に電磁誘導で電流を取り出すことができることを明らかにしました。

  1. いっぽうのコイルに流れる電流を加えるとき
  2. いっぽうのコイルに電流を流し、2つのコイルを互いに動かすとき
  3. いっぽうのコイルを、磁石にたいして動かすとき

ファラデーのこのような発見から電流と磁気とのあいだにあるはたらきについて筋道の通った整った考えかたができるようになりました。

電気や磁気のはたらきが、石が落ちたり、物が滑ったりするはたらきとはまったく違うことが、はっきりしたのです。

彼はまた、摩擦でおこる電気も、ボルタの電たいの電気もみな同じ、電気だということを明らかにしました。
そして、自分の発見した法則を応用することはほかの人に任せつぎつぎに新しい研究をすすめました。

ファラデーの発見と、それからの研究は電気機械の非常に大切な原理になっております。

発電機の発明も、この電磁誘導の原理をもとにしてできたのです。



マクスウェルの予言

ファラデーは「電気を帯びたもののまわりや、磁石のまわりの空間は目には見えないが特別な様子をしている」と考えました。

そして、電気を帯びたもののまわりに「電場」磁石のまわりに「磁場」という名前をつけました。

まだファラデーは、電場や磁場を目に見えるようにするために力線というものを考えました。
しかしこの力線は、電気の研究にとってはわかりやすいのですが数学で言い表せるような、はっきりしたものではありません。

ファラデーの考えを押し進めてまとめあげたのはイギリスの物理学者マクスウェルです。
彼は力線のかわりに、数学の理屈を使って研究をすすめました。

そして、「電場や磁場は、波のように強さをかえながら、空間をすすむ。
私たちの日に見える光も、電場や磁場の動きと同じものだ。
光の速さと、電場や磁場の伝わる速さは、理屈の上では同じになる」と説明しました。

電磁波はある

マクスウェルが、電磁波の考えを発表してから十数年のちドイツのヘルツは、実験によって、電磁波が実際にあることを確かめました。

ヘルツは、コイルと小さな隙間のある針金の輪を用意しました。
そして、コイルと針金の輪を向い合せて、コイルに電流を通じ、火花を飛ばしました。

すると、針金の輪の隙間にも、火花が飛びました。

コイルと針金の輪のあいだには、電流を伝えるものはありませんから電磁波が
空間を伝わることは明らかです。

ヘルツはさらに実験をすすめ、電波が光と同じように反射や屈折などをおこすことも調べました。

また電波は、光と同じ性質をもっているが波長か光よりもはるかに長いことも明らかにしました。




電気が科学として研究されたのはいつ頃? わかりやすく解説!

磁石の謎

電気は、音や光のように、見たり聞いたりすることができないのでいまでも、気味悪く思う人がいます。
まして、昔の人にとって電気の研究といえば、たいへんな勇気がいることでした。

電気と人間との関係は、琥珀からはじまりました。
この宝石を、乾いた布でこすると、ちりのような軽いものを引き付けます。
鉱石の中には、こすらなくても鉄片を引き付けるものがあります。

これは磁鉄鉱です。

琥珀や磁鉄鉱が、ものを引き付けることは古代の人々にとって、たいへん不思議なことでした。
それでも、磁石が南北を指すことから、航海に使う羅針盤に利用していました。


電気手品

アメリカ大陸が発見され、貿易や航海がさかんになるころ昔からの琥珀や磁石の謎も、少しずつ溶けるようになりました。

いまからおよそ370年まえのことです。

イギリスのギルバートは、外国から来たいろいろなものを調べているうちに琥珀だけでなく、ほかにも物を引き付ける物があることを発見しました。
また、地球が1つの大きな磁石になっていることも、明らかにしました。

やがて、硫黄の球をまわし、電気をおこす器械(起電機)が発明されました。
またライデン瓶とよばれる、電気をたくわえるしくみも工夫されました。
電気に触れさせて、人や動物を驚かす、電気手品師という商売さえうまれました。

1752年、アメリカのフランクリンは、大きなたこを上げて雷を調べ「雷は電気の仕業である」ということをはっきりさせたのです。

そして彼は避雷針のしくみを発明しました。

科学の仲間入りをした電気

電気の奇妙な性質に心を奪われ、電気遊びをしていた時代が長く続きました。

そのうちに、紡績機械や蒸気機関が発明され18世紀の終わりには、イギリスに産業革命がおこって物体の力や熱を研究する学問が、急にすすみました。

そして電気の研究も、科学の仲間に入るときが来たのです。
それは、いまから、わずか180年ばかり前のことです。



電気の力をはかる

電気を帯びたもののあいだには、吸いつける力や、跳ね返す力がはたらきます。
科学の研究の第一歩は、電気が持っている、いろいろな性質を確かめることです。

そのつぎは、この力について、どのような関係がありどれほどの大きさがあるかをはかってみることです。

電気を、このように研究することができるようになったとき電気についての学問は、はじめて科学の仲間入りをすることができるのです。

電気を学問として研究する学者が、イギリスやフランスにあらわれてきました。
中でも、とくにすぐれた研究をしたのはフランスの土木技師、クーロンです。

クーロンは、電気の力を詳しくはかりました。

そして、「電気を持った物体どうしが引き付け合う力や、跳ね返す力はその物体のおのおのが持っている電気の量をかけ合わせたものに比例し物体同士の距離に反比例する。

これはニュートンの万有引力と、まったく同じ形であらわすことができる」
と発表しました。

これはクーロンの法則とよばれ、発見されたのは、1785年のことです。
クーロンはまだ、この法則が、磁気にもあてはまることを発見しました。

そのころフランスでは、大革命がはじまろうとしていました。
このような新しい時代の息吹の中で、電気の学問は、科学の仲間入りをしたのです。




電流と磁気との関係が研究されはじめたのはいつ頃?

カエルの実験

クーロンの法則が発見されたころ、医者のあいだには「電気を人体にあたえると、病気が治るのではないか」という考えかたがありました。

イタリアのガルバーニも、このような考えを持った医者でした。

ある日彼は、カエルを解剖していました。
メスをカエルの足に触れると、瞬間、足がびりびりと震えるのが目に止まりました。

よく注意して見ると、傍の起電機から、パチッパチッと火花が飛んでいます。

ガルバーニは、この不思議な出来事を、夢中になって、十数年も研究がされました。

そして、起電機がなくても、2種類の金属をつなぎ合わせた針金がカエルの足に触れると、びくびく動くことがわかりました。

ガルバーニは、カエルの体の中から動物電気がでたと考えました。
しかしこの考えは間違っていました。

それをはっきりさせたのは物理学者、ポルタです。


電たいの発明

ガルバーニが発見したのは、ごくわずかの電流でした。
ボルタは、ごくわずかの電流でも調べることのできるしくみをつくりました。

そしていろいろの実験をした後、2種類の違った金属を合わせただけで電流が流れることを発見しました。
カエルの体から、電流が出るのではありませんでした。

またボルタは、銀とすず、または銅と亜鉛をかわるがわるに積み重ねて電気をつくりだすしくみを発明しました。
このしくみでは、2つの金属の組み合わせのあいだいに塩水を浸した布をはさんであります。
こうすると、両はしの金属のあいだには、割合に大きな電流が流れるからです。

1799年、ボルタは、この電気をつくり出すしくみを発表しました。
これは、ボルタの電たいとよばれて、各国ですばらしい人気を集めました。

同じ強さで、たえまなく流れる電流をとり出すことに成功したことはそれからの電気の研究の進歩にとって、たいヘん大きな力となりました。

電流の磁気作用

19世紀はじめまで電気と磁気とは、関係がないと考えられていました。
ところが、デンマークの物理学者エールステッドに、その考えを打ち破りました。

1820年のある日、エールステッドは机の上で、針金に電流を通じるとそばに置いてあった磁石の針(磁針)が生き物のように触れ動くことを発見しました。

詳しく調べると、針金と磁針との距離が小さいほどまた、電流の強さが大きいほど、触れ方が大きくなることもわかりました。

エールステッドに続いて、ドイツのゼーベックなどが電流の磁気作用について研究をすすめました。



アンペールの研究

フランスの物理学者アンペールは、電流と磁気との関係を調べて電気についての学問の土台を築きました。

1820年、ニールステッドの報告をきいたアンペールはその実験を繰り返して1週間の後には、つぎのような法則にまとめあげました。

「もし人が、電流の方向に体を横たえ電流がその人の足から頭のほうに向かって流れていて、その人の顔を磁針のほうに向けているとすれば電流の作用は、磁針の北極の方を、その人の左手の方向に引っ張るようにはたらく」

アンペールはそれに続いて、電流の磁気作用とは反対に磁石が電流に作用するしかたを研究しました。

こうしてアンペールは、電流と磁石との関係をいろいろ実験して電流と磁石のあいだにはたらく力がニュートンの運動の法則で説明できることを明らかにしました。

そして、実験の結果をつぎのような法則にまとめあげました。

「2つの平行した針金に、電流が流れている場合電流の向きが同じなら、引っ張り合い、反対なら退け合う」

オームの研究と電磁石の発明

アンペールと並んで、すぐれた研究を残したのはドイツのゲオルク・シモン・オームでした。

オームは、電気の研究にとって大切な起電力(電圧)・電流の強さ・電気抵抗
などについての考えを、はっきりさせました。

これらのあいだの関係を研究してオームの法則を立てました。

続いて、イギリスのチャールズ・ホイートストンはオームの電気抵抗を正確にはかる方法を発見しました。

また、アメリカのジョーゼフ・ヘンリーに電信機のいちばん大切な部分である電磁石について、詳しく研究しました。

同じころ、イギリスにすばらしい実験の天才があらわれました。
それはマイケル・ファラデーです。




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