進化論をうんだ時代
進化論をあげたのは、イギリスのチャールズ・ダーウインです。
ダーウィンはビーグル号という軍艦に乗って世界をまわり、いろいろな生物を観察しました。
こうしているうちに、彼の頭の中には生物進化の考えが固まってきました。
産業革命を、どの国よりも早く成し遂げたイギリスは商業を世界中に広げていました。
そして、たくさんの商船を動かし、また、探検の船や軍艦を世界の各地に送りました。ビーグル号は、そのような軍艦の1つでした。
ですから、イギリスの産業と商業が、進化論をつくるもとになったともいえるのです。
ライエルの地質学の本も、ダーウィンの考えに大きな力をあたえています。
ビーグル号の航海で、ダーウィンは、体を壊してしまいました。
そこで、イギリスの田舎に帰り、家畜や作物が、どんなにかわっていくかを調べたのです。
選び出し
家畜や作物は、人間が適当なものを選び出しながら何代も育てていくと、ずいぶん違った生物ができてきます。
けれど自然界では、だれがそのような選び出しをするのでしょうか。
マルサスという人の「人口論」という本の中には、つぎのようなことが書いてあります。
「人口の増え方が大きいと、暮らしに必要な食べ物などが足りなくなって飢えや貧乏や戦争がおこり病気も増え、人口が減って、ちょうどよくなる」というのです。
実際、そのころのヨーロッパでは、こうした不幸なことがおこる心配がいつもありました。
ダーウィンは、それを自然界の生物と考え合わせてみました。
タラは1匹で150万から300万の卵を産みます。
しかし海はタラでいっぱいにはなりません。
多くのタラは、子どものうちに敵に襲われ少しのタラだけが生き残るのです。
この生き残るための競争を生存競争といいます。
これによって生物は、生き残るのに都合のよいものが選び出されるのです。
白然界でおこなわれている、このような選び出しは自然選択といってダーウィンの考えの中心になっています。
この考えをもとにすると、そのころまでの生物研究で集められたいろいろな事柄が、はっきり説明できるようになりました。
エダシャクトリムシは木の枝に似ていて敵に襲われることが少なかったので、生き残っているのです。
ビュフォンが、神様を褒め称えるために集めた材料はダーウィンの進化論にとって、都合のよいものばかりでした。
人間の祖先はサルの仲間
進化論はかんたんな生物が自然選択によっていまのように複雑な生物にかわってきたことを、教えてくれました。
これはキリスト教の教えとは、だいぶ違っています。
私たち人間もまた、サルの仲間から進化して、いまのようになったというのです。
そのころの人たちは、人間は神様に似せてつくられたと考えていました。
ですから「人間の祖先がサルの仲間であり、もっと遡れば爬虫類であり、アメーバの仲間だった」ということは、たいへんなことでした。
ところで、ダーウィンは進化論を「種の起原」という本にまとめました。
この本は、1859年に発表され、すばらしくよく売れ大勢の人々が進化論を受け入れるようになりました。
「種の起原」という本は、たくさんの事実をもとにして書いてあります。
それで、だれにでも、全くそうだと思わせるだけの力をもっていたのです。
こうなると、キリスト教の教会の人たちも、黙っていられなくなりました。
そこで、考えの古い学者といっしょになり、ダーウィンの考えに強く反対しました。
しかしダーウィンにも、味方がありました。
トーマス=ハックスリは、考えの古い人たちと激しく議論しました。
そして1860年のイギリス学術協会の集まりでハックスリはダーウィンの考えの正しさを述べ、進化論は勝利を治めました。
進化論と社会
ダーウィンの進化論は人間の考えかたを大きくかえました。
人間が特別なものでないことがはっきりすると神様が特別につくった偉い人というものもないことにあります。
うまれたときは、みんな同じ仲間なのです。
けれど、ダーウィンの時代には、資本主義が、最も栄えていました。
資本主義の世の中では、人々が激しい競争をしています。
勝った人は、すばらしい金持ちになり、負けた人は非常に貧乏になりました。
ダーウィンのいうように、生物に激しい生存競争があるなら人間の社会にも、このような生存競争があっても当たり前だという考えかたさえ、うまれてきました。
そんなふうに考えられるのは、ダーウィンの望んだことではありませんでした。
動物や植物の世界のできごとをそのまま、人間の社会に当てはめたり、人間の社会の出来事から動物や植物の世界のことを推し量ったりすることは、誤りなのです。