元素が発見されたのはいつ頃? メンデレーエフの予言とは?

元素と化合物

フランスの化学者ラボアジエは、物が燃えるわけを研究して「プリーストリーが発見したガスは、きっと空気の中にあるに違いない」と考えました。

いろいろ実験したのちラボアジエは、自分の考えが正しいことを明らかにしてプリーストリーの発見したガスに酸素ガスという名前をつけたのです。

ラボアジエはまた、元素にはどんなものがあるか元素どうしはどんな割合で化合してどんな物質をつくるかなどということを深く研究しました。

そして、つぎのようなことを明らかにしました。
「空気は、酸素ガスと窒素ガスが混じってできている。木炭は炭素からできている。

木炭が空気の中で燃えるのは、炭素が酸素と結びついて(化合して)二酸化炭素(炭酸ガス)になるのだ。

ろうそくは、炭素・酸素・水素が化合してできた物質(化合物)だ。

ろうそくが空気の中で燃えるときは、ろうそくの中の炭素が空気の中の酸素と化合して二酸化炭素(炭酸ガス)になり水素は酸素と化合して水になる。

鉄を空気の中で強く熱すると黒いさびにかわる。鉄のさびは、鉄と酸素の化合物だ。物質の種類は何万もある。

しかし、すべての物質は、酸素・水素・炭素・窒素・鉄などの元素がめいめい決まった割合で化合している。

化合物に、新しくできたり、かわったりする。しかし、化合物をつくる元素は、消えてしまうことはない」

ラボアジエのこのような考えをもとにして、たくさんの学者が研究をすすめました。

そして、これまで知られていなかった元素を発見したり化合物のしくみを研究したりしました。


物質は原子からできている

イギリスのドールトンいう化学者は、つぎのような考えで元素の研究をすすめました。

「ラボアジエの考えた元素とは、どういうものだろう。
酸素という元素は、もっと詳しく調べると、非常に小さい粒に違いない。
炭素も、やはり、小さい粒でできているに違いない。

そして炭素の粒何個かと、酸素の粒何個かと結びついて二酸化炭素(炭酸ガス)の粒ができるのだろう。

水も、やはり、酸素の粒と水素の粒とが決まった数ずつ結びついてできたものに違いない」

ドールトンは、こうして考えた元素の粒のことを、原子と名付けました。
そして「物質は、元素の粒である原子の組み合わせでできている」と発表しました。

これは、1803年のことです。

原子どうしが結びついてできた化合物のことを私たちは分子とよんでいます。
物質の研究は、このドールトンの考えが発表されてから、とんどんすすみました。

偶然の発見は無くなった

続く元素の発見

ドールトンが原子説を発表してから後、新しい元素が続々と発見されていきました。
そして、ラボアジエがつくっておいた元素表にはつぎつぎと新しい元素がつけくわえられ、間違いも直されていきました。

1774年には塩素が、1807年にはカリウムとナトリウムがそれぞれの水酸化物から取り出されました。

1812年にはヨウ素が発見されました。

1817年にはリチウムとカドミウムが、同じ年にさらにセレンが発見されアルミニウムは1827年に金属として取り出されました。

しかしこれらの元素は、学者たちが、まだどんな元素があるのかわからないまま偶然に発見されていたのでした。



メンデレーエフの予言

1875年フランスの化学者ボアボードランは、ガリウムを発見したときロシアのドミトリ・メンデレーエフから、一通の手紙をもらってびっくりしました。

その手紙には「あなたが測定されたガリウムの比重4.7は間違いで、5.9~6.0が正しいと思います」と書いてあったからです。

ボアボードランは、早速ガリウムの比重をはかり直してみました。
すると、メンデレーエフのいう通り、5.96となりました。

ガリウムを見たことも、もちろんその比重をはかったこともないメンデレーエフがどうしてガリウムの比重を予言することができたのでしょうか。

それは彼が、元素の周期律を発見していたからです。

メンデレーエフは、それまで発見された、元素の性質を丹念に調べ元素の性質にしたがって、元素を並べた表をつくってみました。

すると元素は、正しい規則にしたがって並んでいることがわかりました。

そして、まだ発見されていない元素の性質さえわかりました。
こうして、メンデレーエフの周期律表ができてからは化学者たちは計画的に研究をすすめることができるようになったのです。




ガスの発見はいつ頃? ボイルの実験とは? わかりやすく解説!

ボイルの実験

今までの研究のうえにたって、さらに研究をすすめたのはイギリスのロバート・ボイルでした。

彼は仲間をつくって、ものが燃えるわけや金属の化学変化などについて、熱心に研究しました。


そして「化学変化の研究を、本当の学問として研究しなければいけない」と考えました。

こうして、彼は、後に「化学の父」とよばれるようになりました。
ボイルとその仲間は「ポンプで空気を抜き取った器の中では、物が燃えない」
ということを発見しました。

またボイルたちは、つぎのような実験をしました。

ガラス瓶を逆さにして、その中でろうそくを燃やし、瓶を水の上に伏せました。やがて、ろうそくの炎が消えて、水が瓶の中へ上がってきました。

こんどは、ガラス瓶の中で、ろうそくを燃やし、その後にネズミを入れてみました。ネズミは、窒息して死にました。

このような実験から、空気がないとものは燃えないし動物も呼吸ができなくて死んでしまうことがわかりました。

酸素ガスの発見

1774年、イギリスの化学者プリーストリーは、つぎのようにして酸素ガスを発見しました。

彼は、水銀を空気の中で熱しました。
すると水銀は、赤い灰のような物質にかわりました。

つぎに、この物質を集めて、ガラス瓶に入れ大きなレンズで光線を集めて、この赤い灰を強く熱しました。

すると、赤い灰のような物質からガスがでて、灰は、もとの水銀になりました。

またプリーストリーは、ガスを集めて、よく調べました。

そのガスの中では、物は空気の中よりも激しく燃えます。
また彼は、ネズミを、このガスを詰めた瓶の中へ入れました。
ネズミは、同じ体積の空気の中へ入れたときより、2倍から3倍も長く生活できます。

「この赤い灰のような物質から出たガスは、物を燃やすはたらきをする」と
プリーストリーは考えました。




空気の発見はいつ頃?「空気は物である」 トリチェリの気圧の実験とは?

柳の実験

17世紀のはじめ、オランダにファン・ヘルモントという学者がいました。
ヘルモントは「すべてのものは水からできている」というギリシアのタレスの説を信じていました。

そこで、タレスの説を実験で確かめてみようと思いたちました。


ヘルモントは、1本の柳の木を値木鉢に植えました。
そのとき、木と土の重さをはかっておきました。

木は2.3キログラム、上はよく乾かしたときの重さが9回キログラムありました。
また土の表面には、土が風で飛ばないように、穴をあけた鉄板をかぶせておきました。

こうしてヘルモントは、毎日水だけかけて、5年間その柳の木を育てました。
そして柳の木と、土の重さとをはかってみたのです。

土の重さは、90キログラムに84グラム足りないだけでした。
いっぽう柳の木の重さは88.2キログラムありました。

上の重さはほとんどかわらないのに木のほうは約86キログラムも増えていたわけです。

この実験からヘルモントは「水が木の幹や葉にかわったに違いない。
木は燃えると灰になるし、灰は土だから、やはり水が土にかわるのだ」と考えました。

もちろん、ヘルモン卜が考えたことは間違っています。

植物は空気にふくまれている二酸化炭素をもとにして、でんぷんなどをつくります。
また、土の中からはカリウムや、窒素を吸い上げて、養分にします。

へルモントは、こういうことをまだ知らなかったのです。

しかし、ある物質がほかの物質にかわることを重さをはかる方法で確かめようとしたことは化学への第一歩でした。

またヘルモントが、28キログラムの木炭を燃やしたところ、45グラムの灰が残りました。

ヘルモントは「27.55キログラムの木炭は目には見えないが重さのあるものにかわったのだ」と考え、それをガスとよぶことにしました。



空気はものである

16世紀の半ば頃、ヨーロッパと東洋とのあいだで、貿易がさかんになりました。
このため、織物業や鉱山業がさかんになりました。
そして鉱山では水をくみだすため、ポンプがたくさん使われはじめました。

ところが深いところでは、何段もつなぎ合わせなければ水をくみあげることができませんでした。
鉱山業者たちは、1台のポンプでどんなに深いところからでも水をくみあげることができたらどんなに便利だろうと思っていました。

17世紀ごろになると、学者たちは、この問題をとりあげはじめました。
イタリアのトリチェリは、つぎのようなことを考えました。

「地球の表面は、海の底のようなものだ。

海の底に海水の重さがかかっているように地球の表面にも空気の重さがかかっているはずだ。本当にそうなのか、ひとつ試してみよう」

そこでトリチェリは長さがおよそ1メートルのガラス管のいっぽうのはしを溶かしてふさぎ水も空気ももらないようにしました。

そして、開いているほうの口から、水銀をいっぱいにいれました。
このガラス管の口を指でおさえ、水銀の入っている器の中へ逆さまに立てました。

抑えている指を離すと、管の中の水銀は下がってガラス管の上のほうに隙間ができました。

管を少し傾けても、器の水銀の表直からはかった管の中の水銀の高さは、もとのままです。

そこでトリチェリは「空気の重さが圧力になって、水銀を管の中に押し上げるのだ」ということが証明されたと考えました。

吸い上げポンプの水が、包まった高さまでしか上がらないのも同じ理屈なのです。

トリチェリの実験でガラス管の上のほうにできた隙間は空気のないところで真空なのです。

ギリシアのアリストテレスの学問では「自然は真空を嫌う」といわれ人々はそれが正しいと思っていだのですから真空が本当にあることがわかったのも、たいへんな進歩でした。

トリチェリが実験をしてから5年ほど後に、フランスのブレース・パスカルは
空気の圧力や真空のことを、もっと詳しく研究しました。

ドイツのゲーリッケも、空気の圧力について研究していましたが1653年に、空気ポンプを発明しました。

こうして、空気は重さのある物質であるということがわかったのです。




金属とガラス、硫酸と硝酸を発見したのはいつ頃? わかりやすく解説!

物質

鍋・包丁・ナイフ・釘・レールは、鉄でできています。
鏡やレンズは、ガラスでつくらています。

このような鉄やガラスは、物質とよばれています。水・食塩・でんぷんも物質です。

ナイフや包丁など、鉄でできたものを湿り気のあるところに長いあいだ放りっぱなしにしておくと、さびることがあります。

さびた鉄は、もとの鉄とは違う物質です。

ごはんをゆっくり噛んでいると、甘い味がでます。
これは、米のでんぷんが、糖にかわるからです。でんぷんと糖とは、違った物質です。

このように、ある物質が、別の違う物質にかわることを、化学変化といいます。

化学変化を研究する学問が化学です。


金属の発見

人間が、はじめて利用した化学変化は、木や草を燃やすことでした。
石をつり上げて、かまどのようなものをつくり、その中で木や草を燃やすとよく燃えることを知ったからです。

また、上や粘土を焼いて、陶器からくることも覚えました。
これは、いまから7000~8000年も昔のことです。

火を起こしたり、土器を火で焼きかためたりしているうちに人問は、ぴかぴか光る金属の銅を発見しました。

たぶん、銅をふくんだ鉱物が、かまどの土で石の中に混じっていたのでしょう。
人々は、銅をふくんだ鉱物を集めてかまどで焼き銅を取り出すようになりました。

そのうちに、銅にすずを混ぜた青銅が発明されました。
西南アジアでは700年ぐらいまえから、青銅の刀やくわが使われていたようです。
鉄が使われるようになったのは、銅や青銅より遅く、およそ4000年くらい前からです。
鉄の取り出しかたが、銅より難しかったからです。

古代文明社会で知られていた金属は、銅・鉄・すず・鉛・金・銀・水銀です。
このように、金属を取り出したり、使ったりしているうちに昔の人の化学の知識は、どんどんすすみました。

ガラス器具の発明

だんだん時代がすすむにつれて、陶器のつくりかたも進歩してきました。
うわぐすりを発明して、陶器に塗って焼くようになったのです。

粘土を焼いただけの壺では、水がもれます。
うわぐすりを塗って焼いた壺は、水がもらないばかりか、非常にきれいです。

また、うわぐすりをもとにして、ガラスがつくられるようになりました。
およそ、2000年くらい前のことです。

ガラスを加工して、複雑な形の器もできるようになりました。
どろどろに溶けたガラスを管にくっつけて、息を吹き込んでつくるのです。

同じころ、エジプト人はすでに、ガラスの蒸留器をつくっています。
そして、バラの花などを蒸留し、香りのよい、香水のもとををつくりました。



硫酸・硝酸の発見

8世紀から10世紀のころ、アラビアやイタリアで大切な物質が発見されました。

それは硫酸と硝酸です。

硫酸は、ガラスの蒸留器にミョウバンという物質を入れて熱するとできます。
また、ミョウバンに、硝石という物質を混ぜて熱すると、硝酸ができます。

この硫酸や硝酸は、混じりけのある金や銀を混じりけのないものにするために役立ちました。

これらの酸の発見で、化学変化についてたくさんのことがわかりいろいろな新しい物質が、酸によってつくられるようになりました。

錬金術

ヨーロッパでは、中世からルネサンス時代にかけて、錬金術が研究されました。
これは、銅・すず・鉛・水銀などのような、値打ちの低い金属を金や銀のような値打ちの高い金属にかえようとするものです。

もちろん、錬金術で銅・すず・鉛などを金や銀にかえることは失敗に終わりました。

しかし、錬金術を研究していた人たちは、金属やその化合物を詳しく調べました。また、自分たちの研究を本に書き残しています。

このおかげで、その後の化学変化の知識はずっと増えたのです。




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