電話機が発明されたのはいつ頃? 電灯と発電機が発明されたのは?

電話機の発明

電信機では、符号だけしか送ることができません。
もし、話す声をそのまま相手に伝えることができたら、どんなに便利なことでしょう。
そこで、声を伝える器械をつくる研究がはじまりました。

1876年、アメリカのベルは、電話機をつくることに成功しました。
ベルの電話機は、つぎのようなしくみになっていました。

まず、発信側には1本の棒磁石があります。
1つのはしにはコイルがあり、別のはしの近くには、うすい鉄板があります。

この鉄板は、音によって振れ動きます。

すると、磁石のコイルに誘導電流がおこりこの電流の強さは、鉄板のふれ具合によってかわります。

つまり、音の強い・弱い・高い・低いによって、電流の大きさがかわるのです。
この電流によって、発信側とまったく同じしくみの受信側の鉄板がふれます。

この鉄板の振れが、受信側にいる人には、音声になって聞こえます。
ベルの電話機は、すぐにエジソンが改良しました。

エジソンは、送話器で、鉄板の振動を電流の強弱にかえるのに炭素の粒を使ったのです。
いまの電話機も、もとはベルの受話器とエジソンの送話器のくみ合わせからできているのです。


電灯の研究

抵抗の大きな導線に電流を流すと、導線は熱と光を出します。

「この光を、ろうそくやガス灯のかわりに使うことはできないものだろうか」
ということは、だれもが考えることです。

そこで、たくさんの電気学者や発明家たちが電灯の研究に取りかかりました。
ガラス球の中に導線を閉じ込め、電流を通じます。
導線の種類をいろいろにかえて、この実験を繰り返しました。

そして、溶けにくくてよく光る導線としては、白金や炭素棒がよいことがわかりました。

ところが空気中では、導線が長持ちしません。

そのころは、能率のよい真空ポンプができていたのでガラス球の中を真空にしてみました。
こうすると、導線は長いあいだ明るく輝きました。

このようにして、電灯の研究はだんだんすすんできました。
ところが、ここに困った問題がおこりました。

それは電気の源になる、電源です。

そのころはまだ、今日のような発電機がないので、電源には電池を使っていました。

ある学者は、自分の家の明かりの電源に、電池を使いました。
ところが、電池の亜鉛板を補うのに、月給を全部つぎこんでも足りません。

電灯が実用の時代に入ったのは、発電機が完成しエジソンが電灯を据え付けるのに必要なすべての設備を考えだしてからのことなのです。



発電機の発明

ファラデーが、誘導電流を発見してから
多くの発明家は、発電機をつくることに苦心しました。

磁気のあるところでコイルを動かせば、電流ができることはわかっています。
ところが、実際に大きな電流を取り出すことは、中々できませんでした。

ファラデーが誘導電流を発見してから40年くらい後のことです。
ドイツの電気技術者にジーメンスという人がいました。
彼は電信機をつくったり、電信線をひいたりする仕事をしていた技術者です。

電気のいろいろなことについて経験が深かったので
いままでの発電機のよくない点がすぐわかりました。

そこで、彼は苦心して、流れの大きさがかわらない電流を
ひき続け取り出せる発電機をつくりました。

電気事業がすすむ

発電機が発明され電灯も完成すると、電気の事業はどんどんすすんでいきました。
そして電気は、化学工業にも使われるようになったのです。

電気分解を利用して、めっき・アルミニウム・水酸化ナトリウムの製造などが
おこなわれるようになりました。

また、電動機がつくられ工場などで新しい動力として
さかんに使われるようになりました。

発電所も建てられました。
はじめのころは、火力発電で、発電所は都会の中央に集まっていましたが
そのうちに、水力タービンが発達し、水力発電が考えられるようになりました。

そして発電所は、都会から離れた山奥に建てられるようになりました。

都会では、たくさんの電気を使います。
そこで、どのようにして電気を遠く離れた都会へ送るかが、問題になってきます。
そのために交流でなるべく電圧を高くすると
電気を送りやすいことがわかり、電圧をかえる変圧器も発明されました。

1895年には、ナイアガラ瀑布に水力発電所が建てられました。
この年は、電力が動力として広く使われる、門出の年となりました。




電信機が誕生したのはいつ頃? モールスの電信機とは?

電信機の誕生

ライデン瓶に針金をつなぎます。すると電気は、針金を伝わって流れます。

200年ほど昔「長い針金を使えば、電流の流れる速さをはかれるだろう」と考えた学者がいました。

そこで、川や湖を越えて針金を張り、電流を流しました。
しかし、電流はあまりに速くて、どんなに針金を長くしてもその速さは、はかれませんでした。

でも、この仕事は無駄だったわけではありません。
これから「針金さえ張れば、遠くまで電気を運ぶことができる。

電気を使って通信ができはしないか」という考えがうまれたのです。


ゼンメリングの電信機

ゼンメリングという人は、水の泡を利用した電信機をつくりました。
これは、アルファベットの文宇の数だけ電線が張ってあります。
電線には、それぞれAの電線、Bの電線という具合に名前がつけてあります。

Aという文字を送ろうと思えば、Aの電線に電流を流します。
すると、Aの電線の受け取る側に、水の泡ができます。

この泡は、電流が水を分解するときにできるものです。
通信を受ける側では、どの電線に水の泡ができるかを読みとれば送られてきた文字がわかります。

五針電信機

1837年には、電流の磁気作用を使った電信機が、イギリスで発明されました。

この電信機には、5本の磁針が使ってあります。
そして磁針は、電流の向きによって、左右に振れるようになっています。

5つの磁針のうち、2つの磁針の振れが2つの信号としてくみ合わせるとアルファベットの文字を全部しめすことができるのです。
これは、5針電信機とよばれています。

磁針を使う電信機は、数十人の学者や発明家が、苦心してつくりあげたものです。
しかし、磁針の振れが速すぎて、読みとりにくいので、ほとんど実用になりませんでした。



モールスの電信機

実際に使うことのできる電信機をつくったのは、アメリカの若い画家、モールスです。
彼は電磁石を使って、もっとかんたんな電信機ができないものかと考えました。
電信機に電磁石を使うということは、専門の電気学者や技術者が考えもしなかったことです。

モールスは、早速通信機をつくる仕事にとりかかりました。
しかし思わぬところでつまずきました。

それは、磁石の動きを紙テープの上に記録するしくみ通信に使う符号、遠いところまで通信線をひくことなどです。

モールスは、貧乏と戦いながら、1837年、やっと電磁石を使った電信機を完成しました。
しかしこれは、まだ実際には役立ちませんでした。

実用に役立つ電信機をつくりあげたのは、それから10年くらいのものことです。
それから20~30年のあいだに、ヨーロッパやアメリカでこの電信機がどんどん使われるようになったのです。

海底の電信線

陸上に電信線がひかれると、こんどは、海底に電信線をひく仕事がはじまりました。

19世紀の中ごろのことです。

イギリスなどでは、工業が発達し、外国との商品の取り引きがさかんでした。
どうしても、海の向こうの外国と通信する必要ができてきたのです。

1857年から10年間に渡って大西洋横断の海底電信線をひく計画が6回も実行されました。
しかしこの計画は、どれも失敗に終わりました。

机の上で考えた理屈のようにはいかなかったのです。
長い電線が途中で切れたり、信号がうまく届かなかったりしたのです。

そこで、物理学者が海底電線をひく船に乗り込んで、いろいろ失敗の原因を調べました。

そして1867年に、やっと電線をひくことに成功しました。
それからは通信の技術も、すばらしくすすんだのです。




電磁誘導と電磁波が発見されたのはいつ頃? わかりやすく解説!

ファラデーの実験

ファラデーの先生は、いろいろな発見や発明をしたイギリスの有名な科学者ハンフリー・デービー卿です。

あるときデービーは「あなたがこれまでにされた、いちばん大きな発見はなんですか」とある人に訊かれたことがありました。

するとデービー卿は、いきなりマイケル・ファラデーと答えたそうです。

デービー卿にとっては、自分がおこなったどんな発見よりもファラデーという天才を見つけたのが、いちばん大きな発見だったのです。

ファラデーは、貧しい鍛冶屋にうまれました。
印刷屋や製本屋ではたらきながら、科学の勉強をしたのです。

後に、デービーの助手になり、当時設立されたばかりの王立研究所で科学のいろいろな実験をしました。
電気の実験をしていたのは、このころです。

ファラデーは1821年、つぎの2つを実験しようと思いました。
1つは、電流によっておこる磁針の振れを回転運動にかえることもう1つは、電流が流れている針金を磁石のまわりに回転させることです。

そして、いろいろな実験装置をつくって、苦心を重ねました。
ファラデーは、なんど失敗しても、ねばり強く10年も研究を続け、ついに重大な発見をしました。


ファラデーの大発見

1831年のある日のことでした。

ファラデーは、鉄の輪へ2組のコイルを巻きつけたものをつくりました。
そして、1組のコイルに電流を流したり切ったりしました。

すると、電流を通さないほうのコイルにも、電流が流れるのです。
このようなはたらきを、電磁誘導といいます。

ファラデーは、さらに実験をすすめました。
そしてつぎのような場合に電磁誘導で電流を取り出すことができることを明らかにしました。

  1. いっぽうのコイルに流れる電流を加えるとき
  2. いっぽうのコイルに電流を流し、2つのコイルを互いに動かすとき
  3. いっぽうのコイルを、磁石にたいして動かすとき

ファラデーのこのような発見から電流と磁気とのあいだにあるはたらきについて筋道の通った整った考えかたができるようになりました。

電気や磁気のはたらきが、石が落ちたり、物が滑ったりするはたらきとはまったく違うことが、はっきりしたのです。

彼はまた、摩擦でおこる電気も、ボルタの電たいの電気もみな同じ、電気だということを明らかにしました。
そして、自分の発見した法則を応用することはほかの人に任せつぎつぎに新しい研究をすすめました。

ファラデーの発見と、それからの研究は電気機械の非常に大切な原理になっております。

発電機の発明も、この電磁誘導の原理をもとにしてできたのです。



マクスウェルの予言

ファラデーは「電気を帯びたもののまわりや、磁石のまわりの空間は目には見えないが特別な様子をしている」と考えました。

そして、電気を帯びたもののまわりに「電場」磁石のまわりに「磁場」という名前をつけました。

まだファラデーは、電場や磁場を目に見えるようにするために力線というものを考えました。
しかしこの力線は、電気の研究にとってはわかりやすいのですが数学で言い表せるような、はっきりしたものではありません。

ファラデーの考えを押し進めてまとめあげたのはイギリスの物理学者マクスウェルです。
彼は力線のかわりに、数学の理屈を使って研究をすすめました。

そして、「電場や磁場は、波のように強さをかえながら、空間をすすむ。
私たちの日に見える光も、電場や磁場の動きと同じものだ。
光の速さと、電場や磁場の伝わる速さは、理屈の上では同じになる」と説明しました。

電磁波はある

マクスウェルが、電磁波の考えを発表してから十数年のちドイツのヘルツは、実験によって、電磁波が実際にあることを確かめました。

ヘルツは、コイルと小さな隙間のある針金の輪を用意しました。
そして、コイルと針金の輪を向い合せて、コイルに電流を通じ、火花を飛ばしました。

すると、針金の輪の隙間にも、火花が飛びました。

コイルと針金の輪のあいだには、電流を伝えるものはありませんから電磁波が
空間を伝わることは明らかです。

ヘルツはさらに実験をすすめ、電波が光と同じように反射や屈折などをおこすことも調べました。

また電波は、光と同じ性質をもっているが波長か光よりもはるかに長いことも明らかにしました。




電気が科学として研究されたのはいつ頃? わかりやすく解説!

磁石の謎

電気は、音や光のように、見たり聞いたりすることができないのでいまでも、気味悪く思う人がいます。
まして、昔の人にとって電気の研究といえば、たいへんな勇気がいることでした。

電気と人間との関係は、琥珀からはじまりました。
この宝石を、乾いた布でこすると、ちりのような軽いものを引き付けます。
鉱石の中には、こすらなくても鉄片を引き付けるものがあります。

これは磁鉄鉱です。

琥珀や磁鉄鉱が、ものを引き付けることは古代の人々にとって、たいへん不思議なことでした。
それでも、磁石が南北を指すことから、航海に使う羅針盤に利用していました。


電気手品

アメリカ大陸が発見され、貿易や航海がさかんになるころ昔からの琥珀や磁石の謎も、少しずつ溶けるようになりました。

いまからおよそ370年まえのことです。

イギリスのギルバートは、外国から来たいろいろなものを調べているうちに琥珀だけでなく、ほかにも物を引き付ける物があることを発見しました。
また、地球が1つの大きな磁石になっていることも、明らかにしました。

やがて、硫黄の球をまわし、電気をおこす器械(起電機)が発明されました。
またライデン瓶とよばれる、電気をたくわえるしくみも工夫されました。
電気に触れさせて、人や動物を驚かす、電気手品師という商売さえうまれました。

1752年、アメリカのフランクリンは、大きなたこを上げて雷を調べ「雷は電気の仕業である」ということをはっきりさせたのです。

そして彼は避雷針のしくみを発明しました。

科学の仲間入りをした電気

電気の奇妙な性質に心を奪われ、電気遊びをしていた時代が長く続きました。

そのうちに、紡績機械や蒸気機関が発明され18世紀の終わりには、イギリスに産業革命がおこって物体の力や熱を研究する学問が、急にすすみました。

そして電気の研究も、科学の仲間に入るときが来たのです。
それは、いまから、わずか180年ばかり前のことです。



電気の力をはかる

電気を帯びたもののあいだには、吸いつける力や、跳ね返す力がはたらきます。
科学の研究の第一歩は、電気が持っている、いろいろな性質を確かめることです。

そのつぎは、この力について、どのような関係がありどれほどの大きさがあるかをはかってみることです。

電気を、このように研究することができるようになったとき電気についての学問は、はじめて科学の仲間入りをすることができるのです。

電気を学問として研究する学者が、イギリスやフランスにあらわれてきました。
中でも、とくにすぐれた研究をしたのはフランスの土木技師、クーロンです。

クーロンは、電気の力を詳しくはかりました。

そして、「電気を持った物体どうしが引き付け合う力や、跳ね返す力はその物体のおのおのが持っている電気の量をかけ合わせたものに比例し物体同士の距離に反比例する。

これはニュートンの万有引力と、まったく同じ形であらわすことができる」
と発表しました。

これはクーロンの法則とよばれ、発見されたのは、1785年のことです。
クーロンはまだ、この法則が、磁気にもあてはまることを発見しました。

そのころフランスでは、大革命がはじまろうとしていました。
このような新しい時代の息吹の中で、電気の学問は、科学の仲間入りをしたのです。




電流と磁気との関係が研究されはじめたのはいつ頃?

カエルの実験

クーロンの法則が発見されたころ、医者のあいだには「電気を人体にあたえると、病気が治るのではないか」という考えかたがありました。

イタリアのガルバーニも、このような考えを持った医者でした。

ある日彼は、カエルを解剖していました。
メスをカエルの足に触れると、瞬間、足がびりびりと震えるのが目に止まりました。

よく注意して見ると、傍の起電機から、パチッパチッと火花が飛んでいます。

ガルバーニは、この不思議な出来事を、夢中になって、十数年も研究がされました。

そして、起電機がなくても、2種類の金属をつなぎ合わせた針金がカエルの足に触れると、びくびく動くことがわかりました。

ガルバーニは、カエルの体の中から動物電気がでたと考えました。
しかしこの考えは間違っていました。

それをはっきりさせたのは物理学者、ポルタです。


電たいの発明

ガルバーニが発見したのは、ごくわずかの電流でした。
ボルタは、ごくわずかの電流でも調べることのできるしくみをつくりました。

そしていろいろの実験をした後、2種類の違った金属を合わせただけで電流が流れることを発見しました。
カエルの体から、電流が出るのではありませんでした。

またボルタは、銀とすず、または銅と亜鉛をかわるがわるに積み重ねて電気をつくりだすしくみを発明しました。
このしくみでは、2つの金属の組み合わせのあいだいに塩水を浸した布をはさんであります。
こうすると、両はしの金属のあいだには、割合に大きな電流が流れるからです。

1799年、ボルタは、この電気をつくり出すしくみを発表しました。
これは、ボルタの電たいとよばれて、各国ですばらしい人気を集めました。

同じ強さで、たえまなく流れる電流をとり出すことに成功したことはそれからの電気の研究の進歩にとって、たいヘん大きな力となりました。

電流の磁気作用

19世紀はじめまで電気と磁気とは、関係がないと考えられていました。
ところが、デンマークの物理学者エールステッドに、その考えを打ち破りました。

1820年のある日、エールステッドは机の上で、針金に電流を通じるとそばに置いてあった磁石の針(磁針)が生き物のように触れ動くことを発見しました。

詳しく調べると、針金と磁針との距離が小さいほどまた、電流の強さが大きいほど、触れ方が大きくなることもわかりました。

エールステッドに続いて、ドイツのゼーベックなどが電流の磁気作用について研究をすすめました。



アンペールの研究

フランスの物理学者アンペールは、電流と磁気との関係を調べて電気についての学問の土台を築きました。

1820年、ニールステッドの報告をきいたアンペールはその実験を繰り返して1週間の後には、つぎのような法則にまとめあげました。

「もし人が、電流の方向に体を横たえ電流がその人の足から頭のほうに向かって流れていて、その人の顔を磁針のほうに向けているとすれば電流の作用は、磁針の北極の方を、その人の左手の方向に引っ張るようにはたらく」

アンペールはそれに続いて、電流の磁気作用とは反対に磁石が電流に作用するしかたを研究しました。

こうしてアンペールは、電流と磁石との関係をいろいろ実験して電流と磁石のあいだにはたらく力がニュートンの運動の法則で説明できることを明らかにしました。

そして、実験の結果をつぎのような法則にまとめあげました。

「2つの平行した針金に、電流が流れている場合電流の向きが同じなら、引っ張り合い、反対なら退け合う」

オームの研究と電磁石の発明

アンペールと並んで、すぐれた研究を残したのはドイツのゲオルク・シモン・オームでした。

オームは、電気の研究にとって大切な起電力(電圧)・電流の強さ・電気抵抗
などについての考えを、はっきりさせました。

これらのあいだの関係を研究してオームの法則を立てました。

続いて、イギリスのチャールズ・ホイートストンはオームの電気抵抗を正確にはかる方法を発見しました。

また、アメリカのジョーゼフ・ヘンリーに電信機のいちばん大切な部分である電磁石について、詳しく研究しました。

同じころ、イギリスにすばらしい実験の天才があらわれました。
それはマイケル・ファラデーです。




ガスの爆発を利用する機関が発明されたのはいつ頃? ホイヘンスってどんな人?

ホイヘンス

1680年、オランダのホイヘンスは「蒸気の力を動力に使えるなら、ガスが爆発するときの力も動力にかえられるだろう」と考えました。

それから10年経ってパパンはガス機関をつくろうとしましたが、うまくいきませんでした。

実際に使えるガス機関は、ホイヘンスが考えてから200年後の1860年
フランス人ルノアールの手によってつくられました。


ルノアール

ルノアールのガス機関は空気とガスを混ぜたものをシリンダーにおくりそれに電気の火花で火をつけてピストンを動かすようになっていました。

これは、三馬力以下の小さなものでしたが小型で蒸気機間より燃料が少なくてすむのでフランスやイギリスの工場で使われはじめました。

オットーの機関

1862年、フランスのドゥ=ロシァは、内燃機関の能率をよくするためにつぎの4つの作用をおこなうようにすることを唱えました。

  1. カスを吸い込む(吸入行程)
  2. 吸い込んだガスを圧縮する(圧縮行程)
  3. 圧縮したガスに点火して爆発させガスの体積を膨張させる(爆発行程)
  4. 爆発でできたガスを押し出す(排気行程)

1876年、ドイツのオットーは、この4つの行程を利用して重さも軽く、燃料も少なくてすむ、オットー機関を発明しました。

オットー機関は、ルノアール機関にとってかわりました。

続いて6年のちに、ダイムラーが、ガソリンを燃料としてオットー機関よりもっと小型で大きな力を出すガソリン機関を発明して自動車や飛行機のエンジンのもとをつくりました。

しかし、石油の乏しいドイツの技術者のあいだには「ガソリンより、もっと値段の安い重油を使うことはできないものか」という考えがうまれてきました。

ルドルフ・ディーゼル

ガソリンより発火点の高い重油に、どうして点火するのか、これが大きな問題でした。
この問題を見事にといたのが、ルドルフ・ディーゼルです。

ディーゼルは、シリンダーの中で、空気だけをまず3つ気圧以上に圧縮して温度をあげておき、そこへ重油の霧をふきこむようにしました。

そして火花を使わないで、重油を自然に爆発させることに成功しました。
ディーゼルエンジンは、電気火花を飛ばす仕掛けが入りません。

燃料も安く、回転も滑らかなので、たちまち船のエンジンとして蒸気タービンと競争をはじめました。

そしていまでは中型の船、バス、トラックなどに、さかんに使われています。

しかし、なんといっても、ガソリンエンジンよりは重いので乗用車などの小型自動車には向きません。




蒸気機関が誕生したのはいつ頃? ワットの蒸気機関とは?

人間の力のかわりに、自然のエネルギーを動力に利用しようという考えがおこりこれは大きな2つの流れとなって発展しました。

1つは電気エネルギーの利用です。
もう1つは、蒸気機関・内燃機関・ジェット機関のような熱機関です。


鉱山で生まれた蒸気機関

17世紀のころイギリスの鉱山では、石炭や鉱石を掘るのに忙しく竪穴は深くなるばかりでした。

そして、そこにたまった水を、どうして早くくみ出すかが大きな間題になっていました。

1698年、トーマス・バリが鉱山の水あげに実際に使える蒸気機関を発明しました。

このセーバリの蒸気機関に、ニューロンが改良を加えついに76馬力という大きな蒸気機関をつくりました。

これがどんなにすばらしい発明であるかは人間の力とくらべてみると、よくわかります。

左の表はだいたいのところですが人間や馬の力などは、蒸気機関とはくらべものになりません。
この蒸気機関をさらに改良して、鉱山の水あげだけでなくどこの工場でも使えるようにしたのが、ジェームズ・ワットでした。

ワットの発明を生んだもの

ワットは辛抱強い、熱心な発明家でした。

そしてシリンダーの片側で、蒸気を冷やしたときだけ仕事をするニューコメン機関から出発して回転式蒸気機関を発明したのは確かにすばらしいことでした。

しかし、ワットがどんなに頭をしぼってももしシリンダーの内側を平らに削ることができなかったら蒸気がもれてどうにもならなかったでしょう。

都合のよいことに、ワットの発明より先に中ぐり盤が発明されていました。

1769年、ジョン=スミートンが、水車で動く中ぐり盤を発明していたのです。
しかし、スミートンの中ぐり盤の削り方は、ずいぶん荒っぽいものでした。

ときには、シリンダーとピストンとのあいだに小指ほどの隙間ができることもあったのでその隙間に紙や古ぼうしなどをを詰めて蒸気がもれるのをふせぐという有様でした。

そこへあらわれたのが、ジョン=ウイルキンスンの中ぐり盤です。
ウイルキンスンは、ずばぬけた発明の天才で1775年、ワットの注文で精密なシリンダーを削ることができる中ぐり盤をつくりあげました。

ウイルキンスンはこのほかに蒸気ハンマー・圧延機など、たくさんの発明をしました。

ワットの発明

ワットの発明でいちばん大切なことは、つぎ2つです。
1つは、復水器をシリンダーの外側に取り付けてシリンダーの中で蒸気を冷やさないようにしたことです。

ニューコメンの機関では、シリンダーに蒸気をおくりそれを水で冷やして圧力を下げ、大気圧で、ピストンをはたらかせていました。

これは、シリンダーを温めたり、冷やしたりするために、燃料をたくさん使いました。

もう1つは、ワットの蒸気機関ではピストンの両側にかわるがわる、蒸気がおくりこまれることです。
そして、大気圧ではなく、蒸気の圧カでピストンを動かしピストンの往復運動を、回転運動にかえるようにしたことです。

この回転式蒸気機関は、たちまちイギリスから全世界に広がり産業革命がおこる大きな力の1つになったのです。



蒸気タービンの発明

蒸気が噴き出す力を利用して、羽根車をまわす蒸気タービンの考えはずっと前からありました。

紀元前210年ごろ、アレクサンドリアのヘロンが蒸気の力でまわる汽力球を考えました。
また16世紀に、イタリアのブランカは図のようなタービンを考えました。

しかし、実際に使えるタービンは中々できませんでした。
蒸気はたいへん速い速度で流れるので、蒸気タービンの羽根車や軸は高速回転にたえられるようにつくっておかなければ壊れてしまうのです。

スウェーデンのラバルは1882年、スウェーデンの質のよい鋼と精密な工作機械を利用してはじめて蒸気タービンをつくりましたが、回転が速すぎて牛乳からバターをとる、遠心分離機ぐらいにしか使えませんでした。

火力発電所や船などに使う大きなタービンをはじめてつくったのはイギリスのパーソンズです。

やがて19世紀の半ばをすぎると、ワットの蒸気機関で動かしていた全世界の工場は電気で動くようになりました。
また、船や火力発電所では蒸気タービンがワットの往復運動の蒸気機関にとってかわりました。

蒸気タービンの時代

蒸気機関で燃やされた石炭のエネルギーのうち実際に仕事に使われるのは、割り合いに少ないものです。
ワットが改良したものでも、わずか5パーセントぐらいのものでした。

これにくらべると、蒸気タービンはずっと能率のよいものです。
ふつう火力発電所などで使われているものは、20パーセント以上にもなっています。

ですから、大馬力の蒸気機関に、みな蒸気タービンにかわってきました。

機関車も電化されています。

機関車は復水器を取り付けることができないので燃やした石炭のエネルギーの5.5パーセントぐらいしか仕事に使われません。

しかし、同じ量の石炭を火力発電所で燃やして、蒸気タービンをまわし、電気をおこして、それで電気機関車を動かしてみると仕事にかわるエネルギーが10パーセント以上にもなります。

鉄道が、だんだん電化されるのは、そのためです。




工場が誕生したのはいつ頃? わかりやすく解説!

動力を待つ機械

何台もの機械を、1つの大きな建物の中に備えつけ大きな動力でいっぺんにまわしたらどうだろうと発明家たちは考えました。

これをはじめておこなったのは、イギリス人のリチャード・アークライトでした。

アークライトは川の淵に水力を利用した紡績工場を建てました。
これは動力で機械を運転する近代工場のはじめとなりました。

紡績機や織機の改良は、なお続きました。
イギリスのサミュエル・クロンプトンは1779年ハーグリーブズとアークライトの機械を改良してミュール機をつくりました。

こうなると、工場の機械は新しい動力があらわれるのを待つばかりです。
水力は川の淵でしか利用できません。
どこででも動力をたせろ機械がのぞまれていました。

この望みを満たしたのが、ワツトの蒸気機関の発明でした。


大量生産の芽生え

18世紀の終わりワットの蒸気機関が工場で使われはじめたころアメリカでは、すでに大量生産へ発展する芽が育ちはじめていました。

イギリスは、はじめインド・エジプト・アメリカから綿を買い付けていました。

種子と綿とをわけやすい黒種綿でしたがアメリカでは種子と綿とをわけにくい緑種綿しか育ちませんでした。

このためアメリカの綿は、だんだんインドやエジプトの綿に押されてきました。

これを救ったのは、エリ・ホイットニーという発明家でした。
ホイットニーは、コットン・ジンという、簡単に綿の種子を取り除く繰り綿機を発明したのでした。

これは、まったくすばらしい発明でした。
1台の繰り綿機で、1000~1500人の奴隷がする仕事をしました。

こうしてアメリカは綿の国となりコットンズキング(綿花王)とさえ呼ばれるようになりました。

ホイットニーの発明には、もう1つあります。
彼はアメリカの軍部から、1万丁のマスケッ卜銃の注文を受けました。

このとき彼は、マスケッ卜銃をばらばらにして1つ1つの部品をつくる工作機械を工夫しました。

こうなると、どの銃の部品も同じ寸法になるので部品を自由に取り換えることができるのです。

この部品を自由に取り換えられるということこそ、大量生産へ発展する第一歩でした。
20世紀のアメリカにおける、機械技術の目覚ましい進歩はホイットニーの発明のころから、はじまっていたのです。




機械が誕生したのはいつ頃? 水車と風車・時計の発明はいつ?

水車と風車の発明

紀元前100年ごろギリシアの詩人アンティバトロスの詩に、つぎのような一節があります。
水車が発明されたとき、古代人がどんなに喜んだか、この詩によくあらわれています。

いまは突くことを止めよ
石うすではたらく女たち
鶏が夜明けを知らせてもゆっくり休め

農業の神デメテルが水の精のニンフに命じて
女たちのする仕事をさせているから………

水車はその後、世界各国で長いあいだ使われてきました。
そのあいだに水車大工たちは歯車や軸受など水車でいちばん大切な機械の部分についての知識を増やしていきました。

風車は、いつごろから使われたかは、よくわかりませんが中世ごろには、世界各国で使われていました。

ことにオランダのように同じ向きの風が同じ速さで絶えず吹いている地方ではさかんに使われました。

19世紀のなかば、蒸気機関が使われ出したころでもオランダには1万2000もの風車がありました。

風車も水中と同じように、機械技術の進歩にたいへん役立ちました。


時計の発明

この水車と風車の機械技術を受け継いだのは、時計づくりの職人たちでした。
はじめて機械仕掛けの歯車時計をつくったのは、ドイツ人アンリ・ド・ピックでした。

ド・ピックは、1370年、フランス王シャルル五世に招かれてパリの宮殿の塔に、8年もかかって大きな時計を据え付けました。
この時計は、ときどき故障はしましたが、それまでにつくられたどの時計よりも正確でした。

それから1世紀ほど経つと、ドイツの二ュルンベルクにいたペーター・ヘンラインは金属のばねを使った小型の時計を発明しました。

この時計は、ニュルンベルクのたまごとよばれ、たいへん値段の高いものでした。
金持ちの人たちのあいだでは、宝石と同じように飾り物として、この時計をぶら下げて歩くことが流行ました。

1583年、ガリレオは教会の天井に下がっているランプが揺れていろことから振り子の等時性を発見しました。

そして彼は、振り子時計を考えました。
しかし、本当に役に立つ振り子時計をつくったのは、オランダのホイヘンスでした。



綿が生んだ機械

ルネサンスのころからさかんになったヨーロッパと東洋との貿易は17世紀から18世紀にかけて、ますますさかんになりました。

ことに、イギリスでは織物業がさかんになりいままでの紡績機や織機では仕事が間に合わなくなりました。

すると、これまでの時計の技術を受け継いだ職人たちはつぎつぎとすばらしい紡績機や織機を発明していきました。

イギリス人ジョン・ケイも時計師でしたが1733年、いままでのものより2倍も速く織れる織機を発明しました。

ケイは、縦糸に横糸を渡す魚のような形の杼を改良して手で紐を引っ張れば、杼がひとりで往復するようにしました。

この発明のおかけで、こんどは綿糸が足りなくなってきました。
ハーグリーブスという時計師は1台の機械に8個の紡錘をつけいちどに8本の糸がつむげる、多軸紡績機を発明しました。

この機械のおかげで、イギリスの綿糸の生産高は、いっぺんに200倍にもなりました。




天文学の発達しはじめたのはいつ頃? 天才ガウスの計算とは?

天王星の発見

18世紀の中頃から、天文学も進歩しはじめました。

1755年、ドイツのカントは「宇宙は、はじめ、もやもやした星雲のようなものが渦をまいて運動をしはじめてそれがだんだん固まり、今日のような天体ができた」という星雲説を唱えました。

また、1781年、ハーシェルに、太陽から数えて7番目の惑星である天王星を発見しました。


この天王星の発見を、最も喜んだのはドイツの「未知惑星捜査連盟」(まだ発見されていない惑星を探す学者たちの集まり)の学者たちでした。

この学者たちにベルリン天文台長ボーデが1727年に発見したボーデの法則を信じていました。
その法則にしたがえば、まだ発見されていない惑星の位置がわかるはずでした。

ハーシェルの発見した天王星の位置はボーデの法則に、ぴったりあっていることがわかりました。

連盟の科学者たちは、この法則からまだ知られていない惑星の位置の見当をつけて、そこへ一斉に望遠鏡を向けました。

ところが、その惑星を発見したのは、連盟の学者ではなくイタリアのパレルモ天文台長ピアッツィでした。

しかし、ピアッツィは、その星を病気のために、わずか11日間しか観測できませんでした。

ピアッツィの報告が連盟に届いたときはその星が太陽の近くへ動いて観測することができませんでした。

危うく「見失われた星」となるところへ、救いの神があらわれました。
それは、ドイツの大数学者ガウスでした。



天才ガウスの計算

ピアッツィの11日間の観測した結果からガウスはその惑星の軌道を計算することに成功しました。
しかも、わずか5、6時間で計算したのです。

連盟の科学者たちは、やがてガウスの計算に導かれてビアッツィが発見した惑星ケレスを再び発見することができました。

それに続いて、パラス・ジュノ・ベスタなどの小惑星が続々と発見されました。

日本でも、東京天文台の第二代台長平山信博士と及川奥郎技師たちが東京・ニッポニア・三鷹・多摩・隅田・箱根・熱海・日光などおよそ10個の小惑星を発見しました。

また、1846年には海工星が発見されました。

続いてドイツのブンゼンとキルヒホフは、スペクトルを使って物質の性質を研究するスペクトル分析法をはじめこれが天文学にも応用されて、太陽や恒星はスペクトルで研究されるようになりました。

最近は探測器を使って天体を直接観察するようになっています。

地球の研究

科学者の月が宇宙に向けられているあいだに地球についての科学も進歩しました。

フランス革命のさなか、ラボアジエなど、フランス一流の科学者たちは地球の子午線の長さをはかり、メートル法をつくりあげました。

また19世紀になると、ドイツのフンボルトは南アメリカを探検して新しい地理学をひらきイギリスのライエルは地質を調べる学問をはじめました。

このようにして発達してきた天文学や地学は20世紀へと引き継がれていったのです。




光は粒か波か? 光の正体とは? わかりやすく解説!

ニュートンとホイヘンスとの争い

科学者の間には「光とは何か」という問題が、かなり昔からありました。

18世紀のはじめ、ニュートンが太陽の光が7つの色(スペクトル)にわけられることを発見して「光は、光を出すものから発せられた小さな粒のような物質に違いない」という光の粒子説を発表しました。

そのうち、イギリスのトーマス・ヤングが「波長の違う2つの光は、お互いに干渉して縞をつくる」ことを実験して光は波だという、波動説を唱えました。

イギリスのフック、オランダのホイヘンスなどの学者は、この考えかたに賛成しました。
そして、ニュートンとホイヘンスとのあいだで粒子だ波だという説の言い合いがはじまりました。


どちらも正しい

1864年に、イギリスのマクスウェルは「光は電磁波の一種である」という光の電磁波説を唱え、1888年になると、ドイツ人ヘルツが光は電磁波であることを実験で確かめました。

これで「光は波である」ということになりました。

ところが1905年、アインシェタインがあらわれて「光は光子という粒である」という光量子仮説を発表したので騒ぎは大きくなりました。

そのころ、金属に光をあてるとその金属の表面から電子が飛び出すことが発見されていました。

これを光電効果といいます。

この光電効果は、アインシュタインの光量子仮説で見事に説明することができたのです。

そして「光は波であると同時に、粒子である」ということがわかってきました。
このことについて、科学者たちが説明できるようになったのは原子についての科学が進歩してからでした。



200年の謎

ホイヘンスは、光の波動説を唱えたとき
「宇宙は、エーテルというもので満たされている」と考えました。
光はそのエーテルの振動だと考えなければ、波動説の説明ができなかったからです。

しかし、光の波動説を説明するためにはこのエーテルは、固体のような性質をもっていなければならないことがわかってきました。

すると、エーテルの中を動いている地球をはじめすべての天体は、その運動がさまたげられるはずです。

このようなことから「エーテルは、かたさがあると同時に、真空のようなものである」ということになります。

また1864年に発表された、マクスウェルの電磁波説では「エーテルは、電磁波を伝える仲立ちをするもの」となっていました。

しかし、エーテルがあるということを確かめることはできませんでした。
こうなると、エーテルというものは、この宇宙にはないことになります。

しかも、エーテルがなければ、電磁波があるということが説明できません。

1905年、アインシュタインの相対性理論によって「この宇宙には、エーテルというものはない」ということが見事に説明されたのです。

このように、ホイヘンスが言い出したエーテルは200年もの長いいだ、科学者たちを悩ませてきたのでした。




X線の発見はいつ頃? ラジウムの発見はいつ頃?

クルックス管の謎

1874年、イギリスの物理学者クルックスは、クルックス管を発明しました。
これは2つの電極をガラス管にふうじこめ、管内の空気を抜いて真空の状態に近づけたものです。

そして、この2つの電極に直流の高電圧を加えると陰極から陰極線がでて、真空放電がおこるのです。

1895年の末、ドイツのビュルツブルク大学の研究室でレントゲンはこのクルックス管の研究をしていて不思議なことを発見しました。

あるときレントゲンは、実験の準備をしていました。

部屋を暗くしてクルックス管か黒い厚紙でおおい光がもれるかどうかを試すため、クルックス管のスイッチを入れました。

光はどこからももれていませんでした。しかしそのとき、彼ははっとしました。

隣の机の上に置いてあったシアン化白金バリウムを塗った紙が、ぼんやり光っていました。

この紙は、光にあたらなければ光らないのです。
そこで彼は「もし光があるとすれば、このクルックス管のほかにはないはずだ」と考えました。

こうしてレントゲンは、クルックス管からいままでまったく知られていなかった光が出ていることを発見しました。

そして彼は、その光線を「まだよくわからない光線」という意味でX線とよびました。
のちにこのX線はレントゲンの名前を記念してレントゲン線とよばれるようになりました。


ウラニウム線の発見

そのころ、フランスの有名な科学者アンリ=ポアンカレは「クルックス管ばかりでなく、蛍光を発する物質は、すべてX線を出すに違いない」という意見を発表しました。

もちろん、この意見は間違っていました。

しかし、ほかでもないポアンカレの意見だったのでたいていの科学者は、その意見を信じてしまいました。
そういう学者のひとりに、フランスのアントワーヌ・アンリ・ベクレルがいました。

ベクレルは、ポアンカレの間違った意見にしたがって実験をすすめているあいだに「太陽の光を受けて蛍光を放つウラニウム塩も光を受けないウラニウム塩も、ともに写真乾板によく感光する」ということを発見しました。

つまり、ベクレルは、ウラニウムからも不思議な光が出ていることを発見したのです。

ウラニウム線もX線も「目に見えない、写真乾板を感光させる。空気に電気が通るようにする」というはたらきがあります。

このようなはたらきは、後に放射能と名付けられました。

しかしウラニウム線は、X線のように人間の体などを突き抜けることはできません。
そのかわり、ウラニウムやウラニウムの化合物は光をあてたり、温めたりしなくても自然にウラニウム線を出していることがわかってきました。



新しい元素を追って

ウラニウムの放射能には、不思議なことがありました。
ウラニウムの鉱石からウラニウムをとった残りかすがウラニウムより強い放射能をもっていることです。

キュリー夫人は、このかすを調べてみました。
そしてウラニウムのほかに、トリウムも放射能をもっていることがわかりました。
しかし、それでもウラニウム鉱の放射能の強さを説明することはできません。

ここでキェリー夫人は
「これらの鉱物の中には、ウラニウムやトリウムより強い放射能を出すいままでに知られていない新しい元素がふくまれているのではないだろか」と考えました。

そして、夫ピエールの協力を得て、その元素を探しました。
1898年、ついにキュリー夫人は、強い放射能を出す新しい元素を発見しました。

そして、それにポロニウムという名前をつけました。

自分で壊れる原子

この発見からわずか5か月後にキュリー夫妻はもう1つの元素があることをつきとめました。

その元素は、化学的にはバリウムという金属に似ていてウラニウムより数百万倍も強い放射能を餅、亜鉛鉱や蛍光板に蛍光を出させることができます。

キュリー夫妻にこの元素に、ラテン語の光という意味の言葉からラジウムと名付けました。
そして原子量をはかり88番目の元素として元素表へ書き入れました。

研究がすすむにつれて、ますます不思議なことがわかってきました。
ラジジウムに、アルファ線・ベータ線・ガンマ線という3つの放射線を出しながら、ほかの元素にかわり最後には鉛とヘリウムになってしまうです。

これまでの科学者たちは「原子は壊れないもの、元素はかわらないもの」と考えていましたから、驚いてしまいました。

キュリー夫妻のこの発見がきっかけとなって原子についての科学は、にわかに進歩しはじめました。




熱の正体とは? 温度計が発明されたのはいつ頃?

温度計の発明

熱さ、冷たさなどをはかろうとして考えだされたのが温度計です。
はじめてつくられた温度計は、空気温度計でした。

ガリレオの友達の医者は、早速これを改良して、病人の体温を測ったといわれています。

1714年、ドイツのファーレンハイトははじめて水銀温度計をつくり、氷が溶ける温度を32度人間の口の中の温度を96度と決めました。

これが、華氏温度めもりです。

その後、1742年には、スウェーデンのセルシウスは水が凍る温度を100度、水が沸騰する温度を0度とするいまの温度計とは反対の摂氏温度めもりのもとをつくりました。

これで温度を測る道具はできましたが温度とは何か熱とは何かというようなことは、まだわかりませんでした。


温度と熱とは違う

1763年、イギリスのブラックという学者は、熱について大切なことを発見しました。

同じ重さの銅・鉄・鉛など、いろいろな物質をとって同じ温度まで上げるのに、どれだけの熱量がいるかを実験してみました。

そして、物質によって、その熱量が違うことを発見しました。

このブラックの研究のおかげで温度と熱とは違うものだということがわかりました。
そして熱についての研究が、いままでより、ずっとすすみました。

熱は運動か物質か

1669年、ドイツのべッパーという学者は、おもしろい説を唱えました。
「物の中には、熱素という小さい粒がある。

物が燃えるときは、この熱素がたくさん出てくるから温度が高くなる。
だから、温度の高いものほど、熱素をたくさんもっているというのです。

これを熱素説といいます。

ブラックもこの熱素説を信じていたので、なんとかして熱素の重さをはかろうとしました。

しかし、そのたびに失敗しました。そこでブラックは、つぎのように考えました。

「熱素は、重さをはかることのできない物質である」

18世紀の終わりごろ、アメリカのランフォードという学者が、おもしろい実験をしました。

大砲の地金でつくった円筒を水の入った箱の中で回転するようにしました。
この円筒のはしに、中ぐり棒を押し付け摩擦が起こるようにしました。

そしてその円筒を2頭の馬で回転させ、摩擦で起きた熱を水に伝えました。
すると箱の中の水は、わずか2時間20分で沸騰したのです。

そこでランフォードは、熱は「物質ではなく、運動である」と考えました。

続いてイギリスのデービーも別の実験をおこない「熱は物体をつくっている小さな粒の特別の運動である」と考えました。

19世紀になると、イギリスのジュールはいろいろな実験から、熱は運動であって、仕事は熱にかわり熱は仕事にかわるということを発見しました。

このジュールの実験をもとにして、エネルギーについて大切な法則を打ち立てたのがヘルムホルツだったのです。




斜面の法則とは? エネルギー保存の法則とは?

夢からうまれた斜面の法則

大昔から人類は「少しでも楽に仕事をしたい」という夢を抱き続けてきました。
この夢は「永久機関」をつくろうという努力にかわりました。


永久機関というのは、外から力を加えないでも自分の力で回転して、いつまでも仕事をしてくれる機械のことです。

16世紀の終わりごろ、オランダのシモン=ステビンという科学者はつぎのような永久機関を考えました。

図のように、②の辺が①の辺の長さの2倍になるような直角三角形を考え③の辺が水平になるようにおきます。

これに14個の同じ重さの球を、あいだが同じになるようにくさりにつないで
この三角形にかけます。

「下にぶら下がった8個は、辺の上にのっている4個と2個の球のつりあいには関係がないから、4個と2個のつり合いだけを考えればよい。

4個の球は、重さが2個の球の2倍になるから、くさりは4個の球のほうへ引っ張られこのくさりは、①から②の方向へ動くに違いない」

ところが実際にやってみると、くさりに、びくとも動きませんでした。
そこで、ステビンは、そのわけを考えはじめました。

そして「4個の球が乗っている辺の長さが2個の球が乗っている辺の長さの2倍になっているときは4個の球の重さのはたらきと、2個の球の重さのはたらきは同じになる」ことを発見しました。

こうしてステビンは、斜面の法則を発見し、さらに研究をすすめ、それを1冊の本にまとめました。

そして彼は、その本の表紙にこう書きました。

「これは不思議だ。だが、ちっとも不思議ではない」



エネルギー保存の法則

ステビンが永久機関の夢を破ってから、仕事についての研究がはじまりまもなく科学者たちは、仕事の量をはかる法則を見つけだしました。
そして、エネルギーという考えにすすみました。

ポールを投げて、そのボールが軽いものにぶつかると、それを跳ね飛ばします。つまり、ボールは仕事をしたわけです。

このように、仕事をすることができる能力を、エネルギーといいます。
エネルギーという言葉を、はじめて使ったのは19世紀のはじめ、イギリスのトーマス・ヤングでした。

そして1847年には、ドイツのヘルムホルツは、エネルギーについての法則を発見しました。

大きさも重さも同じ、2つの球を用意し、滑らかな面の上に1つの球を置きます。

もう1つの球を転がして、止まっている球にあてると動いていた球は止まり、止まっていた球が動き出します。

つまり、動いていた球は、自分のもっていたエネルギーを失います。
そのかわり、止まっていた球は、そのエネルギーを受け取って動き出したのです。

すると、こういうことが言えます。

「エネルギーは、こちらで減れば、必ずあちらで増えます。そして、全体のエネルギーは減りも増えもしません」

これを、エネルギー保存の法則といいます。




元素が発見されたのはいつ頃? メンデレーエフの予言とは?

元素と化合物

フランスの化学者ラボアジエは、物が燃えるわけを研究して「プリーストリーが発見したガスは、きっと空気の中にあるに違いない」と考えました。

いろいろ実験したのちラボアジエは、自分の考えが正しいことを明らかにしてプリーストリーの発見したガスに酸素ガスという名前をつけたのです。

ラボアジエはまた、元素にはどんなものがあるか元素どうしはどんな割合で化合してどんな物質をつくるかなどということを深く研究しました。

そして、つぎのようなことを明らかにしました。
「空気は、酸素ガスと窒素ガスが混じってできている。木炭は炭素からできている。

木炭が空気の中で燃えるのは、炭素が酸素と結びついて(化合して)二酸化炭素(炭酸ガス)になるのだ。

ろうそくは、炭素・酸素・水素が化合してできた物質(化合物)だ。

ろうそくが空気の中で燃えるときは、ろうそくの中の炭素が空気の中の酸素と化合して二酸化炭素(炭酸ガス)になり水素は酸素と化合して水になる。

鉄を空気の中で強く熱すると黒いさびにかわる。鉄のさびは、鉄と酸素の化合物だ。物質の種類は何万もある。

しかし、すべての物質は、酸素・水素・炭素・窒素・鉄などの元素がめいめい決まった割合で化合している。

化合物に、新しくできたり、かわったりする。しかし、化合物をつくる元素は、消えてしまうことはない」

ラボアジエのこのような考えをもとにして、たくさんの学者が研究をすすめました。

そして、これまで知られていなかった元素を発見したり化合物のしくみを研究したりしました。


物質は原子からできている

イギリスのドールトンいう化学者は、つぎのような考えで元素の研究をすすめました。

「ラボアジエの考えた元素とは、どういうものだろう。
酸素という元素は、もっと詳しく調べると、非常に小さい粒に違いない。
炭素も、やはり、小さい粒でできているに違いない。

そして炭素の粒何個かと、酸素の粒何個かと結びついて二酸化炭素(炭酸ガス)の粒ができるのだろう。

水も、やはり、酸素の粒と水素の粒とが決まった数ずつ結びついてできたものに違いない」

ドールトンは、こうして考えた元素の粒のことを、原子と名付けました。
そして「物質は、元素の粒である原子の組み合わせでできている」と発表しました。

これは、1803年のことです。

原子どうしが結びついてできた化合物のことを私たちは分子とよんでいます。
物質の研究は、このドールトンの考えが発表されてから、とんどんすすみました。

偶然の発見は無くなった

続く元素の発見

ドールトンが原子説を発表してから後、新しい元素が続々と発見されていきました。
そして、ラボアジエがつくっておいた元素表にはつぎつぎと新しい元素がつけくわえられ、間違いも直されていきました。

1774年には塩素が、1807年にはカリウムとナトリウムがそれぞれの水酸化物から取り出されました。

1812年にはヨウ素が発見されました。

1817年にはリチウムとカドミウムが、同じ年にさらにセレンが発見されアルミニウムは1827年に金属として取り出されました。

しかしこれらの元素は、学者たちが、まだどんな元素があるのかわからないまま偶然に発見されていたのでした。



メンデレーエフの予言

1875年フランスの化学者ボアボードランは、ガリウムを発見したときロシアのドミトリ・メンデレーエフから、一通の手紙をもらってびっくりしました。

その手紙には「あなたが測定されたガリウムの比重4.7は間違いで、5.9~6.0が正しいと思います」と書いてあったからです。

ボアボードランは、早速ガリウムの比重をはかり直してみました。
すると、メンデレーエフのいう通り、5.96となりました。

ガリウムを見たことも、もちろんその比重をはかったこともないメンデレーエフがどうしてガリウムの比重を予言することができたのでしょうか。

それは彼が、元素の周期律を発見していたからです。

メンデレーエフは、それまで発見された、元素の性質を丹念に調べ元素の性質にしたがって、元素を並べた表をつくってみました。

すると元素は、正しい規則にしたがって並んでいることがわかりました。

そして、まだ発見されていない元素の性質さえわかりました。
こうして、メンデレーエフの周期律表ができてからは化学者たちは計画的に研究をすすめることができるようになったのです。




ガスの発見はいつ頃? ボイルの実験とは? わかりやすく解説!

ボイルの実験

今までの研究のうえにたって、さらに研究をすすめたのはイギリスのロバート・ボイルでした。

彼は仲間をつくって、ものが燃えるわけや金属の化学変化などについて、熱心に研究しました。


そして「化学変化の研究を、本当の学問として研究しなければいけない」と考えました。

こうして、彼は、後に「化学の父」とよばれるようになりました。
ボイルとその仲間は「ポンプで空気を抜き取った器の中では、物が燃えない」
ということを発見しました。

またボイルたちは、つぎのような実験をしました。

ガラス瓶を逆さにして、その中でろうそくを燃やし、瓶を水の上に伏せました。やがて、ろうそくの炎が消えて、水が瓶の中へ上がってきました。

こんどは、ガラス瓶の中で、ろうそくを燃やし、その後にネズミを入れてみました。ネズミは、窒息して死にました。

このような実験から、空気がないとものは燃えないし動物も呼吸ができなくて死んでしまうことがわかりました。

酸素ガスの発見

1774年、イギリスの化学者プリーストリーは、つぎのようにして酸素ガスを発見しました。

彼は、水銀を空気の中で熱しました。
すると水銀は、赤い灰のような物質にかわりました。

つぎに、この物質を集めて、ガラス瓶に入れ大きなレンズで光線を集めて、この赤い灰を強く熱しました。

すると、赤い灰のような物質からガスがでて、灰は、もとの水銀になりました。

またプリーストリーは、ガスを集めて、よく調べました。

そのガスの中では、物は空気の中よりも激しく燃えます。
また彼は、ネズミを、このガスを詰めた瓶の中へ入れました。
ネズミは、同じ体積の空気の中へ入れたときより、2倍から3倍も長く生活できます。

「この赤い灰のような物質から出たガスは、物を燃やすはたらきをする」と
プリーストリーは考えました。




空気の発見はいつ頃?「空気は物である」 トリチェリの気圧の実験とは?

柳の実験

17世紀のはじめ、オランダにファン・ヘルモントという学者がいました。
ヘルモントは「すべてのものは水からできている」というギリシアのタレスの説を信じていました。

そこで、タレスの説を実験で確かめてみようと思いたちました。


ヘルモントは、1本の柳の木を値木鉢に植えました。
そのとき、木と土の重さをはかっておきました。

木は2.3キログラム、上はよく乾かしたときの重さが9回キログラムありました。
また土の表面には、土が風で飛ばないように、穴をあけた鉄板をかぶせておきました。

こうしてヘルモントは、毎日水だけかけて、5年間その柳の木を育てました。
そして柳の木と、土の重さとをはかってみたのです。

土の重さは、90キログラムに84グラム足りないだけでした。
いっぽう柳の木の重さは88.2キログラムありました。

上の重さはほとんどかわらないのに木のほうは約86キログラムも増えていたわけです。

この実験からヘルモントは「水が木の幹や葉にかわったに違いない。
木は燃えると灰になるし、灰は土だから、やはり水が土にかわるのだ」と考えました。

もちろん、ヘルモン卜が考えたことは間違っています。

植物は空気にふくまれている二酸化炭素をもとにして、でんぷんなどをつくります。
また、土の中からはカリウムや、窒素を吸い上げて、養分にします。

へルモントは、こういうことをまだ知らなかったのです。

しかし、ある物質がほかの物質にかわることを重さをはかる方法で確かめようとしたことは化学への第一歩でした。

またヘルモントが、28キログラムの木炭を燃やしたところ、45グラムの灰が残りました。

ヘルモントは「27.55キログラムの木炭は目には見えないが重さのあるものにかわったのだ」と考え、それをガスとよぶことにしました。



空気はものである

16世紀の半ば頃、ヨーロッパと東洋とのあいだで、貿易がさかんになりました。
このため、織物業や鉱山業がさかんになりました。
そして鉱山では水をくみだすため、ポンプがたくさん使われはじめました。

ところが深いところでは、何段もつなぎ合わせなければ水をくみあげることができませんでした。
鉱山業者たちは、1台のポンプでどんなに深いところからでも水をくみあげることができたらどんなに便利だろうと思っていました。

17世紀ごろになると、学者たちは、この問題をとりあげはじめました。
イタリアのトリチェリは、つぎのようなことを考えました。

「地球の表面は、海の底のようなものだ。

海の底に海水の重さがかかっているように地球の表面にも空気の重さがかかっているはずだ。本当にそうなのか、ひとつ試してみよう」

そこでトリチェリは長さがおよそ1メートルのガラス管のいっぽうのはしを溶かしてふさぎ水も空気ももらないようにしました。

そして、開いているほうの口から、水銀をいっぱいにいれました。
このガラス管の口を指でおさえ、水銀の入っている器の中へ逆さまに立てました。

抑えている指を離すと、管の中の水銀は下がってガラス管の上のほうに隙間ができました。

管を少し傾けても、器の水銀の表直からはかった管の中の水銀の高さは、もとのままです。

そこでトリチェリは「空気の重さが圧力になって、水銀を管の中に押し上げるのだ」ということが証明されたと考えました。

吸い上げポンプの水が、包まった高さまでしか上がらないのも同じ理屈なのです。

トリチェリの実験でガラス管の上のほうにできた隙間は空気のないところで真空なのです。

ギリシアのアリストテレスの学問では「自然は真空を嫌う」といわれ人々はそれが正しいと思っていだのですから真空が本当にあることがわかったのも、たいへんな進歩でした。

トリチェリが実験をしてから5年ほど後に、フランスのブレース・パスカルは
空気の圧力や真空のことを、もっと詳しく研究しました。

ドイツのゲーリッケも、空気の圧力について研究していましたが1653年に、空気ポンプを発明しました。

こうして、空気は重さのある物質であるということがわかったのです。




金属とガラス、硫酸と硝酸を発見したのはいつ頃? わかりやすく解説!

物質

鍋・包丁・ナイフ・釘・レールは、鉄でできています。
鏡やレンズは、ガラスでつくらています。

このような鉄やガラスは、物質とよばれています。水・食塩・でんぷんも物質です。

ナイフや包丁など、鉄でできたものを湿り気のあるところに長いあいだ放りっぱなしにしておくと、さびることがあります。

さびた鉄は、もとの鉄とは違う物質です。

ごはんをゆっくり噛んでいると、甘い味がでます。
これは、米のでんぷんが、糖にかわるからです。でんぷんと糖とは、違った物質です。

このように、ある物質が、別の違う物質にかわることを、化学変化といいます。

化学変化を研究する学問が化学です。


金属の発見

人間が、はじめて利用した化学変化は、木や草を燃やすことでした。
石をつり上げて、かまどのようなものをつくり、その中で木や草を燃やすとよく燃えることを知ったからです。

また、上や粘土を焼いて、陶器からくることも覚えました。
これは、いまから7000~8000年も昔のことです。

火を起こしたり、土器を火で焼きかためたりしているうちに人問は、ぴかぴか光る金属の銅を発見しました。

たぶん、銅をふくんだ鉱物が、かまどの土で石の中に混じっていたのでしょう。
人々は、銅をふくんだ鉱物を集めてかまどで焼き銅を取り出すようになりました。

そのうちに、銅にすずを混ぜた青銅が発明されました。
西南アジアでは700年ぐらいまえから、青銅の刀やくわが使われていたようです。
鉄が使われるようになったのは、銅や青銅より遅く、およそ4000年くらい前からです。
鉄の取り出しかたが、銅より難しかったからです。

古代文明社会で知られていた金属は、銅・鉄・すず・鉛・金・銀・水銀です。
このように、金属を取り出したり、使ったりしているうちに昔の人の化学の知識は、どんどんすすみました。

ガラス器具の発明

だんだん時代がすすむにつれて、陶器のつくりかたも進歩してきました。
うわぐすりを発明して、陶器に塗って焼くようになったのです。

粘土を焼いただけの壺では、水がもれます。
うわぐすりを塗って焼いた壺は、水がもらないばかりか、非常にきれいです。

また、うわぐすりをもとにして、ガラスがつくられるようになりました。
およそ、2000年くらい前のことです。

ガラスを加工して、複雑な形の器もできるようになりました。
どろどろに溶けたガラスを管にくっつけて、息を吹き込んでつくるのです。

同じころ、エジプト人はすでに、ガラスの蒸留器をつくっています。
そして、バラの花などを蒸留し、香りのよい、香水のもとををつくりました。



硫酸・硝酸の発見

8世紀から10世紀のころ、アラビアやイタリアで大切な物質が発見されました。

それは硫酸と硝酸です。

硫酸は、ガラスの蒸留器にミョウバンという物質を入れて熱するとできます。
また、ミョウバンに、硝石という物質を混ぜて熱すると、硝酸ができます。

この硫酸や硝酸は、混じりけのある金や銀を混じりけのないものにするために役立ちました。

これらの酸の発見で、化学変化についてたくさんのことがわかりいろいろな新しい物質が、酸によってつくられるようになりました。

錬金術

ヨーロッパでは、中世からルネサンス時代にかけて、錬金術が研究されました。
これは、銅・すず・鉛・水銀などのような、値打ちの低い金属を金や銀のような値打ちの高い金属にかえようとするものです。

もちろん、錬金術で銅・すず・鉛などを金や銀にかえることは失敗に終わりました。

しかし、錬金術を研究していた人たちは、金属やその化合物を詳しく調べました。また、自分たちの研究を本に書き残しています。

このおかげで、その後の化学変化の知識はずっと増えたのです。




万有引力の法則を発見したのはいつ頃? ニュートンってどんな人?

月が落ちないわけ

ニュートンは、月が落ちないのはどういうわけだろうと考えました。
地球上のものはガリレオが調べたように高いところからはなすとまっすぐ落ちてしまいます。

それなのに地球のまわりをまわっている月は、どうして落ちないのでしょう。


ニュートンがケンブリッジ大学を卒業して大学に残って研究を続けていた時代のことです。

ちょうどそのころ、イギリスではペストがひどく流行、大学が休校になりました。そこでニュートンは、故郷のウルズソープ村に帰りました。

月がなぜ落ちないか、という考えが浮かんだのは、そのころのことだったようです。

誰でも知っている、「ニュートンとリンゴの話」はこのときのニュートンの考えをわかりやすく説明するたとえ話です。

月がなぜ落ちないかという問題については、ほかの学者たちも、熱心に研究していました。

紀元前においてすら、海の潮の満ち干から月と太陽と地球との間に引力がはたらいいていると考えた人がいます。

しかし、当時は、力を及ぼし合うものはくっついていなければならないというアリストテレスの説があったので、この引力の考え方は太陽の神秘的な力という説にすりかえられました。

また、ケプラーも、太陽がほかの星に及ぼす力は距離に反比例すると考えていました。

ニュートンと同じ時代の学者、ロバート・フックも「地球と月あいだや、地上の物体どうしのあいだには、力がはたらいている。

その力は、お互いの距離の二乗に反比例すると考えてはどうか」と言い出していました。

このように、ニュートンよりも前に万有引力の考え方を発見した人はたくさんいましたがだれもその考え方を証明することができなかったのです。

ニュートンが、万有引力の法則を発見したと言われるのは彼が自分でつくりあげた徴分学・積分学などの数学を用いて万有引力の法則を証明したからです。

そして、科学の歴史の中でも、いちばんすばらしい本といわれる「プリンキピア」の中で、この考えを詳しく書きました。

ニュートンはまた、別の本に、この考えの土台になる点をつぎのようにわかりやすく説明しています。

下の図を見てみましょう。

①は地球の山の頂上にいる人で、そこから、水平に物を投げてみましょう。物は、①②のように落ちていきます。

ところが、投げる速さが大きくなればなるほど、①③,①④のように遠くのほうまで行きつくことになります。

それならば、こんどはもっと速く投げてみたらどうでしょう。
きっと①から出て地球をひとまわりし、また①にもどることもあるに違いありません。

月が落ちないのはこういうわけだと、ニュートンはいうのです。
まことにうまい説明だというほかにありません。



科学革命の時代

このように立派な仕事をしたニュートンはその後、死ぬまで王立協会の会長をつとめ、科学をすすめるのに力をつくしました。

死ぬ少しまえにニュートンは、こんなことを言っています。

「私は、自分のことを浜辺で遊びながら、小石を拾っている子どもだと思っている。
ときには、滑らかな小石や、きれいな貝がらが見つかることもある。
しかし、真理という大きな海は、私の前にまだわからないものを、いっぱいに称えている」

このようにして、新しい科学の土台はできあがりました。
しかし、自然のものごとには、ガリレオやニュートンの研究したことよりもっと難しい、複雑な問題があります。

世の中がすすむにつれて、このような問題も調べていかなければならないようになってくるのです。
しかしそれには、ガリレオやニュートンたちの考えがそれまでのどんな町代の考えよりも、はるかに役立ちました。

ですから、この時代のことを科学の歴史では、最初の科学革命時代とよんでいるのです。




ニュートンの研究とは? わかりやすく解説!

ニュートンの時代

ガリレオやケプラーたちがはじめた新しい科学に
いっそうしっかりした土台を築いたのはイギリスのアイザク・ニュートンです。

ガリレオがなくなって1年ほど経ったころ
ニュートンはウルズソープという小さい村の自作農の家にうまれました。


そのころ、レオナルドやガリレオをうんだイタリアはもう科学を育てていく力を失くしていました。
ケプラーのいたドイツも、長い戦争で、ひどく弱りはてていました。
そして新しい科学は、新しく興ったイギリスやフランス・オランダのような国々で伸び伸びと、育ちはじめていたのです。

ことにイギリスでは、ニュートンの子どものころにクロムウェル革命がおこり、青年時代には議会政治がはじまりかけていました。

科学者たちは、こういう時代の新しい息吹の中でお互いに研究したことを語りあう集まりをつくるようになっていました。

その中でも「目立たぬ学会」という集まりにはそのころのいちばんすぐれた学者が参加していました。

この学会は、のちに「王立協会」という名前になり、今でも続いています。
ニュートンも、若いころから、その会員になっていました。



研究をまとめる

ニュートンが、反射望遠鏡をつくったり太陽の光が7つの色にわかれるのを発見したことは、よく知られています。
また、いま高校や大学で勉強することになっている徴分学・積分学という数学をはじめたのもニュートンでした。

そればかりではありません。ニュートンは、もっと大きな仕事をしました。

それは、天体でも地球上の物体でも、目に見える物体の運動にはどんな法則があるかということを明らかにしたことです。

また、このような物体の運動を調べるにはいつも万有引力という力を考えに入れなけばならないことをはっきりさせたことも、すぐれた仕事といってよいでしょう。

それまでにも、惑星の運動についてはケプラーの法則がありました。

地球上で、物体を落としたり、投げ合ったりするときその物体がどんな道筋を通るかということについてはガリレオの法則がありました。

また、オランダのクリスティアン・ホイヘンスは振り子の連動の法則について、詳しい研究をしていました。

このほか、空気や水の研究もすすんでいました。

フランスのブレーズ・パスカルたちは、気圧や水圧について、たくさんの研究を積み上げていました。

しかし、このようなさまざまのことがらを、1つの学問にまとめあげその土台にもっと広い、しっかりした法則を見つけ出すことはまだ、誰もやっていませんでした。

これをやり遂げたのが、ほかでもないニュートンだったのです。
ニュートンの研究が出来上がってはじめて、いろいろな自然のことがらの間にもちゃんとしたつながりのあることがわかったのです。




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