天文台のしごと、役割とは? わかりやすく解説!

天文台は、天体を観測するところでこの観測結果を用い、宇宙の有様を研究しています。
暦の計算や報時のように、私たちの暮らしに関係の深いしごとをするのは、天文台の大切な役目です。

しかし、天文台のしごとは、これだけではありません。

太陽・月・星などの有様を休みなく観測しまだまだたくさんある宇宙の謎を解くために天文学者たちは、いろいろ苦心しています。

このように、私たちの暮らしとは、直接関係のうすいしごともこつこつと毎日続けられているのです。

世界には、大きな天文台だけで、300ほどもあります。

このたくさんの天文台は、お互いに手をつなぎあって研究をすすめています。

天体の研究のためには、いろいろな国の大勢の人が、力をあわせなければならないからです。


太陽の研究

東京の天文台では、昼間、空か晴れているかぎりたえず太腸の観測をしています。

望遠鏡の焦点のところに、白紙をおき投影法によって、毎日、黒点の有様をスケッチしています。
白斑や紅えんは、分光太陽写真儀や分光太陽望遠鏡で写真をとりまた、爆発現象の起こるのを監視しています。

太陽のスペクトル(7色の虹模様)は塔望遠鏡を使って観測します。

これはシースロットを使い、太陽に光を地下室の中に導きその室内にある大きなプリズム分光器(切り口が三角形になったガラスの柱に光をあててその光をわける器械)や、回折格子(よく磨いた金属面、またはガラスの平面に1センチについて5000~7000本の細い線を等間隔にひいたもの)を使い、スペクトル写真をとります。

太陽のコロナは、日食のとき以外にもコロナグラフとにいう、特別なしかけで撮影します。
しかし、空かあまりすんでいなくてほこりの多いときには使えないので高山の頂上に観測所をおいています。

日本では、北アルプスの乗鞍岳に東京天文台のコロナ観測所があり1年中、コロナの形・明るさ・コロナの出すスペクトル線などの研究を続けています。

月と星の研究

東京天文台にある65センチ望遠鏡は屈折型としては、日本でいちばん大きなものです。
筒の後ろのほうに写真かん板・をおき、天体写真を撮ることができます。

これで、月や惑星の表面の模様を研究しまた、衛星で、小惑星・彗星などの位置を決めることができます。

また、焦点のところに光電管(光を電気にかえる真空管)をおき星の明るさを決めることができ、変光星の明るさの変化を調べ星の明るさの研究から、正しい距離を決めたりします。

また、月の後ろに星が隠されるえんべい現象を観測し月の動きの詳しい研究をします。

恒星・惑星・月などの位置を詳しく調べるには子午環や子午儀を使います。



岡山天体物理観測所

1960年に岡山県の鴨方町にある竹林寺山に建設された天文台は岡山天体物理観測所という名前です。
ここでは主に、恒星のいろいろな性質を研究しています。

この観測町には、口径188センチと口径91センチの大小2個の望遠鏡があります。

大きいほうの望遠鏡は、焦点にかん板をおき月・惑星・星雲などの写真を撮ることができますがまた分光器を使って、星のスペクトルの写真を撮ることもできます。

星のスペクトルには、何本もの細い黒線があらわれます。
この線のあらわれかたを調べると星がどのような元素からできているかがわかります。

また、温度や圧力はどのくらいか星の表面では、ガスがどのような動きをしているかということがよくわかるのです。

このように、分光器を使った観測は、星の世界の有様を調べるのにいちばん大事なしごとです。

小さいほうの望遠鏡には、焦点のところに光電管をつけ反射鏡によって集められた星の光を電気にかえ電流の強さによって、星の明るさを調べるのです。

この2つの望遠鏡は、夜の観測だけをおこない昼間はドーム(まる屋根)いし、太陽の熱が室内に入るのをふせぎます。

夜、星を観測するときに室内と室外の温度があまり違うと器械や反射鏡の表面の状態がかわったり、まわりの空気が揺れて拡大された星の像がぼやけたりします。

星がまたたくのは地球をとりまく空気の揺らぎによっておこるのですがこのため、星の像もぼやけます。

せっかく、性能のよい望遠鏡を使っても途中の空気によって、性能が落ちては困ります。

天文台が岡山に建てられたのは晴れた夜が多いというほかに空気の揺らぎが少なく、はっきりした星の像が見られるからです。

時刻を決める

正しい時刻を決めるには写真天頂筒を使い、天頂を通る星を監視します。
これで、天文台で動かしている水晶時計や原子時計のすすみや遅れを監視しています。

このようにして決められた正しい時刻は分秒報時という短波放送で、世界中に伝えられます。
また、ラジオの時報によって、私たちの家庭にまで伝えられるのです。

暦をつくるしごと

暦は、私たちの生活に深い関係があります。この暦のもとになる計算をするのが、天文台です。

天文台では太陽・月・惑星の見える位置、日の出・日の入り、月の出・月の入りの時刻、春分・夏至・秋分・冬至・日食・月食の起こる様子などを、くわしく計算します。

この計算は、毎年、暦象年表というかたちで本になっています。

カレンダーなど私たちが日常に使う暦は、みなこの本をもとにしています。




赤道儀と望遠鏡とは? わかりやすく解説!

赤道儀

長い時間、同じ星を観測するとき望遠鏡を台につけておくと天の日周運動によって星はすぐに望遠鐘から見えなくなります。

星の動きにあわせて、動かすことのできる望遠鏡を赤道儀といいます。

赤道儀のおもな部分は、極軸と赤緯軸との2本の軸です。
極軸は地球の自転軸にあわせ、天の北極、南極に向いた1本の軸です。
赤緯軸は、これに直角に向いた軸で先に望遠鏡の筒が直角についています。

この2本の軽のまわりに鏡筒をまわすと天のどの方向にも向けることができます。

いちど、ある星を視野(見える範囲)にいれればあとはモータや重りのしかけで、望遠鏡は極軸ごといつまでも日周連動をおいかけて同じ星をねらえるようになっています。


赤道儀のいろいろ

赤道儀こは、いろいろの型があります。

いちばんふつうにあるのは、極軸を中央の一か所でささえたものでドイツ式といい、東京天文台の65センチ望遠鏡の赤道儀がそれです。

大望遠鏡では極軸の両端2か所で支えられているものがありこれをイギリス式といいます。

1960年、岡山天体物理観測所に完成した188センチ望遠鏡はこの型です。

また、極軸の先に2本の手がわかれこれに望遠鏡のついているのをフォーク式といいます。
岡山天体物理複測所の91センチ望遠鏡がその一例です。

アメリカのパロマー山天文台の508センチ望遠鏡ウィルソン山天文台の258センチ望遠鏡はこれらとは違った特別の型の赤道儀を使っています。

このほか、日周運動をおいかける機械としてはシーロスタットがあります。

これは2枚の平面鏡の組み合わせでやはり、極軸のまわりにその1つの鏡を回転させ日周運動で動く太陽からの光を、定まった方向に反射させつものです。

糖の上のドームの頂上におき、太陽研究によく使われます。
天体観測にはこのほかに、子午儀という器械を使います。

これは、望遠鏡を東西こ向いた水平の軸で支えたもので望遠鏡の筒先は、子午線(真北・真上・真南をむすぶ線)にそってだけ動きます。

天体の子午楾を通る時刻をはかり星の赤経、赤緯や時刻を決めるのに使われます。

午儀に星の赤緯を読み取るための目もりの環をつけた大型の機械を子午環といいます。

近頃では、時刻を決めるのに写真天頂筒という機械を使っています。
これは、真上を向くようにとりつけたカメラで真上近いところで、子午線を通る星の動きを、かん板上に記録します。

人工衛星を撮影するにはとくに口径比 (レンズの直径を焦点距離で割った値)の小さい明るいカメラを使います。

東京天文台にあるのは、べーカーナン=シュミットカメラでとくに明るく、また人工衛星の軌道にあわせてすばやく筒先を動かす装置がついています。




望遠鏡のしくみとは? わかりやすく解説!

大体の研究をするには、望遠鏡を使います。

望遠鏡は、そのしくみの上から、大きくわけて屈折型と反射型の2つにわかれます。


屈折型望遠鏡

望遠鏡の筒先に凸レンズをつけたもので、星からきた光は筒の後ろ側に集まり、像をむすびます。
この像が接眼レンズの焦点の内側にくるようにして天体の像を大きく拡大してみます。

また、この像のところにフィルムや写真かん板をおくと天体写真を撮ることができます。

天体望遠鏡のレンズは、色によって像がぼやける(色収差)ことをふせぐために、2枚レンズの組み合わせを使っています。

反射型望遠鏡

これは、凸レンズのかわりに、凹面鏡を使って像をつくりできた像を接眼レンズで拡大してみるものです。

凹面鏡の前にできた像は見ることができないのでもういちど反射させて観測しやすいところに導いてみます。

また、屈折型と同じく、接眼鏡でながめたりかん板をおいて写真を撮ったりします。

反射鏡というのは、まるいガラス板を凹面に磨いたもので表面ンは反射がよいようにメッキしてあります。

天体望遠鏡のはたらきは、おもに、天体の姿を拡大することもう1つは天体の光を集めることです。

金星・火星・土星などの惑星、あるいは月の表面上の細かい様子を調べるには、大きく拡大することが必要です。

このためには、焦点距離の長いレンズや、反射鏡を使います。

天体の位置や動きについて、小さな角度を測定するにも大きく拡大しなければなりません。

恒星からくる光は、とても暗いので、写真を撮ったり、スペクトルを調べたりするにはいちどにたくさんの光を集めることが必要です。

このためには、さしわたし(口径)の大きいレンズや反射鏡を使います。

望遠鏡に入ってくる星の光の量はレンズの面積に比例します。

人間の目のさしわたしは、7ミリほどですがたとえば、さしわたし7センチのレンズをつけた望遠鏡は肉眼よりも200倍の光を集めることができます。



電波望遠鏡

太陽は光や熱を放射していますが、電波も出しています。
これはラジオの電波よりは、ずっと短い波長のものでまたずっと力の弱いものです。

しかし、大きなアンテナと、性能のよい受信機を使って捕えることができます。

大型アンテナには、お椀型のものが多く世界でいちばん大きいものは、直径300メートルもあります。

これは、地面に固定したものですが光の望遠鏡のようにいろいろな方面に動かせる式のものでは直径91メートルが最大です。

これらは、どちらもアメリカにありますが日本には直径30メートルの可動式があります。

このアンテナは光の望遠鏡では対物レンズあるいは反射鏡にあたります。

室内におかれた受信機は写真のかん板あるいは光電管の役目をするものです。

これによって太陽ばかりではなく天の川・ガス星雲あるいはほかの宇宙、金星・木星などの惑星からくる電波も研究しています。

電波望遠鏡は、雨や曇りの日でも、観測できるのが大きな強みです。




月面探査ロケット・惑星ロケットとは? わかりやすく解説!

月面探査ロケット

アメリカの月面着陸成功については、月面探査ロケットによる月面調査がかぎりなくすすめられていたのです。

まず1964年7月にうちあげたレインジャ一1号はテレビカメラによる月面の写真織影に成功し1967年の8号・9号といずれも月面の様子を地球におくってきています。


さらにアメリカは、月面をくわしく調査するため一連のルナ=オービターの月衛星をうちあげています。
この衛星は月のまわリをまわる、いわゆる孫衝星といわれるものです。

1966年にうちあげられたルナ=オービター1号は月面写真の試し撮りに成功しました。
そして、つきつぎにうちあげられた月衛星は月の表側だけでなく、裏側の様子も撮影したくさんの写真をおくってきました。

このルナ=オービターとならんで、アメリカは月の地形や地質調査する目的でサ-ベイヤーをうちあげています。

このサーベイヤー月ロケットは月の表面に軟着陸して調査するものです。

とくに、1967年4月にうちあげたサーベイヤー3号同じ年の5月にうちあげた5号の調査によると月の表面は、湿った砂地のようなわりあい柔らかい地面でその成分は地球にもよく見られる火成岩である玄武岩に似ているといわれています。

このような実験によって月面が人間の直陸にも安全であることが確かめられたのです。

実際に月面降りたった宇宙飛行士の話や写真によると月面は細かい炭の粉のように柔らかく色はかっ色であることがわかりました。

ソ連も月面の科学的調光を目的とする月ロケット、ルナをうちあげています。
このロケットは、アメリカのルナ=オービターやサーベイヤーと同じような、月のまわりをまわる月衛星や月の表面に軟着陸して、月の地形や地質を調べるものです。

これら、アメリカ・ソ連の一連の月面探査ロケットはいずれも大成功のうちにおわりたくさんの月に関する資料をえることができました。



惑星ロケット

月を越えて、隣りの惑星である金星や火星を調べるロケットもいろいろ試みられています。

その最初は、1961年にソ連がうちあげた金星1号と翌年、火星に向けてうちあげた火星1号がそれです。しかし、いずれも失敗におわりました。

その後、1965年11月にうちあげた金星2号は金星から2万4000キロメートル離れたところ通過しさらに4日後にうちあげた金星3号は、見事金星に命中しました。

金星3号の成功により、1967年10月にうちあげた金星4号ははじめて金星の表面の軟着陸に成功しいままでよくわからなかった近世の表面や内部の様子を知るうえで貴重な資料を地球に送ってきました。

それによると、近世の大気の濃さは地球の15倍、温度は280度で大部分は二酸化炭素であることが確認されました。

さらにソ連は、1969年1月、金星4号・5万号をうちあげ金星の人気や温度などをよりくわしく調べようとしています。

いっぽうアメリカは、1962年、金星にむけてうちあげたマリナー2号は金星から3万キロメートルのところまで近づき大気の温度などを観測するのに成功しました。

さらに、1964年にうちあげたマリナー4号は火星の上空1万キロメートルのところに達し火星の表面を撮影するのに成功しています。

その写真によると火星の表面にも月に見られる火口のような地形がたくさんあることがわかります。

このように、地球と同じ仲間の金星や火星の調査がすすめられています。

月旅行が実現するころには、つぎの目的であるこれら惑星への旅が、いよいよ本格的に計画されることでしょう。




アメリカの宇宙開発計画とは? わかりやすく解説!

いっぽうアメリカでは、マーキュリー計画がすすめられまず1961年5月と7月に、それぞれ弾道飛行に成功しました。

そして1962年には、アメリ力最初の人間衛星フレンド=シップ=セブン号が、地球を3周したのです。


それから同じ年の5月・10月、ついで翌年の5月には地球を22周しやつぎばやに実験を続け、このマーキュリー計画は成功のうちに終わりました。

つぎに、1963年から、宇宙開発計画の第2弾としてジェミニ計画がはじめられました。
この宇宙開発計画の目的は、宇宙遊泳・ランデブードッキング・宇宙船外での活動でした。

1963年3月にうちあげられたジェミニ3号は世界ではじめて宇宙船の軌道をかえることに成功しました。

そして1965年12月には、史上はじめての宇宙ランデブーに成功し実に14日間の宇宙飛行記録をたてたのです。

1966年11月のジェミニ計画最後の目的である衛星船外での活動の成功で、この計画は大成功のうちに完了しました。

つぎにアメリカは、サターンロケットというまえよりもさらに強力なロケッ卜を用いて3人の人間を月におくるアポロ計画をすすめました。

1969年7月6日、アームスートロング、コリンズ、オルドリンの三飛行士を乗せたアポロ11号は人間としてはじめて月に着陸するのに成功しました。

そしてテレビカメラにより月面の様子や宇宙飛行士の活動の様子を地球におくってきました。

アポロ計画とは3人乗りの宇宙船がまず月のまわりをまわる軌道に乗った後ふたりが月探検用のロケットに乗り移って母船を離れます。

そして逆ロケッ卜をつかって月におりて探検したあとまた飛び上がって母船と出会い待っていたひとりといっしょになって地球に帰るという計画です。

アメリカは、アポロ計画を19号まで続ける予定です。
つぎの計画としては、月と地球の間に宇宙ステーションを飛ばしこのステーション基地として宇宙開発をすすめようとしています。




人類最初の宇宙飛行士とはだれ? わかりやすく解説!

月ロケットの打ち上げ

1959年には、ソ連の3つの月ロケッ卜が、すばらしい成功をおさめました。
宇宙ロケット第1号は、重さ約1トン半という大きなものでした。

衛星は、月から7000キロメートルばかりのところを通過したのち太陽のまわりをまわる最初の人工惑星となりました。
つぎの第2号は、計算よりわずか2~3分しか違わない性格さで月面に命中したのです。


自動惑星間ステーション

ソ連は1959年10月には、第1号とほぼ同じ重さの宇宙ロケットをうちあげ、これを自動惑星間ステーションと名づけました。

この衛星に、月に近づき、月の裏側をまわって写真を撮ってからまた、地球の近くにかえってくるというたいへんな離れ技をやってのけたのです。

はじめてうつされた月の裏側の写真が発表されたときは世界中の人々の驚きは、たいへんなものでした。

人工衛星の回収に成功

アメリカは、いろいろの種類のロケットを実験したくさんの人工衛星をうちあげました。

1960年にうちあげられた、ディスカバリー13号ははじめて人工衛星の回収に成功したのです。

またソ連も同じ年、2匹ぼ犬などを乗せた人工衛星の回収に成功しました。
この人工衛星の回収の成功によって人間が宇宙を飛ぶことのできるあしがかりができたのです。



人間の宇宙飛行

1961年4月12日、ソ連は、人類最初の人間衛星をうちあげ見事に成功しました。

世界最初の宇宙飛行士となったガガーリン少佐を乗せたロケットは飛行時間わずか1時間48分ではありましたがロケット発射のときのたいへんな加速度や飛行中の無重力状態といいた宇宙飛行の大問題に人が立派に耐えられることを証明しました。

ソ連では、同じ年の8月、ボストーク1号が地球を18周することに成功し、さらに翌年には、2つの衛星船をつぎつぎにうちあげて連絡をとりながら飛行するという実験にも成功しました。

このほか、いろいろな実験の積み重ねによってついに人類最初の宇宙遊泳という大偉業がなしとげられました。

1965年にうちあげられたボスホート2号に乗ったレオノフ中佐は宇宙船から5メートル離れた宇宙空間にでて、10分間作業を続けたのち無事船内にもどることに成功したのです。

宇宙で人間が作業することは、2つの宇宙船をむすびつけたり宇宙ステーションをつくりあげるのにどうしても必要なことです。
この成功は、宇宙への進出に大きく一歩足を踏み出したことになります。

ソ連は1967年、いままでにない新型衛星船「ソユーズ」1号をうちあげました。

しかし、地球を18周したところで地上に降下する際パラシュートが開かず操縦士は墜死しました。
この実験の失敗は、はじめて人問を乗せて月のまわりをまわる宇宙船の計画を延期させざるをえませんでした。

ソユーズ1号の失敗後、同じ年の10月にうちあげた2つのコスモス衛星船は、地上からの電波による操縦でけで2つの衛生船をむすびつけるドッキングに成功しました。

さらに1968年4月にも2つの衛生船をドッキングさせることに成功しました。
1969年1月、ついにソ連は、ソユーズ4号と5号の友人衛生船のドッキングに成功しました。

そして、結合した状態のまま飛行を続けているあいだにソユーズ5号のふたりの飛行士が4号に乗りうつるという画期的な実験にも成功しました。

この成功は、ソ連が当面の目標としている宇宙ステーションを開発して、月だけでなく、他の惑星への旅行をする大きな足掛かりとなったのです。




人工衛星が飛び続けるのはなぜ?回収方法とは?

人工衛星が飛び続けるわけ

いちど、秒速約8キロメー卜ルというスピードでうちあげた人工衛星に地球をまわるようになり、もう地表には落ちてきません。

実際には地上何百キロメートルという上空にもわずかな空気があるので、長いあいだには、少しずつスピードが落ちて落下しはじめ、ついには空気の濃いところに突入して燃えてしまいます。

しかし、この空気抵抗がなければ、衛星はいつまでも飛び続けます。
それは衛星の遠心力と地球の引力とがつりあって運動を続けるためです。

いいかえれば、衛星が地球と万万引力で引きあって引力にまかせて運動しているわけです。

この様子は、地上で投げられたボールが落ちてくる途中の状態と同じことです。

自由に落下してくる物体は、引力にまかせて動いていて少しもさからいません。
したがって、その物体の中では、もう地球に引かれているという感じつまり、重さは感じられないはずです。

もし、エレベーターのひもが切れて落ちたら中にいる人は、宙に浮いたように感じます。

このように、あとで述べる人間衛星などの場合衛星の中では人間の体も宙に浮いてしまいまったく重さを感じなくなります。

いわゆる無重量状態がおこるわけです。


人工衛星を回収するには

いっぽう、こうして飛んでいる衛星を地上に帰そうとか衛星から出て、地上に帰ってこようとなるとまた、1つの大きな問題があります。

衛星は、いま述べたように、引力にまかせて飛んでいるのですからそれ以上落ちるというこはありません。

仮に衛星に乗っている人が衛生から飛び降りたとしてもその人自身も衛星と同じスピードで引力とつりあって飛んでいるのですから、下へ落ちるということはなく、衛星とならんで飛び続けるだけです。

これがいわゆる宇宙遊泳ということになるわけです。

そこで、衛星を地上にかえそうとすればその軌道を地面と交わるようにするほかはありません。

つまり、衛星のスピードを少し遅くしてやればよいわけです。

衛星のスピードを遅くするには進行方向にロケットをふかしてブレーキをかける方法しかありません。

こうして、いわゆる逆口ケットを噴射してスピードを落としてやれば衛星の軌道は少しずつ小さくなって地表と交わるようになります。

これが衛星を地上に回収する原理ですがちょうど適当な場所に安全に回収するにはロケットの噴射を弱くして原則することロケットの向きを正しくすることそれに大気の濃いところに突入したときに生じる何千度という高い温度にたえる工夫をすることなどいろいろな難しい問題があります。

しかし、こうしたことがらが解決したおかげで人間衛星なども実現するようになったのです。



多段四季ロケットと人工衛星

ところで素晴らしく速いスピードをあたえて地球のまわりに、重い人工衛星を飛ばせることができたのはいうまでもなく、ロケットの進歩のおかげです。

とくに、三段ロケットとか四段ロケットというような多段式ロケットが工夫されたことが、成功した大きな鍵でした。

というのは、ただ1つのロケットでは、現在でも秒速3~4キロメートル出すのがせいぜいです。

ところが、ロケッ卜を、親・子・孫というようにつぎつぎに重ねた形にしていくとはじめ、親ロケッ卜が火をふいて飛び上がり、それから燃えつきると切り離して、子・孫ロケットの順に火をふくようになります。

このようにしておけば、子・孫のロケットは、それぞれ、その前までのロケットで得た、速さを受け継いでその上に、さらに大きな速さを、得るようになります。

そして最後には、人工衛星になれるような速さにすることができるのです。

しかし、親・子・孫ロケットと、つぎつぎに小さくしなければならずはじめのロケット全体の重さは、最後に衛星になる重さの100倍も1000倍も重いものが必要になります。

ですから、何十キロ、何百キロ、あるいは何トンというような大きな人工衛星をうちあげることは、たいへんな仕事になるわけです。




人工衛星とは?人工衛星が飛ぶ原理とは? わかりやすく解説!

人工衛星

1957年10月4日、ソ連が第1号人工衛星のうちあげに成功したと発表しました。
そして、明け方の空を横切って飛ぶ、明るい星のような衛星が見られ衛星から送られてくるピピピという信号音を聞いたときには世界中の人々がたいへん驚きました。

それがわずか10年あまりのうちに今日では、地球をまわっている人工衛星が本体以外のものまでいれると、実に千何百個という、たいへんな数になります。

しかも、それぞれが、さまざまな目的に用いられるという大進歩をとげたのです。
ところで、こうした人工衛屋のいろいろについて知るにはまずその原理を理解することが大切です。


人工衛星の飛ぶ原理

一般の人々は、人工衛星が秒速8キロメートルというものすごスピードで、わずか1時間半あまりで地球を一周することに驚きました。

また、燃料もなしに、地球のまわりを飛び続けることも不思議に思われました。

しかし、人工衛星のようなものが地球のまわりをまわる理屈は、はやくから知られていました。

200年ちかくも昔、有名な科学者ニュートンが万有引力の法則を考えだしたときからそのわけは、わかっていたのです。

地球で投げ出された物体は小石でもボールでもすべてふたたび地上に落ちてきます。
これは、地球と投げられた物体が、引力で引き合っているからです。

しかし、仮にボールを水平に投げ出したとするとすでに投げたときよりも、バットで打ったときのほうが遠くまで飛んで地面に落ちます。

これは、バットで打ったときの力のほうが大きいからです。
そこで、このときのボールの道筋について考えてみましょう。

ボールが地面に落ちるということは、ボールが地表面とぶつかってそこで行き止まりになることです。

もし、地球がもっと小さいか、あるいは大きさがなくて重いだけの点のようなものだったとしたら地面というものはなく、ボールの道筋は行き止まりにならずにもっと続くわけです。

ニュートンは、地球に大きさがあってもなくてもその道筋は同じで、ボールと地球が引力で引きあって運動する場合ボールの道筋は、下の図のようになることを発見しました。

速さが遅いときは、ボールの道筋は図のアのように地球の中心をめぐるたいへん細長い楕円形になります。

ところが、速さが大きくなるとだんだん、イ・ウのようにまるく大きな楕円になるのです。



このように、落ちる…はだんだん遠くなりしたがってボールは遠くまで飛ぶというわけです。
ボールで遠くまで飛ぶというわけです。

理屈の上では、スピードをどんどん大きくすれば地球の反対側まで飛んで、ようやく落ちるようになります。

地球よりも、大きなまるい道筋を通るようになれば地面とはめぐりあわなくなり、落ちなくなるわけです。
このときの速さは、毎秒約8キロメートルほどです。

こうなると、もうボールは地上に落ちなくなり、つきのように地球をまわります。つまり人工衛星となるわけです。

この速さをさらに速くすれば道筋は投げ出した場所とは反対側のほうで、だんだん地球から遠ざかるようになり、細長くなっていきます。

速さが毎秒10.9キロメートルほどになると、地球から最も遠ざかる点は、だいたい40万キロメートルほどになります。

この距離には月がまわっています。

つまり、このくらいの速さになるとロケットは月のあたりまでいけることになります。

さらに、打ち出しの速さを増してゆくとロケットの到達距離はぐんぐん伸び毎秒11.2キロメートルほどになると、軌道はかなりなく長い楕円、つまり放物線となりもはや地球にはもどってこなくなります。

すなわち地球の引力に打ち勝って、飛び去ってしまうわけです。

火星や金星、もっと遠くの星々に向かうロケットはこのような速さをあたえてやらなければならないわけです。

また、届く距離とともに、届くまでの時間もずいぶんかかります。

それで、それぞれ運動している月や火星などの天体とめぐりあうように打ち出すには方向とともに速さを非常に精密に調節しなければならないのです。




地球をとりまく空気とは?観測を妨げる空気とは?

私たちは、地球をとりまく、大気という厚い空気の海の底で暮らしている生物です。

空気の海は、水の海のように目立ちませんが、私たちの頭の上には水にして、厚さ10メートルにも相当する重さの空気がのっています。

したがって、私たちは太陽でも、月でも、星でもすべての天体や宇宙の姿を、みなこの空気の海を通して眺めているにすぎません。

いわば、海の底に住む魚が、地上の世界をみているようなものでしょう。
もっとも、私たちは、この厚い空気のおかげていろいろなものから守られています。


空気と私たちの生活

太陽の光に照らされている地球は、昼間もそれほど暑くならず夜もたいして寒くなりません。

これは、空気がほどよく熱をためておく力をもっているからです。
いわば空気は、地球の布団のような役目をしているわけです。

また、太陽からは目に見える光のほかに、いろいろな光線がきています。
たとえば、波長のたいへん短い紫外線や、X線などがあります。

そして、これらの光線の中には私たちが、それに直接あたると焼け焦げる、恐ろしいものもあります。

しかし、これらの光線は、空気にすっかりさえぎられてしまって地上までは届かないのです。

また宇宙から、たえず地球に降り注いでいる宇宙線も直接あたれば人体に害があります。
しかし、これも地球をとりまく空気によってずいぶんその力は弱められています。

さらに、地球には毎日、何億とい細かい流れ星が降り注いでいます。
この流れ星も大部分が地球の空気分子と衝突して燃えきってしまいます。

このように空気は、私たちを守ってくれる役目もしているわけです。
ですから空気は、ただ私たちが呼吸をするのになくてはならないなどというだけではないのです。



観測をさまたげる空気

このように、空気は私たちを守ってくれていますが一方では、宇宙観測をさまたげています。

というのは、空気が地球をとりまいているので私たちは、ほかの天体を、空気ごしに眺めているのです。
そのため地上からでは、とても天体の本当の姿をつかむことができません。

私たちの目に感じる光は空気を通り抜けてくるので太陽が出れば明るくなります。

しかし、空気がまったく通さない光や電波もいろいろあります。

したがって、そうしたものは、地上からは調べることができませんし宇宙線や流れ星が空気に入ってくるまえにどんな性質をもっているかを知ることができません。

このように、天体や宇宙の観測・研究には空気が大きなさまたげとなっているのです。

このことは、もっと身近なことでもわかります。

たとえば、私たちが月や火星などの姿を大きな望遠鏡でながめるとたいていゆらめいて見えたり、ぼけたりしていてあまりはっきりと見えることがありません。

これは、たえず揺れ動いて流れている空気の層を通してながめているからです。

このようなわけで昔からの天文学者の望みはなんとかして天体の観測をさまたげている空気を取り除きたいということでした。

それでm多くの天文台が少しでも空気の薄い山の頂上や丘などにつくられたのです。

しかし、わたした・乙は、空気を取り除くことはできません。
そのかわりに、地球をとりまく空気の上に出て観測すればよいわけでこれを実現させてくれたのが、ロケット、そして人工衛星です。




ロケットが発達したのはいつ頃?ロケットのしくみとは?

ロケット

大昔から、月や星は、みんな地球のようなものでそれぞれの世界があり、人が住んでいるなどと考えた学者がいました。

18世紀の有名な天文学者ウィリアム==ハーシェルなどでさえ月に人がいると考えました。

また、一般の人々にとっても、月の世界はあこがれのまとで多くの物語や詩にうたわれてきました。
ですから、この月の世界に行ってみたいという気持ちが起こってきたのも、とうぜんでしょう。

天文学が進歩して、月には生物がいないらしいということがわかってからも、月や惑星の世界を探検してみたいという夢は、少しも衰えませんでした。

宇宙旅行を空想した、おとぎ話や、小説・映画などがいくつもつくられてきたのをみれば、それがよくわかります。


ロケットの発達

そうした空想も、はじめは鳥にのったり、風船にのったリ大砲の弾丸に入って打ち出したりという、途方もないものでした。

しかし、だんだん考えかたも進歩してきました。

そして、20世紀こ入ってからは、もっぱらロケットが宇宙旅行の乗り物として考えられるようになりました。

しかし、この宇宙旅行に本当に実現の望みがかけられるようになったのは、ごく最近のことです。

ドイツは、第二次世界大戦で降伏するまぎわにロンドンを攻撃するために、ロケット爆弾のV2号を使いました。

これは、世界ではじめての近代的口ケットとして有名ですがその技術は戦後、アメリカ・ソ連などで研究され、ますます進歩しました。

ロケットのはたらき

もともと、ロケットが、宇宙旅行に向くといわれるのはそれが空気の世話にならないからです。

ただ空を飛ぶだけなら飛行機や風船もありますが空気がないと飛べません。
飛行機は、翼で空気中の浮かび、風船に入れた空気よりも軽い気体のおかげで、浮かびます。

また、飛行機のプロペラは、空気がなければ、役に立ちません。
また、飛行機のエンジンは、ガソリンと空気中の酸素とを混ぜて燃やしているわけです。

これは、プロペラ式の飛行機でも、ジェット機でもかわりありません。

これにくらべて、ロケットは、ガソリンのような燃料とそれを燃やす酸素の両方を積んでいることがジェット機と違うところです。
いわば自給自足できるわけですすから、空気のあるなしは問題になりません。

むしろ空気は、スピードを出すのに邪魔になるくらいのものです。

科学の発達とともに、ロケットはしだいに改良され200キロ・300キロ・400キロメートといったいままで、とうてい手の届かなかった高空にまでたっするようになりました。

とくに、ロケットの価値が認められるようになったのは1957年夏から1958年までおこなわれた、国際地球観測年のおりです。

私たちは、地球の上に住んでいて地球のことは何でも知っているように思っています。

しかし地球は、陸でも海でも、すみずみまで探険できていてもそれは表面だけのことで、それから上や下はほとんどわかっていません。

いちばん高い山が海抜9キロメートルばかり反対にいちばん低い海の底は深さ10キロメートルくらいです。

地表のでこぼこは、だいたい20キロメートルくらいですがそのはしからはしまで調べることも、決して用意ではありません。

飛行機や気球によって地球上の高さ30~40キロメートルくらいまでは、調べることができます。
しかし、地面に穴を掘ることは高いところへ昇るよりはるかに難しいことです。

こうしてみると人間の活躍できる範囲は地表面付近の40~50キロメートルにすぎなかったわけです。

この距離は、地球の中心までの距離6380キロメートルの約100分の1以下です。
つまり、地球の皮の部分にすぎないわけです。
これではとても地球について、調べつくしたなどとはいえません。



ロケットによる観測

ですから、ロケットが地上何百キロメートルまでも飛べるということは、
観測にとって、たいへん役立つわけです。

ロケットに積み込んだいろいろな観測機械が、高空で自動的に観測し
その結果を、電波で送ることができます。
あるいは、パラシュートで機械を取り戻すこともできるのです。

こうして、いままで、はっきりわかっていなかった高い空の様子たとえば、空気の成分・濃さ・温度・電離層の正体高空での地球の磁界(磁石のような性質)の強さなどさまざまなことが調べられます。

また、地球の外からやってくる宇宙線の観測や研究にも、たいヘん役立つのです。
このような観測ロケット、さらにはもっと発展した人工衛星などの発明によって私たちが、直に調べられる範囲が、ものすごく広がってきました。

ロケッ卜の価値は、まず、このような観測の方面で認められだしたのです。




暦のいろいろな種類とは? わかりやすく解説!

年のはじめ

昔は、ふつうどの暦でも、春分・夏至・秋分・冬至のように1年のうちでも、特別な日を目印として選んでそのころから新しい年がはじまるようになっていました。

私たちが使っている、暦の年のはじめももとは、冬至を目印にして、決められたものといわれています。

日本や中国の旧暦では立春(冬至と春分のちょうど真ん中の季節で新暦では2月4日ごろ)を年のはじめの目印と決めて毎年、そのころが正月1日になるようにしていました。

旧暦の日付けが新暦の日付よりも1か月ほど遅れているのは、このためです。


暦のいろいろ

太陽暦や太陰暦をもとにして、つけられた日付といっしょにその日その日の天文現象や、季節の催しなどをまとめて書いてある本のことを、ふつう、暦といっています。

この暦は、私たちが使っているカレンダーのように簡単なものもあれば天文台でつくっているもののように天体の動きを非常にくわしく書いたものもあります。

常用暦

人々の毎日の生活に便利なようにつくられている暦を常用暦といいます。

天体暦

太陽・月・惑星・恒星などの位置を年月日によって表にしたものでこれらの天体の運動や位置を調べるときに、なくてはならないものです。

航海暦

航海しているとき、航海者は天体の位置を観測して船の位置を知ります。
航海暦は、この天体観測に便利なようにつくられた、1つの天体暦です。

このほか、特別な目的のための暦が、いろいろあります。
農業に便利な農事暦、漁業に便利な漁業暦などが、それです。




太陰暦・太陽暦とは? わかりやすく解説!

昔から、世界各国で使われてきた暦を大きくわけると、太陰暦と太陽暦とになります。


太陰暦

大陰暦は、月の満ち欠けをもとにして、日付を決める暦です。
新月の日を1日として、順に2日、3日と数えていきます。

新月から新月までよ、平均して、29日12時間44分03秒ですから29日か30日で、月がおわります。

太陰暦のもとになる新月の日は実際に新月の姿を見て決めるものもあれば、計算で決めるものもあります。

太陰暦の12か月は、354日か355日で季節のひとまわり(平均365日5時間48分46秒)より10日か11日短いのです。

それで、1年を12か月とすると、3年経てば大陰暦は季節より1か月ほど早くなります。

暦の上では、4月はじめなのに、まだ寒い3月はじめの気候だというようなことが起こるわけです。

それからまた何年か経つと、暦と季節とのずれはますますひどくない、8月に雪が降ったり12月にヒマワリが咲いたりすることになります。

これでは、とても不便です。

そこで、なんとか、この太陰暦を季節にあわすそうと、工夫しました。
そして、2年か3年ごとに、余分の月(うるう月)をつけくわえて1年が13か月にしました。

こうして、太陰暦でも、季節にあうように工夫されたものを太陰太陽暦といいます。

これにたいして、季節との関係がない太陰暦を、純太陰暦といいます。

ふつう太陰暦といっているのは、たいてい大陰太陽暦のことです。
アラビアなどで使おれているモハメッド暦は純太陰暦で日本や中国の旧暦は太陰太陽暦です。



太陽暦

太陽暦は、春・夏・秋・冬の季節のうつりかわりをもとにして日付を決める暦です。

季節のひとまわり、言い換えれば、醜聞までの長さは平均して365日と5時間48分46秒です。

そのため、1年を365日と決めておくと4年後には、5時間48分46秒の4倍、つまり約1日だけ日付のほうが季節よりすすみます。

たとえば、ある年の春分か3月21日午前2時であると4年後には、春分が3月22日午前1時になってしまいます。

この日付けのすすみを、もとに戻すためいつもは28日までしかない2月の日付に29日の1日を4年目ごとに付け加えました。

この付け加えられた1日が、うるう日です。

うるう日のおかれる年をうるう年うるう日のおかれない年を平年といいます。

大昔、エジプトで使われいた暦やつぎに出てくるユリウス暦・グレゴリオ暦は太陽暦です。

紀元前46年にユリウス=カエサル(ローマの執政官、ふつうのジュリアス=シーザーという)がソンゲネスという天文学者の力を借りてつくったユリウス暦といわれる太陽暦は4年に1回、うるう日をおいた暦です。

しかし、4年に1回、うるう日をおいただけでは長い月日が経つと、こんどは、日付が季節より遅れてきます。
それは、5時間48分46秒の4倍が、ちょうど1日にたらないからです。

この遅れをなくすために、西暦1582年に口ーマ法皇グレゴリオ一三世がユリウス暦をあらためました。

これをグレゴリオ暦といいます。
いま、世界各国で使われている太陽暦に、このグレゴリ暦です。
グレゴリオ暦では、うるう年の決めかたをつぎのようにしています。

その年の西暦年数を4で割って割り切れる年はうるう年、あまりの出る年は平年です。

しかし、4で割り切れる年のうち100でも割り切れる年は除き400で割り切れる年だけを、うるう年にしています。

日本では、1872年11月9日に、太陰暦をやめて西洋と同じ太陽暦を使うことに決め、太陰暦の1872年12月2日の翌日を太陽暦の1873年1月1日としました。

ふつう、この太陽暦を新暦、もとの太陰暦を旧暦ともいいます。

グレゴリオ暦はすぐれた暦ですがまだ、ユリウス暦の欠点が、いくつか残っています。

たとえば、グレゴリオ暦では、28日、30日、31日などの月が不規則にならんでいます。

また、曜日と月日が合わないのも不便です。

そこで、もっとよい新しい暦を使うようにしようと100年以上も前から、大勢の人たちが努力してきました。
その新しい暦の1つに、世界暦があります。

世界暦では、1年をまず、91日ずつの4期にわけます。
その1期は、31日・30日・30日の3つの月でできています。

こうすると、91日は、7で割り切れるので一期ごとに月日と曜日を合わせることができます。

たとえば、世界暦では、4つの期のはじめにあたる1月1日・4月1日・7月1日・10月1日はみな日曜です。

このはじめの日から91日目が、その期の終わりですから月の終わりの月の30日は、みな土曜になります。
したがって、一期の暦は、そのまま二期・三期・四期と1年中繰り返して使えます。

四期の日数は、合わせて364日です。

あまった1日は年末において、世界中の祝日とします。
また、うるう年のときは、うるう日を6月の終わりにして祝日にします。
この2日の祝日は、週の中にいれないので何年経っても同じ暦が使えます。

けれども、暦は古い週刊にしっかり結びついているのでいまの暦をかえるのは、なかなか難しく政界重が新しい暦えを使うまでには、まだ、長い年月がかかることでしょう。




緯度と経度とは? わかりやすく解説!

地球上の位置をあらわすには、緯度と経度が使われます。
下の図のように、地軸にそって北極と南極を通るように
地球を切ったと考えてみましょう。

切り口は円になります。

この円は、北極と南極とをむすぶ線で2つの半円にわけられます。
この半円を経線といい地球の表面を、真北から、真南に通る線です(ア)


つぎに、地軸に直角になるように、地球を切ったと考えてみましょう。
切り口は、やはり円になります。

これが緯線で、地球の中心を通るように、切ったときの緯線が赤道です。
赤道は緯線のうちで、いちばん大きなものです。
緯線は、地球の表画を、真東から真西の方向に通っています。(イ)

まるい地球の表面に、このような経線と緯線とを同じ間隔で決めておき、それに番号をつけておけば、ある地点が何番目の経線と何番目の緯線の上にあるかを、あらあすことができます。

こうして、その地点の地球上の位置をはっきり言い表すことができるのです。

地球上では、イギリスのグリニッジ通る経線を0度の経線として、それから東へ東経1度、2度……180度、西へ西経1度、2度……180度というように度数をつけてあります。

東へ半まわりした東経180度の経線と西へ半まわりした西経180度の経線とは、地球の反対側で出会うので、同じ線になります。

0度の経線と180度の経線とは地球のちょうど正反対の位置にあるものです。

緯線は、赤道を0度として、北極へ向かって北緯1度、2度……90度、南極へ向かって南緯1度、2度……90度と度数をつけてあります。

北緯90度は北極、南緯90度は南極にあたります。

経度はグリニッジを通る経線からどれだけ東または西に離れているかをしめし、緯度は赤道からどれがけ南または北に離れているかをしめします。

同じ経線の上にある地点は、みな同じ経度を同じ緯線の上にある地点は、みな同じ緯度をもっています。




標準時・世界時・日付変更線とは? わかりやすく解説!

経度と時刻

平均太陽時がわかっても時刻については、もう1つの問題が残っています。
それは、土地によって食い違う時刻をどうすればよいかということです。

上の図は、地球を北極の真上から見たものです。
アの場所では、いまちょうど南中ですがイの場所では、南中を過ぎていますし、ウの場所ではまだです。

太陽の南中を、12時として時刻を決めるとするとアの場所の12時はイの場所の12時より遅く、ウの12時より早くなります。

時刻は、このように場所によって違ってくるのです。

この関係は、平均太陽についても同じようになります。
この様子を、もっとくわしく調べてみましょう。


子午線と時刻

ある地点を通る経線のことを、その土地の子午線といいます。
天の子午線というのは、この子午線を天球まで引き伸ばしたものです。

太陽や星が、その土地の子午線の上にくることが、南中です。

地球は、西から東へ向かって自転しますから左の図のように、太陽がいまちょうどアの子午線上にあるとすると時間が経つにつれて、つぎつぎに西のほうのイ・ウの子午線の上にきます。

そして、24時間後には、ふたたびアの子午線の上にきます。

ですから1時間経つと、太陽は360°÷24=15°だけ西によった子午線上にくるはずです。

経度が15度西によると、南中は1時間ずつおくれるわけです。

太陽の南中する時刻を、12時と決めたのですから経度が15度西のイの12時は、アの12時より1時間あとになるわけです。

イの12時のときには、アでは午後1時です。

標準時

経度の違うところで、それぞれ違った時刻を使うことにたいへん不便なことです。

たとえば、東京(東経140度)で12時のとき明石(東経135度)では11時40分になります。
これでは、同じ日本の中で、いろいろな時刻を使うことになってとても都合が悪くなります。

日本では、だいたい東経135度が東西の中心になります。

そこでこの地点の子午線に平均太陽のくるときは日本中どこの土地でも、正午と決めています。

こうすれば、私たちは、みな同じ時刻が使えて便利です。この時刻を日本中央標準時といいます。

世界の各国でも、それぞれ都合のよい子午線を決めここを平均太陽が通る時刻を、正午としています。

アメリカのように大きな国では、国全体を4つにわけ4つの標準時を使っています。

世界時

交通で通信がすすんでくると各国ごとに違った標準時か使うのでは不便なことがあります。
天文の研究などのためにも世界共通の時刻があったほうが都合がよいのです。

そこで、経度0度の地点の平均太陽時を、世界共通の時刻としました。これが世界時です。

日本標準時と世界時は、9時間ずれています。
世界時で正午のときは、日本中央標準時では午後9時になります。



日付変更線

世界地図を開いて、太平洋の真ん中あたりを見ると経度180度の線にそって、日付変変更線というものがあります。

この線を越えて通る飛行機や船は、ここで日付を進めたり遅らせたりしなければなりません。

イギリスのグリニッジで、6月10日12時のとき西経180度の地点では、10日の0時です。
また、東経180度の地点では、10日の24時、つまり11日の0時となります。

ところで、東経180度の経線と西経180度の経線とは同じものです。

そうすると、そこでは、グリニッジで6月10日11時のときは10日の0時とも考えられ、また、11日の0時とも考えられるわけです。

こうして、グリニッジから、東へ東へと時刻を調べていって経度180度の地点へいったときグリニッジから西へ西へと時刻を調べていって、同じ地点までいったときとでは、ちょうど2日だけ日付が違ってしまいます。

時刻は、どちらの場合でも同じ0時です。

まだ、グリニッジから西へ西へと数えていってふたたびグリニッジまできたとするとグリニッジで6月10日の12時という時刻が6月11日の12時ということになります。

これは地球のまわりに経度を数えると、どうしても起こることなのです。
それで、だいたい180度の経線にそって日付け変更線というものをつくりました。

これは、西から東へ通り抜けるときには、1日だけ日を減らし、反対に東から西へ通り抜けるときには1日だけ加えることにしています。

陸上にこの日付け変更線が通っていたのではすぐ隣り合った村と村とで日付けが違うというようなことが起こり不便です。

しかし、180度の経線が通っているところは大部分が海なので、その心配はありません。

180度の経線は、北のほうでは大陸に少しかかり南のほうでは、小島にかかりますが日付け変更線はそのようなところをよけてひかれています。

時報

天文台では毎晩、標準星が子午線を通る時刻を観測して正しい恒星時をはかり、これから計算して正しい平均太陽時を出しています。

天文台には、精密な時計がありいつも正しい時刻をしめすように動いています。
しかし、その時計でも、絶対にくるいがないとはいえません。
観測してはかった正しい時刻をくらべて、時計のくるいを調べています。

この時計は、日本全岡の時計のもとになるものでこれを標準時計ということがあります。

標準時計は、これまでは精密な振り子時計が使われていましたがいまでは、もっと正確で、磁針の影響などを受けることもほとんどない、水晶時計や原子時計が使われています。

この正しい時刻を広く知らせることを、報時といいます。

また、東京都小金井の郵政省電波研究所からは、昼も夜も休むことなく、水晶時計の正しい毎秒の時刻信号が、短波無線で送り出されています。

この時刻は、東京天文台の時計で監督されているのです。
放送局では、これらによって、自分の時計を直しその時計で、時報を出しています。

NHKの特報は、100分の1秒くらいまで正確に出されています。




太陽・恒星を利用した時刻の決め方とは? わかりやすく解説!

時刻の決め方

私たちは、よく「昨日、10時に寝て、今朝7時に起きたから9時間も寝た」などと言います。

この場合、10時とか、7時とかいうのは時刻で寝たときや、起きたときの瞬間を言っているのです。
これにたいして、9時間というのは、この2つの瞬間のあいだの時の長さのことです。

したがって「いま、時間は何時」ではなく「いま、時刻は何時」というのが正しいのです。

時刻も時間も、時計ではかりますす。
しかし、時計はときどき、ラジオの時報にあわせなければなりません。

それでは、その時報のもとになる時刻はどのようにして決められるのでしょうか。


太陽と時刻

太陽は地球の自転のため毎日東から出て南を通り西に沈むように見えます。

太陽が真南にきて、ふたたび、真南にくるまでのあいだが1日です。
この1日の長さの24分の1を1時間、その60分の1を1分そのまた60分の1を1秒と、細かくわけて、時間が決められています。

ですから、太陽の動きを見れば、時間で時刻を知ることができます。
また、太陽の光がつくる影を見ても、時刻がわかります。

このようにもとめた1日(真太陽日)はくわしくいえば、私たちがふつう使っている1日とは、違うのです。

日時計

棒を立てて、その影の位置をはかれば、時刻がわかります。
けれども、棒を地面に垂直に立てただけでは季節によって、時刻の目盛りをとりかえなければなりません。

1年中、同じ目盛りですませるには、棒を地軸の方向にたてるのです。

それには、まず、地面の上に、正しく南北の方向に線をひきます。
その線の上に棒をおき、棒の北に向いたはしを地面から35度の角度だけ上へ持ち上げて、棒をななめにします。

(35度は東京の緯度)このように、棒と地面との角度がその場所の緯度と同じになるようにすれば棒に地軸の方向に向いたことになります。

この棒に、直角に目盛り板をつけたのが、こま型日時計です。
ほかに水平日時計・垂直日時計などがあります。

真太陽と平均太陽

日時計のように太陽の動きで時刻を決める方法は、たいへん簡単です。
しかし正しい時刻を知るためには、これだけでは、まだ充分とはいえません。

というのは、細かく調べてみると、太陽が日周運動で地球をひとまわりする時間は、1年中同じではないからです。

地球の軌道は完全な円ではなく、それに近い楕円です。

そのため、地球と太陽の距離が近いときには地球から見た太陽の動きは速くなり、遠いときには遅くなります。

また地球の自転の軸が、その公転の面にたいして傾いていることからも、太陽の見かけの動きはかわってきます。

このように速くなったり遅くなったりする太陽の動きをもとにしたのでは、1日の長さが、日によって少しずつ違うことになります。

そこで、本当の太陽の動きとは別に1年中かわらない1日の長さを考えました。
そして1年中、同じ速さで動くように見える太陽を考えたのです。
これを平均太陽といい、それにたいして実際の太陽を真太陽といいます。

平均太陽をもとにして決めた時刻を平均太陽時といい私たちはこれを使っています。
これにたいして、真太陽をもとにして決めた時刻は、真太陽時です。

真太陽時と平均太陽時との違いを、均時差といいます。



恒星と時刻

私たちは、平均太陽によって、時刻を定めることができます。

けれども平均太陽は、時刻を定める上に仮に考えておいたものですから、その南中するのを実際にはかることはできません。

正しく時刻を決めるには、太陽のかわりに数個の標準星といかれる恒星を決めておいてその南中する時刻をはかり、それから計算によってそのときの平均太陽時刻をもとめるのです。

恒星の日周運動も、地球の自転のためですから、その動きは正確です。

恒星は望遠鏡で見ても、小さな点にしか見えず位置が決めやすく、そのうえ風のない、静かな夜に観測するので太陽の場合よりも、ずっとよい結果が得られます。

恒星時

このように標準星は、くりのない時刻をしめします。

しかし、恒星のしめす1日は、地球の公転のため平均太陽のしめす1日より、ごくわずか短いのです。

この時刻は、そのまま使うと、私たちの生活に不便なのでいつも平均太陽時に計算し直さなければなりません。

恒星のしめす時刻を恒星時といい春分点が南中するときを0時としています。

恒星時で数えると、1年は366日です。




太陽の高さの変化とは? 夏はなぜ暑いのか? わかりやすく解説!

太陽の高さと季節

実験

冬至・春分・夏至・秋分の日の太陽の南中時の高さを測ってみましょう。

平らな地面に垂直に、棒を立て、影の長さをはかります。
影がいちばん短くなったときが南中時です。

影の先と、棒の頭をつなぐ糸をはり、分度器ではかれば、高さがわかります。
また、棒と影の長さを、同じ割り合いに縮めて図を書いて測ってもわかります。

南中時刻は、経度によって違いますから、その土地の経度を調べ地方時に直した時計を見ながら、正午5分前から1分おきに正午5分過ぎまではかります。


実験

太陽の出入りの傾きを調べてみましょう。

夏至・冬至の日の太陽は、真東、真西から北と南へそれぞれ、どのくらい偏るかを、はかってみましょう。

春分・夏至・冬至の日の太陽の出入りのときに地面に垂直に立てた、棒の影に印をつけてそのあいだの角度をはかればよいわけですがつぎのような工作をしておくと便利です。

コニ七ページの図のように、20センチの正方形の板に細い竹ひごをたてて、地平線のよく見える場所におきます。

春分・秋分・夏至・冬至の日の入りのときの影を書き入れてその影のあいだの角度をはかります。

太陽の出入りのときの物の影は太陽が半分以上地平線に隠れているときにはかります。

太陽の高さの変化

太陽や、そのほかの天体の高さというのは山の高さという場合と違って、それを見上げたときの角度のことです。

水平線は0度の高さで、頭の真上(天頂)は90度になります。
太陽は日の出のときには、もちろん0度です。

そして、しだいに上がって昼ごろ真南の空にきたときには、いちばん高くなります。
けれども、日本では90度にはなりません。

太陽の・高さは、時間によってかわるのはもちろんですがその土地が赤道からどのくらい離れているかによっても、違ってくるのです。

北半球の夏至には太陽は北回帰線の真上にきます。
北回帰線の通るところでは、夏至の日に、地面に垂直に立てた。

棒の影は、昼ごろ1点になり、はかることができなくなります。
これは、太陽が私たちのいるところに23度半だけ近くなったようなもので、そのために北半球では暑い夏がやってくるのです。

北回帰線よりの北の地点では、東京でも、どこでも、太陽は、春分や秋分のと距離も23度半だけ高くまで上がるようになります。

冬至のときは、ちょうどこの反対で太陽は、南回帰線の真上にきます。
このように、太陽の高さは、季節によってもかわります。



夏はなぜ暑いのか

夏は昼が長く、太陽は、長いあいだ地面を照らしています。
そのために、温度が上がるということは、すぐ考えられるでしょう。
しかし、そればかりでなく太陽が高い角度から照らしているから暑いのです。

左の図のようにアイとアウの長さをくらべてみるとアウのほうが長いですね。

したがって、同じ熱の量がアウのほうでは広い範囲にまき散らされるので、決まった面積あたりの熱をうける量はアウのほうが少なくなります。
それでアウは、アイよりも温度が上がらないのです。

だから同じ面積でも、低いところからななめに照らされるよりも高い角度から照り付けられるほうが、それだけたくさんの熱をうけるのです。

このため北極では、夏には1日中太陽が照っていても高さが低いので、暑くなりません。
そして太陽が半日しか照っていない赤道地方のほうがずっと暑いのです。
南向きの土地が、ほかのところより、かなり温かいのも、同じわけです。

夏至のころいちばん暑くならないわけ

それなら、いちばん太陽が高く、しかも長く照り付ける夏至のころが1年中でいちばん暑いように考えられます。

しかし、実際には、それから1か月後の8月がいちばん暑くなります。
それは大地や海水が、温まり、気温が上がるのにそれだけの時間がかかるからです。

また冬も、いちばん寒いときは、冬至より2か月ほど遅れますがこれも、いちど温まった大地や、海水が冷えるのにそれだけの時聞かかかるからです。

実験

よく晴れた日に、空き瓶に水を入れそのときの温度をはかり、固く栓をします。
内側を黒くぬるか、また黒い厚紙をはった箱を2組用意します。

外気にふれないようにガラスのふたをして1組は水平にし、1組は太陽の光を直角にうけるようにならべておきときどき、この影を見て、太陽の方向に向きをかえ1時間おきに温度計を入れ、その温度の違いを調べてみましょう。




季節が変わるのはなぜ? 春分・夏至・秋分とは?

季節

春の温かい日差し、夏の夕立、秋の涼しい風、そして、冬の長い夜。

このように、私たちのまわりの自然は地球が太陽のまわりを公転するにつれて姿をかえます。

この地球の公転や自転の様子を調べていくと季節の移り変わりについてのいろいろな問題がわかります。


季節の変わるわけ

地球は大きな球で、コマのように自転しています。

地球には、コマのような芯棒はありませんがやはり南極と北極をむすんだ線を軸にして、まわっています。

いま、地球が公転する有様を、コマの図のように考えてみましょう。
平らな机の真ん中においた電球を、太陽と考えます。

そのまわりの円は、地球の公転する軌道です。
この軌道に沿って、地球のかわりにコマが自転しながらまわっているとします。

図を見てすぐに気がつくことはこのコマがふつうのコマのように、まっすぐに立っていないことです。
地球も、このように軸を傾けながら、自転をしているのです。

コマは、電球の右側のところではこの傾きのために、上の面がよく照らされます。
このコマの上の面が夏、下の面が冬にあたるわけです。

つぎに、電球の左の方では、コマの上が影になり下の方がよく照らされています。

ここでは、コマの上の面が冬、下の面が夏になるわけです。図を見てください。
コマの形が地球の形にかわっただけで、動き方は、まったく同じです。

地球の軸は公転する面(コマの場合の平らな机)にたいして垂直ではなく、垂直より23度半傾いています。

したがって、図のように、地球の北のほうがよく太陽に照らされたり南のほうが日当たりがよくなったりするのです。

このようにして、冬と夏が起こり、その中間では、春と秋になります。

地球の赤道のあたりでは、いつも頭の真上から太陽によく照らされているので、いつも暑い夏ばかりで季節のうつりかわりはありません。

また、北半球が夏のときに南半球は冬で反対に北半球が冬のときは南半球が夏になるということも図を見ればよくわかります。

このとき、北半球は、冬至です。

図のように、南極は23度半だけ、太陽のほうに傾いています。
ですから、赤道より23度半だけ南によった南回帰線という線の上に太陽がきます。

北極から23度半南によった北極圏までのあいだには地球が自転しても、日があたらず、昼かわりません。

そして、南極から23度半北によった南極圏までのあいだの地点では、夜がありません。

昼と夜の境目(日の出・日の入り)の線は地球の自転軸にたいして傾いているので、北の地方と南の地方とでは日の出・日の入りの時刻が、それぞれ違い、昼と夜の長さが違います。

北極圏に近いところを、まえの図から考えてみると昼の部分は少しで夜の部分が多く、つまり、夜の長いことがわかります。

その年によって違いますが、冬至は12月23日ごろです。



春分

図のイを見ると、地球の軸は、公転の方向にたいしては、傾いていますが、太陽の方向にたいしては直角です。
したがって、太陽は、地球を真横から照らすようになります。

冬至のときに、南回帰線の上にきていた太陽はだんだん北にきて、春分の日には、赤道の真上にくるのです。

地球上、どこでも、昼と夜の長さが同じだということも図からわかります。
春分は3月21日ころで、日本では彼岸の中日にあたります。

夏至

冬至の半年後、6月22日ごろ、地球は135ページの図ウの位置にきます。
冬至のときと、北と南がまったく反対になり北極は23度半、太陽のほうに傾きます。

春分のとき、赤道の上回あった太陽は、ますます北によってこの日には、北回帰線の真上にまできます。

北極圏より北には夜がなく、太陽は沈みません。
そして、その近くでは、夜の部分が少なく昼の部分が多いことが図からわかります。

秋分

春分より半年経った9月23日ごろです。
春分とまったく同じように考えることができます。

太腸は夏至のときの北回帰線から南に動いてきてこの日に赤道の真上にくるのです。日本では、秋の彼岸の中日にあたります。




昼と夜がかわる場所とは? 白夜とは? わかりやすく解説!

北国の星と夜

ずっと北野地方では、太陽の方角や昼と夜の長さは、どのようにかわるでしょうか。

夏至とき、北極圏(北緯66度30分の緯線をいう)にいくと太陽は午後12時になっても沈みません太陽は地平線すれすれまで低くはなりますがそのまま昇ってしまいます。

そして、北極圏より北では地平線までも下がらないで、また昇ってきます。
北極圏で、太陽が沈まないのは、夏至のときだけですがそれより北極に近づくに連れて夏至の前後に夜のない日が続くようになります。

そして、北極では、太陽は1日中、地平線と平行に動き半年のあいだ、夜はありません。


白夜

北極圏よりもわずか南の地方、たとえば、北ヨーロッパの国々では夏至のころの夜に白夜といっています。

白夜のころは夜がたいへん短く、しかも太陽は地平線からわずか下に沈むだけなので一晩中薄明のような明るい夜になります。

反対に、冬至の前後には、北国の夜は、非常に長くなります。
冬至の日に、北極圏では、太陽は地平線まであがるだけでまた沈んでしまいます。

それより北では冬至の前後に太陽を見ない日が続き雪と氷に閉ざされた、長い夜の季節になるのです。

赤道地方の昼と夜

南の地方では、どうでしょうか。

太陽に南に行くにつれて、だんだん高くまで上がるようになります。

北回帰線(赤道から23度30分北によった緯線で日本付近では台湾のほぼ中央を通っている)では夏至のとき太陽はちょうど頭の真上を通ります。

そして、それより南の地点では夏至のころの太陽は北の空を動くようになります。
赤道地方では、太陽は、1年中地平線に垂直に昇り昼と夜の長さはいつでも同じです。

北半球・南半球の星と夜

地球の赤道から北の部分を北半球といい、南の部分を南半球といいます。

南半球では、北半球の季節と、ちょうど反対になります。
北半球が夏のとき南半球では冬です。
また北半球が冬のときは、南半球は夏です。

北極は、南極とまったく反対の地点ですから北極が夏で1日中太陽が沈まず半年の長い昼が続くとき南極は冬で、まったく太陽を見ることができない長い夜が続きます。



昭和基地

日本の南極観測地である昭和基地は、南緯69度にあります。
これは、66度半よりも大きいので、当然南極圏内にあります。

したがって、ここでは夏至の前後には全然太陽を見ることができないのです。

実際6月1日から7月12日までの42日間は、太陽は出てきません。
もちろん日本では、このころはいちばん日が長く暑いことですが、南半球では冬のわけです。

南極の越冬隊の人たちは、太陽がはじめて顔を出す日をどんなには待ちわびていたことでしょう。

太陽が出るようになれば、やがて、春がやってくるからです。

反対に、冬至(北半球での)の前後には沈まない太陽を見ることができるわけです。

このようなところでは日常の生活は実に、たいヘんだろうと思われます。

夜になったからねるのでなく、南のほうに太陽が偏ったからもう寝なければならないということになるわけです。

まったく、奇妙なものだと想像されます。




日の出と日の入りがなぜ起こるのか? わかりやすく解説!

太陽の動き

太陽は毎日、東から出て西に沈みます。
星と同じように太陽も日周運動をしているのです。

もちろん、実際は、たいようが動くのではありません。
地球が西から東へ自転しているために太陽がが動くよう見えるのです。

地球が太陽の光に照らされると、日のあたる部分かできます。

ほかあたっているところが昼で、影のところが夜です。

地球儀に、横から電灯の光をあてて、まわしてみれば昼と夜の終わるわけがすぐにわかります。

昼と夜にわかれた部分は、地球の自転のために東から西へうつっていきます。
そして、24時間でひとまわりしてまた、もとの位置にもどってきます。


日の出と日の入り

太陽は、毎朝、東の地平線から空に昇ります。これを日の出といいます。そして、正午ごろ南中します。

南中というのは、太陽が真南にきて1日のうちでいちばん高く昇っているときです。
夕方になると、太陽は西の地平線に沈みます。これを日の入りといいます。

1日のうちで、日の出の時刻から日の入りの時刻までが昼で日の入りの時刻から、翌日の日の出までが夜です。

しかし、日の入りの後でも空は急にまっ暗になってしまうのではありません。
だんだんと暗くなり、星が1つ1つしだいに増えてきます。

この空のうす明るい30分くらいのあいだを薄明といいます。

これは、地面に太陽の光があらなくなっても空の上のほうの空気や雲には、まだ日があたっているためにここで光が反射して、空が明るく見えるのです。

日の出の前に、まず空が明るくなるのも同じことです。

昼と夜の長さ

日の出や日の入りの時刻は季節によってかわります。

夏は日の出が早く、日の入りの遅い季節で夏至には、昼が1年中でいちばん長くなります。

また、昼夜の長さは場所によってもかわります。
たとえば、夏至のとき東京の昼の長さは、14時問30分ぐらいなのに北のほうの札幌では15時間ぐらいになります。

もっと北のほうでは、昼の長さはさらに長く、反対に夜は短くなります。
また、昼と夜の長さがかわるだけではなく太陽の出たり沈んだりする方向も、違ってきます。

たとえば、夏至のころ太陽は真東でなくかなり北によった方角から昇り、やはりま西から北によった方角に沈みます。

しかし、当時のときには、すべてこれと反対で昼が短く、夜は良くなり、日の出も、日の入りもそれぞれ真東、真西からずっと南によった方角で起こります。



観察

太陽の昇る方角が、季節によって、どのようにかわるか実際に調べてみましょう。

東と西の地平線が、できるだけよく見えるように広々とした、高くて見通しのよいところを探してそこで、太陽が、どこから昇ってくるかを調べます。

その方角の、できるだけ遠い山や森や建物などなにか動かないものを目印にして覚えておきます。

日の入りのときも同じで、太陽がどこに沈むかを調べて目印を選んでおきます。

この目印が、たいへん遠いものなら、方角を調べるために立つ一はそんなに正確にしなくても大丈夫です。

けれども、かなり近いところにしか目印がないときには立つ位置を正確に決めておかなければなりません。

こうして、毎月、20日ごろに1回、日の出と日の入りの方角を調べます。

20日ごろでなくて、何日でもよいのですが夏至や冬至、春分や秋分のときが、だいたい20日ごろですから都合がよいのです。




宇宙の考え方の歴史とは?天動説と地動説の違いとは?

最後に、宇宙についての考え方が昔からどのようにかわってきたか調べてみましょう。


昔の人が考えた宇宙

遠い昔の人たちは、ほとんど例外なしに自分たちの住んでいるところが、宇宙の中心だと考えていました。

いまから4、5千年前のカルデア人は、陸地は海に囲まれ、海の外側は、壁で仕切られていると考えていました。

壁の上には、お椀を伏せたようなまる天井が置かれていてその内側に星が散りばめられているというのです。

エジプト人は、世界のまわりを、高い山がぐるりと取り囲みその真ん中の、お椀の底のようなところに自分たちが住んでいて星に天井からつるされているものと考えていました。

昔のインド人は世界は、まるい球面の一部を切り取ったようなものでこれが、幾匹かのゾウの背の上に乗っておりゾウは大きなカメの甲羅の上に立ちそのカメは、とぐろをまいた大ヘビの上に乗っていると考えていました。

そして、世界の中央には、高い山がそびえ太陽や月はその山のまわりをまわっていて太陽が山の影になったときが夜だというのです。

天動説

ギリシア時代になると、交通の発達によって世界はもっと広いものだということがわかりやがて、地球はまるくて太陽や月と同じような天体の1つであることもわかるようになりました。

紀元前2、3百年ごろ、ギリシアの学者アリスタルコスは宇宙の中心は太陽で地球やほかの惑星は太陽のまわりをまわっているのだという、すすんだ考えを唱えました。

しかし、たいていの人たちは、宇宙の中心は地球でそのまわりをほかの天体がまわっているという天動説を信じていたようです。

二世紀ごろの天文学者プトレマイオスは地球中心の説を完成し、図のような宇宙を考えています。

この考えは、ローマ時代に受け継がれ、キリスト教にも取り入れられて、それから1000年ほどのあいだで絶対に正しいものとされていました。

このほかの自由な考えかたは禁じられ科学の進歩が、ほとんど止まってしまったのです。



地動説

一五、六世紀になると、コロンブスのアメリカ発見やマゼランの世界一周など、遠洋航海がさかんにおこなわれました。

こうして地球はまるいということが確かめられましたが陸地の見えない海の上では星の観測によって船をすすめる方角を包めなければなりません。

天文の研究がすすむにつれて天動説では説明できないことがでてきました。

いまから400年ほど前、ポーランドの学者コペルニクスは太陽が宇宙の中心にあって地球は太陽のまわりをめぐる1つの惑星にすぎないということを明らかにしました。

この地動説を押し進めようとしたガリレオは教会から、その考えを取り消すように命じられ「それでも地球はまわる」といったという話が残っています。

こうして太陽中心説の正しいことが、しだいに学者たちによって明らかにされてきましたが宇宙全体についての考えは昔にくらべて、それほどすすんでいませんでした。

今の宇宙の考えかた

20世紀になると太陽もまた、銀河系のかたすみにある1つのありふれた恒星であることがわかりました。

さらに大望遠鏡の発明によって、銀河系はたくさんの小宇宙の1つで、広い海に浮かぶ1つの島のようなものであることも知られています。

このような宇宙の考えかたの進歩は、ちょうど私たちが小さい子どものときには自分が天地のすべての中心だと思いこんでいますが、大きくなるにつれて、自分が、家族、町村、県、国、そして世界………というようにより大きな社会の中の一員だということが、わかってくるのに似ています。




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