海上輸送の進歩しはじめたのはいつ頃? わかりやすく解説!

巨大タンカー時代

現在でも、夏の海にはたくさんのヨットを見ることができますがこのヨットは本来、帆に風をうけて海上を走るものです。

それと同じ原理の帆船は、すでに紀元前3500年もの昔から走っていたそうです。


とすると、船というものは一向に進歩しなかったのでしょうか。そんなことはありません。

たとえば、第二次大戦中に活躍したプリンス=オブ=ウェールズ・大和・武蔵などの戦艦、サラトガなどの航空母艦、あるいはクイーン=エリザベス号・ユナイテッド=ラアーツ号などの豪華な客船などを思い浮かべても船が改良され、進歩していることがよくわかります。

しかし船舶界における最も目覚ましい進歩は巨大なタンカー(マンモス=タンカー)ではないでしょうか

1960年当時、世界最大のタンカーはアメリカのユニバース=アポロン号でした。
この船は日本の造船所でつくられたものですがなんと10万トン、ユナイテッド=ステーツ号の2倍も大きいのです。

ところがそれから数年のうちに、タンカーの大型記録はつぎつぎと打ち破られれていくのです。

たとえば、1963年に完成した日章丸は13万5000卜ン、1964年の東京丸は15万トン、1965年の出光丸は25万5000トンそして1971年には37万2400トンの超巨大タンカー日石丸が日本の造船所で進水したのです。

このような巨大タンカーができるようになったのには船の前半と後半を別々にドックでつくりこれらを洋上でつなぎあわせるといった新しい造船技術の進歩があったからです。

この技術は日本で開発されたものです。

日本の造船業は、1971年には全世界でつくられる船の約50パーセントをつくったといわれています。



造船技術の進歩

さきに述べた洋上接合法は最も新しい造船技術ですがほかにもさまざまな技術的進歩がみられます。

まず第一はリベットエ法にかわる溶接法です。

リベッ卜というのは鋲のことで古くは、それぞれの大きさに切断した鋼板や骨格になる材料を1つ1つリベッ卜でくみ立てていましたが溶接法の進歩により、工場内で溶接によりつくりあげたブロックを順にくみ立てていくという流れ作業ができるようになったのです。

また、鋼板を切り取るにも、小さな図面を光学的あるいは電子的に拡大しそのまま自動力ッターで切り抜いていくという方法が考えだされています。

さらに船首にコブのような球状体をつけそれがつくる波によって船体白身のつくる波を打消し波の抵抗を弱める方法なども開発されました。

造船技術の進歩は、潜水艦や水中よく船をうみ、船の底から空気をふきだし船と水とのあいだに空気のクッションをつくりながら進むホーバークラフトなども実現しました。

さらに、プロペラでなく飛行機のようにジェット機関を使う船も研究されていますし原子力を利用する原子力船もすでにつくられています。




汽車から電車、新幹線・自動車が登場・発達したのはいつ頃? 陸上交通の進歩とは?

汽車から電車へ

世界最初の汽車はまずイギリスで走りました。
1825年、ジョージ・スチーブンソンがストックトン~ダーリントン間に蒸気機関車ロコモーション号を走らせたのでした。

それからおよそ半世紀後の1872年には日本でも汽車が走りはじめました。
新橋(いまの汐留貨物駅)と横浜(桜木町)の間27.3キロメートルという短い距離を第1号機関車が走り出したのです。


日本の鉄道が急速な発展をとげたのは戦後、1957年に東海道本線の電化が完成してからです。

電車の歴史も決して新しいわけではありません。

たとえば、日本でも1890年に東京の上野公園で開かれた博覧会にはじめて電車が登場し人気をよびましたし1895年には京都で市内電車が営業運転を開始しています。

世界的には、1881年ドイツのリヒテルフェルでおよそ5キロメートルの区間、36人乗りの小型電車が走ったのが最初です。

はじめは市内電車だけでしたが、やがて地下鉄がうまれます。
世界最初の地下鉄は1863年にロンドンで開通した蒸気機関市でひっぱる地下鉄道を1905年に電化したものです。

日本では1927年、東京に最初の地下鉄がうまれました。

市電も地下鉄も短距離をむすぶだけのものでしたがやがて郊外電車がうまれ、また京都・大阪・神戸といった群市間をむすぶ中距離電車が誕生し、さらに湘南電車が完成して電車による長距離輸送のめどがたち、ついに1957年の東海道本線全線電化、1958年からは東京~大阪間をビジネス特急こだま号が走るようになるとともに日本の鉄道は活気を帯びはじめたのです。

国鉄では1975年までに全線の76パーセントを電化のこりはディーゼル機関車を走らせ煙を吐く汽車を全部なくしてしまう計画をすすめています。

新幹線の登場

1964年10月、東海道新幹線が開通しました。
この新幹線を超特急ひかり号は最高時速210キロメートル平均速度172キロメートルで走ります。

この新幹線は5年の歳月と、3800億円の巨費を投じて完成されたものです。

これに刺激されて、イギリスではロンドン~グラスゴー間に時速241キロメートルの高速電車をアメリカでは、ワシントン~・ニューヨークー~ボストン間に時速225キロメートルの電車を、それぞれ走らせる計画です。

また日本でも新たに、山陽新幹線を建設しここに時速250キロメートルの電車を走らせる予定です。



自動車の発達

現在の自動車の大部分は、ガソリンエンジンを原動機としています。
ライト兄弟の飛行機もガソリンエンジンをつけたものでしたがこのエンジンは1876年、ドイツのゴットリッヒ・ダイムラーが発明したものでした。

ダイムラーは1886年、自分で発明したガソリンエンジンをつけた自動車をつくりました。
今日の自動車の原型になったのは、このダイムラーの自動車です。

同じく、ドイツのカルル・フリードリッヒ・ベンツもダイムラーとは別にガソリンエンジンを発明またスピードをかえる装置や電気着火法・気化器などを発明しました。

のち、ダイムーフーとベンツは協同して自動車製作工場を経営しました。

しかし、その後の自動車工業はアメリカで発展します。

1895年に、チャールズ・ドゥーリエ・フランク・ドゥーリエ兄弟がマサチューセッツ州スプリングフィールドにアメリカ最初の自動車工場をつくりましたが、それから10年もたたないうちにオールズ=モーター・ビュイック・パッカード・キャデラックフォード・オーバーランド・ダイヤモンドなどの自動車製作工場がぞくぞくと設収され、しだいに大工業にまで発展して今日にいたっています。

さて、アメリカの自動車工業ひいては世界の自動車工業をこんなにも急速に発展させた最大の功績者はヘンリー・フォードです。
彼は流れ作業ということを思いついたのです。

コンベアを利用して、部品から完成した自動車をつくる方法(トランスファーマシン方式)で自動車を早く安くつくることを可能にしました。

このトランスファーマシン方式は部品から完成品を自動的に生産するオートメーションを可能にしさらにエレクトロニクスをくみ入れることによりますます完全なものに発達していきます。

機械工業のオートメ化は化学工業のオートメ化をうみだしさらには事務や経営のオートメ化をも実現させつつあります。

自動車そのものの性能の発達も、もちろんたいへんなものです。
ことに電気自動車やロータリーエンジン自動車の将来には大きな期待がよせられています。




ジェット機が発明されたのはいつ頃? わかりやすく解説!

ジェット機の誕生

1939年にはじまった第二次大戦で、ふたたび飛行機は発展期をむかえることなりました。

さて、第二次大戦も終わりに近づくころドイツ空軍は、ブロペラがなく、機首に大きな穴の開いているそしてプロペラ機のスピードをはるかに上まわる不思議な戦闘機をつくり連合軍の飛行機をつぎつぎ落としました。

これこそ世界最初のジエッ卜機(ハインケルHe178型)だったのです。

このジェット機の最高時速は866キロメートルでした。


そのころ、イギリスでもジェット機の研究がかなりすすんでいました。
1941年5月、イギリス空軍のフランク・ホイットルが設計したグロスターE28型機が最初の試験飛行に成功しています。

このグロスター機は時速991キロメートルというそれまでのプロペラ機の記録を大幅に上まわるスピードを出しました。

アメリカのジェッ卜機の研究は、ドイツやイギリスにくらべてかなり立ちおくれていましたが、第二次大戦後、イギリスの研究をうけつぎ、まず1947年、ロッキード社がP80R型シューティング・スターというアメリカ最初のジェット機を製作しました。

このジェット機は時速1003キロメートルという快記録を出しました。
ジェット旅客機も第二次大戦機に開発がはじまりました。

まず1949年、イギリスは世界にさきがけて、四基のジェットエンジンをもち巡航時速790キロメートル、航続距離5710キロメートルというジェット旅客機コメットを就航させました。

このイギリスがほこるコメット機は、まもなく2機続けざまに地中海上で空中分解するという事故を引き起こしました。

機の破片はもちろん海底深く沈んでしまいましたがイギリスの航空省はこの破片を広い集め、徹底的に事故の原因をさぐりました。

この調査の結果が、その後のジェット機の安全設計にどんなに大きな貢献をしたかはかりしれません。

ともかく、ジェット旅客機の発達は時とともにすすみ1958年ころから、大型長距離旅客機ジェットにかぎるという時代にうつりました。



音速の壁を越える

飛行機のスピードが音速を越える、ということは航空関係者の長いあいだの夢でした。
現在のジェット旅客機はまだ音速の壁を越えておりません。

音速のことをマッハといいますが、いまの代表的なジェット旅客機、たとえばダグラスDC‐8とかボーイング727とかはマッハ0.8、ボーイング737は、マッハ0.7ぐらいのスピードしか出せません。

しかし、軍用機なら、マッハ2とか3とかいうものすごいスピードをもったものがあります。

最初に音速の壁を破ったのはアメリカのベル航空会社が試作したロケット機ベルX1号でした。

ロケットは第二次大戦中ドイツによって誘導弾(V2号)として実用化されていましたがそのロケットの原理を飛行機にとりいれたのがベルX1号なのです。

1947年、アメリカ空軍のパイロット、チャールズ・イーガー大尉の乗り込んだペルX1号は、マッハ1.2(時速1440キローートル)のスピード記録を出しました。

このXシリーズは.回を重ねるにしたがってつぎつぎとスピード記録をのばし、1967年にX15号は時速7254キロメートルを出しました。

このXシリーズはあくまでもスピードに挑む特殊な飛行機の開発を目指すものですがふつうのジェット戦闘機もつぎつぎと音速の壁を破りはじめました。

まず、1953年、アメリカ空軍のノースアメリカンF100や海軍のダグラスF100がマッハ1以上のスピードを記録しその3年後の1956年には口ッキードF104、コンベアF106などがマッハ2を越えました。

また、1968年、福岡市の九州大学構内に墜落としたF4ファントムジェット戦闘機はマッハ3に近い高速が出せます。

また.アメリカはすでに、マッハ3.5で飛べるスパイ機A11型をもっています。

超音速輸送機の開発

輸送用大型機はまだ音速を越えるものはありませんが超音速輸送機(SST)の開発も急ピッチですすめられています。

イギリスとフランスの協同開発によるマッハ2.2のアングロ・フレンチトコンコード、アメリカで開発中のマッハ3のSST、ソ連が1968年に完成したと発表したTU144(マッハ2以上)などSST開発競争はますます激しくなりました。




航空機が発達したのはいつ頃? 初期の飛行機とは?

昔から、人間はずいぶん長いあいだ自分の足で歩き荷物を運ぶ場合も、せいぜい馬の力を借りるくらいといったような生活を続けてきました。

しかしながら、交通機関がまるでうまれなかったわけではなく少しずつは進歩してきました。
交通機関・運輸機関が急に発達したのは、やはり、20世紀に入ってからのことです。

輸送・交通機関のなかでも、最も早く発達したのは、いかだや丸木舟です。
しかし今日では、ジエッ卜機が世界中の空をものすごいスピードで飛び交い高遠道路を自動車が突っ走り、海には巨大な夕ンカーが浮かんでいます。

それらの発達のおかげで、世界は日ましにせまくなり人間の生活はますます忙しくなっていきます。


初期の飛行機

はじめて飛行機が登場するのは、20世紀に入ってからのことです。
したがって、航空機こそまさしく20世紀の産物ということができます。

19世紀の末ごろ、アメリカにウィルバー・ライト、オービル・ライトというふたりの兄弟がいました。

家業の自転車製作業にはげみながらも飛行機熱にうかされ最初はグライダーの研究をすすめていましたがグライダーの大先輩ドイツのオットー・リリエンタールが1896年試験飛行中つい落死したので、グライダーに見切りをつけエンジンの動力で飛ぶ方法を考えはじめました。

1903年、ガソリンエンジンつきの複葉プロペラ機フライヤー号で22秒間の飛行に成功しました。

わずか12秒間でも、とにかく空に舞い上がり、実際に飛んだのです。
12月17日、寒い朝、ノースカロライナ州の砂浜でのことです。

ところがこの歴史的な実験に立ちあったのはわずか5人の友だちと群れ飛ぶ、かもめだけだったということです。

その後、1914年にはじまった第一次大戦で飛行機の性能はすばらしく向上しました。

たとえば、ライト兄弟の「フライヤー」号のエンジンはわずか12馬力、スピードは、時速48キロメートルだったのにたいし第一次大戦で活躍した飛行機には200馬力、時速250キロメートルくらいのものがざらにありました。



1918年末に第一次大戦が終わると、飛行機はたいして重要なものとはされなくなりました。
しかし、まもなく、今度は空の乗り物として注目されるようになりました。

まず、1919年にニューヨーク~シカゴ間に定期郵便飛行がはじまり同じ年イギリスはデ・ハビランド(DH19C)という戦時中の爆撃機を改造したものでロンドン~パリ間の定期旅客機航路をひらきました。

また、1927年、アメリカの無名の青年飛行家チャールズ・リンドバーグが自分で設計したライヤン単葉機、スピリッ卜・オブ・セントルイス号に乗ってニューヨークからバリまで大西洋を無着陸で横断飛行することに成功したのです。

ひき続き、スピードも航続距離も急速に向上しました。

1938年、日本の航研機(航空研究所試作長距離機)が木更津・銚子・太田・平塚をむすぶ1周400キロメートルのコースを63時間23分をかけて29周し、航続距離1万165キロメートルという世界記録をたてました。

またスピードのほうは1939年ドイツのメッサーシュミッ卜109九型戦闘機が275馬力のエンジンで時速755キロメートルという大記録をつくりました。




エレクトロニクスが発展と応用とは? わかりやすく解説!

エレクトロニクスの発展は、つきるところを知らないかのようです。

たとえば、モーターのついている機械はかなりの音を立てるのがふつうです。
しかし、ソニーのマグネットダイオードのようなものをスイッチにすればまったく音のしないものができるはずです。

また、ビスマスとテルルの合金に微量の不純物をくわえた半導体を使うと動く部分も、音を出す都分も全くない冷凍装置ができます。

しかもこの場合、電流の方向を加えてやることで、逆に加熱装置にもかえられるのです。
一つの装置で冷やしたり温めたり、という正反対のはたらきが同時にできるこれはどう考えても不思議なようですがエレクトロニクスの利用はそんなことも可能にします。


電子レンジというものはすでに実用化されて、家庭用のものまで売られています。
これを使うと、肉や魚が何秒とか何十秒という短い時間で調理されてしまいます。

これはマグネトロンという特殊な真空管から発振される数千メガサイクルというたいへんな周波数をもった高周波を使うと肉や魚をつくっているいちばん基本的な単位である原子がものすごく揺さぶられそのときでる熱、つまり自分自身が出した熱で自分を料理してしまうということになるのです。

同じ原理で、木材など、なかなか乾燥しにくいものや乾燥がいちように行き渡りにくいものなども、短時間にまんべんなく乾燥させることができます。

太陽電池というものもかなりよく利用されはじめました。
これはホウ素をしみこませたケイ素のうすい板(これも半導体です)が肝心な装置なのですが、この板に太陽の光があたると光が電気にかわるしくみになっているのです。

1954年にアメリカのベル電話研究所で開発されたのが最初ですが日本でもかなり早くから実用化がすすめられ1958年には福島県の信夫山に建てられた無人超短波中継局の電源用に太陽電池が使われました。

これをはじめとして、あちこちの無人灯台などでも使われるようになりました。

アメリカやソ連の人工衛星も太陽電池を電源としていることはみなさんも知っているでしょう。

しかし、いっぱん用の太陽電池の生産は日本が世界一でたとえば、エジプトの砂漠のあちこちに立てられている灯標の電源にも日本の太陽電池が利用されています。

そのうちに、各家庭が屋根を太陽電池でふき自家発電に切り替えるような時代がくるかもしれません。

照明の世界にもエレクトロニクスは夢を運んでくれます。
たとえば、壁全体、天井全体を発光させるいわゆる面照明という新しい照明のしかたをエレクトロニクスは実現させてくれるのです。

これは硫化亜鉛をまぜた塗料を、壁や天井にぬっておきこれに電圧をかけると、ある一定の電圧以上になったとき全体が光りだすのです。

交流電圧をかけると、周波数をかえることによっていろいろな色の光を出させることもできます。




電子計算機・電卓の歴史とは? わかりやすく解説!

さて、電子計算機こそは、エレクトロニクスがうみだした最も偉大な産物といえるかもしれません。

計算には暗算・筆算、それにそろばんや手まわしの計算機を使うやり方などがあります。
しかし、そんな計算はたかがしれています。

20世紀の後半近くになってはじめて登場しその後、日進月歩の勢いで進歩、発展を続けている電子計算機の計算能力にくらべればまるで問題になりません。

電子計算機は数学の専門家が一生かかっても計算しきれないような計算でもおそらく何秒かのうちにやってのけるでしょう。


電子計算機がつくられるまえに電気計算機がうまれました。
それは基本的にはリレー(継電器)を利用したものです。

リレーというのは、電流を通したり切ったり、あるいは方向をかえることによって接点を開閉し、その接点につながるほかの回路の電流が流れたりきれたりする装置のことです。

このリレーをたくさんくみあわせて計算するのがリレー計算機です。
1944年に、アメリカのハーバード大学で世界最初の全自動電気計算機(マーク1型)が完成しました。

このリレーのかわりに真空管やトランジスタに抵抗・コンデンサーをくみあわせた回路を使うのが電子計算機なのです。

電気計算機と電子計算機では、計算のスピードがまるで違います。
たとえば、1946年にペンシルベニア大学で完成した世界最初の真空管式電子計算機(エニアック)はさきに述べた電気計算機より1500倍も計算スピードが速いのです。

しかしながら、この電子計算機も出来てから20年たたないうちにすでに過去のものとなり今日ではそれよりも何千倍も能力の勝る電子計算機ができています。

電子計算機の進歩はまったくすばらしいものだということができます。

さて、電子計算機の世界でも小型高性能化がすすめられています。
はじめのころは、全部、真空管式でしたから性能を高めようとすれば真空管の数を増やさなければなりません。

そうすると、装置全体がたいへん大きいものになるしまた真空管は故障しやすいため、たえず検査し、監視を続けなければなりません。

しかし、トランジスタが電子計算機の悩みをも解決してくれました。
今日の電子計算機は、ほとんど全部トランスジスタ式になり性能がすばらしい、小型のしかも安定したものになっています。

1958年、アメリカのテキサス=インストルメントという会社が集積回路(IC)というものを開発しました。

これは配線部分を印刷することにより卜ランジスタや抵抗を非常に小さい容積にまとめたものでたとえば米粒の大きさの中に卜ランジスタ20個、抵抗40個を詰め込むことができます。

この集積回路はラジオやテレビにも使われていますが電子計算機にくみこむことにより、小型化することができます。

アメリカ空軍は1961年、缶詰ほどの大きさの電子計算機をつくり人工衛星などに詰め込んでいます。



ところで、電子計算機はこのようにすばらしい進歩を続けていますがなんのためにそれほど計算のスピードを上げなければならないのでしょうか。

それは、科学技術の進歩、社会の進歩に伴って手にあまるような膨大な計算を必要とする問題や一瞬のうちに答えを出さなければならないような問題が非常に多くなったからです。

たとえば、ある惑星の軌道を決めるのに天文学者が昼も夜もついで計算して15年もかかったという例があります。

これでは、一生計算し続けてもなにほどのこともわからないわけです。
それが、いまの電子計算機を使えば、おそらく数分以内に答えがでてしまうでしょう。

もっと身近な例で、国勢調査・人口動態調査というのがあります。
日本のように人口の多いところになりますと総理府統計局のお役人さんがいくらがんばっても集計を終えるまでに3年も4年もかかります。

つまり、やっと国勢調査の結果がでたときには人口は調査結果とは全然ことなっていることになり。

つぎの調査をしなければならないときになって、やっとまえの調査結果がわかるということが、これまではやむを得ないこととされていました。

しかし、電子計算機を使えば、データをそろえるまでに年くらいはかかっても、何時間かのうちに結果を集計することができます。

事実、アメリカで電子計算機が発明されたのは国勢調査をできるだけはやくまとめたいという要求からです。

アメリカの大統領選挙でも、日本の衆・参議院の選挙でも電子計算機を使うのが、あたりまえになっています。

また国鉄のみどリの窓ロにいけば、列車っ座席のあるなしはたちどころにわかり、昔のようにいらいらしながら何時間も待つ必要はなくなりました。

これも、全国にはりめぐらした情報網を中央制御でする電子計算機を利用しているおかげです。

そのほか、複雑なレンズの設計、マンモスタンカー・超高層ビルの設計長期予報のための天気図の作製、銀行や大企業の事務管埋などにも電手計算機はいまや欠くことができないものになっています。

また、電子計算機は計算ばかりでなくたとえば、言葉の翻訳、さらには作詞で作曲の仕事までできるのでこの方面の仕事をさせるためのに開発しているものは電子頭脳とか、人工頭脳の名でよばれています。

電子計算機(コンピューター)は人間社会を夢の理想郷(コンピュートピア)にかえてくれるかもしれません。




テレビ・ラジオが発明、登場したのはいつ頃? わかりやすく解説!

エレクトロニクスはほとんどあらゆる科学・技術・産業応分野、また私たちの生活のすみずみまでも大なり小なりの関係をもっています。

ここでは、エレクトロニクスが主役となっている分野にかぎって話をすすめていくことにしましょう。


通信への利用

19世紀までの通信手段としては、1837年にモールスが発明した電信機、1876年にベルが発明し、エジソンによって改良された電話機、そして1895年にマルコーニとポポフがほとんど同時に発明した無線電信機などがありました。

このうち、無線通信は空中を伝わる電波を利用します。
しかし、はじめのころの無線通信は、電波が不安定で雑音も多く安定した無線通信ができませんでした。

さきにお話ししたように、1907年、ド・フォレストが三極真空管の開発に成功しました。

当初は、真空管には電波を検出する検波というはたらきと弱い電流を強い電流にする増幅というはたらきだけしかないと思われていましたが1913年ころには発信する作用もあるということがわかりました。

さらに振動数をかえる変調というはたらきをもたせることもできることがわかりました。
つまり、送信にも受信にも使用でき、しかも非常に安定した通信が可能になったのです。

まず、ラジオが登場しました。

1920年、アメリカのウェスティングハウス社がペンシルベニア州ビッツバーグにKDKA局を建てたのがはじまりです。

そのつぎの年、ニューヨークボクシングの試合をラジオ放送してたいへんな評判をとっだのがきっかけとなり、ラジオは急速に広まっていきます。

1924年には同じくアメリカのゼネラル=エレクトリック社がカリフォルニア州オークランドに建てたKGY局からの放送電波が太平洋をひとまたぎして日本の茨城県平磯にまでとどきました。

日本でも、1925年3月12日、東京放送局(NHKの前身)芝浦仮放送所からJOKAの第一声が流されました。

この日は「放送記念日」に指定されています。

つぎに登場するのはテレビです。

テレビを最初に発明したのはイギリスのジョン・ロギイ・ベアードということになっています(1925年)が今日のテレビとはまるで様子が違うものでした。

現在の方式のテレビ基礎は1933年にロシア生まれのアメリカの電気技術者ウラジミル・ツポリキンが撮像管(アイコノスコープ)を発明したとときにできました。



さて、ラジオやテレビは送信機も受信機もどんどん進歩します。
ことに受信機がトランジシスタ化、すなわち真空管のかわりにトランジスタをくみこむことによってたとえばラジオはポケットサイズ、テレビでは5インチのマイクロテレビといった具合に急速に小型化されました。

ポケットサイズのトランジスタラジオは1956年、5型のマイククロテレビは1956年いずれも日本(ソニー)が世界に先がけて発売しました。

集積回路というのを使うと、さらに小型化できます。

たとえば、タバコの箱の半分ほどの大きさしかないマイクロラジオはすでに市販されています。

テレビについては、もう本格的なカラー時代がきています。
さきにのべたイギリスのベアードは1944年赤・緑・青3色の蛍光体をハチの巣形にならべ3色のピラミッドのようにし、電子ビームを3方向からあてて色つきの像をつくる方法を発明していたのです。

このベアード方式に20万個もの細かい穴を開けたシャドーマスクというものをくみあわせたのがいまいちばん多く使われているカラーテレビ受像方式なのです。

ほかにもいろいろな方式がありますがアメリカでは今述べた方式(NTSC方式)を正式に採用、日本でもこれにならって、1956年12月にNHKがカラーの実験放送を開始(本放送開始は1960年9月)して以来民間放送各社もぞくぞくとカラー放送に踏み切りました。




日本のエレクトロニクスが進歩し始めたのはいつ頃?

日本の科学者・技術者たちは、エレクトロニクスの世界でどんな新しいものをうみだしたでしょうか。
ここでは、基礎的な分野でとくに著しい貢献をした、2、3の例を挙げておきましょう。

東京大学の後藤英一博士が1955年に発明したパラメトロンというのがあります。

これは、フェライト(酸化鉄に、いろいろな金属の酸化物を結合させたものでつくった環状の磁心を主体にし、これにコイルとコンデンサーをくみあわせたもの)これは増幅作用もありますし、記憶させることもできトランジスタと同じように電子計算機にも利用できます。


また、電話交換機や電信機、工業用制御機などにも広く利用されています。

つぎはエサキダイオードです。

これはソニーの研究員だった江崎玲於奈博士が1959年に発明したダイオードです。

ダイオードというのは、もともとは陰極とプレート(陽極)だけをもつ二極真空管にたいして名づけられた名前なのですがそれと同じはたらきをする半導体をもダイオードと呼ぶようになりました。

いろいろな種類のダイオードがあるのですがエサキダイオードは電圧をあげると、ふつうの場合とは逆に電流が流れにくくなるという特性(負性抵抗)をもっています。

ダイオードもトランジスタと同じように非常に純度の高い半導体(ゲルマニウムとかシリコン)を材料にしてつくります。

そこでふつうは純度を高くすることばかりに目を奪われるのですが江崎博土は逆に、不純物を多くしたらどんな結果がでるか実験してみたのです。

すると驚くべきことに、さきに述べた負性抵抗という特性があらわれたのです。

江崎博士は卜ンネル効果という理論を引用しました。
その説明はたいへん難しくなりますから、ここでは省きますが江崎博士の偉いところは、新しく見つかった減少にたいして立派な理論づけもしたということです。

トランジスタの発明者ショックリー博士もエサキダイオードをほめたたえていたということです。

その応用面ですが、非常に高速のスイッチ作用(回路を切ったりつないだりする作用)をもっていますので、電子計算機の論理回路や記憶回路にくみこむのがいちばんの利用面でしょう。



もう1つソニーの例をあげますが、1968年、山田敏之という29才の研究員がマグネット=ダイオードというすばらしい半導体の開発に成功しました。

これは磁気に感じるダイオード、すなわち磁界のかけかたでその中を通る電流の量を調節することができまた磁極の置き方で電流を流したりせき止めたりすることができるものです。

磁気に感じるダイオードはすでに1880年アメリカの物理学者ニドウィン・ハーバード・ホールが発明していますがソニーのマグネット=ダイオードはこれよりも1000倍も感度が良い上に非常に安くつくることができるということです。

ラジオ・テレビ・電気洗濯機・掃除機・冷蔵庫・ドライヤー・発電機にまで広く利用することができるでしょう。

最後に、松下電器産業の若い研究者グループが1968年に開発した感圧素子というのがあります。

これは圧力によって電流を調節できるダイオードです。
これも、機械的な接点のないスイッチご利用できますし重量計や血圧計、マイクロホンやピックアップにも使えるでしょう。

とにかく、最近ようやく日本のエレクトロニクスが世界のエレクトロニクスになりはじめたことをうなずかせる、うれしい発明の数々です。




トランジスタが登場したのはいつ頃? わかりやすく解説!

アメリカのベル電話研究所にいたすぐれた物理学者ウィリアム・ブラドフォード・ショックリーは1935年ごろから、結晶空管と同じような増幅作用をもたせることはできないだろうかということをひたすら考え続けていました。

すでに鉱石検波器(特殊な鉱石と金属あるいは鉱石と鉱石とを軽く接触させて高周波を整流する装置)というものがあり、真空管が実用化される以前のラジオ受信機(鉱石ラジオ受信機)に用いられていたのですからショックリーの狙いは、必ずしも的外れではなかったのです。


しかし、その前途は険しく、ベル研究所の膨大な投資、たくさんの優秀な研究員たちの努力があってしかもなお、実に15年という長い年月の末ショックリーのアイデアはようやく実をむすび最初のトランジスタ、いわゆる点接触型トランジスタがうまれたのです。(1948年)

点接触型トランジスタというのはデルマニウムの結晶の小片にホイスカー電極とよばれる細い金属の針を2本極めて接近させた位置に立てただけのものでした。

しかし、この結晶はたしかに真空管と同じように弱い電流を強くする増幅作用を持っていたのです。
ショックリー、そしてブラッテン・バーディンというふたりの協力者の見事な勝利でした。

残念なことに、この点接触型トランジスタはつくるのがたいへん難しいしショックに弱いという欠点がありました。

そこでショックリーらはさらに努力を続け1950年には点接触型の欠点をすべて取り除いたトランジスタ(電極の針を立てずに、ペースに層状に結合させたもの)をつくりあげることに成功しました。

トランジスタはこのようにアメリカでうまれたものです。

しかし、その実用化のめどがまだ立たないいうちにその技術を導入して、小型のトランジスタラジオをつくりあげたのは当時の東京通信機工業、いまのソニーです。(1955年)

トランジスタは、すばらしい利点を備えています。
しかも、その進歩はまるで留まるところを知りません。

たとえば、結合型をさらに改良したメサ・ランジスタそれよりもさらに安定したブレーナー・ランジスタそしていま話題の集積回路(IC)と、高密度集積回路(LSI)とまさに日進月歩の勢いです。




エレクトロニクスのはじまりはいつ頃? わかりやすく解説!

エレクトロニクス

エレクトロニクスという言葉は50年ほど前までは少なくとも一般の人たちにとってはあまり耳なれない言葉であったかと思われます。

しかし、今日では、それはほとんど全ての人になんの抵抗も感じさせない、いわばいっぱん的な言葉にかわってしまってはいないでしょうか。

とはいうものの、その内容は決して通り一遍のものではなく年とともにしだいにその幅と深みを増してゆくのですから「ああそんなことか」とかんたんに理解していただけるような性質のものではありません。

しかし、ラジオやテレビがエレクトロニクスの産物だと聞けば真空管やトランジスタを応用する世界なのだなとおぼろげながらわかったような気もするでしょう。

エレクトロニクスはふつう「電子装置とその応用に関する科学、技術の分野」であるとされています。

ここにいう電子装置とは、真空・ガス体あるいは半導体の中を電子が移動するときに生じるさまざまな特性を利用するもののことです。

そこで、エレクトロニクスは、電子工学とか電子技術と訳されています。

しかし、エレクトロニクスは、やはり電子という不思議なものの動きや物理的な性質を研究する分野です。

それはともかくとして、エレクトロニクスの発達はさまざまな意味で、いま世界を大きくかえようとしてます。


エレクトロニクスのはじまり

エレクトロニクースは、エレクトロン(電子)に関する学問およびその応用技術ですから、まず、電子の存在が確認されていなければなりません。

原子の中に電子があることは、1892年にオランダの物理学者ヘンドリック・ローレンツが唱えました。
実際に、電子の流れをつかんだのはイギリスのジョセフ・ジョン・トムソンです。(1897年)

その経緯はこうです。

まず、ドイツの技術者のガイスラーという人が2本の電極を入れた放電管の中で、真空放電をおこなわせることに成功したのですがこのとき、陰極からでる放射線に陰極線という名がつけられました。

トムソンは、この陰極線が電界や磁界によって曲げられるという事実からこれは負の電荷をもった微粒子、すなわち電子の流れであることをつきとめたのです。

ついで1904年、同じくイギリスのジョン・フレミングはガイスラー管を発展させて真空にした管の中に陽極と陰極を向い合せにした二極真空管をつくりました。

フレミングの真空管はかんたんな整流や検波にしか使えないものでした。

アメリカのド・フォレストは1907年陽極と陰極との間に制御格子(グリッド)をおくことにより、陽極・陰極間の電流を制御しまた増幅できる三極真空管を発明しました。

真空管は、まず有線電話通信(電話はすでに1876年、アメリカのアレキサンダー・グラハム・ベルによって発明されていました)の中継用に用いられましたがまもなく無線通信の世界で、さらに大きい活躍をすることになりました。

真空管は真空中における電子の動きを利用するものですからもちろん、エレクトロニクスの分野に属するものですがそれが20世紀のはじめにあらわれ、しかも実用化されているのですから思えばエレクトロニクスの歴史もずいぶんと古いものです。






合成樹脂(プラスチック)が工場生産されるようになったのはいつ頃?

合成樹脂(プラスチック)というと、とても新しいもののような気がします。
しかし、1869年にアメリカのジョン・ハイヤッ卜という印刷工がセルロイドを発明しています。

このセルロイドが合成樹脂の元祖であるということはできますがその材料は綿やショウノウであり、いずれも天然のものです。

ちょうど人絹と同じように全くの合成品とは言えません。

それではベークライト(フェノール樹脂の一種)はどうでしょうか。

これはベルギーにうまれた化学者レオ・ヘンドリック・ベークランドが1909年に発明した合成樹脂です。

フェノールとホルムアルデヒドとからつくったもので完全な人工合成樹脂ということができます。

日本で最初に生産された合成樹脂はセルロイド(1908年)ついでベークライト(1914年)、3番目がユリア樹脂(1929年)です。

また、1941年から塩化ビニル樹脂(塩ビ)が1956年にはポリニチレンが生産されました。

そのほか、ほとんどあらゆる合成樹脂が現在、生産されています。




人造繊維が登場しはじめたのはいつ頃? わかりやすく解説!

1938年、アメリカの有名な化学会社デュポン社は「水と空気と石炭からつくられる、クモの糸よりも細く鋼鉄よりも強く、絹よりも美しい繊維」ナイロンを発表しました。

合成繊維、ナイロンの出現は、全世界の人たちの目を見張らせたのですがとくに日本人はたいへん驚きました。


というのは、当時の日本は世界一の生糸・絹織物の生産国でアメリカだけにでも年間5万トンもの絹を輸出していたのです。

ところが、ナイロンの誕生で、あっという間に絹の輸出はストップ、カイコに繭をつくらせて生活していた全国200万におよぶ日本の養蚕農家やその繭から生糸をつむぎ、絹布に織っていた製糸工場・織物工場は絹が売れなくなってたちまち困ってしまいました。

新しい科学、技術の成果が、国全体の運命をもくるわせてしまう例をここにも見ることができます。

それまで衣料として用いられた繊維は四大天然繊維とでも言うべき、植物繊維の綿および麻、動物繊維の絹と羊毛などです。

天然繊維をいくらか加工したものも用いられていましたが繊維といえば、ほとんどが天然繊維でした。

後に、木材パルプを水酸化ナトリウムと二硫化炭素の溶液につけると溶けて赤いどろどろしたもの(ビスコース)になりこれを小さな穴から押し出して固めると立派な繊維になることがわかりました。

1892年、イギリスの化学者クロス・ビーバン・ビードル3人の発見です。

こうしてつくられたのがいわゆる人絹(レーヨン)です。
人絹はたしかに化学的につくりだされるものではありますが原料に木材を使うので、まったくの人工合成品というわけにはいきません。

しかし、ナイロンは違います。

ナイロンの原料は、デュポン社の宣伝文句の通りたしかに石炭(あるいは石油)と水と空気なのです。

そんなありふれたものから絹のような美しい繊維がうまれるとはまるで想像もつかないと思われるでしょうが
化学の魔法は、たしかにこの不思議を現実のものにしてくれたのです。



もちろん、石炭と水と空気を混ぜたところでナイロンができるわけではありません。

石炭からつくる石炭酸と水からつくる水素と空気中にふくまれる窒素とをうまく利用していろいろな複雑な工程をへてまずアジピン酸とヘキサメチレンジアンというものをつくり、この2つをむすびつけてナイロンをつくるのです。(ほかにも、違った方法はあります)

このナイロンという合成繊維つくりだしたデュポン社の技術者たちを指導していたのはウォーレス・ヒューム・力ロザースという、まだ42才の技術者でした。

カロザーズはハーバード大学の講師をしていた33才のときに大デュポン社の有機化学研究所長にむかえられたのですからよほど天才的な人だったのでしょう。

残念なことに、ナイロンが発表される前年の1937年、謎の自殺をとげました。
あまり仕事に熱心だったために、ノイローゼとになったのかもしれません。

さて、ナイロンのあとを追って、つぎつぎと新しい合成繊維が登場します。
まず、1939年、当時京都大学教授だった桜田一郎博士、助手の李昇基博士(現在は北朝鮮で合成繊維工業の指導をしています)らの努力で、木綿によく似た合成繊維ビニロン(ボリビュルアルコール繊維』が発明されました。

またこの年、アメリカのダウ・ケミカル社はポリ塩化ビニリデン系の合成繊維サランを発表1941年にはイギリスのウインフィールドらがポリエステル系の羊毛に似たすぐれた合成繊維を発明この特許を譲り受けたイギリス最大の化学会社ICI(インペリアル=ケミカル=インダストリー)が照り芯の商品名(アメリカではデークロン、日本ではテトロン)で1947年に発売しました。

また1948年にはデュポン社がポリアクリル系のオーロンを1956年にはイタリアのモンテカチーニ社がポリプロピレン系のモプレンを発表するといった具合に、カロザーズによって切り開かれた合成繊維は急速に発展しました。




農薬が発達したのはいつ頃? わかりやすく解説!

20世紀の合成化学の進歩は、農業の世界にもたいへん貢献しました。

イネには昔から三大病害虫がつきものでした。
ウンカとニカメイチュウと、そしていもち病です。

たとえば、早植えして台風の最盛期がくる前に取り入れようとすると
ウソカやニカメイチュウのさかりにぶつかるし
肥料をたくさんほどこし多収穫をねらおうとすれば
いもち病にはびこられる、といった具合です。


ところが、まず1949年ごろからBHCがウンカ退治の有力武器としてまた、1952年ごろからは、パラチオンがニカメイチュウにたいする薬として登場。

さらに1953年ごろから酢酸フェニル水銀などの有機水銀剤がいもち病の特効薬として用いられるようになりイネの大敵にすっかりなりをひそめてしまいました。

こうした新しい農薬の開発は、DDTの登場の歴史に遡ることができます。
1874年.ドイツの化学者ツァイドラーがはじめてDDTを合成しました。

しかし、なんの役に立つかもわからずにほうりだされていたのです。

1938年、スイスの化学者パウル・ミュラーは植物の害虫の防除薬を研究中にツァイドラーの研究を知らずに、DDTを合成しさらにこの薬が強力を殺虫対果を持つことを発見したのです。

1943年ごろから、まずアメリカで大量生産にうつされ農作物の害虫駆除からジャングル戦のマラリア蚊の退治、蚊や蠅などの家庭害虫の駆除に広く使われるようになりました。

BHCはDDTにヒントをえて、イギリスの化学者たちが合成したものでDDTの5倍以上も強力な殺虫剤です。

新しい農薬、殺虫剤は人間の生活を豊かにするうえにはかりしれないほどの貢献をしてきましたがいっぽうではその害毒にも注目しなければなりません。

農薬を使いすぎるために、蛍もドジョウも姿を消し昆虫を餌にしている野鳥の姿も見られなくなり自然のつりあいが大きくて破られることも、農薬の害毒の1つです。

また、農民や田畑の近くに住む人たちが恐ろしい農薬中毒にかかるということや戦争で山野を丸裸かにするために農薬を使うということもあります。

科学の産物は、もし間違った使いかたをすれば人類を滅ぼしてしまうような害毒を生むことになるのだということを深く心に刻みつけておきましょう。






化学療法が進歩しはじめたのはいつ頃? わかりやすく解説!

合成化学の発達

1828年、ドイツのフリードリッヒ・ウェーラーはシアン酸アンモニウムという無機物から、尿素という有機物を人工的に合成することに成功しました。

その当時までは、有機物というのは生物の体内でのみつくりだされるものと信じこまれていたのですからウェーラーが無機物から有機物を人工的に合成したということはたいへんなニュースでした。

そして化学者たちは、我も我もと、合成への道をすすむことになったのです。

その結果、植物や動物の体からしかとれなかった染料が19世紀末までにはどんどん化学的合成法でつくりだされるようになりました。

20世紀に入ると、各種の薬・人造線維・合成樹脂(プラスチック)さらには宝石などまでが合成化学の進歩によってつくりだされるようになりました。


化学療法への道

19世紀末までは、薬といえばすべて天然のものあるいはそれにわずかに手をくわえただけのものにかぎられていました。

たとえば、アヘン・水銀・キューネ・ジギタリス・ヨウ素、この5つが最も主要な薬とされていたのです。

ところが、20世紀に入って間もなく1904年にドイツのパウル・エールリッヒはトリバノゾーマ (一種の眠り病の病原体)がトリパンロートという合成薬剤で殺せることを発見しました。

さらに1909年、日本の細菌学者、秦佐八郎を助手に梅毒スピロヘータの特効薬サルバルサンを合成することに成功し化学療法の開拓者になりました。

しかし、偉大なニールリッヒが世を去った後にはせっかくの化学療法にもそれほどの進歩はみられませんでした。

ようやく1932年になってドイツのバイエル染料会社の技師ゲルハルト・ドーマクによってプロントジルが発見されるにいたり、化学療法の研究は再び活気を帯びるようになります。

ドーマク博士の娘が、指にちょっとした傷をしたところそこからストレプトコッカスという化膿性の細菌が侵入したいへんな高熱が出て、手の施しようもありませんでした。

もうあらゆる手をうちつくしたドーマク博士は専門の色素研究の過程でかねて合成しておいたプロントジルという赤い色素を娘に飲ませてみました。

すると、驚くべきことに、彼女の高熱は嘘のように消え、まもなく健康を回復したのです。



ドーマク博士が悲壮うな覚悟で実験しそのききめを証明したプロントジルはたちまち世界中でもてはやされるようになりましたがその後フランスのパスツール研究所のトレフォネルらはブロントジルが有効なのはその中の色素部分ではなくそれを外した残りの簡単な化合物であるスルファニルアミドであることをつきとめました。

このスルファニルアミドは1908年にすでに合成されていたのですがだれも、それが薬として効き目があることに気づかなかったのです。

さて、その後今日まで30種以上ものスルファニルアミド系の薬が合成されみなさんがよく知っている抗生物質とともに、医療に役立てられています。

そのほか、化学合成によってつくりだされている薬でとくに重要なものにトランキライザーがあります。

トランキライザーは精神安定剤、つまり心のいらだちを鎮める薬です。
しかし、はじめは血圧を下げる薬として開発されたものです。

血圧降下剤が精神を安定させる効果を持つことがわかったのは全く偶然の機会からでした。

1953年の6月、アメリカのある製薬会社がインドからたくさんのサルを実験動物として輸入しました。

長い船旅ですっかり気分を壊したサルたちはひどい興奮状態で手のつけようがありません。

困った獣医さんが、サーパジルという血圧降下剤を注射してみたところサルたちはみんな大人しくなってしまったのです。

そこで、サーバジルのような血圧降下剤には気分を落ち着かせる効果もあることがわかりとかくいらいらしがちの機械文明時代にはこのうえなく貴重な薬としてもてはやされるようになったのです。




病原体と消毒法が発見されたのはいつ頃? わかりやすく解説!

カイコの伝染病

19世紀のはじめ、フランスでは、ぶどう酒と並んで、絹も大切な生産物でした。
ところが、カイコには微粒子病という、恐ろしい伝染病があります。

パスツールは、この伝染病が小さな生物で起こりこの小さな生物はクワの葉などについていて、カイコの体の中に入ることを調べました。

伝染病をふせぐには、これらの小さな生物が入らないようにすればよいわけです。

パスツールは、病気をもっていないカイコの産んだ卵だけを残しあとは焼いてしまうようにすすめたのです。


伝染病に勝つ

パスツールの成功にはもっと大きな意味があります。
人間の科学の知恵が、はじめて伝染病にたいして勝利をおさめたのです。

パスツールの方法は、もう、昔の医者がやったような勘や経験に頼る、いい加減な方法ではありません。

病気の原因を突き止めて、それを取り除く科学的なやりかたでした。
それは、はじめはカイコの病気にたいする勝利でした。

けれど、たちまち人間の伝染病にたいする、すばらしい科学の勝利となったのです。

コッホの純粋培養

ドイツのロバルト・コッホは、おもな伝染病の原因となる病原体をつぎつぎと発見しました。
病原体がはっきりすれば、予防の方法も、なおす方法も進歩します。

コッホはつぎのように考えました。

「同じ病気には、同じ病原体がみつかるはずだ。そして、見つけた病原体を動物の体の中に入れれば、同じ病気にかかるに違いない」

しかし、このような考えで、細菌の研究をしていくためには必要な細菌だけを取り出さなければなりません。

ふつう、肉のスープなどの中では、いろいろな細菌がごちゃごちゃに、混ざって増えてきます。これでは困るのです。

コッホは、純粋培養といって、決まった細菌だけを取り出し特別に、その細菌だけを増やす方法を考え進歩させました。

そして、炭疽菌のほかに、結核菌・コレラ菌などを発見しました。
また、コッホの弟子たちも、たくさんの病原体を発見しました。

リスターの発見

昔は大きな手術をするとき、傷口が膿んで腐り。
そのために死んでしまうことが、非常に多かったのです。

イギリスの外科医、ジョゼフ=リスターは、手術で死ぬ人をなんとか少なくしようと、いろいろ苦心しました。

ちょうどそのとき「物が腐ったり発酵したりするのは、空気中の小さな生物のはたらきだ」というパスツールの考えを知ったのです。

リスターは、傷口が腐るのも同じだと考えました。

そして、傷口を傷めずに、病原体だけを殺す薬を探し石炭酸が都合のよいことを発見したのです。

リスターの病院では、医者の手や、メスを石炭酸で洗い石炭酸に浸した布を傷口にあてました。

この消毒法で、手術で死ぬ人の数は、目にみえて減ったのです。

消毒法は、やがて伝染病をふせぐ方法としても、大きな力をあらわしました。



種痘

牛にも天然痘(牛痘)があります。
乳搾りの女ともに、この天然痘がうつることがありました。

しかし、いちどこれにかかった人は、人の天然痘にはかからないことが何百年も前から知られていました。

パスツールより前、イギリスのエドワード・ジェンナーはこの乳搾りの女たちの長い経験から、天然痘をふせぐ方法をみいだしました。

牛の天然痘の膿みを、人間の体に植えつけます。
こうすると、人の体に、天然痘にたいする抵抗力ができるのです。
しかし、これで病気の原因がわかったのではないのです。

免疫とワクチン

伝染病にかかって治ると、その病気にたいして、抵抗力ができます。
これを免疫といいます。

バスツールは、体を免疫にして、いろいろな伝染病をふせぐことを考えました。

細菌は、純粋培養を続けると、病気を起こす力が弱くなります。
この力の弱まったニワトリコレラの細菌をニワトリに注射すると軽いニワトリコレラにかかります。

このニワトリには免疫ができたので強い細菌を注射しても、病気にはかかりませんでした。

パスツールはまた、羊の炭疽病でも、免疫をつくるのに成功しました。

病気を起こす力を弱めた菌をワクチンといいます。
狂犬病は、狂犬にかまれるとかかる、恐ろしい病気です。

パスツールは、狂犬にかませたウサギの脊髄をかわかして、ワクチンをつくりました。
ワクチンと消毒法によって人類は伝染柄の恐ろしい大流行をふせぎとめることができました。

いまでも、地球上の伝染病の細菌が、全滅したわけではありません。
しかし、もうこの細菌が、人類全体を脅かすようなことは、決して起こりません。

もし、どこかに伝染病が発生しても科学の力と社会の力が、たちまち伝染をふせぎとめてしまうからです。




近代医学が発展したのはいつ頃? 伝染病との戦いとは?

また、ダーウィンと違った進化論も、いくつかあらわれました。

メンデルの研究がもとになって発達した遺伝子学ではうまれてからの後にできた性質は遺伝しないということになっています。

ところが近頃は、また別の考えもあらわれてきています。

アメリカのバーバンクや、ソ連のミチューリンは生まれてから後にかわった性質も遺伝するという考え方を述べています。

そして、さまざまな作物や草花や果樹をつりかえることに成功しました。


伝染病と医学

ペストやコレラは、恐ろしい伝染病です。
ペストで死んだ人は皮膚が黒紫色になるので、黒死病ともいわれています。

ペストは昔、しばしば発生し、わずかのあいだに何千何万という人々が死んでいきました。
大きな町が全滅したことさえありました。

昔のインドでは、ペストがでた村を軍隊が取り囲み病気にかかっていない村の人たちまで、いっしょに焼き払ってしまったこともありました。
そうしなければ、ペストがどこまで広がるかわからなかったにしてもずいぶんひどいことをしたものです。

コレラも恐ろしい伝染病で、日本でもときどき流行しました。
大勢の人が、ころりころりと死ぬので、コロリといって恐れられました。

このような伝染病が、いったん流行しはじめると人々はどうしてよいかわからず、遠くの地方へ逃げたりお祈りをしたりして、伝染病のおさまるのを待つばかりでした。

しかし、いまの人は、ペストやコレラが、たとえどんなに恐ろしい病気でも、どうしたらふせげるかを知っています。
伝染病との戦いに、近代の医学が勝利をおさめたのです。

近代医学は、多くの科学者が築き上げたものです。
そしてその中でも、パスツール・コッホ・リスターなどの名を忘れることはできません。

パスツールと細菌

伝染病との戦いは、細菌との戦いでもあります。

細菌は、顕微鏡ができてから、レーウェンフックのほか大勢の人によって見つけられています。
1滴の汚い水の中にも、ふつうでは目に見えない小さな生物がたくさんいるのに人々はびっくりしました。

しかしこれらが、病気や腐敗の原因になることがあるということはだれも考えつきませんでした。

昔は、手術をしたあと、傷口から膿むのは当たり前のようになっていました。
手術がうまくいっても、そのために死んでしまうことが多かったのです。
これは、空気が悪いためだと思われていました。

伝染病も、空気のせいだとされていましたので、予防の方法が見いだされませんでした。

けれど、伝染病や傷口が膿むことが、物が腐ったり発酵したりするのによく似ているのに気がついた人は、たくさんいました。

これが、顕微鏡でなければ見えない小さな生物のはたらきだということをはっきりさせたのはフランスのルイ・パスツールです。



すっぱいぶどう酒

フランスでは、ぶどう酒がたくさんつくられています。
ブドウの中の糖分を発行させて、アルコールにかえるのですが失敗すると、すっぱいぶどう酒ができてしまいます。

よいぶどう酒をつくるために、発酵のしくみを調べることがフランスでは大切なことだったのです。

ふつうの発酵では、酵母がさかんに増えていくのがみられます。
酵母が、糖分をアルコールにかえるはたらきをしていることは前から考えられていました。

しかし、すっぱいぶどう酒ができるのが別の小さな生物のはたらきであることは、まだわかっていませんでした。

バスツールは、この小さな生物(細菌)を発見しました。
そして熱をくわえてこの生物を殺しぶどう酒がすっぱくなるのをふせぐ方法も発見しました。

こうして、パスツールのおかげをいちばん先に受けたのはフランスのぶどう酒からくる人たちですっぱいぶどう酒をつくるようなことはなくなりました。

それからまた、パスツールは、食べ物などが腐るのも細菌のはたらきで起こることを発見しました。

これらの細菌は、空気中に浮かんでいたり、いろいろなものにくっついたりしています。

細菌のうちのある種類を、発酵していろぶどう酒の中に入れるとそこで増えて、すっぱいぶどう酒をつくってしまいます。

また、ある細菌は食べ物につき、そこで増えてものを腐らせます。

親がなければ生物はできない

もし、もとになる細菌や酵母がなかったら、発酵も、物の腐れも起こりません。

しかし、そのころはまだ、酵母や細菌などの小さな生物は発酵している液や肉のスープ、植物の煮た汁などの中からひとりでに湧き出ると考える学者がたくさんいました。

パスツールは、それが間違いであることを、実験で確かめたのです。

パスツールは、フラスコの中に、肉のスープや、食べ物を煮た汁を入れフラスコの首を細長く引き伸ばして空気が自由に出入りできないようにしてから液を熱しその液の中にまぎれこんでいた小さな生物を、みんな殺してしまいました。

こうすると、引き伸ばした口をあけたままにして長いあいだおいても、液の中には細菌も、ほかの生物も少しもあらわれませんでした。




遺伝学の進歩しはじめたのはいつ頃? メンデルの研究とは?

メンデルの研究

親の形や性質が、子に伝わることを遺伝といいます。
オーストリアのメンデルは、エンドウにあらわれている特徴を7つ選びその特徴が、どのように遺伝するかを研究しました。

そして1865年、遺伝のしかたには3つの決まりがあることを発見しましたがその値打ちは1900年まで認められませんでした。

メンデルは「いまに、私の時代がくる」と信じながら、さびしく世を去っていきました。

ついに1900年、オランダのド・フリース、ドイツのコレンス、オーストリアのチェルマクの3人の学者が、遺伝の法則を再発見しました。

そして、遺伝の3つの法則はメンデルの法則とよばれ学問のうえに大きな問題として浮かび上がってきたのです。


メンデルの法則の利用

遺伝の法則の研究は、家畜や作物の品種改良に、直接役立っています。

イギリスでは、茎が強く、収穫も多く、品質もよいがさび病に弱い小麦の品種とこれとは全く反対の特徴を持つ品種とを掛け合わせて両方のよい特徴だけを持つ、新しい品種がつくられました。

日本でも、金魚のマルコとオランダシシガシラとの掛け合わせで秋錦という美しい金魚をつくりだしました。

また、花や果物の栽培にも、さかんにメンデルの法則が利用されています。

いっぽう、ロシアでは、人工的に交配するのではなく自然におこなわれた交配でできた雑種を利用する方法が実験されました。

寒さに弱いライムギの品種を、ほかのたくさんの品種といっしょにまいておいたところその中から、寒さに強い品種がうまれたのです。

遣伝の研究と進化論

オランダのド=フリースは、マツヨイグサを十数年も栽培しているあいだにオオマツヨイグサ・ヒロハマツヨイグサなど数種の新しい品種があらわれたことを発見し生物の突然変異説を唱えました。

しかし、この生物の突然変異はダーウィンの進化論でうまく説明することができませんでした。

そして、遺伝の研究がすすむにつれて、ダーウィンの進化論にもいくらか改めなければならないところができてきました。

また、ダーウィンと違った進化論もいくつかあらわれました。

メンデルの研究がもとになって発達した遺伝学ではうまれてからのちにてきた性質は、遺伝しないということになっています。

ところが近ごろは、またべつの考えもあらわれてきています。

アメリカのバーバンクやソ連のミチューリンはうまれてから後にかわった性質も、遺伝するという考えをのべています。

そして、さまざまな作物や草花や果樹をつくりかえることに成功しました。




ダーウィンの進化論とは? わかりやすく解説!

進化論をうんだ時代

進化論をあげたのは、イギリスのチャールズ・ダーウインです。

ダーウィンはビーグル号という軍艦に乗って世界をまわり、いろいろな生物を観察しました。
こうしているうちに、彼の頭の中には生物進化の考えが固まってきました。

産業革命を、どの国よりも早く成し遂げたイギリスは商業を世界中に広げていました。

そして、たくさんの商船を動かし、また、探検の船や軍艦を世界の各地に送りました。ビーグル号は、そのような軍艦の1つでした。

ですから、イギリスの産業と商業が、進化論をつくるもとになったともいえるのです。
ライエルの地質学の本も、ダーウィンの考えに大きな力をあたえています。

ビーグル号の航海で、ダーウィンは、体を壊してしまいました。
そこで、イギリスの田舎に帰り、家畜や作物が、どんなにかわっていくかを調べたのです。


選び出し

家畜や作物は、人間が適当なものを選び出しながら何代も育てていくと、ずいぶん違った生物ができてきます。

けれど自然界では、だれがそのような選び出しをするのでしょうか。

マルサスという人の「人口論」という本の中には、つぎのようなことが書いてあります。

「人口の増え方が大きいと、暮らしに必要な食べ物などが足りなくなって飢えや貧乏や戦争がおこり病気も増え、人口が減って、ちょうどよくなる」というのです。

実際、そのころのヨーロッパでは、こうした不幸なことがおこる心配がいつもありました。

ダーウィンは、それを自然界の生物と考え合わせてみました。
タラは1匹で150万から300万の卵を産みます。
しかし海はタラでいっぱいにはなりません。

多くのタラは、子どものうちに敵に襲われ少しのタラだけが生き残るのです。
この生き残るための競争を生存競争といいます。
これによって生物は、生き残るのに都合のよいものが選び出されるのです。

白然界でおこなわれている、このような選び出しは自然選択といってダーウィンの考えの中心になっています。

この考えをもとにすると、そのころまでの生物研究で集められたいろいろな事柄が、はっきり説明できるようになりました。

エダシャクトリムシは木の枝に似ていて敵に襲われることが少なかったので、生き残っているのです。
ビュフォンが、神様を褒め称えるために集めた材料はダーウィンの進化論にとって、都合のよいものばかりでした。



人間の祖先はサルの仲間

進化論はかんたんな生物が自然選択によっていまのように複雑な生物にかわってきたことを、教えてくれました。

これはキリスト教の教えとは、だいぶ違っています。
私たち人間もまた、サルの仲間から進化して、いまのようになったというのです。

そのころの人たちは、人間は神様に似せてつくられたと考えていました。

ですから「人間の祖先がサルの仲間であり、もっと遡れば爬虫類であり、アメーバの仲間だった」ということは、たいへんなことでした。

ところで、ダーウィンは進化論を「種の起原」という本にまとめました。
この本は、1859年に発表され、すばらしくよく売れ大勢の人々が進化論を受け入れるようになりました。

「種の起原」という本は、たくさんの事実をもとにして書いてあります。
それで、だれにでも、全くそうだと思わせるだけの力をもっていたのです。

こうなると、キリスト教の教会の人たちも、黙っていられなくなりました。
そこで、考えの古い学者といっしょになり、ダーウィンの考えに強く反対しました。

しかしダーウィンにも、味方がありました。
トーマス=ハックスリは、考えの古い人たちと激しく議論しました。

そして1860年のイギリス学術協会の集まりでハックスリはダーウィンの考えの正しさを述べ、進化論は勝利を治めました。

進化論と社会

ダーウィンの進化論は人間の考えかたを大きくかえました。

人間が特別なものでないことがはっきりすると神様が特別につくった偉い人というものもないことにあります。

うまれたときは、みんな同じ仲間なのです。
けれど、ダーウィンの時代には、資本主義が、最も栄えていました。

資本主義の世の中では、人々が激しい競争をしています。
勝った人は、すばらしい金持ちになり、負けた人は非常に貧乏になりました。

ダーウィンのいうように、生物に激しい生存競争があるなら人間の社会にも、このような生存競争があっても当たり前だという考えかたさえ、うまれてきました。

そんなふうに考えられるのは、ダーウィンの望んだことではありませんでした。

動物や植物の世界のできごとをそのまま、人間の社会に当てはめたり、人間の社会の出来事から動物や植物の世界のことを推し量ったりすることは、誤りなのです。




進化論を導いた材料とは? カール・フォン・リンネってどんな人?

自然の階段

アリストテレスは、紀元前四世紀のギリシアで、いろいろな学問のもとを築きました。
動物や植物についても、はじめて筋道の通った仲間わけをした人だといえるでしょう。
仲間わけしているうちにアリストテレスは、つぎのようなことに気がつきました。

「生物はちょうど階段を1段ずつ昇るように、かんたんなものから複雑なものへ、順に並んでいる」

そこで、アリストテレスは、これを「自然の階段」と名付けました。

しかしアリストテレスは「生物は、時が経つにつれて、かんたんなものから、複雑なものにかわってきた」と考えたのではありません。

「生物は、時が経つにつれて変化し、いまのような姿になった」

このような考えかたを、生物の進化といいます。
進化の考えは、アリストテレスよりも、ずっと後でうまれたものです。


交通の発達と進化論

世の中が発達し産業や商業がおこると、交通もさかんになります。
たくさんの人が、遠く離れた土地まで商売に出かけます。
そして、その土地の珍しい生物の話が伝わってきます。

交通を便利にするために、運河がつくられます。
レオナルド・ダ・ビンチは、運河を掘るときに見つかった化石に強い関心を持ちました。

18世紀になると、産業や商業は、ますます発達しました。
ヨーロッパの船は、世界中に航海して商売の道を広げました。
そして、珍しい生物は、話だけでなく、捕まえられて、つれてこられました。

分類学のもと

この時代に、スウェーデンのカール・フォン・リンネは世界各地からたくさんの生物を集め、名前をつけて、きちんと仲間わけをしました。

動物や値物の仲間わけが学問らしい形を整えたのはリンネのおかげだと言っていいでしょう。

そのころ、キリスト教は、まだ大きな力をもっていました。

ところがキリスト教では、空も海も陸も、動物も植物もみんな数千年まえに、6日のあいだに神樣がつくったものでそのときから、少しもかわっていないと教えています。

リンネも、そう思っていました。
しかし彼はたくさんの生物を調べた後に生物はかわるものではないかと気がついていたようです。

生物は、よく環境にあったしくみをもっていることも、わかってきました。

エダシャクトリムシが、驚くほど木の枝に似ていること砂漠のサボテンが、水分の蒸発をふせぐように、葉を棘にかえていることなどこのような例はいくらでもあります。

ビュフォンという人は、生物をこんなにうまくつくった、神様の知恵に感心しました。

そして神様を褒め称えようと、このような例をたくさん集めました。
ところがこれらの例が、後で、生物の進化を確かめる材料になってしまったのです。



地球に歴史がある

人々はやがて、太陽系で地球のできかたに考えをめぐらすようになりました。

フランスのビュフォンやラプラス、ドイツの哲学者カントなどは地球がどうして出来たかを説明しました。

この説明には、ずいぶん間違ったところもありました。
しかし、この人たちの考えは、地球は神様のつくったものでかわらないという。

キリスト教の考えかたとは、まったく反対に地球にも歴史があることを人々に知らせることに役立ちました。

イギリスのジェームズ・ハットンは18世紀の終わりに地球は長い歴史をもっていることを明らかにしました。

チャールズ=ライエルはそれを受け継いで、地質学を立派な学問に仕上げました。

ウィリアム・スミスは、レオナルド・ダ・ビンチと同じように運河を掘る仕事をしながら、化石の学問をすすめました。

そうして化石は、昔生きていた生物の死骸であることが、はっきりしたのです。

そこで、地層の古さが化石でわかるようになりました。
この化石は、生物が時とともにかわってきたことをはっきりと物語ってくれます。

生物学がすすむ

ラマルクというフランスの生物学者は、進化がどうして起こるかを説明しました。

たとえば、キリンの首が長いのは、高い木の上のわか葉を食べようとして首や足を伸ばし、それを何代も続けていたためだというのです。

洞穴の中には、目のない動物が住んでいます。

光がないので目を使う必要がなく、何代か後には目のない動物ができてきたというのです。

このように生物の体で、使う部分は発達し、使わない節分は退化していきこの性質が子どもに伝わっていくというのが、ラマルクの進化論です。

19世紀になると、ラマルクなどによって生物の研究は、ますます、すすんできました。

種類の違う生物でも、形やしくみが共通しているところが多いことがわかりました。

また、大人になると全く形が違うものでも成長のごくはじめのころは、よく似ていることもわかりました。

こうして、ダーウィンの進化論の出る前に、世の中がすすみ学問が発達して、その証拠を裏付けるものが、たくさん集まっていたのです。




無線通信が進歩したのはいつ頃? わかりやすく解説!

無線通信の進歩

電信も電話も、針金を伝わる電流を利用したものです。
しかし、いくら便利だといっても、長い針金が必要です。
この長い針金がなくて通信ができたらどんなに便利でしょう。

マクスウェルやヘルツの電磁波の研究が完成すると人々はこの電磁波を使って通信することを考えるようになりました。

ロシアのボポフと、イタリアのマルローニはほとんど同じときに、電磁波で通信することに成功しました。

これは1895年のことです。


ブランリの発見

1890年、フランスのエドアール=ブランリは金属の粉が電気をどのように導くかを研究していたとき思いがけないことを発見しました。

その日ブランリはガラス管にニッケル粉を閉じ込めてそれに電流を通してニッケル粉が電流を通すかどうかを実験していました。

ニッケルは電気をよく通しますが粉にすると、電気抵抗が大きくなって電流を導きません。

ところが、そのとき偶然に、近くで電気火花を飛ばしたところそのガラス管は電気を自由に通すようになりました。
これは、電磁波のために、金属粉の性質がかわったのです。

ブランリは自分の研究をパリ科学アカデミーの雑誌に発表したとき電磁波と金属粉とのことは、わずかに5,6行書いただけでした。

イギリスのオリバ=ロッジはブランリの論文を読んだときこのわずかな文を見落とさないで「ブランリの実験のガラス管は、きっとヘルツの検波器として利用できるに違いない」と考えました。

そしてロッジは実際にガラス管をつくって実験をして、この管をコヒーラと名付けました。

ヘルツが電磁波を発見したとき、それを電気光線と呼びましたが電波が光線のように目に見えないということは、やっかいな問題でした。

そこでヘルツは目に見えない電波を目に見えるようにする検波器をつくったのでした。



ふたりの発明家の研究

ロッジの論文を読んだポポフは、早速コヒーラを無線電信に利用しようとしました。

ところが困ったことが1つありました。
電磁波を受けて電気を通すようになったコヒーラは指で叩かないと、もとにもどりません。

そこでポポフは、リレーと電れいとの作用を利用して電波がくるたびにコヒ-ラをもどす装置を考案しまた電磁波を捕えるアンテナを発明しました。

1895年ヘテルスブルク大学(現在のレニングラード大学)でポポフは無線電信の実験を公開しました。

そして1898年には、クロンスタットに無電局が建てられ軍艦アフリカ号の遭難を救うなどの手柄を立てたのでした。

ところがイタリアのマルコーニは、まったくの素人とでした。
しかし、ボローニャ大学教授リーギの指導を受けこれまでの学者の研北や発明をうまく結びつけてポポフとは別に、無線電信機を組立てました。

そして、イギリスの資本の助けをかりて、無線電信の遠距離通信に成功しました。
1897年には、マルコーニ無線電信会社をつくりました。
しかしマルコーニの無線通信はモールス符号と、火花放電による電波を使ったものでした。

この電波は放電の度に出て、しばらく続くだけで、すぐに弱まってしまいます。

そこで人々は同じ強さの電波を続けて出すことはできないものかと、いろいろ研究しました。

アメリカやドイツの技術者は、特別のアークや、高周波発電機を発明しました。
しかし、実際に役立つものをつくることは中々難しいことでした。

ところが、マルコーニ電信会社の技帥フレミングは昔、クレソンの相談を受けていたときに見た、不思議なことを思い出しました。

白熱電球の中に、1枚の金属板を閉じ込め、フィラメントを熱します。
そして板をフィラメントの陽極につなぐと、電流が流れるのです。
フィラメントの陰極と板を結んだのでは電流は流れません。

フレミングはこの理屈を応用して、1904年、二極真空管を発明しました。

それから2年後の1907年に、アメリカのド・フォレストはフレミングの二極真空管に格子(グリッド)を入れ、三極真空管を発明しました。

そして、この発明を境に、無線通信の新しい時代が開けてきました。




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