化学療法が進歩しはじめたのはいつ頃? わかりやすく解説!

合成化学の発達

1828年、ドイツのフリードリッヒ・ウェーラーはシアン酸アンモニウムという無機物から、尿素という有機物を人工的に合成することに成功しました。

その当時までは、有機物というのは生物の体内でのみつくりだされるものと信じこまれていたのですからウェーラーが無機物から有機物を人工的に合成したということはたいへんなニュースでした。

そして化学者たちは、我も我もと、合成への道をすすむことになったのです。

その結果、植物や動物の体からしかとれなかった染料が19世紀末までにはどんどん化学的合成法でつくりだされるようになりました。

20世紀に入ると、各種の薬・人造線維・合成樹脂(プラスチック)さらには宝石などまでが合成化学の進歩によってつくりだされるようになりました。


化学療法への道

19世紀末までは、薬といえばすべて天然のものあるいはそれにわずかに手をくわえただけのものにかぎられていました。

たとえば、アヘン・水銀・キューネ・ジギタリス・ヨウ素、この5つが最も主要な薬とされていたのです。

ところが、20世紀に入って間もなく1904年にドイツのパウル・エールリッヒはトリバノゾーマ (一種の眠り病の病原体)がトリパンロートという合成薬剤で殺せることを発見しました。

さらに1909年、日本の細菌学者、秦佐八郎を助手に梅毒スピロヘータの特効薬サルバルサンを合成することに成功し化学療法の開拓者になりました。

しかし、偉大なニールリッヒが世を去った後にはせっかくの化学療法にもそれほどの進歩はみられませんでした。

ようやく1932年になってドイツのバイエル染料会社の技師ゲルハルト・ドーマクによってプロントジルが発見されるにいたり、化学療法の研究は再び活気を帯びるようになります。

ドーマク博士の娘が、指にちょっとした傷をしたところそこからストレプトコッカスという化膿性の細菌が侵入したいへんな高熱が出て、手の施しようもありませんでした。

もうあらゆる手をうちつくしたドーマク博士は専門の色素研究の過程でかねて合成しておいたプロントジルという赤い色素を娘に飲ませてみました。

すると、驚くべきことに、彼女の高熱は嘘のように消え、まもなく健康を回復したのです。



ドーマク博士が悲壮うな覚悟で実験しそのききめを証明したプロントジルはたちまち世界中でもてはやされるようになりましたがその後フランスのパスツール研究所のトレフォネルらはブロントジルが有効なのはその中の色素部分ではなくそれを外した残りの簡単な化合物であるスルファニルアミドであることをつきとめました。

このスルファニルアミドは1908年にすでに合成されていたのですがだれも、それが薬として効き目があることに気づかなかったのです。

さて、その後今日まで30種以上ものスルファニルアミド系の薬が合成されみなさんがよく知っている抗生物質とともに、医療に役立てられています。

そのほか、化学合成によってつくりだされている薬でとくに重要なものにトランキライザーがあります。

トランキライザーは精神安定剤、つまり心のいらだちを鎮める薬です。
しかし、はじめは血圧を下げる薬として開発されたものです。

血圧降下剤が精神を安定させる効果を持つことがわかったのは全く偶然の機会からでした。

1953年の6月、アメリカのある製薬会社がインドからたくさんのサルを実験動物として輸入しました。

長い船旅ですっかり気分を壊したサルたちはひどい興奮状態で手のつけようがありません。

困った獣医さんが、サーパジルという血圧降下剤を注射してみたところサルたちはみんな大人しくなってしまったのです。

そこで、サーバジルのような血圧降下剤には気分を落ち着かせる効果もあることがわかりとかくいらいらしがちの機械文明時代にはこのうえなく貴重な薬としてもてはやされるようになったのです。




病原体と消毒法が発見されたのはいつ頃? わかりやすく解説!

カイコの伝染病

19世紀のはじめ、フランスでは、ぶどう酒と並んで、絹も大切な生産物でした。
ところが、カイコには微粒子病という、恐ろしい伝染病があります。

パスツールは、この伝染病が小さな生物で起こりこの小さな生物はクワの葉などについていて、カイコの体の中に入ることを調べました。

伝染病をふせぐには、これらの小さな生物が入らないようにすればよいわけです。

パスツールは、病気をもっていないカイコの産んだ卵だけを残しあとは焼いてしまうようにすすめたのです。


伝染病に勝つ

パスツールの成功にはもっと大きな意味があります。
人間の科学の知恵が、はじめて伝染病にたいして勝利をおさめたのです。

パスツールの方法は、もう、昔の医者がやったような勘や経験に頼る、いい加減な方法ではありません。

病気の原因を突き止めて、それを取り除く科学的なやりかたでした。
それは、はじめはカイコの病気にたいする勝利でした。

けれど、たちまち人間の伝染病にたいする、すばらしい科学の勝利となったのです。

コッホの純粋培養

ドイツのロバルト・コッホは、おもな伝染病の原因となる病原体をつぎつぎと発見しました。
病原体がはっきりすれば、予防の方法も、なおす方法も進歩します。

コッホはつぎのように考えました。

「同じ病気には、同じ病原体がみつかるはずだ。そして、見つけた病原体を動物の体の中に入れれば、同じ病気にかかるに違いない」

しかし、このような考えで、細菌の研究をしていくためには必要な細菌だけを取り出さなければなりません。

ふつう、肉のスープなどの中では、いろいろな細菌がごちゃごちゃに、混ざって増えてきます。これでは困るのです。

コッホは、純粋培養といって、決まった細菌だけを取り出し特別に、その細菌だけを増やす方法を考え進歩させました。

そして、炭疽菌のほかに、結核菌・コレラ菌などを発見しました。
また、コッホの弟子たちも、たくさんの病原体を発見しました。

リスターの発見

昔は大きな手術をするとき、傷口が膿んで腐り。
そのために死んでしまうことが、非常に多かったのです。

イギリスの外科医、ジョゼフ=リスターは、手術で死ぬ人をなんとか少なくしようと、いろいろ苦心しました。

ちょうどそのとき「物が腐ったり発酵したりするのは、空気中の小さな生物のはたらきだ」というパスツールの考えを知ったのです。

リスターは、傷口が腐るのも同じだと考えました。

そして、傷口を傷めずに、病原体だけを殺す薬を探し石炭酸が都合のよいことを発見したのです。

リスターの病院では、医者の手や、メスを石炭酸で洗い石炭酸に浸した布を傷口にあてました。

この消毒法で、手術で死ぬ人の数は、目にみえて減ったのです。

消毒法は、やがて伝染病をふせぐ方法としても、大きな力をあらわしました。



種痘

牛にも天然痘(牛痘)があります。
乳搾りの女ともに、この天然痘がうつることがありました。

しかし、いちどこれにかかった人は、人の天然痘にはかからないことが何百年も前から知られていました。

パスツールより前、イギリスのエドワード・ジェンナーはこの乳搾りの女たちの長い経験から、天然痘をふせぐ方法をみいだしました。

牛の天然痘の膿みを、人間の体に植えつけます。
こうすると、人の体に、天然痘にたいする抵抗力ができるのです。
しかし、これで病気の原因がわかったのではないのです。

免疫とワクチン

伝染病にかかって治ると、その病気にたいして、抵抗力ができます。
これを免疫といいます。

バスツールは、体を免疫にして、いろいろな伝染病をふせぐことを考えました。

細菌は、純粋培養を続けると、病気を起こす力が弱くなります。
この力の弱まったニワトリコレラの細菌をニワトリに注射すると軽いニワトリコレラにかかります。

このニワトリには免疫ができたので強い細菌を注射しても、病気にはかかりませんでした。

パスツールはまた、羊の炭疽病でも、免疫をつくるのに成功しました。

病気を起こす力を弱めた菌をワクチンといいます。
狂犬病は、狂犬にかまれるとかかる、恐ろしい病気です。

パスツールは、狂犬にかませたウサギの脊髄をかわかして、ワクチンをつくりました。
ワクチンと消毒法によって人類は伝染柄の恐ろしい大流行をふせぎとめることができました。

いまでも、地球上の伝染病の細菌が、全滅したわけではありません。
しかし、もうこの細菌が、人類全体を脅かすようなことは、決して起こりません。

もし、どこかに伝染病が発生しても科学の力と社会の力が、たちまち伝染をふせぎとめてしまうからです。




近代医学が発展したのはいつ頃? 伝染病との戦いとは?

また、ダーウィンと違った進化論も、いくつかあらわれました。

メンデルの研究がもとになって発達した遺伝子学ではうまれてからの後にできた性質は遺伝しないということになっています。

ところが近頃は、また別の考えもあらわれてきています。

アメリカのバーバンクや、ソ連のミチューリンは生まれてから後にかわった性質も遺伝するという考え方を述べています。

そして、さまざまな作物や草花や果樹をつりかえることに成功しました。


伝染病と医学

ペストやコレラは、恐ろしい伝染病です。
ペストで死んだ人は皮膚が黒紫色になるので、黒死病ともいわれています。

ペストは昔、しばしば発生し、わずかのあいだに何千何万という人々が死んでいきました。
大きな町が全滅したことさえありました。

昔のインドでは、ペストがでた村を軍隊が取り囲み病気にかかっていない村の人たちまで、いっしょに焼き払ってしまったこともありました。
そうしなければ、ペストがどこまで広がるかわからなかったにしてもずいぶんひどいことをしたものです。

コレラも恐ろしい伝染病で、日本でもときどき流行しました。
大勢の人が、ころりころりと死ぬので、コロリといって恐れられました。

このような伝染病が、いったん流行しはじめると人々はどうしてよいかわからず、遠くの地方へ逃げたりお祈りをしたりして、伝染病のおさまるのを待つばかりでした。

しかし、いまの人は、ペストやコレラが、たとえどんなに恐ろしい病気でも、どうしたらふせげるかを知っています。
伝染病との戦いに、近代の医学が勝利をおさめたのです。

近代医学は、多くの科学者が築き上げたものです。
そしてその中でも、パスツール・コッホ・リスターなどの名を忘れることはできません。

パスツールと細菌

伝染病との戦いは、細菌との戦いでもあります。

細菌は、顕微鏡ができてから、レーウェンフックのほか大勢の人によって見つけられています。
1滴の汚い水の中にも、ふつうでは目に見えない小さな生物がたくさんいるのに人々はびっくりしました。

しかしこれらが、病気や腐敗の原因になることがあるということはだれも考えつきませんでした。

昔は、手術をしたあと、傷口から膿むのは当たり前のようになっていました。
手術がうまくいっても、そのために死んでしまうことが多かったのです。
これは、空気が悪いためだと思われていました。

伝染病も、空気のせいだとされていましたので、予防の方法が見いだされませんでした。

けれど、伝染病や傷口が膿むことが、物が腐ったり発酵したりするのによく似ているのに気がついた人は、たくさんいました。

これが、顕微鏡でなければ見えない小さな生物のはたらきだということをはっきりさせたのはフランスのルイ・パスツールです。



すっぱいぶどう酒

フランスでは、ぶどう酒がたくさんつくられています。
ブドウの中の糖分を発行させて、アルコールにかえるのですが失敗すると、すっぱいぶどう酒ができてしまいます。

よいぶどう酒をつくるために、発酵のしくみを調べることがフランスでは大切なことだったのです。

ふつうの発酵では、酵母がさかんに増えていくのがみられます。
酵母が、糖分をアルコールにかえるはたらきをしていることは前から考えられていました。

しかし、すっぱいぶどう酒ができるのが別の小さな生物のはたらきであることは、まだわかっていませんでした。

バスツールは、この小さな生物(細菌)を発見しました。
そして熱をくわえてこの生物を殺しぶどう酒がすっぱくなるのをふせぐ方法も発見しました。

こうして、パスツールのおかげをいちばん先に受けたのはフランスのぶどう酒からくる人たちですっぱいぶどう酒をつくるようなことはなくなりました。

それからまた、パスツールは、食べ物などが腐るのも細菌のはたらきで起こることを発見しました。

これらの細菌は、空気中に浮かんでいたり、いろいろなものにくっついたりしています。

細菌のうちのある種類を、発酵していろぶどう酒の中に入れるとそこで増えて、すっぱいぶどう酒をつくってしまいます。

また、ある細菌は食べ物につき、そこで増えてものを腐らせます。

親がなければ生物はできない

もし、もとになる細菌や酵母がなかったら、発酵も、物の腐れも起こりません。

しかし、そのころはまだ、酵母や細菌などの小さな生物は発酵している液や肉のスープ、植物の煮た汁などの中からひとりでに湧き出ると考える学者がたくさんいました。

パスツールは、それが間違いであることを、実験で確かめたのです。

パスツールは、フラスコの中に、肉のスープや、食べ物を煮た汁を入れフラスコの首を細長く引き伸ばして空気が自由に出入りできないようにしてから液を熱しその液の中にまぎれこんでいた小さな生物を、みんな殺してしまいました。

こうすると、引き伸ばした口をあけたままにして長いあいだおいても、液の中には細菌も、ほかの生物も少しもあらわれませんでした。




遺伝学の進歩しはじめたのはいつ頃? メンデルの研究とは?

メンデルの研究

親の形や性質が、子に伝わることを遺伝といいます。
オーストリアのメンデルは、エンドウにあらわれている特徴を7つ選びその特徴が、どのように遺伝するかを研究しました。

そして1865年、遺伝のしかたには3つの決まりがあることを発見しましたがその値打ちは1900年まで認められませんでした。

メンデルは「いまに、私の時代がくる」と信じながら、さびしく世を去っていきました。

ついに1900年、オランダのド・フリース、ドイツのコレンス、オーストリアのチェルマクの3人の学者が、遺伝の法則を再発見しました。

そして、遺伝の3つの法則はメンデルの法則とよばれ学問のうえに大きな問題として浮かび上がってきたのです。


メンデルの法則の利用

遺伝の法則の研究は、家畜や作物の品種改良に、直接役立っています。

イギリスでは、茎が強く、収穫も多く、品質もよいがさび病に弱い小麦の品種とこれとは全く反対の特徴を持つ品種とを掛け合わせて両方のよい特徴だけを持つ、新しい品種がつくられました。

日本でも、金魚のマルコとオランダシシガシラとの掛け合わせで秋錦という美しい金魚をつくりだしました。

また、花や果物の栽培にも、さかんにメンデルの法則が利用されています。

いっぽう、ロシアでは、人工的に交配するのではなく自然におこなわれた交配でできた雑種を利用する方法が実験されました。

寒さに弱いライムギの品種を、ほかのたくさんの品種といっしょにまいておいたところその中から、寒さに強い品種がうまれたのです。

遣伝の研究と進化論

オランダのド=フリースは、マツヨイグサを十数年も栽培しているあいだにオオマツヨイグサ・ヒロハマツヨイグサなど数種の新しい品種があらわれたことを発見し生物の突然変異説を唱えました。

しかし、この生物の突然変異はダーウィンの進化論でうまく説明することができませんでした。

そして、遺伝の研究がすすむにつれて、ダーウィンの進化論にもいくらか改めなければならないところができてきました。

また、ダーウィンと違った進化論もいくつかあらわれました。

メンデルの研究がもとになって発達した遺伝学ではうまれてからのちにてきた性質は、遺伝しないということになっています。

ところが近ごろは、またべつの考えもあらわれてきています。

アメリカのバーバンクやソ連のミチューリンはうまれてから後にかわった性質も、遺伝するという考えをのべています。

そして、さまざまな作物や草花や果樹をつくりかえることに成功しました。




ダーウィンの進化論とは? わかりやすく解説!

進化論をうんだ時代

進化論をあげたのは、イギリスのチャールズ・ダーウインです。

ダーウィンはビーグル号という軍艦に乗って世界をまわり、いろいろな生物を観察しました。
こうしているうちに、彼の頭の中には生物進化の考えが固まってきました。

産業革命を、どの国よりも早く成し遂げたイギリスは商業を世界中に広げていました。

そして、たくさんの商船を動かし、また、探検の船や軍艦を世界の各地に送りました。ビーグル号は、そのような軍艦の1つでした。

ですから、イギリスの産業と商業が、進化論をつくるもとになったともいえるのです。
ライエルの地質学の本も、ダーウィンの考えに大きな力をあたえています。

ビーグル号の航海で、ダーウィンは、体を壊してしまいました。
そこで、イギリスの田舎に帰り、家畜や作物が、どんなにかわっていくかを調べたのです。


選び出し

家畜や作物は、人間が適当なものを選び出しながら何代も育てていくと、ずいぶん違った生物ができてきます。

けれど自然界では、だれがそのような選び出しをするのでしょうか。

マルサスという人の「人口論」という本の中には、つぎのようなことが書いてあります。

「人口の増え方が大きいと、暮らしに必要な食べ物などが足りなくなって飢えや貧乏や戦争がおこり病気も増え、人口が減って、ちょうどよくなる」というのです。

実際、そのころのヨーロッパでは、こうした不幸なことがおこる心配がいつもありました。

ダーウィンは、それを自然界の生物と考え合わせてみました。
タラは1匹で150万から300万の卵を産みます。
しかし海はタラでいっぱいにはなりません。

多くのタラは、子どものうちに敵に襲われ少しのタラだけが生き残るのです。
この生き残るための競争を生存競争といいます。
これによって生物は、生き残るのに都合のよいものが選び出されるのです。

白然界でおこなわれている、このような選び出しは自然選択といってダーウィンの考えの中心になっています。

この考えをもとにすると、そのころまでの生物研究で集められたいろいろな事柄が、はっきり説明できるようになりました。

エダシャクトリムシは木の枝に似ていて敵に襲われることが少なかったので、生き残っているのです。
ビュフォンが、神様を褒め称えるために集めた材料はダーウィンの進化論にとって、都合のよいものばかりでした。



人間の祖先はサルの仲間

進化論はかんたんな生物が自然選択によっていまのように複雑な生物にかわってきたことを、教えてくれました。

これはキリスト教の教えとは、だいぶ違っています。
私たち人間もまた、サルの仲間から進化して、いまのようになったというのです。

そのころの人たちは、人間は神様に似せてつくられたと考えていました。

ですから「人間の祖先がサルの仲間であり、もっと遡れば爬虫類であり、アメーバの仲間だった」ということは、たいへんなことでした。

ところで、ダーウィンは進化論を「種の起原」という本にまとめました。
この本は、1859年に発表され、すばらしくよく売れ大勢の人々が進化論を受け入れるようになりました。

「種の起原」という本は、たくさんの事実をもとにして書いてあります。
それで、だれにでも、全くそうだと思わせるだけの力をもっていたのです。

こうなると、キリスト教の教会の人たちも、黙っていられなくなりました。
そこで、考えの古い学者といっしょになり、ダーウィンの考えに強く反対しました。

しかしダーウィンにも、味方がありました。
トーマス=ハックスリは、考えの古い人たちと激しく議論しました。

そして1860年のイギリス学術協会の集まりでハックスリはダーウィンの考えの正しさを述べ、進化論は勝利を治めました。

進化論と社会

ダーウィンの進化論は人間の考えかたを大きくかえました。

人間が特別なものでないことがはっきりすると神様が特別につくった偉い人というものもないことにあります。

うまれたときは、みんな同じ仲間なのです。
けれど、ダーウィンの時代には、資本主義が、最も栄えていました。

資本主義の世の中では、人々が激しい競争をしています。
勝った人は、すばらしい金持ちになり、負けた人は非常に貧乏になりました。

ダーウィンのいうように、生物に激しい生存競争があるなら人間の社会にも、このような生存競争があっても当たり前だという考えかたさえ、うまれてきました。

そんなふうに考えられるのは、ダーウィンの望んだことではありませんでした。

動物や植物の世界のできごとをそのまま、人間の社会に当てはめたり、人間の社会の出来事から動物や植物の世界のことを推し量ったりすることは、誤りなのです。




進化論を導いた材料とは? カール・フォン・リンネってどんな人?

自然の階段

アリストテレスは、紀元前四世紀のギリシアで、いろいろな学問のもとを築きました。
動物や植物についても、はじめて筋道の通った仲間わけをした人だといえるでしょう。
仲間わけしているうちにアリストテレスは、つぎのようなことに気がつきました。

「生物はちょうど階段を1段ずつ昇るように、かんたんなものから複雑なものへ、順に並んでいる」

そこで、アリストテレスは、これを「自然の階段」と名付けました。

しかしアリストテレスは「生物は、時が経つにつれて、かんたんなものから、複雑なものにかわってきた」と考えたのではありません。

「生物は、時が経つにつれて変化し、いまのような姿になった」

このような考えかたを、生物の進化といいます。
進化の考えは、アリストテレスよりも、ずっと後でうまれたものです。


交通の発達と進化論

世の中が発達し産業や商業がおこると、交通もさかんになります。
たくさんの人が、遠く離れた土地まで商売に出かけます。
そして、その土地の珍しい生物の話が伝わってきます。

交通を便利にするために、運河がつくられます。
レオナルド・ダ・ビンチは、運河を掘るときに見つかった化石に強い関心を持ちました。

18世紀になると、産業や商業は、ますます発達しました。
ヨーロッパの船は、世界中に航海して商売の道を広げました。
そして、珍しい生物は、話だけでなく、捕まえられて、つれてこられました。

分類学のもと

この時代に、スウェーデンのカール・フォン・リンネは世界各地からたくさんの生物を集め、名前をつけて、きちんと仲間わけをしました。

動物や値物の仲間わけが学問らしい形を整えたのはリンネのおかげだと言っていいでしょう。

そのころ、キリスト教は、まだ大きな力をもっていました。

ところがキリスト教では、空も海も陸も、動物も植物もみんな数千年まえに、6日のあいだに神樣がつくったものでそのときから、少しもかわっていないと教えています。

リンネも、そう思っていました。
しかし彼はたくさんの生物を調べた後に生物はかわるものではないかと気がついていたようです。

生物は、よく環境にあったしくみをもっていることも、わかってきました。

エダシャクトリムシが、驚くほど木の枝に似ていること砂漠のサボテンが、水分の蒸発をふせぐように、葉を棘にかえていることなどこのような例はいくらでもあります。

ビュフォンという人は、生物をこんなにうまくつくった、神様の知恵に感心しました。

そして神様を褒め称えようと、このような例をたくさん集めました。
ところがこれらの例が、後で、生物の進化を確かめる材料になってしまったのです。



地球に歴史がある

人々はやがて、太陽系で地球のできかたに考えをめぐらすようになりました。

フランスのビュフォンやラプラス、ドイツの哲学者カントなどは地球がどうして出来たかを説明しました。

この説明には、ずいぶん間違ったところもありました。
しかし、この人たちの考えは、地球は神様のつくったものでかわらないという。

キリスト教の考えかたとは、まったく反対に地球にも歴史があることを人々に知らせることに役立ちました。

イギリスのジェームズ・ハットンは18世紀の終わりに地球は長い歴史をもっていることを明らかにしました。

チャールズ=ライエルはそれを受け継いで、地質学を立派な学問に仕上げました。

ウィリアム・スミスは、レオナルド・ダ・ビンチと同じように運河を掘る仕事をしながら、化石の学問をすすめました。

そうして化石は、昔生きていた生物の死骸であることが、はっきりしたのです。

そこで、地層の古さが化石でわかるようになりました。
この化石は、生物が時とともにかわってきたことをはっきりと物語ってくれます。

生物学がすすむ

ラマルクというフランスの生物学者は、進化がどうして起こるかを説明しました。

たとえば、キリンの首が長いのは、高い木の上のわか葉を食べようとして首や足を伸ばし、それを何代も続けていたためだというのです。

洞穴の中には、目のない動物が住んでいます。

光がないので目を使う必要がなく、何代か後には目のない動物ができてきたというのです。

このように生物の体で、使う部分は発達し、使わない節分は退化していきこの性質が子どもに伝わっていくというのが、ラマルクの進化論です。

19世紀になると、ラマルクなどによって生物の研究は、ますます、すすんできました。

種類の違う生物でも、形やしくみが共通しているところが多いことがわかりました。

また、大人になると全く形が違うものでも成長のごくはじめのころは、よく似ていることもわかりました。

こうして、ダーウィンの進化論の出る前に、世の中がすすみ学問が発達して、その証拠を裏付けるものが、たくさん集まっていたのです。




無線通信が進歩したのはいつ頃? わかりやすく解説!

無線通信の進歩

電信も電話も、針金を伝わる電流を利用したものです。
しかし、いくら便利だといっても、長い針金が必要です。
この長い針金がなくて通信ができたらどんなに便利でしょう。

マクスウェルやヘルツの電磁波の研究が完成すると人々はこの電磁波を使って通信することを考えるようになりました。

ロシアのボポフと、イタリアのマルローニはほとんど同じときに、電磁波で通信することに成功しました。

これは1895年のことです。


ブランリの発見

1890年、フランスのエドアール=ブランリは金属の粉が電気をどのように導くかを研究していたとき思いがけないことを発見しました。

その日ブランリはガラス管にニッケル粉を閉じ込めてそれに電流を通してニッケル粉が電流を通すかどうかを実験していました。

ニッケルは電気をよく通しますが粉にすると、電気抵抗が大きくなって電流を導きません。

ところが、そのとき偶然に、近くで電気火花を飛ばしたところそのガラス管は電気を自由に通すようになりました。
これは、電磁波のために、金属粉の性質がかわったのです。

ブランリは自分の研究をパリ科学アカデミーの雑誌に発表したとき電磁波と金属粉とのことは、わずかに5,6行書いただけでした。

イギリスのオリバ=ロッジはブランリの論文を読んだときこのわずかな文を見落とさないで「ブランリの実験のガラス管は、きっとヘルツの検波器として利用できるに違いない」と考えました。

そしてロッジは実際にガラス管をつくって実験をして、この管をコヒーラと名付けました。

ヘルツが電磁波を発見したとき、それを電気光線と呼びましたが電波が光線のように目に見えないということは、やっかいな問題でした。

そこでヘルツは目に見えない電波を目に見えるようにする検波器をつくったのでした。



ふたりの発明家の研究

ロッジの論文を読んだポポフは、早速コヒーラを無線電信に利用しようとしました。

ところが困ったことが1つありました。
電磁波を受けて電気を通すようになったコヒーラは指で叩かないと、もとにもどりません。

そこでポポフは、リレーと電れいとの作用を利用して電波がくるたびにコヒ-ラをもどす装置を考案しまた電磁波を捕えるアンテナを発明しました。

1895年ヘテルスブルク大学(現在のレニングラード大学)でポポフは無線電信の実験を公開しました。

そして1898年には、クロンスタットに無電局が建てられ軍艦アフリカ号の遭難を救うなどの手柄を立てたのでした。

ところがイタリアのマルコーニは、まったくの素人とでした。
しかし、ボローニャ大学教授リーギの指導を受けこれまでの学者の研北や発明をうまく結びつけてポポフとは別に、無線電信機を組立てました。

そして、イギリスの資本の助けをかりて、無線電信の遠距離通信に成功しました。
1897年には、マルコーニ無線電信会社をつくりました。
しかしマルコーニの無線通信はモールス符号と、火花放電による電波を使ったものでした。

この電波は放電の度に出て、しばらく続くだけで、すぐに弱まってしまいます。

そこで人々は同じ強さの電波を続けて出すことはできないものかと、いろいろ研究しました。

アメリカやドイツの技術者は、特別のアークや、高周波発電機を発明しました。
しかし、実際に役立つものをつくることは中々難しいことでした。

ところが、マルコーニ電信会社の技帥フレミングは昔、クレソンの相談を受けていたときに見た、不思議なことを思い出しました。

白熱電球の中に、1枚の金属板を閉じ込め、フィラメントを熱します。
そして板をフィラメントの陽極につなぐと、電流が流れるのです。
フィラメントの陰極と板を結んだのでは電流は流れません。

フレミングはこの理屈を応用して、1904年、二極真空管を発明しました。

それから2年後の1907年に、アメリカのド・フォレストはフレミングの二極真空管に格子(グリッド)を入れ、三極真空管を発明しました。

そして、この発明を境に、無線通信の新しい時代が開けてきました。




電話機が発明されたのはいつ頃? 電灯と発電機が発明されたのは?

電話機の発明

電信機では、符号だけしか送ることができません。
もし、話す声をそのまま相手に伝えることができたら、どんなに便利なことでしょう。
そこで、声を伝える器械をつくる研究がはじまりました。

1876年、アメリカのベルは、電話機をつくることに成功しました。
ベルの電話機は、つぎのようなしくみになっていました。

まず、発信側には1本の棒磁石があります。
1つのはしにはコイルがあり、別のはしの近くには、うすい鉄板があります。

この鉄板は、音によって振れ動きます。

すると、磁石のコイルに誘導電流がおこりこの電流の強さは、鉄板のふれ具合によってかわります。

つまり、音の強い・弱い・高い・低いによって、電流の大きさがかわるのです。
この電流によって、発信側とまったく同じしくみの受信側の鉄板がふれます。

この鉄板の振れが、受信側にいる人には、音声になって聞こえます。
ベルの電話機は、すぐにエジソンが改良しました。

エジソンは、送話器で、鉄板の振動を電流の強弱にかえるのに炭素の粒を使ったのです。
いまの電話機も、もとはベルの受話器とエジソンの送話器のくみ合わせからできているのです。


電灯の研究

抵抗の大きな導線に電流を流すと、導線は熱と光を出します。

「この光を、ろうそくやガス灯のかわりに使うことはできないものだろうか」
ということは、だれもが考えることです。

そこで、たくさんの電気学者や発明家たちが電灯の研究に取りかかりました。
ガラス球の中に導線を閉じ込め、電流を通じます。
導線の種類をいろいろにかえて、この実験を繰り返しました。

そして、溶けにくくてよく光る導線としては、白金や炭素棒がよいことがわかりました。

ところが空気中では、導線が長持ちしません。

そのころは、能率のよい真空ポンプができていたのでガラス球の中を真空にしてみました。
こうすると、導線は長いあいだ明るく輝きました。

このようにして、電灯の研究はだんだんすすんできました。
ところが、ここに困った問題がおこりました。

それは電気の源になる、電源です。

そのころはまだ、今日のような発電機がないので、電源には電池を使っていました。

ある学者は、自分の家の明かりの電源に、電池を使いました。
ところが、電池の亜鉛板を補うのに、月給を全部つぎこんでも足りません。

電灯が実用の時代に入ったのは、発電機が完成しエジソンが電灯を据え付けるのに必要なすべての設備を考えだしてからのことなのです。



発電機の発明

ファラデーが、誘導電流を発見してから
多くの発明家は、発電機をつくることに苦心しました。

磁気のあるところでコイルを動かせば、電流ができることはわかっています。
ところが、実際に大きな電流を取り出すことは、中々できませんでした。

ファラデーが誘導電流を発見してから40年くらい後のことです。
ドイツの電気技術者にジーメンスという人がいました。
彼は電信機をつくったり、電信線をひいたりする仕事をしていた技術者です。

電気のいろいろなことについて経験が深かったので
いままでの発電機のよくない点がすぐわかりました。

そこで、彼は苦心して、流れの大きさがかわらない電流を
ひき続け取り出せる発電機をつくりました。

電気事業がすすむ

発電機が発明され電灯も完成すると、電気の事業はどんどんすすんでいきました。
そして電気は、化学工業にも使われるようになったのです。

電気分解を利用して、めっき・アルミニウム・水酸化ナトリウムの製造などが
おこなわれるようになりました。

また、電動機がつくられ工場などで新しい動力として
さかんに使われるようになりました。

発電所も建てられました。
はじめのころは、火力発電で、発電所は都会の中央に集まっていましたが
そのうちに、水力タービンが発達し、水力発電が考えられるようになりました。

そして発電所は、都会から離れた山奥に建てられるようになりました。

都会では、たくさんの電気を使います。
そこで、どのようにして電気を遠く離れた都会へ送るかが、問題になってきます。
そのために交流でなるべく電圧を高くすると
電気を送りやすいことがわかり、電圧をかえる変圧器も発明されました。

1895年には、ナイアガラ瀑布に水力発電所が建てられました。
この年は、電力が動力として広く使われる、門出の年となりました。




電信機が誕生したのはいつ頃? モールスの電信機とは?

電信機の誕生

ライデン瓶に針金をつなぎます。すると電気は、針金を伝わって流れます。

200年ほど昔「長い針金を使えば、電流の流れる速さをはかれるだろう」と考えた学者がいました。

そこで、川や湖を越えて針金を張り、電流を流しました。
しかし、電流はあまりに速くて、どんなに針金を長くしてもその速さは、はかれませんでした。

でも、この仕事は無駄だったわけではありません。
これから「針金さえ張れば、遠くまで電気を運ぶことができる。

電気を使って通信ができはしないか」という考えがうまれたのです。


ゼンメリングの電信機

ゼンメリングという人は、水の泡を利用した電信機をつくりました。
これは、アルファベットの文宇の数だけ電線が張ってあります。
電線には、それぞれAの電線、Bの電線という具合に名前がつけてあります。

Aという文字を送ろうと思えば、Aの電線に電流を流します。
すると、Aの電線の受け取る側に、水の泡ができます。

この泡は、電流が水を分解するときにできるものです。
通信を受ける側では、どの電線に水の泡ができるかを読みとれば送られてきた文字がわかります。

五針電信機

1837年には、電流の磁気作用を使った電信機が、イギリスで発明されました。

この電信機には、5本の磁針が使ってあります。
そして磁針は、電流の向きによって、左右に振れるようになっています。

5つの磁針のうち、2つの磁針の振れが2つの信号としてくみ合わせるとアルファベットの文字を全部しめすことができるのです。
これは、5針電信機とよばれています。

磁針を使う電信機は、数十人の学者や発明家が、苦心してつくりあげたものです。
しかし、磁針の振れが速すぎて、読みとりにくいので、ほとんど実用になりませんでした。



モールスの電信機

実際に使うことのできる電信機をつくったのは、アメリカの若い画家、モールスです。
彼は電磁石を使って、もっとかんたんな電信機ができないものかと考えました。
電信機に電磁石を使うということは、専門の電気学者や技術者が考えもしなかったことです。

モールスは、早速通信機をつくる仕事にとりかかりました。
しかし思わぬところでつまずきました。

それは、磁石の動きを紙テープの上に記録するしくみ通信に使う符号、遠いところまで通信線をひくことなどです。

モールスは、貧乏と戦いながら、1837年、やっと電磁石を使った電信機を完成しました。
しかしこれは、まだ実際には役立ちませんでした。

実用に役立つ電信機をつくりあげたのは、それから10年くらいのものことです。
それから20~30年のあいだに、ヨーロッパやアメリカでこの電信機がどんどん使われるようになったのです。

海底の電信線

陸上に電信線がひかれると、こんどは、海底に電信線をひく仕事がはじまりました。

19世紀の中ごろのことです。

イギリスなどでは、工業が発達し、外国との商品の取り引きがさかんでした。
どうしても、海の向こうの外国と通信する必要ができてきたのです。

1857年から10年間に渡って大西洋横断の海底電信線をひく計画が6回も実行されました。
しかしこの計画は、どれも失敗に終わりました。

机の上で考えた理屈のようにはいかなかったのです。
長い電線が途中で切れたり、信号がうまく届かなかったりしたのです。

そこで、物理学者が海底電線をひく船に乗り込んで、いろいろ失敗の原因を調べました。

そして1867年に、やっと電線をひくことに成功しました。
それからは通信の技術も、すばらしくすすんだのです。




電磁誘導と電磁波が発見されたのはいつ頃? わかりやすく解説!

ファラデーの実験

ファラデーの先生は、いろいろな発見や発明をしたイギリスの有名な科学者ハンフリー・デービー卿です。

あるときデービーは「あなたがこれまでにされた、いちばん大きな発見はなんですか」とある人に訊かれたことがありました。

するとデービー卿は、いきなりマイケル・ファラデーと答えたそうです。

デービー卿にとっては、自分がおこなったどんな発見よりもファラデーという天才を見つけたのが、いちばん大きな発見だったのです。

ファラデーは、貧しい鍛冶屋にうまれました。
印刷屋や製本屋ではたらきながら、科学の勉強をしたのです。

後に、デービーの助手になり、当時設立されたばかりの王立研究所で科学のいろいろな実験をしました。
電気の実験をしていたのは、このころです。

ファラデーは1821年、つぎの2つを実験しようと思いました。
1つは、電流によっておこる磁針の振れを回転運動にかえることもう1つは、電流が流れている針金を磁石のまわりに回転させることです。

そして、いろいろな実験装置をつくって、苦心を重ねました。
ファラデーは、なんど失敗しても、ねばり強く10年も研究を続け、ついに重大な発見をしました。


ファラデーの大発見

1831年のある日のことでした。

ファラデーは、鉄の輪へ2組のコイルを巻きつけたものをつくりました。
そして、1組のコイルに電流を流したり切ったりしました。

すると、電流を通さないほうのコイルにも、電流が流れるのです。
このようなはたらきを、電磁誘導といいます。

ファラデーは、さらに実験をすすめました。
そしてつぎのような場合に電磁誘導で電流を取り出すことができることを明らかにしました。

  1. いっぽうのコイルに流れる電流を加えるとき
  2. いっぽうのコイルに電流を流し、2つのコイルを互いに動かすとき
  3. いっぽうのコイルを、磁石にたいして動かすとき

ファラデーのこのような発見から電流と磁気とのあいだにあるはたらきについて筋道の通った整った考えかたができるようになりました。

電気や磁気のはたらきが、石が落ちたり、物が滑ったりするはたらきとはまったく違うことが、はっきりしたのです。

彼はまた、摩擦でおこる電気も、ボルタの電たいの電気もみな同じ、電気だということを明らかにしました。
そして、自分の発見した法則を応用することはほかの人に任せつぎつぎに新しい研究をすすめました。

ファラデーの発見と、それからの研究は電気機械の非常に大切な原理になっております。

発電機の発明も、この電磁誘導の原理をもとにしてできたのです。



マクスウェルの予言

ファラデーは「電気を帯びたもののまわりや、磁石のまわりの空間は目には見えないが特別な様子をしている」と考えました。

そして、電気を帯びたもののまわりに「電場」磁石のまわりに「磁場」という名前をつけました。

まだファラデーは、電場や磁場を目に見えるようにするために力線というものを考えました。
しかしこの力線は、電気の研究にとってはわかりやすいのですが数学で言い表せるような、はっきりしたものではありません。

ファラデーの考えを押し進めてまとめあげたのはイギリスの物理学者マクスウェルです。
彼は力線のかわりに、数学の理屈を使って研究をすすめました。

そして、「電場や磁場は、波のように強さをかえながら、空間をすすむ。
私たちの日に見える光も、電場や磁場の動きと同じものだ。
光の速さと、電場や磁場の伝わる速さは、理屈の上では同じになる」と説明しました。

電磁波はある

マクスウェルが、電磁波の考えを発表してから十数年のちドイツのヘルツは、実験によって、電磁波が実際にあることを確かめました。

ヘルツは、コイルと小さな隙間のある針金の輪を用意しました。
そして、コイルと針金の輪を向い合せて、コイルに電流を通じ、火花を飛ばしました。

すると、針金の輪の隙間にも、火花が飛びました。

コイルと針金の輪のあいだには、電流を伝えるものはありませんから電磁波が
空間を伝わることは明らかです。

ヘルツはさらに実験をすすめ、電波が光と同じように反射や屈折などをおこすことも調べました。

また電波は、光と同じ性質をもっているが波長か光よりもはるかに長いことも明らかにしました。




電気が科学として研究されたのはいつ頃? わかりやすく解説!

磁石の謎

電気は、音や光のように、見たり聞いたりすることができないのでいまでも、気味悪く思う人がいます。
まして、昔の人にとって電気の研究といえば、たいへんな勇気がいることでした。

電気と人間との関係は、琥珀からはじまりました。
この宝石を、乾いた布でこすると、ちりのような軽いものを引き付けます。
鉱石の中には、こすらなくても鉄片を引き付けるものがあります。

これは磁鉄鉱です。

琥珀や磁鉄鉱が、ものを引き付けることは古代の人々にとって、たいへん不思議なことでした。
それでも、磁石が南北を指すことから、航海に使う羅針盤に利用していました。


電気手品

アメリカ大陸が発見され、貿易や航海がさかんになるころ昔からの琥珀や磁石の謎も、少しずつ溶けるようになりました。

いまからおよそ370年まえのことです。

イギリスのギルバートは、外国から来たいろいろなものを調べているうちに琥珀だけでなく、ほかにも物を引き付ける物があることを発見しました。
また、地球が1つの大きな磁石になっていることも、明らかにしました。

やがて、硫黄の球をまわし、電気をおこす器械(起電機)が発明されました。
またライデン瓶とよばれる、電気をたくわえるしくみも工夫されました。
電気に触れさせて、人や動物を驚かす、電気手品師という商売さえうまれました。

1752年、アメリカのフランクリンは、大きなたこを上げて雷を調べ「雷は電気の仕業である」ということをはっきりさせたのです。

そして彼は避雷針のしくみを発明しました。

科学の仲間入りをした電気

電気の奇妙な性質に心を奪われ、電気遊びをしていた時代が長く続きました。

そのうちに、紡績機械や蒸気機関が発明され18世紀の終わりには、イギリスに産業革命がおこって物体の力や熱を研究する学問が、急にすすみました。

そして電気の研究も、科学の仲間に入るときが来たのです。
それは、いまから、わずか180年ばかり前のことです。



電気の力をはかる

電気を帯びたもののあいだには、吸いつける力や、跳ね返す力がはたらきます。
科学の研究の第一歩は、電気が持っている、いろいろな性質を確かめることです。

そのつぎは、この力について、どのような関係がありどれほどの大きさがあるかをはかってみることです。

電気を、このように研究することができるようになったとき電気についての学問は、はじめて科学の仲間入りをすることができるのです。

電気を学問として研究する学者が、イギリスやフランスにあらわれてきました。
中でも、とくにすぐれた研究をしたのはフランスの土木技師、クーロンです。

クーロンは、電気の力を詳しくはかりました。

そして、「電気を持った物体どうしが引き付け合う力や、跳ね返す力はその物体のおのおのが持っている電気の量をかけ合わせたものに比例し物体同士の距離に反比例する。

これはニュートンの万有引力と、まったく同じ形であらわすことができる」
と発表しました。

これはクーロンの法則とよばれ、発見されたのは、1785年のことです。
クーロンはまだ、この法則が、磁気にもあてはまることを発見しました。

そのころフランスでは、大革命がはじまろうとしていました。
このような新しい時代の息吹の中で、電気の学問は、科学の仲間入りをしたのです。




電流と磁気との関係が研究されはじめたのはいつ頃?

カエルの実験

クーロンの法則が発見されたころ、医者のあいだには「電気を人体にあたえると、病気が治るのではないか」という考えかたがありました。

イタリアのガルバーニも、このような考えを持った医者でした。

ある日彼は、カエルを解剖していました。
メスをカエルの足に触れると、瞬間、足がびりびりと震えるのが目に止まりました。

よく注意して見ると、傍の起電機から、パチッパチッと火花が飛んでいます。

ガルバーニは、この不思議な出来事を、夢中になって、十数年も研究がされました。

そして、起電機がなくても、2種類の金属をつなぎ合わせた針金がカエルの足に触れると、びくびく動くことがわかりました。

ガルバーニは、カエルの体の中から動物電気がでたと考えました。
しかしこの考えは間違っていました。

それをはっきりさせたのは物理学者、ポルタです。


電たいの発明

ガルバーニが発見したのは、ごくわずかの電流でした。
ボルタは、ごくわずかの電流でも調べることのできるしくみをつくりました。

そしていろいろの実験をした後、2種類の違った金属を合わせただけで電流が流れることを発見しました。
カエルの体から、電流が出るのではありませんでした。

またボルタは、銀とすず、または銅と亜鉛をかわるがわるに積み重ねて電気をつくりだすしくみを発明しました。
このしくみでは、2つの金属の組み合わせのあいだいに塩水を浸した布をはさんであります。
こうすると、両はしの金属のあいだには、割合に大きな電流が流れるからです。

1799年、ボルタは、この電気をつくり出すしくみを発表しました。
これは、ボルタの電たいとよばれて、各国ですばらしい人気を集めました。

同じ強さで、たえまなく流れる電流をとり出すことに成功したことはそれからの電気の研究の進歩にとって、たいヘん大きな力となりました。

電流の磁気作用

19世紀はじめまで電気と磁気とは、関係がないと考えられていました。
ところが、デンマークの物理学者エールステッドに、その考えを打ち破りました。

1820年のある日、エールステッドは机の上で、針金に電流を通じるとそばに置いてあった磁石の針(磁針)が生き物のように触れ動くことを発見しました。

詳しく調べると、針金と磁針との距離が小さいほどまた、電流の強さが大きいほど、触れ方が大きくなることもわかりました。

エールステッドに続いて、ドイツのゼーベックなどが電流の磁気作用について研究をすすめました。



アンペールの研究

フランスの物理学者アンペールは、電流と磁気との関係を調べて電気についての学問の土台を築きました。

1820年、ニールステッドの報告をきいたアンペールはその実験を繰り返して1週間の後には、つぎのような法則にまとめあげました。

「もし人が、電流の方向に体を横たえ電流がその人の足から頭のほうに向かって流れていて、その人の顔を磁針のほうに向けているとすれば電流の作用は、磁針の北極の方を、その人の左手の方向に引っ張るようにはたらく」

アンペールはそれに続いて、電流の磁気作用とは反対に磁石が電流に作用するしかたを研究しました。

こうしてアンペールは、電流と磁石との関係をいろいろ実験して電流と磁石のあいだにはたらく力がニュートンの運動の法則で説明できることを明らかにしました。

そして、実験の結果をつぎのような法則にまとめあげました。

「2つの平行した針金に、電流が流れている場合電流の向きが同じなら、引っ張り合い、反対なら退け合う」

オームの研究と電磁石の発明

アンペールと並んで、すぐれた研究を残したのはドイツのゲオルク・シモン・オームでした。

オームは、電気の研究にとって大切な起電力(電圧)・電流の強さ・電気抵抗
などについての考えを、はっきりさせました。

これらのあいだの関係を研究してオームの法則を立てました。

続いて、イギリスのチャールズ・ホイートストンはオームの電気抵抗を正確にはかる方法を発見しました。

また、アメリカのジョーゼフ・ヘンリーに電信機のいちばん大切な部分である電磁石について、詳しく研究しました。

同じころ、イギリスにすばらしい実験の天才があらわれました。
それはマイケル・ファラデーです。




ガスの爆発を利用する機関が発明されたのはいつ頃? ホイヘンスってどんな人?

ホイヘンス

1680年、オランダのホイヘンスは「蒸気の力を動力に使えるなら、ガスが爆発するときの力も動力にかえられるだろう」と考えました。

それから10年経ってパパンはガス機関をつくろうとしましたが、うまくいきませんでした。

実際に使えるガス機関は、ホイヘンスが考えてから200年後の1860年
フランス人ルノアールの手によってつくられました。


ルノアール

ルノアールのガス機関は空気とガスを混ぜたものをシリンダーにおくりそれに電気の火花で火をつけてピストンを動かすようになっていました。

これは、三馬力以下の小さなものでしたが小型で蒸気機間より燃料が少なくてすむのでフランスやイギリスの工場で使われはじめました。

オットーの機関

1862年、フランスのドゥ=ロシァは、内燃機関の能率をよくするためにつぎの4つの作用をおこなうようにすることを唱えました。

  1. カスを吸い込む(吸入行程)
  2. 吸い込んだガスを圧縮する(圧縮行程)
  3. 圧縮したガスに点火して爆発させガスの体積を膨張させる(爆発行程)
  4. 爆発でできたガスを押し出す(排気行程)

1876年、ドイツのオットーは、この4つの行程を利用して重さも軽く、燃料も少なくてすむ、オットー機関を発明しました。

オットー機関は、ルノアール機関にとってかわりました。

続いて6年のちに、ダイムラーが、ガソリンを燃料としてオットー機関よりもっと小型で大きな力を出すガソリン機関を発明して自動車や飛行機のエンジンのもとをつくりました。

しかし、石油の乏しいドイツの技術者のあいだには「ガソリンより、もっと値段の安い重油を使うことはできないものか」という考えがうまれてきました。

ルドルフ・ディーゼル

ガソリンより発火点の高い重油に、どうして点火するのか、これが大きな問題でした。
この問題を見事にといたのが、ルドルフ・ディーゼルです。

ディーゼルは、シリンダーの中で、空気だけをまず3つ気圧以上に圧縮して温度をあげておき、そこへ重油の霧をふきこむようにしました。

そして火花を使わないで、重油を自然に爆発させることに成功しました。
ディーゼルエンジンは、電気火花を飛ばす仕掛けが入りません。

燃料も安く、回転も滑らかなので、たちまち船のエンジンとして蒸気タービンと競争をはじめました。

そしていまでは中型の船、バス、トラックなどに、さかんに使われています。

しかし、なんといっても、ガソリンエンジンよりは重いので乗用車などの小型自動車には向きません。




蒸気機関が誕生したのはいつ頃? ワットの蒸気機関とは?

人間の力のかわりに、自然のエネルギーを動力に利用しようという考えがおこりこれは大きな2つの流れとなって発展しました。

1つは電気エネルギーの利用です。
もう1つは、蒸気機関・内燃機関・ジェット機関のような熱機関です。


鉱山で生まれた蒸気機関

17世紀のころイギリスの鉱山では、石炭や鉱石を掘るのに忙しく竪穴は深くなるばかりでした。

そして、そこにたまった水を、どうして早くくみ出すかが大きな間題になっていました。

1698年、トーマス・バリが鉱山の水あげに実際に使える蒸気機関を発明しました。

このセーバリの蒸気機関に、ニューロンが改良を加えついに76馬力という大きな蒸気機関をつくりました。

これがどんなにすばらしい発明であるかは人間の力とくらべてみると、よくわかります。

左の表はだいたいのところですが人間や馬の力などは、蒸気機関とはくらべものになりません。
この蒸気機関をさらに改良して、鉱山の水あげだけでなくどこの工場でも使えるようにしたのが、ジェームズ・ワットでした。

ワットの発明を生んだもの

ワットは辛抱強い、熱心な発明家でした。

そしてシリンダーの片側で、蒸気を冷やしたときだけ仕事をするニューコメン機関から出発して回転式蒸気機関を発明したのは確かにすばらしいことでした。

しかし、ワットがどんなに頭をしぼってももしシリンダーの内側を平らに削ることができなかったら蒸気がもれてどうにもならなかったでしょう。

都合のよいことに、ワットの発明より先に中ぐり盤が発明されていました。

1769年、ジョン=スミートンが、水車で動く中ぐり盤を発明していたのです。
しかし、スミートンの中ぐり盤の削り方は、ずいぶん荒っぽいものでした。

ときには、シリンダーとピストンとのあいだに小指ほどの隙間ができることもあったのでその隙間に紙や古ぼうしなどをを詰めて蒸気がもれるのをふせぐという有様でした。

そこへあらわれたのが、ジョン=ウイルキンスンの中ぐり盤です。
ウイルキンスンは、ずばぬけた発明の天才で1775年、ワットの注文で精密なシリンダーを削ることができる中ぐり盤をつくりあげました。

ウイルキンスンはこのほかに蒸気ハンマー・圧延機など、たくさんの発明をしました。

ワットの発明

ワットの発明でいちばん大切なことは、つぎ2つです。
1つは、復水器をシリンダーの外側に取り付けてシリンダーの中で蒸気を冷やさないようにしたことです。

ニューコメンの機関では、シリンダーに蒸気をおくりそれを水で冷やして圧力を下げ、大気圧で、ピストンをはたらかせていました。

これは、シリンダーを温めたり、冷やしたりするために、燃料をたくさん使いました。

もう1つは、ワットの蒸気機関ではピストンの両側にかわるがわる、蒸気がおくりこまれることです。
そして、大気圧ではなく、蒸気の圧カでピストンを動かしピストンの往復運動を、回転運動にかえるようにしたことです。

この回転式蒸気機関は、たちまちイギリスから全世界に広がり産業革命がおこる大きな力の1つになったのです。



蒸気タービンの発明

蒸気が噴き出す力を利用して、羽根車をまわす蒸気タービンの考えはずっと前からありました。

紀元前210年ごろ、アレクサンドリアのヘロンが蒸気の力でまわる汽力球を考えました。
また16世紀に、イタリアのブランカは図のようなタービンを考えました。

しかし、実際に使えるタービンは中々できませんでした。
蒸気はたいへん速い速度で流れるので、蒸気タービンの羽根車や軸は高速回転にたえられるようにつくっておかなければ壊れてしまうのです。

スウェーデンのラバルは1882年、スウェーデンの質のよい鋼と精密な工作機械を利用してはじめて蒸気タービンをつくりましたが、回転が速すぎて牛乳からバターをとる、遠心分離機ぐらいにしか使えませんでした。

火力発電所や船などに使う大きなタービンをはじめてつくったのはイギリスのパーソンズです。

やがて19世紀の半ばをすぎると、ワットの蒸気機関で動かしていた全世界の工場は電気で動くようになりました。
また、船や火力発電所では蒸気タービンがワットの往復運動の蒸気機関にとってかわりました。

蒸気タービンの時代

蒸気機関で燃やされた石炭のエネルギーのうち実際に仕事に使われるのは、割り合いに少ないものです。
ワットが改良したものでも、わずか5パーセントぐらいのものでした。

これにくらべると、蒸気タービンはずっと能率のよいものです。
ふつう火力発電所などで使われているものは、20パーセント以上にもなっています。

ですから、大馬力の蒸気機関に、みな蒸気タービンにかわってきました。

機関車も電化されています。

機関車は復水器を取り付けることができないので燃やした石炭のエネルギーの5.5パーセントぐらいしか仕事に使われません。

しかし、同じ量の石炭を火力発電所で燃やして、蒸気タービンをまわし、電気をおこして、それで電気機関車を動かしてみると仕事にかわるエネルギーが10パーセント以上にもなります。

鉄道が、だんだん電化されるのは、そのためです。




工場が誕生したのはいつ頃? わかりやすく解説!

動力を待つ機械

何台もの機械を、1つの大きな建物の中に備えつけ大きな動力でいっぺんにまわしたらどうだろうと発明家たちは考えました。

これをはじめておこなったのは、イギリス人のリチャード・アークライトでした。

アークライトは川の淵に水力を利用した紡績工場を建てました。
これは動力で機械を運転する近代工場のはじめとなりました。

紡績機や織機の改良は、なお続きました。
イギリスのサミュエル・クロンプトンは1779年ハーグリーブズとアークライトの機械を改良してミュール機をつくりました。

こうなると、工場の機械は新しい動力があらわれるのを待つばかりです。
水力は川の淵でしか利用できません。
どこででも動力をたせろ機械がのぞまれていました。

この望みを満たしたのが、ワツトの蒸気機関の発明でした。


大量生産の芽生え

18世紀の終わりワットの蒸気機関が工場で使われはじめたころアメリカでは、すでに大量生産へ発展する芽が育ちはじめていました。

イギリスは、はじめインド・エジプト・アメリカから綿を買い付けていました。

種子と綿とをわけやすい黒種綿でしたがアメリカでは種子と綿とをわけにくい緑種綿しか育ちませんでした。

このためアメリカの綿は、だんだんインドやエジプトの綿に押されてきました。

これを救ったのは、エリ・ホイットニーという発明家でした。
ホイットニーは、コットン・ジンという、簡単に綿の種子を取り除く繰り綿機を発明したのでした。

これは、まったくすばらしい発明でした。
1台の繰り綿機で、1000~1500人の奴隷がする仕事をしました。

こうしてアメリカは綿の国となりコットンズキング(綿花王)とさえ呼ばれるようになりました。

ホイットニーの発明には、もう1つあります。
彼はアメリカの軍部から、1万丁のマスケッ卜銃の注文を受けました。

このとき彼は、マスケッ卜銃をばらばらにして1つ1つの部品をつくる工作機械を工夫しました。

こうなると、どの銃の部品も同じ寸法になるので部品を自由に取り換えることができるのです。

この部品を自由に取り換えられるということこそ、大量生産へ発展する第一歩でした。
20世紀のアメリカにおける、機械技術の目覚ましい進歩はホイットニーの発明のころから、はじまっていたのです。




機械が誕生したのはいつ頃? 水車と風車・時計の発明はいつ?

水車と風車の発明

紀元前100年ごろギリシアの詩人アンティバトロスの詩に、つぎのような一節があります。
水車が発明されたとき、古代人がどんなに喜んだか、この詩によくあらわれています。

いまは突くことを止めよ
石うすではたらく女たち
鶏が夜明けを知らせてもゆっくり休め

農業の神デメテルが水の精のニンフに命じて
女たちのする仕事をさせているから………

水車はその後、世界各国で長いあいだ使われてきました。
そのあいだに水車大工たちは歯車や軸受など水車でいちばん大切な機械の部分についての知識を増やしていきました。

風車は、いつごろから使われたかは、よくわかりませんが中世ごろには、世界各国で使われていました。

ことにオランダのように同じ向きの風が同じ速さで絶えず吹いている地方ではさかんに使われました。

19世紀のなかば、蒸気機関が使われ出したころでもオランダには1万2000もの風車がありました。

風車も水中と同じように、機械技術の進歩にたいへん役立ちました。


時計の発明

この水車と風車の機械技術を受け継いだのは、時計づくりの職人たちでした。
はじめて機械仕掛けの歯車時計をつくったのは、ドイツ人アンリ・ド・ピックでした。

ド・ピックは、1370年、フランス王シャルル五世に招かれてパリの宮殿の塔に、8年もかかって大きな時計を据え付けました。
この時計は、ときどき故障はしましたが、それまでにつくられたどの時計よりも正確でした。

それから1世紀ほど経つと、ドイツの二ュルンベルクにいたペーター・ヘンラインは金属のばねを使った小型の時計を発明しました。

この時計は、ニュルンベルクのたまごとよばれ、たいへん値段の高いものでした。
金持ちの人たちのあいだでは、宝石と同じように飾り物として、この時計をぶら下げて歩くことが流行ました。

1583年、ガリレオは教会の天井に下がっているランプが揺れていろことから振り子の等時性を発見しました。

そして彼は、振り子時計を考えました。
しかし、本当に役に立つ振り子時計をつくったのは、オランダのホイヘンスでした。



綿が生んだ機械

ルネサンスのころからさかんになったヨーロッパと東洋との貿易は17世紀から18世紀にかけて、ますますさかんになりました。

ことに、イギリスでは織物業がさかんになりいままでの紡績機や織機では仕事が間に合わなくなりました。

すると、これまでの時計の技術を受け継いだ職人たちはつぎつぎとすばらしい紡績機や織機を発明していきました。

イギリス人ジョン・ケイも時計師でしたが1733年、いままでのものより2倍も速く織れる織機を発明しました。

ケイは、縦糸に横糸を渡す魚のような形の杼を改良して手で紐を引っ張れば、杼がひとりで往復するようにしました。

この発明のおかけで、こんどは綿糸が足りなくなってきました。
ハーグリーブスという時計師は1台の機械に8個の紡錘をつけいちどに8本の糸がつむげる、多軸紡績機を発明しました。

この機械のおかげで、イギリスの綿糸の生産高は、いっぺんに200倍にもなりました。




天文学の発達しはじめたのはいつ頃? 天才ガウスの計算とは?

天王星の発見

18世紀の中頃から、天文学も進歩しはじめました。

1755年、ドイツのカントは「宇宙は、はじめ、もやもやした星雲のようなものが渦をまいて運動をしはじめてそれがだんだん固まり、今日のような天体ができた」という星雲説を唱えました。

また、1781年、ハーシェルに、太陽から数えて7番目の惑星である天王星を発見しました。


この天王星の発見を、最も喜んだのはドイツの「未知惑星捜査連盟」(まだ発見されていない惑星を探す学者たちの集まり)の学者たちでした。

この学者たちにベルリン天文台長ボーデが1727年に発見したボーデの法則を信じていました。
その法則にしたがえば、まだ発見されていない惑星の位置がわかるはずでした。

ハーシェルの発見した天王星の位置はボーデの法則に、ぴったりあっていることがわかりました。

連盟の科学者たちは、この法則からまだ知られていない惑星の位置の見当をつけて、そこへ一斉に望遠鏡を向けました。

ところが、その惑星を発見したのは、連盟の学者ではなくイタリアのパレルモ天文台長ピアッツィでした。

しかし、ピアッツィは、その星を病気のために、わずか11日間しか観測できませんでした。

ピアッツィの報告が連盟に届いたときはその星が太陽の近くへ動いて観測することができませんでした。

危うく「見失われた星」となるところへ、救いの神があらわれました。
それは、ドイツの大数学者ガウスでした。



天才ガウスの計算

ピアッツィの11日間の観測した結果からガウスはその惑星の軌道を計算することに成功しました。
しかも、わずか5、6時間で計算したのです。

連盟の科学者たちは、やがてガウスの計算に導かれてビアッツィが発見した惑星ケレスを再び発見することができました。

それに続いて、パラス・ジュノ・ベスタなどの小惑星が続々と発見されました。

日本でも、東京天文台の第二代台長平山信博士と及川奥郎技師たちが東京・ニッポニア・三鷹・多摩・隅田・箱根・熱海・日光などおよそ10個の小惑星を発見しました。

また、1846年には海工星が発見されました。

続いてドイツのブンゼンとキルヒホフは、スペクトルを使って物質の性質を研究するスペクトル分析法をはじめこれが天文学にも応用されて、太陽や恒星はスペクトルで研究されるようになりました。

最近は探測器を使って天体を直接観察するようになっています。

地球の研究

科学者の月が宇宙に向けられているあいだに地球についての科学も進歩しました。

フランス革命のさなか、ラボアジエなど、フランス一流の科学者たちは地球の子午線の長さをはかり、メートル法をつくりあげました。

また19世紀になると、ドイツのフンボルトは南アメリカを探検して新しい地理学をひらきイギリスのライエルは地質を調べる学問をはじめました。

このようにして発達してきた天文学や地学は20世紀へと引き継がれていったのです。




光は粒か波か? 光の正体とは? わかりやすく解説!

ニュートンとホイヘンスとの争い

科学者の間には「光とは何か」という問題が、かなり昔からありました。

18世紀のはじめ、ニュートンが太陽の光が7つの色(スペクトル)にわけられることを発見して「光は、光を出すものから発せられた小さな粒のような物質に違いない」という光の粒子説を発表しました。

そのうち、イギリスのトーマス・ヤングが「波長の違う2つの光は、お互いに干渉して縞をつくる」ことを実験して光は波だという、波動説を唱えました。

イギリスのフック、オランダのホイヘンスなどの学者は、この考えかたに賛成しました。
そして、ニュートンとホイヘンスとのあいだで粒子だ波だという説の言い合いがはじまりました。


どちらも正しい

1864年に、イギリスのマクスウェルは「光は電磁波の一種である」という光の電磁波説を唱え、1888年になると、ドイツ人ヘルツが光は電磁波であることを実験で確かめました。

これで「光は波である」ということになりました。

ところが1905年、アインシェタインがあらわれて「光は光子という粒である」という光量子仮説を発表したので騒ぎは大きくなりました。

そのころ、金属に光をあてるとその金属の表面から電子が飛び出すことが発見されていました。

これを光電効果といいます。

この光電効果は、アインシュタインの光量子仮説で見事に説明することができたのです。

そして「光は波であると同時に、粒子である」ということがわかってきました。
このことについて、科学者たちが説明できるようになったのは原子についての科学が進歩してからでした。



200年の謎

ホイヘンスは、光の波動説を唱えたとき
「宇宙は、エーテルというもので満たされている」と考えました。
光はそのエーテルの振動だと考えなければ、波動説の説明ができなかったからです。

しかし、光の波動説を説明するためにはこのエーテルは、固体のような性質をもっていなければならないことがわかってきました。

すると、エーテルの中を動いている地球をはじめすべての天体は、その運動がさまたげられるはずです。

このようなことから「エーテルは、かたさがあると同時に、真空のようなものである」ということになります。

また1864年に発表された、マクスウェルの電磁波説では「エーテルは、電磁波を伝える仲立ちをするもの」となっていました。

しかし、エーテルがあるということを確かめることはできませんでした。
こうなると、エーテルというものは、この宇宙にはないことになります。

しかも、エーテルがなければ、電磁波があるということが説明できません。

1905年、アインシュタインの相対性理論によって「この宇宙には、エーテルというものはない」ということが見事に説明されたのです。

このように、ホイヘンスが言い出したエーテルは200年もの長いいだ、科学者たちを悩ませてきたのでした。




X線の発見はいつ頃? ラジウムの発見はいつ頃?

クルックス管の謎

1874年、イギリスの物理学者クルックスは、クルックス管を発明しました。
これは2つの電極をガラス管にふうじこめ、管内の空気を抜いて真空の状態に近づけたものです。

そして、この2つの電極に直流の高電圧を加えると陰極から陰極線がでて、真空放電がおこるのです。

1895年の末、ドイツのビュルツブルク大学の研究室でレントゲンはこのクルックス管の研究をしていて不思議なことを発見しました。

あるときレントゲンは、実験の準備をしていました。

部屋を暗くしてクルックス管か黒い厚紙でおおい光がもれるかどうかを試すため、クルックス管のスイッチを入れました。

光はどこからももれていませんでした。しかしそのとき、彼ははっとしました。

隣の机の上に置いてあったシアン化白金バリウムを塗った紙が、ぼんやり光っていました。

この紙は、光にあたらなければ光らないのです。
そこで彼は「もし光があるとすれば、このクルックス管のほかにはないはずだ」と考えました。

こうしてレントゲンは、クルックス管からいままでまったく知られていなかった光が出ていることを発見しました。

そして彼は、その光線を「まだよくわからない光線」という意味でX線とよびました。
のちにこのX線はレントゲンの名前を記念してレントゲン線とよばれるようになりました。


ウラニウム線の発見

そのころ、フランスの有名な科学者アンリ=ポアンカレは「クルックス管ばかりでなく、蛍光を発する物質は、すべてX線を出すに違いない」という意見を発表しました。

もちろん、この意見は間違っていました。

しかし、ほかでもないポアンカレの意見だったのでたいていの科学者は、その意見を信じてしまいました。
そういう学者のひとりに、フランスのアントワーヌ・アンリ・ベクレルがいました。

ベクレルは、ポアンカレの間違った意見にしたがって実験をすすめているあいだに「太陽の光を受けて蛍光を放つウラニウム塩も光を受けないウラニウム塩も、ともに写真乾板によく感光する」ということを発見しました。

つまり、ベクレルは、ウラニウムからも不思議な光が出ていることを発見したのです。

ウラニウム線もX線も「目に見えない、写真乾板を感光させる。空気に電気が通るようにする」というはたらきがあります。

このようなはたらきは、後に放射能と名付けられました。

しかしウラニウム線は、X線のように人間の体などを突き抜けることはできません。
そのかわり、ウラニウムやウラニウムの化合物は光をあてたり、温めたりしなくても自然にウラニウム線を出していることがわかってきました。



新しい元素を追って

ウラニウムの放射能には、不思議なことがありました。
ウラニウムの鉱石からウラニウムをとった残りかすがウラニウムより強い放射能をもっていることです。

キュリー夫人は、このかすを調べてみました。
そしてウラニウムのほかに、トリウムも放射能をもっていることがわかりました。
しかし、それでもウラニウム鉱の放射能の強さを説明することはできません。

ここでキェリー夫人は
「これらの鉱物の中には、ウラニウムやトリウムより強い放射能を出すいままでに知られていない新しい元素がふくまれているのではないだろか」と考えました。

そして、夫ピエールの協力を得て、その元素を探しました。
1898年、ついにキュリー夫人は、強い放射能を出す新しい元素を発見しました。

そして、それにポロニウムという名前をつけました。

自分で壊れる原子

この発見からわずか5か月後にキュリー夫妻はもう1つの元素があることをつきとめました。

その元素は、化学的にはバリウムという金属に似ていてウラニウムより数百万倍も強い放射能を餅、亜鉛鉱や蛍光板に蛍光を出させることができます。

キュリー夫妻にこの元素に、ラテン語の光という意味の言葉からラジウムと名付けました。
そして原子量をはかり88番目の元素として元素表へ書き入れました。

研究がすすむにつれて、ますます不思議なことがわかってきました。
ラジジウムに、アルファ線・ベータ線・ガンマ線という3つの放射線を出しながら、ほかの元素にかわり最後には鉛とヘリウムになってしまうです。

これまでの科学者たちは「原子は壊れないもの、元素はかわらないもの」と考えていましたから、驚いてしまいました。

キュリー夫妻のこの発見がきっかけとなって原子についての科学は、にわかに進歩しはじめました。




熱の正体とは? 温度計が発明されたのはいつ頃?

温度計の発明

熱さ、冷たさなどをはかろうとして考えだされたのが温度計です。
はじめてつくられた温度計は、空気温度計でした。

ガリレオの友達の医者は、早速これを改良して、病人の体温を測ったといわれています。

1714年、ドイツのファーレンハイトははじめて水銀温度計をつくり、氷が溶ける温度を32度人間の口の中の温度を96度と決めました。

これが、華氏温度めもりです。

その後、1742年には、スウェーデンのセルシウスは水が凍る温度を100度、水が沸騰する温度を0度とするいまの温度計とは反対の摂氏温度めもりのもとをつくりました。

これで温度を測る道具はできましたが温度とは何か熱とは何かというようなことは、まだわかりませんでした。


温度と熱とは違う

1763年、イギリスのブラックという学者は、熱について大切なことを発見しました。

同じ重さの銅・鉄・鉛など、いろいろな物質をとって同じ温度まで上げるのに、どれだけの熱量がいるかを実験してみました。

そして、物質によって、その熱量が違うことを発見しました。

このブラックの研究のおかげで温度と熱とは違うものだということがわかりました。
そして熱についての研究が、いままでより、ずっとすすみました。

熱は運動か物質か

1669年、ドイツのべッパーという学者は、おもしろい説を唱えました。
「物の中には、熱素という小さい粒がある。

物が燃えるときは、この熱素がたくさん出てくるから温度が高くなる。
だから、温度の高いものほど、熱素をたくさんもっているというのです。

これを熱素説といいます。

ブラックもこの熱素説を信じていたので、なんとかして熱素の重さをはかろうとしました。

しかし、そのたびに失敗しました。そこでブラックは、つぎのように考えました。

「熱素は、重さをはかることのできない物質である」

18世紀の終わりごろ、アメリカのランフォードという学者が、おもしろい実験をしました。

大砲の地金でつくった円筒を水の入った箱の中で回転するようにしました。
この円筒のはしに、中ぐり棒を押し付け摩擦が起こるようにしました。

そしてその円筒を2頭の馬で回転させ、摩擦で起きた熱を水に伝えました。
すると箱の中の水は、わずか2時間20分で沸騰したのです。

そこでランフォードは、熱は「物質ではなく、運動である」と考えました。

続いてイギリスのデービーも別の実験をおこない「熱は物体をつくっている小さな粒の特別の運動である」と考えました。

19世紀になると、イギリスのジュールはいろいろな実験から、熱は運動であって、仕事は熱にかわり熱は仕事にかわるということを発見しました。

このジュールの実験をもとにして、エネルギーについて大切な法則を打ち立てたのがヘルムホルツだったのです。




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