隔離説・純系説・突然変異脱・反復説・定向進化説とは?

そのほかの進化説

ダーウィンの学説が発表されるとイギリスの学会はもちろんのこといっぱんの社会にも、大きな影響をあたえました。

その後、イギリス以外の国では、自然選択説とは違ったいろいろな進化説があらわれてきました。


新ダーウィン説

ドイツのワイズマン(1834~1914)は、生物が生まれてから後にできた新しい体の性質は、子孫には伝わらないと考え、自然選択だけを進化の大事な原因と考えていました。

このような考えかたは、ダーウィンの進化説の一部をみとめ一部を捨てた考えかたであるために、新ダーウィン説とよばれています。

隔離説

ドイツのワグナー(1823~1887)ははじめ「生物が地理的に分け隔てられている(隔離)ことが自然選択を促す原因である」と考えていました。

しかし後には「生物が地理的に分け隔てられて、新しい集団をつくることだけが
進化のおもな原因である」と考えるようになりました。

オーストラリアなどのように、海でへだてられている場所にだけ見られる
カンガルーやフクロウサギなどのような
特別の生物が生まれてきた理由を証明するには、都合のよい説です。

しかし、大陸の複雑な生物については、この考えかただけでは証明することがでません。

純系説

オランダのヨハンセン(1857~1927)はインゲンを使って実験し、つぎのような結果をえました。

インゲンといっても、種の形や性質はいろいろあります。
ですから、ふつうに栽培すると、いろいろな種ができます。

しかし、たとえば重い種だけを選んで栽培を繰り返すとはじめのうちは、だんだん重い種になっていきます。
そのうちに、いくら努力しても、ある程度以上には重くなりません。

そこで彼は、このかわらなくなった性質を生物がもっていたもともとの性質と考え、これを純系とよびました。

そして「生物が、一時的にかわった性質や形をもったりして少しずつかわるということは、進化には関係がない」と考えました。

このようなことから、彼は「純系だけが子孫に伝わり、これが進化のもとになる」と説きました。

これを、ふつう、純系説とよんでいます。

突然変異脱

これは、オランダのド=フリース(1848~1935)によって唱えられました。

彼は、オオマツヨイグサやサトウダイコンなどについて人為選択の実験をしているうちに「生物には、まったく体つきの違うものが突然あらわれ、それが、子孫にまで伝わることがある」ということに気づきました。

そこで彼は「新しい種は、体の小さな変化が積み重なってできたものではない」と考えました。

そして進化は、突然にあらわれた変化(突然変異)のために起こるのだと考えました。
このような考えかたを、突然変異説とよんでいます。

この考えかたによれば、生活に都合のよい突然変異を受けたものは生存競争に打ち勝って生き残り、その変化は子孫に伝えられて新しい種を生み出すというのです。

これは、遺伝学の知識や成果をもとにしているものでこんにちの遺伝学の、大事な基礎になっています。



反復説

ド=フリースと同じころ、ドイツでは、いろいろな学者が進化についての考えかたを、発表しました。

なかでも、ヘッケル(1834~1919)は、ダーウィンの進化説を熱心に支持していろいろな生物の親類関係を、系統樹にあらわす仕事を続けていました。

そのうちに、彼は「生物の1つ1つの個体が成長していく道すじ(個体成長)はその生物の先祖から、現在までにかわってきた道すじ(系統発生)を繰り返してあらわれている」ことに気づきました。

進化について、ヘッケルのような考えかたを、反復説と呼んでいます。
この考えは、化石を古いものから順序正しくならべたとき途中の化石の記録が抜けているような場合、その変化を知ろうとするのにたいへん役立ちます。

また、その繰り返しかたにも、いろいろな例があります。
そのために、このような考えかたを否定している人もあります。

しかし、系統発生が、なんらかの形で個体発生に影響をあたえているという意味では、この考えかたは、充分に生きていると言えます。

定向進化説

ヘッケルに続いて、ドイツでは、コープ (1840~1897)・ワーゲン(1841~1900)、オーストリアではチッテル(1839~1904)などが、化石を材料にして生物の親類関係を明らかにすることにつとめていました。

とくにコープは、化石にある変化があらわれるとその方向にむかって、しだいに変化か強めていく性質があるということに気がつきました。

生物のこのような変化を、定向進化とよびました。

ゾウの牙や鼻が長くなったり、馬の4本の足指が、両はしからしだいに退化してついに1本になるといったような変化はいずれも定向進化によっておこなわれたと考えています。

この性質は、はじめは、生物の環境とは関係なしに生物の体の内部の原因によってだけあらわれる、と考えられていました。

しかし現在では環境とむすびつきながらあらわれると考えられており生物の進化をもたらす原因を考える場合には、大事な考えかたになっています。




ダーウィンとは?自然選択説とは? わかりやすく解説!

進化説の確立

進化説のあらましが、本当に築かれたのは、19世紀の中ごろになってからのことです。
イギリスのチャールズ=ダーウィン(1809~1882)が、1859年にあらわした。

有名な「種の起原」という本の中で、生物の進化のしくみや、理由を説明しています。
これではじめて、キュビエの天変地異説がくつがえされました。

そして、これから後、にわかに、進化についての研究が発展してきたのです。


ダーウィン

チャールズ=ダーウィンは、エジンバラ大学で医学を学んでましたが
まもなく、動物学に興味をもつようになりました。

その後、ケンブリッジ大学にすすんでからはヘソズロー教授の指導を受けて、博物学者としての道を選ぶようになったのです。

ダーウィンは、イギリス海軍のビーグル号に乗って世界各地を旅行し、生物や地質についての知識を深めながらついに「種の起原」の中で述べた進化説をまとめあげたのです。

ダーウィンと同じころ、イギリスには、地質学の元祖と考えられているチャールズ=ライエル(1797~1875)という人がいました。

彼は、たくさんの地層や化石を調べ、1830年に「地質学原理」という本をあらわし地質学の方面からキュビエの考えかたをくつがえした人です。

この「地質学原理」によると、地層の中にある化石は天変地異のためにできたのではなく、氷河や洪水や海水など自然のはたらきによって、たえず変化してできたと説明してあります。

ダーウィンは、このライエルと親しく手紙をやりとりしお互いの知識を交換していたと言われています。



自然選択説

ダーウィンは、生物の進化について、たくさんの証拠を集めました。
そればかりでなく、自分でも実際に、家畜のかけあわせを実験して、調べてみました。

そして、家畜にたくさんの種類があるのは人々が長いあいだに必要とする特徴のあるものを、選び出したためだと考えました。

このように、ある生物が人によって選び出されその生物が子孫を残していくことを、人為選択といいます。

ダーウィンは、たくさんの自然の生物を調べて、自然界の生物のあいだには人の手によらなくても、生物が生きていくための競争(生存競争)が行われその場所の環境に適したものだけが、生き伸びていく、ということに気がつきました。

このように、生物が自然の力によって選びだされることを、自然選択と言います。
この「選び出しによって生物が進化する」というのがダーウィンの進化説の中心になっています。

そのため、彼の進化説、自然選択説と呼ばれています。

たとえば、氷河時代に栄えたマンモスは、地球があたたかくなって環境や食べ物が変わったために、生きのびることができず
にわかに死に絶えてしまいました。

しかし、そのころの地球上に、ほそぼそと暮らしていた大むかしの人間は環境に適していたために、氷河時代が終わると生き残り栄えることができたというわけです。

ダーウィンの進化説には、さらに、つぎのような考えもふくまれています。
つまり生物が、生きているあいだに身につけた新しい特徴(獲得形質)はすべて子孫に伝わり、やがて新しい種をつくると考えていました。

ダーウィンと同じころの、イギリスの動物学者ウォーレス(1823~1913)はダーウィンとは別に、自然選択による、生物の進化に気づいていました。

しかし、彼は、獲得形質が子孫に伝わるとは、考えていませんでした。




ラマルクの進化説とは?ラマルクとキュビエの論争とは?

生物の進化について、まとまった考えを発表したのは、ラマルクがはじめてです。

彼の考えかたには、たくさんの欠点があります。
しかし、いまなお、この学説をもとにした進化説が見られるほど大切な内容をもったものです。


ラマルク

フランスの落ちぶれた貴族の家庭に生まれたラマルクは神学生から軍人になり、30才のころから勉強をはじめて、植物学者になりました。

やがて、無脊椎動物についても、研究をはじめました。
その後、パリ博物館ができたときに、そこの教授としてむかえられフランス学士院の会員にまで選ばれました。

ラマルクは、1809年に「動物哲学」という本をまた1815年には「無脊椎動物誌」という本を書いて、自分の進化説を発表しています。
それによると、生物の進化は、つぎのように説明されています。

「動物に新しい性質が加わるのは、動物がその性質を必要とするためである。動物が、ひとたび新しい性質をもつと、それは子孫に伝わっていく」

キリンの例を挙げてみましょう。

キリンは、草の少ない草原に住んで、高いところにある木の葉を食べます。
そのために、背のびをしたり首をのばしたりしなければなりません。

キリンが、このような生活を繰り返しているうちにその首がだんだん長くなり、いま私たちが見るような長い首になったのだというのです。

つまり、生物の体のしくみは、生物の生活に必要かどうかによってしだいに形や性質がかわっていくと考えています。

この学説を、用不用説(ラマルキズム)と言います。

ラマルクとキュビエの論争

ラマルクが進化説を発表したころ、フランスにはラセペート (1756~1825)やサンチレール(1773~1844)という生物学者がいました。

彼らは、ラマルクの考えかたを支持して、キュビエと激しく論争しました。
しかし、キュビエの考えかたは、覆されませんでした。

それは、サンチレールたちが、生物が進化するという考えかたをまだ充分にかためていなかったためです。

また、そのころの社会では、キリスト教が強い力をもっていて生物は神によってつくられたと説いていたことにもよります。

さらにキュビエが、パリ大学の総長という大事な役をつとめていたためでもあります。

しかし、この大論争を最後にしてキュビエのような考えかたは、しだいに消えていきました。




キュビエの天変地異説とは?リンネとビュツフォンとは?

むかしの人は、生物はすべて、神や自然の力によってつくられたものでいつまでもかわることはないと考えていました。

しかし科学がすすむにつれて生物は、長いあいだに少しずつ形をかえやがて、かんたんなものから複雑なものへと発達したくさんの種類にわかれていくと考えられるようになりました。


進化説のおこリ

物質が変化するということは、かなり古くから考えられていました。
しかし、生物が変化するというような考えかたがおこったのは18世紀中ごろのことです。

リンネの種

スウェーデンの博物学者リンネ(1707~1778)はその一生のあいだに、たくさんの動物や植物を調べこのことを1738年に「博物学」という、有名な書物にまとめました。

彼は、この本の中ではじめて、いろいろな生物の名前のつけかたを決め生物は性質のかわらないたくさんの種にわかれる、ということを述べています。

しかしリンネは、晩年になってから、生物をかけあわせると親とは違ったものができることに気がつきました。

そして、生物は、長いあいだにはかわっていくことがあるといように「博物学」を書き改めました。

ビュツフォン

フランスのパリにある王立植物園の園長をしていたビュツフォン(1707~1788)は化石や生物についておこなった一生の仕事をまとめ「博物誌」という44巻にわたる大きな本を書きました。

彼は、そのころ大きな力をもっていた教会の反対を恐れて生物の種類が違うのは神様の知恵によるものであると述べその力をほめたたえていました。

しかし、同じ種類の動物でも、住む土地によっていくぶん違うという進化説の大事な内容の一部となっていることがらには気がついていました。

そのため、ビュッフォンを、生物の進化説のうみの親とする人もあります。

そのころ、イギリスでも、生物の進化に気づいた学者がおりました。
それはエラスムス=ダーウィンで、チャールズ=ダーウィンのおじいさんにあたる人です。

エラスムス=ダーウィンは、医者でしたがたくさんの動物について調べたことをまとめて「動物誌」という本を書きました。

その本の中で、いろいろな動物の器官をくらべ、ヒトの腕と鳥の翼は相同器官で、どちらも、もとは同じものであったといい進化の考えかたにふれています。

この人たちの進化に対する考えかたは、のちにラマルク(1744~1829)によってはじめて進化説としてまとめあげられました。

しかし、そのころは、まだ「種はかわらない」と考える人々がたくさんあっていつも、激しい論争がおこなわれていました。

キュビエの天変地異説

フランスの学工院会員であったキュビエ(1769~1832)は脊椎動物の化石を研究し、すぐれた仕事を残しました。

しかし、彼は生物の種について「種はかわらない」というリンネのはじめの考えを、かたく信じこんでいました。

ただ、化石に見られる動物たちが、いま住んでいるものとはたいへん違っているとには気がつきました。
しかし、生物が進化してきたとは考えませんでした。

そのためキュビエは、大むかしにいくども神話にあるノアの洪水のような天変地災(自然の様子が急にかわること)が起こりそのたびに地上の生物が死に絶え、新しい生物がつくりかえられたのだと考えました。

これを、キュビニの天変地異説とよんでいます。

この考えによれば「生物の種はかわることがない」ということになり進化という考えは、まったく認められないことになります。




旧人・新人とは?日本の化石人とは? わかりやすく解説!

旧人

ネアンデルタール人は、おもに、ヨーロッパにいました。
現代人とは種類が違い、程度の低い人とされていて、旧人とも言われています。

ドイツのハイデルベルクの近くから発見されたハイデルベルク人の下あごは厚くて、かなり原始的な性質のものでした。

これは、ベルギーのスピードなどと同じ群のものと考えられ保守型のネアンデルタール人とよばれています。

フランスに多く、ハンガリー・イタリア・ジブラルタルなどからも見つかっています。

これに対する進歩型のネアンデルタール人にはスワンスコンブ人、ユーゴスラビアのクラピナ人、ドイツのエーリングスドルフ人などがあります。

旧人にはこのほかに、ジャワのソロー人、南アフリカのローデシア人、北中国のオルドス人などがあります。

旧人の特徴は、背が低く、少し猫背で曲がっており下あごにおとがいがなく、頭蓋骨も低いほうです。

現代人のように、知恵の進んだものではありませんでした。
おそらく、ジャワ原人からソロー人へ、アフリカ原人からローデシア人へペキン原人からオルドス人へ、というように進化したと思われます。

旧大の滅びた原因は、よくわかりません。

新人に滅ぼされたとも言われまた、新人とまじりあってしまったとも言われています。


新人

現代人、つまり私たちのことです。
ヨーロッパには、クロマニョン人・シャンスレード人・グリマルジ人の3つの人種があります。

クロマニヨン人は、白人の祖先とされています。
フランスのドルドーニュ地方の洞窟や、スペインのアルタミラの洞窟などに絵を描いたり、彫刻を残したりしています。

イギリス・モナコ・ユーゴスラビアなどからも見つかっています。

シベリアのイルクーツク人や、ペキン原人と同じく周口店で発見された上洞人
中区束北地方のジャライノール人も、みな新人です。

周口店の上洞人は、蒙古人(モンゴル)・エスキモー人・メラネシア人のような性質をもっていました。

現在、世界各地で見られる人種は、新人の生まれたころからあったようです。
髪の毛・目・皮膚の色などの違いは、遺伝的なもので混血するとまじってしまいます。

したがって、現在地球上にいる人類はみな同じ種類の新人にぞくするもので学名では、ホモ=サピエンスといいます。

日本の化石人

日本にも、洪積世に入ってから人類がやってきました。
その化石は、あちこちで見つかっています。

兵庫県明石の西で発見された明石人は、腰の骨の化石です。
これは、第二次大戦のとき、焼けてしまいました。

栃木県葛生の洞窟からでた葛生人や静岡県三ヶ日町の洞窟から発見された三ヶ日人・只木人などは頭骨や手足の骨の一部です。

これらは、旧人なのか新人なのか、資料が不完全でよくわかりません。

洪積世の最後の氷期のころには、日本にもあちこちに人類がいて活動していました。

彼らは、旧石器をたくさん残しています。前縄文時代の石器が、それです。
しかし、これらの道具を残した人間の確かな化石は、まだ発見されていません。



頭が短くなる人類

新人を通じて見られる進化の傾向は、頭蓋骨が、しだいに短くなっていくことです。
頭蓋骨を上から見て、長さと幅の比を調べます。
これは、人種により、また地方や時代によって違い、かんたんには言えません。

しかし、だいたいの傾向として頭蓋骨の幅にくらべて長さの短い短頭型が増えてくると言われています。

この原因は、まったくわかっていません。

環境との関係はないようです。
そこでワイデンライヒという人は、人類が短頭化するということを例にして生物の特殊化は外界の環境とは無関係に生じる、ということまでいっています。

人類だけでなく、生物を通じて言えることは、より高等に進化した仲間はあまり特殊化の進まない親類から生まれたということです。

人間は、ゴリラから進化してきたのではなくゴリラよりも特殊化のすすまない、類人猿から進化してきたのです。

人類の特殊化は言うまでもなく脳髄の大発達と後足で立って歩き手を自由に使うことです。

環境に影響されない生物はありませんが人類は環境を科学的に変え、生活しやすいようにします。

しかし、人類が自分でつくりだした環境に影響されています。

人囗が増えることと戦争でたくさんの人が死ぬことなどはその1つと考えなければならないことです。




原人の世界とは?ジャワ原人・ペキン原人・アフリカ原人とは?

ジャワ原人

1891年、東南ジャワのトリニルにあるソロー川のほとりでジュボアは洪積世中ごろの地層から、たくさんの獣の化石といっしょに原人の頭蓋骨と大腿骨を発見しました。

この原人は、骨の形から考えると、立って歩いていたと考えられました。
そこで、ピテカントロプス=エレクトス(直立猿人)という学名がつけられたのです。


ペキン原人

1921年7月、スウェーデンのアンダーソンとズダンスキーは中国で獣の化石を研究していて、ペキンの南西にある周口店を訪れました。

ここは、セッカイ岩の石切り場のあるところです。
アンダーソンは、そこにあるたくさんの洞窟の1つで、石器のかけらを見つけました。

これがペキン原人発見の手がかりになりました。

それから、アメリカのブラックが中心となって発掘しました。
大勢の人夫を使い1927年には、8800立方メートルもの岩石を取り出しその中から、たくさんの獣の化石といっしょに原人の化石を発見しました。

これは、シナントロプス=ベキネンシスと名付けられました。
また、1929年に、裴文仲が、原人の頭蓋骨を発見しました。

こうして、1937年までに見つかった原人の化石は頭骨14人ぶん、下あご12人ぶん、歯は全部で147個で32人ぶんありました。
男のも女のも、子どものもありました。

原始的な人類が、一か所からこんなにたくさん見つかったのは、はじめてでした。

ペキン原人の頭蓋骨を調べてみましょう。
後ろから見ると低い五角形で、現代人の高い七角形と区別されます。
目の上には、左右にはしる高まりがあり、大きさはゴリラと現代人の中間ぐらいです。



歯は、つきでて現代人のとくらべるとやや大きく、犬歯が少しとがっています。

ペキン原人のいた100万年ぐらいまえの中国にはサイ・ハイエナ・サーベルトラ・オオツノジカ・ナウマゾソウ・クマ・スイギュウなどが、たくさんいました。

原人は、これらの動物を狩りしたりして生活していました。
周口店の洞窟には、原人が使った石器や、灰が見つかっています。

なお、これらのペキン原人の資料は、第二次大戦中に失われてしまいました。
そこで中国では戦後、ふたたび周口店の発掘をはじめいくつかの原人の化石を発見することができました。

1953年、シャンシー省の洪積層から、原人の化石が見つかりました。
これは、ペキン原人にあたるものとされています。

また1957年に、中国のチャンヤンで発見されたチャンヤン人はペキン原人と現代人の中間のものとされました。

さらに、カントン省のマーパの洞窟から見つかったマーバ人はペキン原人とネアンデルタール人の中間のものと考えられています。

アフリカ原人

アフリカからも、原人の化石が発見されています。

北アフリカのモロッコからは、アトラントロプスの下あごが東アフリカのタンガエーカ湖付近からはアフリカントロプスの頭蓋骨が見つかっています。

これらの原人たちから現代人にまで進化した中間の人類の化石もあちこちで発見されています。




人間の進化とは?猿人・類人猿とは? わかりやすく解説!

人類の故郷アフリカ

人間が、地球上にはじめてあらわれたのはどの地方かということは、大切な、しかもおもしろい問題でした。

ある人は中央アジアだろうといい、またある人は東南アジアだろうと言いました。
人間にいちばん近い類人猿は、チンパンジー・ゴリラ・オランウータンです。

いずれも、アフリカと東南アジアの、熱帯のジャングルに生活しています。
こうした地方が、人間の故郷ではないか、という人もありました。

人類の化石で、もっとも早く知られたのは1856年にドイツのネアンデルタールで発見された、頭蓋骨と、2、3の骨のかけらです。
これは、ふつうの人間の頭蓋骨とは形が違い、そのころの学者は多いに議論しました。

しかしその後、ダーウィンの進化説が打ち立てられネアソデルタールの化石は現代人とは違う人類の化石であろうという学者が多くなり、ネアンデルタール人と名付けられました。

1891年、オランダのジェボアが、ジャワで発見したジャワ原人はそのころは、もっとも原始的な人類とされていました。

しかし20世紀になってから、南アフリカで、原始的な人類がたくさん発見され人類の故郷は、アフリカであることが確かめられました。


猿人

ゴリラやチンパンジーは、特殊化が進んだ類人猿です。
人類が生まれてきたような特別の仲間は、もう少し原始的なサルだろうとされています。

東南アフリカにあるビクトリア湖の第三紀後期の地層から発見されたプロコンサルという小さなサルが、それにあたります。

1947年、南アフリカで発見されたオーストラロピテクスは頭蓋骨の大きさが
類人猿と人類の中間ぐらいです。

火を使い、狩りをしてくらしていたと思われます。

これらは、いずれも、サルのような性質と人類のような性質とを持っておりサルに似た人間という意味で、猿人と言われています。

猿人は、ジャングルから出て2本の足で歩くようになり武器を使って狩りもするようになりました。

2本足で歩くということと手を使うということは、人間の進化にとって大切なことです。

手を使いはじめてから、人間は火を使うようになりました。
この地球上で、人間のほかに火を使う動物はおりません。



巨大な類人猿

第四紀の洪秋世に入ってから非常に大きなあごをもつ、大型の類人猿があらわれました。

中国南部にいたブラック巨猿がこれです。その臼歯は、ゴリラの2倍、人の6倍もあります。

洪積世の中ごろ、ブラック巨猿に似た原始的な人間があらわれました。
その化石は、ジャワ原人といっしょに発見され、メガントロプスと言います。

ゴリラぐらいの大きさで、ジャワの巨人と呼ばれています。
またこれに似たものが、アフリカのタンガニーカ湖の近くからも発見されました。

動物では、あごが発達すると、頭蓋骨が発達できなくなります。
現代人は、あごが退化し、歯が弱く小さくなりました。

人類は、頭蓋骨が発達して、歯やあごが退化するような特殊化をしてきました。




動物の進化とは?脊椎動物の進化の様子とは?

魚類時代

東アフリカの沖で発見された魚のシーラカンスは生きている化石として有名です。
この魚は、のどが発達した魚でえら呼吸のほかに、浮き袋で呼吸をしていました。

いまの魚と違うのは皮膚が硬い殻で覆われており、骨もん軟骨でできていることです。

古生代のデボン紀には、この魚の仲間がたくさんいたのでとくにこのデボン紀を魚類時代とも言います。


両せい類時代

シーラカンスの仲間から進化したものに堅頭類があります。
デボン紀のころの気候は、温暖で雨期と乾期があり、淡水に住んでいた魚が長い乾期を肺呼吸によって生活していたと考えられます。

そして、やがて上陸して空気呼吸をおこなう動物があらわれました。これが両せい類です。

堅頭類は両せい類の一種で古生代の石炭紀から二畳紀に栄えたものです。
そこで、この時代を両せい類時代と呼ぶこともあります。

は虫類時代

古生化の末からあらわれたは虫類は中生代になると種顛も多く、いろいろかわったものがあらわれました。

なかでも恐屯は、たいへん栄え、中生代をは虫類時代と言うこともあります。

全長25メートルにもなったディプロドクスの類は、ジュラ紀から白亜紀にかけて栄え、湖・沼などに潜って、水草を食べていました。
北アメリカ・アジア大陸・ヨーロッパ・アフリカなどにいました。

こうした大型のは虫類を襲った肉食性の猛竜にカンガルーのように後足で走っていた、大型のチラノサウルスの一群がありました。

この強くて荒々しい猛竜との生存競争に負けないためにいろいろな武装をしたは虫類もでてきました。

ステゴザウルスは、背に大きい板のような骨がならんでおりトリケラトプスは、頭にサイのような大きな角をもっていました。

また、全身よろいで固めたようなノドザウルス、後ろ足が発達して、非常に速く走ったイグアノドン、口ばしや水かきやかんむりがあってアヒルのように泳いだトラコドンなどがあります。

このように、は虫類は、中生代の世界を支配していましたが大きなものが多く、お互いの生存競争が激しかったことも、1つの特徴です。

ほ乳類時代

中生代に栄えた大型のは虫類も、中生代の白亜紀末には、みな絶滅してしまいました。

中生代の中ごろからあらわれたほ乳類は新生代になるとたくさんの種類となり、全盛を極めました。

鳥の進化

鳥の祖先に近いような始祖鳥(アーケオプテリクス)はジュラ紀のドイツにいました。

カラスぐらいの大きさの鳥で、口ばしには歯があり翼に3本の指を持ち、長い尾に1本ずつ生えた羽根はたたむことができません。

頭の骨も、は虫類によく似ています。

これらの性質から見て、始祖鳥は、は虫類にたいへん近く鳥類が、は虫類から進化してきたことをしめしています。

口ばしに歯があることは鳥として原始的な特徴ですが始祖鳥は、こうした特徴をたくさんもっています。

ゾウの進化

ゾウの仲間は、古第三紀の終わりごろヒツジぐらいの大きさのヒオミアから進化しました。これは、牙も小さく、鼻も長くありません。

新第三紀になると、マストドンの類が栄えインドゾウやアフリカゾウなどの本当のゾウの仲間は新第三紀の後期になってからあらわれました。

こうしたゾウ類は、1つの歯がしだいに大きくなり複雑になっていったこと、歯の数がしだいに減っていったこと牙が長くなっていったこと、鼻が長くなっていったことまた、体全体が大きくなっていったことなど、進化する方向が決まっていました。

このような進化のしかた定向進化といいます。



馬の進化

馬は、北アメリカの古第三紀の中ごろにいたキツネぐらいの大きさのエオヒップスが祖先です。

はじめは4本指で、頭も、いまの馬のように細長くありませんでした。
そして、新第三紀のメリキヒップスは、ヒツジぐらの大きさにすぎませんでした。

このころから、ウマの種類も多くなり北アメリカのほかにアジアやヨーロッパへもわたっていきました。このころの馬は、みな2本指です。

いまの馬やロバ・シマウマなどは、200万年ぐらいまえからあらわれたもので1本指となり、体格もより大きくなりました。
南アメリカやアフリカにまでわたったのです。

馬の進化について言えることは、時代が進むにつれて種類が増えること、体が大きくなること、指の数が減ること臼歯が高い柱のような形になっていくことなどです。

爆発的進化

1つの系統樹が生まれると、はじめは、さまざまの違った枝がわかれでますが根に近いほうで、急に多くの枝がわかれます。

このような進化を、爆発的進化といって多くの生物に見られます。
ボウスイチュウでもサンヨウチュウでも、魚類やは虫類、ほ乳類でもこうした進化をしました。

ほ乳類は、第三紀のはじめに、爆発的進化をしますがこのとき、モグラ類・コウモリ類・サル類・アリクイ類・ウサギ類・ネズミ類・クジラ類・イヌやネコ類・ゾウ類・カイギュウ類・ウマやサイ類・ウシやシカ類などがわかれでたのです。

滅びる生物

どんなに栄えた生物でも、滅びるときがくるようです。
たとえば、マンモスとか、中生代の、は虫類などはそのよい例です。

は虫類は、中生代の末に、地球上からいっせいに姿を消しました。
そのころ、植物の世界にも大きな変化があって裸子植物にかわって被子植物が増えてきました。

こうした植物の変化が植物を食用にしていたは虫類に影響をあたえたと考えられています。

しかし、これらのは虫類が、なぜ滅びたかというほんとうの原因はまだよくわかっていません。




動物の進化とは?無脊椎動物の進化の特徴とは?

体の変化

古生代に入ると、硬い殻をもつ無脊椎動物が、急に増えてきました。
有こう虫などの原生動物、エビ・カニ・昆虫・クモ・サンヨウチュウなどの節足動物、ウニ・ナマコ・ヒトデ・ウミユリなどの棘皮動物はすべて、古生代前期に、急に栄えました。

このように古生代は、いろいろな無脊椎動物の栄えた時代です。
これらの動物は、それぞれ特徴のある体のつくりや生活のしかたをしていてお互いの関係がわかりません。

気管で呼吸する陸上の無脊椎動物は、古生代中期のサソリ類が最初で植物が陸上にあがるのといっしょでした。

シダ植物などの花の咲かない植物が大森林をつくった古生代後期(石炭紀)のころから、昆虫類も栄えはじめました。

カゲロウやトンボの類は、石炭紀のはじめのころからあらわれました。

カブトムシの仲間は、古生代の終わりごろからチョウの仲間は新生代第三紀になってからあらわれました。


長命な群と短命な群

生物の仲間によっては、その系統樹全体がうまれてから滅びるまでの時間の長いものと短いものとがあります。

つまり、長命な群と短命な群とがあるわけです。
シャミセソ貝の類は、古生代の初期から現代まで続いていて、長命な群です。
日本近海にいるオキナエビス類の貝や、カブトガニなどもそうです。

こうした古い時代の様子を伝える生物は、生きている化石と言われています。
これにたいし、サンヨウチュウや、中生代のアンモナイトなどは短命な群にあたります。

短命な群の化石は示準化石となり、地層の研究に大切なものとされています。

アンモナイトの各種類も、かなり短命なものですがそのわりには化石が世界的に広く分布しています。




植物の進化とは?胞子から種子への進化とは? わかりやすく解説!

植物のはじめ

いちばんはじめに原始生物から植物にわかれてきたものは、そう類と考えられています。
そう類は体が原始的なつくりで、水の中にも適した暮らしかたをしています。


そう類のうちでも、らんそう類は、もっとも原始的なものと言えます。
らんそう類の化石は、古生代のはじめにあり、植物でもっとも古いものと言えます。

しかし、植物は、べん毛そう類からいろいろなものに進化してきたと考える学者もいます。

べん毛そう類は葉緑素をもち、光のエネルギーを利用して光合成をおこない養分をつくるということで植物らしくなったともいえます。

このべん毛そう類から進化してきたと考えられているものにけいそう類と緑そう類とがあります。

けいそう類は中生代のジュラ紀の地層や古生代中期の地層に緑そう類の仲間のせっかいそう類は先カンブリア代後期や古生代前期の地層の中から発見されています。

海の浅いところに生えている緑そう類の仲間には潮の満ち干などで一時水がなくなっても、平気でいられるものがあらわれやがて陸にのぼってくるようになりました。

これがコケ類です。

コケ類のうち、ゼニゴケなどは緑そう類がやっと陸上にはいあがったような形をしていますが細胞の層がずっと厚くなり、乾燥に耐えるようなつくりになっています。

陸にのぼったコケ類は、水中の生活と縁を切ったわけでなくコケがうまく水で覆われたときに精子が泳いできて卵といっしょになります。

これなどは、まだ水中生活のなごりと言えます。



シダ植物時代

シルル紀の終わりごろシダ植物の仲間でもっともかんたんな体のつくりをしたプシロフィトンがあらわれました。

プシロフィトンは、地中をはった茎から棒のような茎がまっすぐに立った体で葉はありません。

デボン紀になると、いまのヒカゲノカズラ類に近いシダ類があらわれました。
さらにつぎの石炭紀になると、フウインボク・リンボク・ロボクなどのような高さ30メートルにもなる大きなシダが、大森林をつくりました。

しかし、これらシダ類は、中生代になるとほとんど見られなくなりました。
シダ類は胞子をつくって増えます。

胞子は葉の裏にでき、落ちて前葉体になりこの前葉体が大きくなり水で覆われたときに精子が卵細胞のところに泳いでいって受精します。

裸子植物時代

大きいシダ類が林になっているころ、その中に種子のできる種類があらわれてきました。

また、石炭紀になると、いちばん最初の裸子植物だといわれるコルダイテスが生え続いてイチョウがしげってきました。

そして、つぎの二じょう紀になると裸子植物がだんだん進化し種類も多くなり中生代に入ると森林のおもな植物は、みな裸子植物になりました。
裸子植物には、ソテツ・イチョウ・マツ類などがあります。

裸子植物の配偶体は、木にできます。

ソテツやイチョウは、おすとめすの木が別で、おすの木の花粉がめすの木のめ花に飛んでいって受精します。

被子植物時代

いま地球上で、もっとも栄えている被子植物は中生代のジュラ紀の終わりごにろあらわれ、だんだん種類が多くなったのでしょう。

これは、体のつくりが環境によくあうようになったことと裸子植物と違って子房が胚珠に包まれており自然から保護できるようになっているためです。

被子柚物には単子葉類と双子葉類とがありますがどちらが古いかということははっきり言えません。

しかし、いろいろな性質をくらべてみると単子葉類のほうが双子葉類より進化しているといえます。




下等生物の進化とは?生物のあいだのつながりとは?

植物と動物

動物は、動物や植物を食べて生きていますが植物は、地中の無機物を養分とし
また、葉緑素をもつ緑色植物は日光の力を借りて光合成をしながら生活しています。

植物の細胞は変形菌やべん毛そう類のほかはセルロース質の厚い細胞膜を持っています。
しかし動物には、このようなものがなく、アメーバなどの原生動物では細胞が自由に動くことができます。

細菌は、らんそう類とともに、原形質と細胞膜はありますが核はありません。
また、最近は運動しますが生活の様子は下等生物と似たところがあります。

単細胞の原生動物のうち、べん毛虫類は、べん毛で運動しますがミドリムシのように葉緑素をもったものもあり動物と植物との境のものとされています。

同じ原生助物のアメーバは核をもっていてこれから多細胞動物が進化してきたものとされています。
これにたいして多細胞植物は、らんそう類のような単細胞の下等生物からわかれてきたようです。

このように、多細胞生物に進化したもとの単細胞生物も、いろいろな種類があります。
これらの単細胞生物の群が原ビールスから進化するには長い時間を必要としました。


生物のあいだのつながり

単細胞生物と多細胞生物、植物と動物、原生動物と細菌やらんそう類・べん毛虫類などをそれぞれくらべて体のつくりや生活のかんたんなものから複雑なものへと関係づけてならべると下等な生物のあいだにつながりのあることがわかります。

そして、はじめはかんたんなものからしだいに複雑なものへ進化してきたと思われるのです。

このことは、化石で知ることはできませんが現在生きている生物をくわしく調べその比較研究から、わかってきました。

細菌は、体が2つにわかれて増えていきます。
単細胞生物の多くは、このような増えかたをします。

多細胞生物が地球上にあらわれたのは、生物の進化にとって大切なことがらでおすとめすができたのも、それから後のことです。

下等植物には、日光の力で光合成をしているそう類とこのはたらきをしない菌類(キノコの仲間)とがあります。

先カンブリア代前期の地層には、そう類とカイメンが化石として残っており先カンブリア代後期の地層には、そう類の化石コンニアが、たくさん見られます。

先カンブリア代の終わりごろになるとクラゲ・ゴカイ類・ウミサソリ・イソギソチャクなどかなり進んだ動物がいろいろな方面に進化してきたことがわかります。

生物は自分たちの生活する場を、いろいろな方面に広げようとして進化してきました。

はじめは、水の中にかぎられていましたが、やがて陸上にあらわれ空中で生活するようになったのは、古生代の中ごろ(シルル紀)になってからです。

化石の多くなるわけ

古生代のはじめになると、急に、世界中に化石が多くなります。

これは生物が化石になるような硬い物質を体につけて敵から体を守るようになったためで、生きていくための競争が激しくなってきたためでしょう。

先カンブリア代の終わりごろには、世界的な大氷河が発達しました。
その影響は海の生活にまであらわれ、生存競争も激しくなったと思われます。




生物の出現!地球最初の生物の発生を知るには?

地球最初の生物

大むかしの生物は、化石で知ることができます。
しかし、地球上にはじめてあらわれた生物については化石によって知ることができません。

地球が、生物の住めるような状態になったのは、いまから、約20億年も前のことです。
その後、地球には、何回か大きな地殻変動がありました。

そのために、地殻をつくる岩石などが、壊されたり、変質したりしています。
ですから、たとえ地球で最初の生物が化石になったとしてもそれらはこの地殻変動によって壊されてしまい、残っていないでしょう。

地質時代の最初にあたる先カンブリア代の化石は、非常に珍しいものです。
そう類やカイメンの化石はありますが、これらは下等な生物のうちでもかなり進化のすすんだもので原始生物とは言えません。

かつて、フィンランドの先カンブリア代前期の岩石から一種の炭素のかたまりのようなものが発見されました。
断面がふくろのような形をしていて、コリシウムと呼ばれました。

これは、研究の結果、生物の遺体で、植物性のものであることが、証明されました。
つまり、コリシウムは化石であるわけです。
これは18億年もまえのもので、世界でもっとも古い化石ということになります。

このコリシウムにしても、かなり進化した生物のようでこれより古い時代の原始生物の化石は、いまのところ見つかっていません。

ですから、化石によって、地球最初の生物を探ることはできません。


生物の発生

生物の特徴は、同じような形と性質をもった子孫をつくることです。
無生物には、このようなことはできません。
また、無生物から生物をつくることもできません。

フランスのパスツールは消毒したフラスコに肉のスープや、食べ物の煮出し汁を入れ、外から微生物が入らないように栓をしたり、図のようにフラスコの首を長く伸ばしたり、S字形に曲げたりしておきました。

こうしておくと、いつまで経っても、液の中から微生物が発生しませんでした。

生物が自然に発生しないことは、現在の地球上では、広く認められています。
どんなに下等な微生物でも、親がなければ子はうまれないのです。

そうすると大むかしの地球上にあらわれた最初の生物は、どうしてできたのでしょうか。

ある人は、ほかの天体からやってきたと考えました。
しかし、原始生物には、こうしたことができない、ということがわかりました。
そして、どうしても地球上で無生物から生物が発生したと考えなければ説明がつきません。

そこで、むかしから人工的に生命をつくる研究がおこなわれてきました。
しかし無生物から生物をつくるということは、非常に難しいことです。

ところが1967年、アメリカのグーリアン博士とコンバーグ博士は大腸菌に寄生するビールスのDNAを、酵素の助けを借りて試験管の中で人工的に合成して、しかも、増殖させることに成功したのです。

この人工生命の成功は、世界の学者に大きなショックをあたえると同時に無生物らも生物ができることがわかりました。

人工的につくられた、このビールスのDNAはデオキシリボ核酸といって細胞核の中やビールスにふくまれており、増殖能力をつかさどり遺伝のカギを握る物質です。

このようにして合成されたDNAは、形・性質も天然のものと少しもかわらず増えて子どもをつくることができることも証明されたのです。

大むかしの地球上でも、いろいろな自然環境の中から偶然に生命が発生したと考えられます。



オパーリンの説

生命の起源について物理学や化学の方面から説明した学者は、たくさんあります。もっとも有名なのはソ連のオパーリンです。

彼の考えたしくみは、つぎのようになっています。

第一の段階では、地球上にメタンとして存在した炭化水素が同じように地球上にあったアンモニアと反応して窒素の混合物ができました。

第二の段階では第一の段階でできたかんたんなつくりの窒素混合物が水や水素やアンモニアと反応してしだいに複雑な成分をもった有機物になっていきました。

この有機物のいくつかが、いっしょになって、やがてアミノ酸をつくります。
そしてさらに、いろいろな種類のアミノ酸がいっしょになって、たんぱく質ができました。

第三の段階では、たんぱく質から生物の細胞をつくるのに大切な原形質が生じました。

この原形質に、細胞に見られるようなうすい膜ができ原形質は、この膜を通して物質を取り入れその物質をもとにして、たんぱく質をつくりだします。

そのときできた不用なものは、外部に送り出すはたらきをするようになります。

オパーリンは、このような生命現象をする最初のものは原始の海水中にできたと考えています。
そしてこれをコアセルベートと名付けました。

原ビールス

コアセルベートのようなものから発生した、もっとも原始的な生物はビールスのようなものであったと思われます。

これを原ビールスといいます。

現在のビールスは、高等生物に寄生して生活しています。
しかし、先カンブリア代の地球は現在とはだいぶ様子が違っていて酸素は、ほとんどなかったとされています。

このため酸素の嫌いな、ビールスのような下等生物もそのころは独り立ちして生活できたのでしょう。

この原ビールスを食べるような生物は、まだ発生していませんでした。




進化の証拠とは?生物の器官に見られる証拠とは?

生物は、体にいろいろな器官を持っています。
しかも生物の種類によって、同じ器官でも、少しずつ違います。

このような生物の器官を調べると、生物の進化の証拠を知ることができます。


相同器官と相似器官

生物の器官は長い地質時代を通して、かんたんなものからしだいに複雑なものにかわってきています。

古生代の海にうまれた肺魚の胸びれと、両せい類の前足と人の手の骨をくらべると、その形やはたらきは、まったく違っています。

しかしこの3つの骨を調べてみると、どれも5本の指の骨がありつくりがたいへんよく似ていることなどから、もとは同じ前足からだんだんかわってきたものと考えられます。

このような器官を、相同器官と言います。

これにたいして、つくりは違っていてもその形やはたらきが似ているものを、相似器官と言います。

たとえば、魚のひれとイクチオサウルスの後足はまったく違うつくりをしていますが、その形やはたらきは、たいへんよく似ています。

このような生物の器官は生物が生活のしかたや環境によってかわっていくという進化を知るための証拠になっています。

退化(痕跡)器官

生物の器官には、形だけが残って、もとのはたらきを失ったものがあります。
このような器官を、退化器官または痕跡器官と言います。

ヒトのもう腸についている虫垂・耳を動かす筋肉・尾てい骨などは現在の私たちには、なんの役にも立ちません。

しかし虫垂は、草食動物の大事な消化器官になっています。
また、耳を動かす筋肉や尾てい骨は、ほかのほ乳類では役に立つ器官です。

このほか、ニシキヘビのかぎ爪やセミクジラの後足の骨なども同じように退化器官といえます。

退化器官は、その生物の先祖の器官のなごりということができるので進化の証拠になっています。




進化の証拠、発生による証拠とは? わかりやすく解説!

生物が、卵から親に成長するまでの様子を、発生または固体発生と言います。
多くの生物の発生の様子を調べると、進化の証拠を知ることができます。


脊椎動物の発生

魚類・両せい類・は虫類・鳥類・ほ乳類などのいろいろな動物の発生を調べてみましょう。

はじめの形は、どれも、たいへんよく似ています。
しかし発生が進むにつれて形がしだいにかわり、それぞれの特徴があらわれてきます。
しかも、その発生の様子を見ると、縁の近いものほど、よく似ています。

このようなことは、外から見た形だけでなく、内臓や血液についても言えることです。
いろいろな動物の血液や、血液にあたる体液の中のおもな化学成分を調べてみると下の表のようになっていることがわかります。

これを見ると、生物を地球上にあらわれた準に並べたとき順番の近いものどおしは、その化学成分が似ています。

また、古い時代にあらわれたものほど、海水の成分に似ています。
このことは、最初にあらわれた生物が、海の中で生まれたことをしめす1つの証拠になっています。

同時に、生物が発生した順序をもしめしてします。



生物の発生についての法則

1つの生物について、小さいときの体から成体になるまでの体の変化をたどれば個体発生の様子を知ることができます。

中生代の海に栄えたアンモナイトは、成長するにつれてやわらかい体を入れておくための、硬い部屋をつくっていきます。

古い部屋と新しい部屋との境には、しきりがありますがそのしきりが体についているところは縫合線という、波形の複雑な模様をつくっています。

若い部屋の縫合線から、成長の順に縫合線の形の変化をたどると個体発生の様子を知ることができます。

たくさんのアンモナイトについて縫合線の形を調べてみると古い時代のものほどかんたんな形をしていて新しい時代のものほど、しだいに複雑な形になってきます。

このように生物の仲間が、大むかしから今までの長いあいだに少しずつ進化してきた様子を、系統発生といいます。

また、縫合線の佃体発生の様子を調べると図のように縫合線の系統発生の順にしたがって、かんたんな形のものからしだいに複雑な形のものに、かわっていきます。

このことは、生物の個体が成長するときにはその生物の先祖からかわってきた進化のしくみと深い関係のあることをしめしています。

そのため「個体発生の様子は、系統発生の様子を繰り返してあらわす」という法則が立てられています。

つまり、このことは「生物が、むかしから進化してきたありさまを、もういちど繰り返してくれる」という意味です。

このような考えかたを、≪ヘッケルの反復説≫と言います。




進化の証拠とは?生物の広がりから見た証拠をわかりやすく解説!

生物はすべて、自分に都合のよい場所に生活しています。

ですから、生物の分布を調べて、その場所の特徴と生物の性質をくらべると、生物が進化してきた証拠を知ることができます。


オーストラリアの生物

オーストラリアには、ほかの地域には見られないめずらしい生物が、たくさん住んでいます。

これは、この地域が、かなり古くからまわりの大陸と広い海で切り離されていたためと考えられています。

化石によって、ほ乳類が地球上にあらわれた時期を調べると中生代のジュラ紀に、原始的なほ乳類の、有袋類があらわれています。

その後、オーストラリアが離れ島となりこの地域に住んでいたものは特別の進化をしました。

現在、私たちの見るほ乳類の多くは、新生代のはじめにあらわれました。
しかしこれらの生物は、オーストラリアには移動することができなかったのです。

適応と放散

中生代の地球上には、は虫類が栄え、陸・海・空を支配していました。

海を泳ぐイクチオザウルス・空を飛ぶプテロダクチルスやほかの動物を襲うタイラノザウルスなどは、その代表的なものです。

これらのは虫類は、厚い皮膚で体を覆っていたうえに厚い殻をもつ卵を産んで、子孫を増やしていました。
このために、中生代の乾燥した暑い気候や、砂漠の生活に耐えることができたのです。

このように、生物が環境によって体の仕組みや生活のしかたをかえることを生物の適応と言います。

こうして環境に適した生物は、その生物が住む場所を広げながら栄えていきます。このことを、生物の放散といいます。

このような生物の適応や放散は
生物が進化するために起こった現象であると考えられています。




進化の証拠とは?化石に見られる証拠とは? わかりやすく解説!

生痕の化石

むかしの生物は、いろいろな形で、そのあとを地層の中に残しています。

生物の硬い殻や骨などが、化石として発見されることはふつうですがときにはクラゲやイカのような、やわらかいものが化石となっています。

そのほか、生物の足あと・はい歩いたあと・巣穴・糞のかたまりなど生物の生活のあとが、壊れることなく、地層の中に埋もれていることもあります。

このようなものを、生痕の化石と言います。

これらの化石を調べると大むかしの生物の体のつくりや生活の様子を知ることができます。


化石の順序と期間

いままでに知られている脊椎動物の化石を地層の古いものから、新しいものへと順にならべてみましょう。

魚類は、すでに古生代の中期から化石が発見されています。
しかし、ほ乳類は、中生代の終わりごろになって、はじめて化石があらわれます。

こうして調べて見ると、脊椎動物の仲間が地球上にあらわれた順序は魚類がもっとも古く、両せい類・は虫類・ほ乳類の順に新しくなっていることがわかります。

また、同じ仲間の化石が発見されている地層の時代を線でつないでみるとその生物が地球上にあらわれてから、ながらえた期間を知ることができます。

生物の分かれ目

両せい類の化石でもっとも古いものは古生代中期(デボン紀)の地層から発見された、ラビリントドンとは呼ばれるものです。

つぎに、魚類の化石を調べると、リントドンと同じころに魚類でありながら、空気呼吸もする肺魚類の化石が知られています。

その体つきは、ラビリントドンに、たいへんよく似ています。

このようなことから両せい類は古生代の終わりごろに肺魚類の仲間からわかれてきたものと考えられています。

中間の化石

ある生物から、新しい生物がわかれてくるときにはしばしば、両方の特徴をもつ、中間の形をした生物があらわれます。

ドイツの中生代ジュラ紀の地層から発見された始祖鳥の化石は前足に翼をもっています。

この前足には、爪のある3本の指があって、は虫類に似ています。
しかし、体つきや翼さを広げて空を飛ぶことは、鳥類に似ています。

そのため始祖鳥は、は虫類から鳥類がわかれてでたときの中間の生物であると考えられています。



化石の系統と系統樹

化石の変化にはある系統が見られます。
このことは地層を目印しにして化石がでる場所や、化石の特徴を調べるとわかります。
この化石の系統は生物の進化の証拠になっています。

化石として残っている古生物(大むかしの生物)の生きながらえた期間やほかの古生物からわかれてきた様子は木の枝のように書きあらわすことができます。

これを生物の系統樹といいます。

系統樹の枝の長さは、その生物の仲間が生きながらえた期間にあたります。
そして、幹に近い枝ほど、古い型の生物と言えます。

たとえば、古生代の終わりごろの示準化石となっているボウスイチュウ(フズリナ)の化石を調べるとたくさんの種類があり、しかもいろいろに変化していることがあります。

化石の形は、古い地層からあらわれたものほど小さくなっています。
殻の厚さは、新しいものほど厚くなり内部のつくりも、時代が新しくなるにつれて、しだいに複雑になっています。

このようにして、たくさんの化石を調べてみると生物は時代とともに、だんだん形が複雑になり型も大きくなるような進化をしていることがわかります。




日本列島の移り変わりをわかりやすくまとめてみた!

日本列島は、いろいろな種類の岩石からなり、陸地の構造は複雑です。
これを調べると、何度か、激しい地殻の変動を受けて現在の状態に近づいたのだということがわかります。

地殻の変動のうち、造山運動はもっとも大事な役目をしていてそのたびごとに、大地が大きく変化しました。


先カンブリア代の日本

日本列島のうつりかわりを確かな事実に基づいて考えることができるのは古生代の中期から後のことです。

先カンブリア代は古生代より古い時代ですがそのころの地層については、よくわかっていません。

しかし、最近の研究によって、飛騨山地の北部で東は黒部川流域から西は福井県武生市にいたる広い地域に分布している飛脚変成岩は先カンブリア代のものであることが、ほぼ明らかにされました。

この変成岩類が、先カンブリア代のものであると断定するには古生代にできた、もっとも古い地層を発見してその下に、この変成岩類があることを、証明しなければなりません。

ところが、飛脚山地に分布するもっとも古い地りは古生代中期の地層です。

しかし、この地層と飛騨変成岩との関係の研究からこの変成岩類が、古生代中期よりも古いといわれています。

さらに、アジア大陸の地質の状態も考えあわせると飛脚変成岩の時代は古生代前期とするよりもさらに古い先力ンブリア代のものと考えることが適当であるというのです。

したがって、飛騨変成岩類は日本列島では、もっとも古い地層群ということになります。

ですから、この変成岩類の分布する地域は日本列島ではいちばん古い陸地ということになり、アジア大陸の盾状地の一部であると考えられます。

しかし、飛騨変成岩の時代が先カンブリア代とするには反対意見があって確かな結論は今後の研究にまたねばなりません。

古生代の日本

日本で知られている古生代の地層は、中期と後期のものです。
中期の地層は、岩手県・岐阜県・鳥知県などの各地に見られます。
しかし、その分布は、ところどころに散らばっているに過ぎません。

中期の地層は、おもに石灰岩・ネンバン層・凝灰岩などからできていてサンゴ・腕足類・サンヨウチュウなどの、海に住んでいた生物の化石をたくさんふくんでいます。

古生代後期の地層は、秩父古生層ともいわれその分布は広く、日本全体にわたっています。
その厚さも数千メートル以上のところが少なくありません。

後期の地層には、いろいろな、堆積岩がありますがとくに、砂岩・ネンバン岩・チャート・石灰岩が多く、レキ岩・凝灰岩もあります。

化石の種類も多くなります。

もっとも多いのは、ボウスイチュウでそのほか、ウミユリ類・サンゴ類・腕足類なども、たくさんあります。

また、ホウサンチュウ・サンヨウチュウ・セッカイソウ類などの化石もあります。

これらはすべて、海に住んでいた生物の化石ですがこれらに混じって、リンボクやシダ類などの陸上植物の化石が宮城県・岩手県などから、わずかですが発見されています。

このような古生代の地層の性質や化石の種類から考えると日本の古生代の地層は海氏に堆積した地層であるということが言えます。

ですから、この時代の日本列島のあたりは、海底に沈んでいたと考えられます。
したがって、この地域は当時地向斜であったわけでこの地向斜を秩父地向斜とよんでいます。

しかし、この古生代地層の中には、いくつかの大きい不整合のあることやリンボクやシダ植物などの陸生の植物化石をふくむことから考えるとときどき海底が隆起して、陸地になったことが、わかります。

古生代中期および後期の日本はいわば海洋時代であってさかんに、地向斜の海底に地層の堆積が続けられ、日本列島をつくる材料がしだいにたくわえられていたのです。

古生代の終わりになると、激しい造山運動が終わりました。

さらに、火山活動もくわわって、大きな山脈ができ、広い陸地が形づくられたのです。

この造山運動を秋古造山運動とよんでいます。



中生代の日本

我が国には中生代の地層が各地に分布しています。
その規模は、わりあいに小さく、海底に堆積してできた海成層と陸地にできた陸成層とがあります。

海成層には砂岩・泥岩・レキ岩が多く、地域によっては石灰岩やチャートも多いようです。
化石としては、2枚貝類・まき貝類・ウニ類・サンゴ類・ウミユリ類などがあります。

とくに、アンモナイト類が、たくさんふくまれています。

陸成層は、おもにサ岩・デイ岩・レキ岩からなり化石としてはシダ類・イチョウ類・ソテツ類、マツ・スギ類などや淡水に住む貝類が見つかっています。

中生代に栄えた、は虫類の化石は我が国からは、不思議とあまり発見されていません。

アジア大陸は、すでに古生代の終わりごろから海面上にあらわれていましたから、ここの地層は、だいたい陸成層です。

これは、日本列島の内陸部に分布している中生層がおもに陸成層であることと一致しています。

このことから、中生代中期には、まだ日本海はできていなくて古生代末期の造山運動でうまれた日本の陸地はアジア大陸の一部であったと考えられています。

日本の中生層が海成層と陸成層が互いに入り混じっていることから中生代を通して何度か造陸運動があって、そのたびごとに海進や海退が繰り返されたことがわかります。

中生代後期になると、造山運動が激しくなりました。
このため、岩石が変成したり、火山活動がさかんになったりしました。

そして少なくとも本州の中部地方から中国・四国・九州地方の全域にわたるほどの大きなしゅう曲山脈ができました。

このようにして、日本列島の骨組みとなる地質構造ができあがりました。

これらの古い山地は、その後の地殻変動で乱され現在では部分的に残っているに過ぎません。
いっぱんに、この山地は高く険しい地形をしています。

新生代第三紀の日本

第三紀前期にあたる地層には、植物の化石、淡水に住む動物の化石、石炭層などをふくむ陸成層と海の生物の化石をふくむ海成層とがあります。
地層はともに、砂岩・泥岩・レキ岩などからなっています。

この地層は、北海道・北九州・常磐地方などに分布しいずれも、炭田として知られています。

第三紀後期の地層は、海成層が多く、砂岩・泥岩・レキ岩などのほかに凝灰岩やシュウカイ岩があります。

この地層は、日本全国に分布しています。
なかでも、本州の中部から東北地方にかけて広がっています。

奥羽地方や北海道の日本海沿岸地方に分布する。
石油や天然ガスをふくむ地層は、すべて第三紀後期の地層群です。

第三紀の海成層にふくまれる化石には2枚貝類やまき貝類が多いですがサンゴ類・カイメン類・ウニ類・カニ類・有こう虫類などもあります。

陸成層からは、被子植物の化石がたくさんでますがそのほか、裸子植物やシダ植物の化石もでています。

また、ラクダ・キリン・サイ・ゾウなどの祖先にあたるほ乳類の化石も産します。
さらに、デスモスチルスというほ乳類の化石も、各地から発見されています。

第三紀層の分布や化石の種類からみると、前期には北海道や北九州などのほかは大部分が陸地になっていました。

しかし、その後、後期になって、この陸地に大規模な海進があったことがわかります。

日本の陸地は、古生代や中生代の造山運動でつくられた古い山地の高い部分だけが島となって海面にあらわれ、大部分が海水におおわれてしまいました。

第三紀層の分布、堆積状態、しゅう曲の構造などから考えると第三紀の終わりごろには、大きな造山運動があって山脈ができたと思われます。

この地殻変動は特に東北日本で激しく起こりました。

日高山脈・丹沢山地などは、すべてこの地殻変動でできた山脈や山地です。
この地殻変動を、大八州造山運動とよんでいます。

この地殻変動により、日本列島の輪郭や、陸地の起伏のありさまが現在のようになってきました。

新生代第四紀の日本

第四紀洪積世の地層はれき・砂・泥などが、まだよくかたまらない地層が多くまた、亜炭や泥炭などをはさんでいます。

この地層の多くは、平原や盆地の周囲、川の流域、隆起した海岸などに段丘や台地をつくって分布しています。

この地層には、陸上生物の化石がふくまれています。なかでも、ソウ類の化石は有名です。

このようなことから、洪積世の地層は大部分が陸成層であるということがわかります。
したがって、洪積世の日本列鳥は、ひと続きの陸地であったと思われます。
しかもこれが朝鮮半島などにつらなり、大陸とも陸続ききであったと考えられています。

日本の洪積世のできごととしては、活発な火山活動があげられます。

日本の火山の多くは、第三紀後期の地層の上に噴出してできたものです。
このことは、日本の火山が洪積世になって噴火したことをしめしています。

また洪積世は、全体的に、気候が現在より寒冷だったと思われることです。
それは、飛脚山脈や日高山脈などの高い地方にはこの時代の氷河堆積物や氷河地形が残っていることによってわかります。




第四紀とは?氷河時代・沖積世とは? わかりやすく解説!

第四紀

第三紀の終わりから、地球は、広く氷河におおわれるようになりました。
この氷河の出現した時期から後を、第四紀とよんでいます。

それはいまから約100万年まえのことです。
この時代は、さらに洪積世(氷河時代)と沖積世(後氷河時化)とにわけられます。


氷河時代

第三紀の終わりごろから気温が急に下がりヨーロッパの北部や北アメリカは、広く氷河におおわれました。
その面積は、地球の全陸地の約3分の1にも達したと言われています。

しかし、氷河時代といっても、この時代の気候が、全期間を通して寒かったわけ

ではありません。気候が非常に寒かった時期とむしろ今よりもあたたかいくらいの時期とが繰り返されました。

その回数は、寒い時期(氷期)が4、5回ありそのあいだに、3、4回のあたたかい時期(間氷期)がありました。

氷河の浸食作用は硬い氷がゆっくり下りながら、がりがりと削るのですから川とはくらべものにならないほど、激しいものです。
たとえば、谷の断面がU字形をした、深い谷をつくります。

氷河は、谷の壁に大きなかき傷をつくりながら大小さまざまな土砂をえぐりとって下流へ運びます。
そして、あたたかくなって氷河がなくなったあとには氷河に運ばれた堆積物が残ります。

こうした堆積物の分布や、間氷期に堆積した別の堆積物との関係を調べるとどのような氷河が、何回発達したかがわかります。

氷河のあとは、こうした堆積物以外にも氷河地形としての特徴からも見分けることができます。

たとえば、日本アルプスや北海道の日高山脈にも氷河地形の1つである鍋底状の地形(カール)が残っています。

海面の上下

北半球に大氷河ができると、海水は氷結します。そのため海水は減り、海面は下がります。
反対に、氷河が溶けると海面が上がります。

この海面の上下のあとは、海岸の地形に残っています。
海岸では、波が海底を削って平らな面をつくったりその上に堆積物をのせた面をつくっています。

しかし、海面が下がれば、そうした面は地上に出て、いわゆる段丘をつくります。
したがって氷河時代の海面の上下のあとは、段丘に残されています。

日本では、地殻変助による土地の上下が激しいので海面と土地が上下したものを、区別することは、たいへん難しいことです。
氷河時代の繰り返しは、海岸段丘以外のことからも知ることができます。

たとえば、川口近くで、海面の高さが低くなると川のこう配が急になり、川床の浸食が進んで河岸段丘をつくります。

また氷河に直接覆われない地方でも、寒冷性の化石と温暖性の化石が繰り返してくることからも知ることができます。

物界の変化

気候の変化は生物の種類をかえるばかりでなく1つの種類をも、かえることがあります。

たとえば、ゾウなどは、氷河時代の中ごろまで、世界中に広く栄えていました。
なかには、長毛マンモスのように厚い毛皮をまとったものもあらわれました。

人類の祖先は、氷河期のはじめのころあわれたといわれています。
人間には、ほの動物と違って、気候の変化から身を守る知恵を持っていました。

この知恵は、そのほかのいろいろの面でも発達し、現在のようになったのでしょう。



沖積世

氷河時代の終わりから現在にいたる、およそ1万年間の時代を沖積世、完新世、または現代といいます。

沖積世は、氷河時代の最後の寒い気候から、つぎのあたたかい気候になった時代です。
現在にいたるあいだに、あたたかい期間があるところから見て最後の間氷期とも考えられます。
あたたかい期間には、海面は、いまよりも高く、海は陸地へ深く入っていたはずです。

たとえば、関東平野のあちこちに見つかる貝塚をたどると図のように、当時の海岸線の様子を知ることができます。

それは、当時(縄文時代)の人が海辺に住んでいて食べた貝がらを捨てたのが、これらの貝塚だからです。

その後、海面は下がり、土砂で埋められて、現在のようになったのです。




第三紀の生物とは?植物界・動物界の変化とは?

植物界の変化

植物界では、中生代の中ごろから大きな変化がありそれまで優勢だったソテツやノチョウなどの裸子植物にかわって被子植物が栄えはじめました。

被子植物は、種子が硬い皮をかぶっているため寒さに強く四季がはっきりした暖寒の気候の変化にも、よく耐えられるわけです。

第三紀では、被子植物のうちでもケヤキ・ナラ・ブナなどのような広葉樹が栄えるようになりました。

草の類では、菊の仲間や、竹・稲などの仲間が栄え現在の植物と似通ったものが増えてきました。


動物界の変化

植物界の様子がかわると植物を大量に食べていた巨大な草食恐竜は生活しにくくなり、草食恐竜を餌食にしていた肉食恐竜も中生代の白亜紀を最後に滅びてしまいました。

新生代に入ると、それまで息を潜めていたほ乳類が、栄えはじめました。

ほ乳類は、新しい植物を食べ、また、寒さに対しては毛皮の皮膚を持ち、一定の温度を持つ血液、能率のよい心臓を持っています。

子供も、卵からかえるのではなく、母親の体内で育ってから生まれます。
そのうえ、一人前になるまで乳を吸って、親の保護を受けて育ちます。

こうした性質は、激しくかわる新生代の自然を克服し、栄える原因となったのです。

しかし、古第三紀のほ乳類の大部分は、現在のほ乳類とくらべて骨組みも不細工で、とても活発な運動ができたとは思えません。

動きがにぶかったことは脳が発達していないことからもわかります。
これらほ乳類も世界の大山脈がほぼできあがる古第三紀末にはほとんど絶滅してしまいました。

しかし、その後に発生した、馬や象のように古第三紀のころは犬ぐらいしかなかったものが進化して新しいタイプのほ乳類が栄えるようになりました。



海に住んでいた示準化石

第三紀に栄えた動物は、ほ乳類だけではありません。
とくに海に住むウニ・貝類・有こう虫などは、たくさんの種類が大いに栄えました。

このうち海底に住む貝類は、当時のいろいろな環境によって種類や産出量が違うので貝化石をふくむ地層がどんなところに堆積したかを調べるのに、たいへん役立ちます。

また、時代とともに種類がかわるので、地層の時代を決めるのにも使われます。

しかし2つの種の分布範囲が、かぎられているので遠く離れた地層を、貝化石で時代的にくらべることはできません。

それと反対にウニはその幼生時代に海中を漂う期間が長いので、分布範囲は大分広くなります。
そのため、地層の時代を決めるのに役立つ示準化石が多くあります。

分布という点では、世界の海をめぐる海流にのって浮遊生活をするプランクトンが最も広いと言えます。

そこで、最近は、分布の広い化石(微化石)の研究がさかんにおこなわれています。

なかでもプランクトン性有こう虫とよばれる殻をもった原生動物の化石は第三紀の代表的な示凖化石となっています。

有こう虫は、ただ1つの細胞からできているのですが種類によっていろいろ違った殻を持ってします。

とくに海底に住む有こう虫のうち大型行こう虫の殻は複雑で大きなものが多く、世界中のあたたかい海に栄えました。

とりわけ、カヘイセキのグループには直径が数センチもある大きなまるいからをもっものが少なくおりません。

しかも、このカヘイセキは、古第三紀にだけ生きていたもので示準化石として大いに役立っています。

海底に住む小さな有こう虫は、示準化石としてはあまり役に立ちませんが貝と同じように地層の堆積した環境を知る示相化石として、よく用いられています。

そのうえ有こう虫は殻が小さいので少しの岩石からたくさんの個体と種類をとることができます。

石油を探すためには、地層をよく調べなければなりません。
このため有こう虫は、石油探査には、たいへん役に立っています。




新生代とは?第三紀の自然の姿とは? わかりやすく解説!

新生代

中世代の終わりから、現在までの約7000万年に渡る時代を、新生代と言います。
地球の歴史の中では、いちばん新しい時代で、かなりくわしく知られています。

海陸の様子も今の状態と大分似てきますし生物も私たちになじみ深いものがあらわれています。

新生代は第三紀と第四紀に大きくわけられます。
第三紀は、さらに古第三紀と新第三紀にわけることもあります。

海陸や生物の様子が現在と似てきたのは、古第三紀になってからです。

第四紀は地球のとくに北半球を氷河が広く覆いはじめたときから、現在までを言います。
現在、私たちのまわりに見られる生物の大部分は、この氷河時代を生き抜いてきたのです。

第四紀になって人類が発展したのはこの苦しい試練に耐え抜いたところに進歩があったのだといえます。


大きな山脈の出現

太平洋をとりまく環太平洋地帯や地中海一帯から中近東・ヒマラヤ山脈を経てビルマにいたる地帯は中生代を通して堆積物が何千メートルも厚く堆積した海でした。

また、中生代の終わりごろから隆起しはじめた地域からも土砂が運ばれてほぼ古第三紀を通して厚く堆積しました。

この堆積物も、古第三紀の末にはアルプス・ヒマラヤ・ロッキー・アンデスなどの山脈といっしょに大きく隆起しました。

これらの大山脈は、気候のうえでも大きな影響をあたえています。

海からやってくる湿った空気は、この大山脈に遮られて山腹に雨を降らせ、その背後の地域には乾燥した空気を吹き込むことになります。

したがって、カラコルム・チベット・ユタ・アリゾナなどの大砂漠が発達するようになったのです。

なお、こうした地形の変化ばかりでなく生物も現在の様子にだんだん近づき、細かく分化してきました。

活発な火山活動

中生代には、火山活動はそれほど目立ちませんでした。
しかし、第三紀に入ると、火山活動がさかんになってきました。

そして、流紋岩・安山岩・玄武岩などの火山岩を、たくさん噴出しました。
また、火山の爆発によって非常に多くの火山灰・火山砂・火山れきなどを降らせました。

凝灰岩は、火山噴出物が堆積したもので厚さが数千メートルを越えるところもあります。

気候の変化

中生代に引き続いて、新生代のはじめも、温暖な気候に恵まれ北極地方にさえ温帯の植物がしげっていました。

また、熱帯の幅も広く、日本やカリフォルニアにまで、広く広がっていたようです。
しかし、時間が経つにつれて、北極のほうから気温が下がりはじめ第四紀の氷河時代を迎えるようになったのです。




モバイルバージョンを終了