斜面の法則とは? エネルギー保存の法則とは?

夢からうまれた斜面の法則

大昔から人類は「少しでも楽に仕事をしたい」という夢を抱き続けてきました。
この夢は「永久機関」をつくろうという努力にかわりました。


永久機関というのは、外から力を加えないでも自分の力で回転して、いつまでも仕事をしてくれる機械のことです。

16世紀の終わりごろ、オランダのシモン=ステビンという科学者はつぎのような永久機関を考えました。

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図のように、②の辺が①の辺の長さの2倍になるような直角三角形を考え③の辺が水平になるようにおきます。

これに14個の同じ重さの球を、あいだが同じになるようにくさりにつないで
この三角形にかけます。

「下にぶら下がった8個は、辺の上にのっている4個と2個の球のつりあいには関係がないから、4個と2個のつり合いだけを考えればよい。

4個の球は、重さが2個の球の2倍になるから、くさりは4個の球のほうへ引っ張られこのくさりは、①から②の方向へ動くに違いない」

ところが実際にやってみると、くさりに、びくとも動きませんでした。
そこで、ステビンは、そのわけを考えはじめました。

そして「4個の球が乗っている辺の長さが2個の球が乗っている辺の長さの2倍になっているときは4個の球の重さのはたらきと、2個の球の重さのはたらきは同じになる」ことを発見しました。

こうしてステビンは、斜面の法則を発見し、さらに研究をすすめ、それを1冊の本にまとめました。

そして彼は、その本の表紙にこう書きました。

「これは不思議だ。だが、ちっとも不思議ではない」



エネルギー保存の法則

ステビンが永久機関の夢を破ってから、仕事についての研究がはじまりまもなく科学者たちは、仕事の量をはかる法則を見つけだしました。
そして、エネルギーという考えにすすみました。

ポールを投げて、そのボールが軽いものにぶつかると、それを跳ね飛ばします。つまり、ボールは仕事をしたわけです。

このように、仕事をすることができる能力を、エネルギーといいます。
エネルギーという言葉を、はじめて使ったのは19世紀のはじめ、イギリスのトーマス・ヤングでした。

そして1847年には、ドイツのヘルムホルツは、エネルギーについての法則を発見しました。

大きさも重さも同じ、2つの球を用意し、滑らかな面の上に1つの球を置きます。

もう1つの球を転がして、止まっている球にあてると動いていた球は止まり、止まっていた球が動き出します。

つまり、動いていた球は、自分のもっていたエネルギーを失います。
そのかわり、止まっていた球は、そのエネルギーを受け取って動き出したのです。

すると、こういうことが言えます。

「エネルギーは、こちらで減れば、必ずあちらで増えます。そして、全体のエネルギーは減りも増えもしません」

これを、エネルギー保存の法則といいます。




元素が発見されたのはいつ頃? メンデレーエフの予言とは?

元素と化合物

フランスの化学者ラボアジエは、物が燃えるわけを研究して「プリーストリーが発見したガスは、きっと空気の中にあるに違いない」と考えました。

いろいろ実験したのちラボアジエは、自分の考えが正しいことを明らかにしてプリーストリーの発見したガスに酸素ガスという名前をつけたのです。

ラボアジエはまた、元素にはどんなものがあるか元素どうしはどんな割合で化合してどんな物質をつくるかなどということを深く研究しました。

そして、つぎのようなことを明らかにしました。
「空気は、酸素ガスと窒素ガスが混じってできている。木炭は炭素からできている。

木炭が空気の中で燃えるのは、炭素が酸素と結びついて(化合して)二酸化炭素(炭酸ガス)になるのだ。

ろうそくは、炭素・酸素・水素が化合してできた物質(化合物)だ。

ろうそくが空気の中で燃えるときは、ろうそくの中の炭素が空気の中の酸素と化合して二酸化炭素(炭酸ガス)になり水素は酸素と化合して水になる。

鉄を空気の中で強く熱すると黒いさびにかわる。鉄のさびは、鉄と酸素の化合物だ。物質の種類は何万もある。

しかし、すべての物質は、酸素・水素・炭素・窒素・鉄などの元素がめいめい決まった割合で化合している。

化合物に、新しくできたり、かわったりする。しかし、化合物をつくる元素は、消えてしまうことはない」

ラボアジエのこのような考えをもとにして、たくさんの学者が研究をすすめました。

そして、これまで知られていなかった元素を発見したり化合物のしくみを研究したりしました。


物質は原子からできている

イギリスのドールトンいう化学者は、つぎのような考えで元素の研究をすすめました。

「ラボアジエの考えた元素とは、どういうものだろう。
酸素という元素は、もっと詳しく調べると、非常に小さい粒に違いない。
炭素も、やはり、小さい粒でできているに違いない。

そして炭素の粒何個かと、酸素の粒何個かと結びついて二酸化炭素(炭酸ガス)の粒ができるのだろう。

水も、やはり、酸素の粒と水素の粒とが決まった数ずつ結びついてできたものに違いない」

ドールトンは、こうして考えた元素の粒のことを、原子と名付けました。
そして「物質は、元素の粒である原子の組み合わせでできている」と発表しました。

これは、1803年のことです。

原子どうしが結びついてできた化合物のことを私たちは分子とよんでいます。
物質の研究は、このドールトンの考えが発表されてから、とんどんすすみました。

偶然の発見は無くなった

続く元素の発見

ドールトンが原子説を発表してから後、新しい元素が続々と発見されていきました。
そして、ラボアジエがつくっておいた元素表にはつぎつぎと新しい元素がつけくわえられ、間違いも直されていきました。

1774年には塩素が、1807年にはカリウムとナトリウムがそれぞれの水酸化物から取り出されました。

1812年にはヨウ素が発見されました。

1817年にはリチウムとカドミウムが、同じ年にさらにセレンが発見されアルミニウムは1827年に金属として取り出されました。

しかしこれらの元素は、学者たちが、まだどんな元素があるのかわからないまま偶然に発見されていたのでした。



メンデレーエフの予言

1875年フランスの化学者ボアボードランは、ガリウムを発見したときロシアのドミトリ・メンデレーエフから、一通の手紙をもらってびっくりしました。

その手紙には「あなたが測定されたガリウムの比重4.7は間違いで、5.9~6.0が正しいと思います」と書いてあったからです。

ボアボードランは、早速ガリウムの比重をはかり直してみました。
すると、メンデレーエフのいう通り、5.96となりました。

ガリウムを見たことも、もちろんその比重をはかったこともないメンデレーエフがどうしてガリウムの比重を予言することができたのでしょうか。

それは彼が、元素の周期律を発見していたからです。

メンデレーエフは、それまで発見された、元素の性質を丹念に調べ元素の性質にしたがって、元素を並べた表をつくってみました。

すると元素は、正しい規則にしたがって並んでいることがわかりました。

そして、まだ発見されていない元素の性質さえわかりました。
こうして、メンデレーエフの周期律表ができてからは化学者たちは計画的に研究をすすめることができるようになったのです。




ガスの発見はいつ頃? ボイルの実験とは? わかりやすく解説!

ボイルの実験

今までの研究のうえにたって、さらに研究をすすめたのはイギリスのロバート・ボイルでした。

彼は仲間をつくって、ものが燃えるわけや金属の化学変化などについて、熱心に研究しました。


そして「化学変化の研究を、本当の学問として研究しなければいけない」と考えました。

こうして、彼は、後に「化学の父」とよばれるようになりました。
ボイルとその仲間は「ポンプで空気を抜き取った器の中では、物が燃えない」
ということを発見しました。

またボイルたちは、つぎのような実験をしました。

ガラス瓶を逆さにして、その中でろうそくを燃やし、瓶を水の上に伏せました。やがて、ろうそくの炎が消えて、水が瓶の中へ上がってきました。

こんどは、ガラス瓶の中で、ろうそくを燃やし、その後にネズミを入れてみました。ネズミは、窒息して死にました。

このような実験から、空気がないとものは燃えないし動物も呼吸ができなくて死んでしまうことがわかりました。

酸素ガスの発見

1774年、イギリスの化学者プリーストリーは、つぎのようにして酸素ガスを発見しました。

彼は、水銀を空気の中で熱しました。
すると水銀は、赤い灰のような物質にかわりました。

つぎに、この物質を集めて、ガラス瓶に入れ大きなレンズで光線を集めて、この赤い灰を強く熱しました。

すると、赤い灰のような物質からガスがでて、灰は、もとの水銀になりました。

またプリーストリーは、ガスを集めて、よく調べました。

そのガスの中では、物は空気の中よりも激しく燃えます。
また彼は、ネズミを、このガスを詰めた瓶の中へ入れました。
ネズミは、同じ体積の空気の中へ入れたときより、2倍から3倍も長く生活できます。

「この赤い灰のような物質から出たガスは、物を燃やすはたらきをする」と
プリーストリーは考えました。




空気の発見はいつ頃?「空気は物である」 トリチェリの気圧の実験とは?

柳の実験

17世紀のはじめ、オランダにファン・ヘルモントという学者がいました。
ヘルモントは「すべてのものは水からできている」というギリシアのタレスの説を信じていました。

そこで、タレスの説を実験で確かめてみようと思いたちました。


ヘルモントは、1本の柳の木を値木鉢に植えました。
そのとき、木と土の重さをはかっておきました。

木は2.3キログラム、上はよく乾かしたときの重さが9回キログラムありました。
また土の表面には、土が風で飛ばないように、穴をあけた鉄板をかぶせておきました。

こうしてヘルモントは、毎日水だけかけて、5年間その柳の木を育てました。
そして柳の木と、土の重さとをはかってみたのです。

土の重さは、90キログラムに84グラム足りないだけでした。
いっぽう柳の木の重さは88.2キログラムありました。

上の重さはほとんどかわらないのに木のほうは約86キログラムも増えていたわけです。

この実験からヘルモントは「水が木の幹や葉にかわったに違いない。
木は燃えると灰になるし、灰は土だから、やはり水が土にかわるのだ」と考えました。

もちろん、ヘルモン卜が考えたことは間違っています。

植物は空気にふくまれている二酸化炭素をもとにして、でんぷんなどをつくります。
また、土の中からはカリウムや、窒素を吸い上げて、養分にします。

へルモントは、こういうことをまだ知らなかったのです。

しかし、ある物質がほかの物質にかわることを重さをはかる方法で確かめようとしたことは化学への第一歩でした。

またヘルモントが、28キログラムの木炭を燃やしたところ、45グラムの灰が残りました。

ヘルモントは「27.55キログラムの木炭は目には見えないが重さのあるものにかわったのだ」と考え、それをガスとよぶことにしました。



空気はものである

16世紀の半ば頃、ヨーロッパと東洋とのあいだで、貿易がさかんになりました。
このため、織物業や鉱山業がさかんになりました。
そして鉱山では水をくみだすため、ポンプがたくさん使われはじめました。

ところが深いところでは、何段もつなぎ合わせなければ水をくみあげることができませんでした。
鉱山業者たちは、1台のポンプでどんなに深いところからでも水をくみあげることができたらどんなに便利だろうと思っていました。

17世紀ごろになると、学者たちは、この問題をとりあげはじめました。
イタリアのトリチェリは、つぎのようなことを考えました。

「地球の表面は、海の底のようなものだ。

海の底に海水の重さがかかっているように地球の表面にも空気の重さがかかっているはずだ。本当にそうなのか、ひとつ試してみよう」

そこでトリチェリは長さがおよそ1メートルのガラス管のいっぽうのはしを溶かしてふさぎ水も空気ももらないようにしました。

そして、開いているほうの口から、水銀をいっぱいにいれました。
このガラス管の口を指でおさえ、水銀の入っている器の中へ逆さまに立てました。

抑えている指を離すと、管の中の水銀は下がってガラス管の上のほうに隙間ができました。

管を少し傾けても、器の水銀の表直からはかった管の中の水銀の高さは、もとのままです。

そこでトリチェリは「空気の重さが圧力になって、水銀を管の中に押し上げるのだ」ということが証明されたと考えました。

吸い上げポンプの水が、包まった高さまでしか上がらないのも同じ理屈なのです。

トリチェリの実験でガラス管の上のほうにできた隙間は空気のないところで真空なのです。

ギリシアのアリストテレスの学問では「自然は真空を嫌う」といわれ人々はそれが正しいと思っていだのですから真空が本当にあることがわかったのも、たいへんな進歩でした。

トリチェリが実験をしてから5年ほど後に、フランスのブレース・パスカルは
空気の圧力や真空のことを、もっと詳しく研究しました。

ドイツのゲーリッケも、空気の圧力について研究していましたが1653年に、空気ポンプを発明しました。

こうして、空気は重さのある物質であるということがわかったのです。




金属とガラス、硫酸と硝酸を発見したのはいつ頃? わかりやすく解説!

物質

鍋・包丁・ナイフ・釘・レールは、鉄でできています。
鏡やレンズは、ガラスでつくらています。

このような鉄やガラスは、物質とよばれています。水・食塩・でんぷんも物質です。

ナイフや包丁など、鉄でできたものを湿り気のあるところに長いあいだ放りっぱなしにしておくと、さびることがあります。

さびた鉄は、もとの鉄とは違う物質です。

ごはんをゆっくり噛んでいると、甘い味がでます。
これは、米のでんぷんが、糖にかわるからです。でんぷんと糖とは、違った物質です。

このように、ある物質が、別の違う物質にかわることを、化学変化といいます。

化学変化を研究する学問が化学です。


金属の発見

人間が、はじめて利用した化学変化は、木や草を燃やすことでした。
石をつり上げて、かまどのようなものをつくり、その中で木や草を燃やすとよく燃えることを知ったからです。

また、上や粘土を焼いて、陶器からくることも覚えました。
これは、いまから7000~8000年も昔のことです。

火を起こしたり、土器を火で焼きかためたりしているうちに人問は、ぴかぴか光る金属の銅を発見しました。

たぶん、銅をふくんだ鉱物が、かまどの土で石の中に混じっていたのでしょう。
人々は、銅をふくんだ鉱物を集めてかまどで焼き銅を取り出すようになりました。

そのうちに、銅にすずを混ぜた青銅が発明されました。
西南アジアでは700年ぐらいまえから、青銅の刀やくわが使われていたようです。
鉄が使われるようになったのは、銅や青銅より遅く、およそ4000年くらい前からです。
鉄の取り出しかたが、銅より難しかったからです。

古代文明社会で知られていた金属は、銅・鉄・すず・鉛・金・銀・水銀です。
このように、金属を取り出したり、使ったりしているうちに昔の人の化学の知識は、どんどんすすみました。

ガラス器具の発明

だんだん時代がすすむにつれて、陶器のつくりかたも進歩してきました。
うわぐすりを発明して、陶器に塗って焼くようになったのです。

粘土を焼いただけの壺では、水がもれます。
うわぐすりを塗って焼いた壺は、水がもらないばかりか、非常にきれいです。

また、うわぐすりをもとにして、ガラスがつくられるようになりました。
およそ、2000年くらい前のことです。

ガラスを加工して、複雑な形の器もできるようになりました。
どろどろに溶けたガラスを管にくっつけて、息を吹き込んでつくるのです。

同じころ、エジプト人はすでに、ガラスの蒸留器をつくっています。
そして、バラの花などを蒸留し、香りのよい、香水のもとををつくりました。



硫酸・硝酸の発見

8世紀から10世紀のころ、アラビアやイタリアで大切な物質が発見されました。

それは硫酸と硝酸です。

硫酸は、ガラスの蒸留器にミョウバンという物質を入れて熱するとできます。
また、ミョウバンに、硝石という物質を混ぜて熱すると、硝酸ができます。

この硫酸や硝酸は、混じりけのある金や銀を混じりけのないものにするために役立ちました。

これらの酸の発見で、化学変化についてたくさんのことがわかりいろいろな新しい物質が、酸によってつくられるようになりました。

錬金術

ヨーロッパでは、中世からルネサンス時代にかけて、錬金術が研究されました。
これは、銅・すず・鉛・水銀などのような、値打ちの低い金属を金や銀のような値打ちの高い金属にかえようとするものです。

もちろん、錬金術で銅・すず・鉛などを金や銀にかえることは失敗に終わりました。

しかし、錬金術を研究していた人たちは、金属やその化合物を詳しく調べました。また、自分たちの研究を本に書き残しています。

このおかげで、その後の化学変化の知識はずっと増えたのです。




万有引力の法則を発見したのはいつ頃? ニュートンってどんな人?

月が落ちないわけ

ニュートンは、月が落ちないのはどういうわけだろうと考えました。
地球上のものはガリレオが調べたように高いところからはなすとまっすぐ落ちてしまいます。

それなのに地球のまわりをまわっている月は、どうして落ちないのでしょう。


ニュートンがケンブリッジ大学を卒業して大学に残って研究を続けていた時代のことです。

ちょうどそのころ、イギリスではペストがひどく流行、大学が休校になりました。そこでニュートンは、故郷のウルズソープ村に帰りました。

月がなぜ落ちないか、という考えが浮かんだのは、そのころのことだったようです。

誰でも知っている、「ニュートンとリンゴの話」はこのときのニュートンの考えをわかりやすく説明するたとえ話です。

月がなぜ落ちないかという問題については、ほかの学者たちも、熱心に研究していました。

紀元前においてすら、海の潮の満ち干から月と太陽と地球との間に引力がはたらいいていると考えた人がいます。

しかし、当時は、力を及ぼし合うものはくっついていなければならないというアリストテレスの説があったので、この引力の考え方は太陽の神秘的な力という説にすりかえられました。

また、ケプラーも、太陽がほかの星に及ぼす力は距離に反比例すると考えていました。

ニュートンと同じ時代の学者、ロバート・フックも「地球と月あいだや、地上の物体どうしのあいだには、力がはたらいている。

その力は、お互いの距離の二乗に反比例すると考えてはどうか」と言い出していました。

このように、ニュートンよりも前に万有引力の考え方を発見した人はたくさんいましたがだれもその考え方を証明することができなかったのです。

ニュートンが、万有引力の法則を発見したと言われるのは彼が自分でつくりあげた徴分学・積分学などの数学を用いて万有引力の法則を証明したからです。

そして、科学の歴史の中でも、いちばんすばらしい本といわれる「プリンキピア」の中で、この考えを詳しく書きました。

ニュートンはまた、別の本に、この考えの土台になる点をつぎのようにわかりやすく説明しています。

下の図を見てみましょう。

①は地球の山の頂上にいる人で、そこから、水平に物を投げてみましょう。物は、①②のように落ちていきます。

ところが、投げる速さが大きくなればなるほど、①③,①④のように遠くのほうまで行きつくことになります。

それならば、こんどはもっと速く投げてみたらどうでしょう。
きっと①から出て地球をひとまわりし、また①にもどることもあるに違いありません。

月が落ちないのはこういうわけだと、ニュートンはいうのです。
まことにうまい説明だというほかにありません。



科学革命の時代

このように立派な仕事をしたニュートンはその後、死ぬまで王立協会の会長をつとめ、科学をすすめるのに力をつくしました。

死ぬ少しまえにニュートンは、こんなことを言っています。

「私は、自分のことを浜辺で遊びながら、小石を拾っている子どもだと思っている。
ときには、滑らかな小石や、きれいな貝がらが見つかることもある。
しかし、真理という大きな海は、私の前にまだわからないものを、いっぱいに称えている」

このようにして、新しい科学の土台はできあがりました。
しかし、自然のものごとには、ガリレオやニュートンの研究したことよりもっと難しい、複雑な問題があります。

世の中がすすむにつれて、このような問題も調べていかなければならないようになってくるのです。
しかしそれには、ガリレオやニュートンたちの考えがそれまでのどんな町代の考えよりも、はるかに役立ちました。

ですから、この時代のことを科学の歴史では、最初の科学革命時代とよんでいるのです。




ニュートンの研究とは? わかりやすく解説!

ニュートンの時代

ガリレオやケプラーたちがはじめた新しい科学に
いっそうしっかりした土台を築いたのはイギリスのアイザク・ニュートンです。

ガリレオがなくなって1年ほど経ったころ
ニュートンはウルズソープという小さい村の自作農の家にうまれました。


そのころ、レオナルドやガリレオをうんだイタリアはもう科学を育てていく力を失くしていました。
ケプラーのいたドイツも、長い戦争で、ひどく弱りはてていました。
そして新しい科学は、新しく興ったイギリスやフランス・オランダのような国々で伸び伸びと、育ちはじめていたのです。

ことにイギリスでは、ニュートンの子どものころにクロムウェル革命がおこり、青年時代には議会政治がはじまりかけていました。

科学者たちは、こういう時代の新しい息吹の中でお互いに研究したことを語りあう集まりをつくるようになっていました。

その中でも「目立たぬ学会」という集まりにはそのころのいちばんすぐれた学者が参加していました。

この学会は、のちに「王立協会」という名前になり、今でも続いています。
ニュートンも、若いころから、その会員になっていました。



研究をまとめる

ニュートンが、反射望遠鏡をつくったり太陽の光が7つの色にわかれるのを発見したことは、よく知られています。
また、いま高校や大学で勉強することになっている徴分学・積分学という数学をはじめたのもニュートンでした。

そればかりではありません。ニュートンは、もっと大きな仕事をしました。

それは、天体でも地球上の物体でも、目に見える物体の運動にはどんな法則があるかということを明らかにしたことです。

また、このような物体の運動を調べるにはいつも万有引力という力を考えに入れなけばならないことをはっきりさせたことも、すぐれた仕事といってよいでしょう。

それまでにも、惑星の運動についてはケプラーの法則がありました。

地球上で、物体を落としたり、投げ合ったりするときその物体がどんな道筋を通るかということについてはガリレオの法則がありました。

また、オランダのクリスティアン・ホイヘンスは振り子の連動の法則について、詳しい研究をしていました。

このほか、空気や水の研究もすすんでいました。

フランスのブレーズ・パスカルたちは、気圧や水圧について、たくさんの研究を積み上げていました。

しかし、このようなさまざまのことがらを、1つの学問にまとめあげその土台にもっと広い、しっかりした法則を見つけ出すことはまだ、誰もやっていませんでした。

これをやり遂げたのが、ほかでもないニュートンだったのです。
ニュートンの研究が出来上がってはじめて、いろいろな自然のことがらの間にもちゃんとしたつながりのあることがわかったのです。




地動説について書いた天文対話とは? ケプラーってどんな人?

地動説をめぐって

ガリレオは、落体の法則を発見したころ地動説についてもこれが天動説よりも正しいことに、はっきり気がついたのです。

その少し前から、ガリレオはドイツのケプラーと親しく手紙のやり取りをしていました。
その手紙の中でも、このふたりの学者は、だいたい地動説に賛成していました。


ケプラー

ケプラーは、ドイツの天文学者です。
のちに火星の運動をよく調べケプラーの法則という天文学のうえで大切な法則を発見しました。

これは、地球や火星などの惑星が太陽のまわりをどのようにまわっているかを、明らかにした法則です。

コペルニクスの地動説では太陽のまわりをまわる惑星の道筋は、円であるといっています。

ところがケプラーは、どの惑星の道筋も円ではなく長円でありその長円の1つ焦点にあたるところが太陽だということを明らかにしたのです。

望遠鏡とガリレオ

ちょうどそのころガリレオは、オランダで望遠鏡が発明されたという知らせを聞きました。
そこで早速、自分でもこの道具をつくってみようと思いたちました。

そして、いろいろ苦心したあげく、かなり倍率の高い望遠鏡からはじめて天体を調べるのに、役立てたのです。

ガリレオは、この望遠鏡を使って「月には山や谷があること、木星にも4つの衛星(月)があること銀河はたくさんの恒星からできていること、太陽には黒点があること」などがづぎつぎに発見しました。

そして、こういう発見は、地動説には、都合がい証拠だと考えました。
木星に4つの衛星があることは、天動説では考えられもしなかったことでした。

天動説の学者に、ガリレオの発見を嘘だと決めて、こんなことを言いました。

「木星に月などない。そんなものは、望遠鏡という道具がつくりだしたものだ。ガリレオは、勝手にそんな月があると思い込んでいるだけなんだ」

ガリレオも、これには呆れ返ってしまいました。そして、こんな手紙を書いています。

「ケプラー君、僕は腹のそこから、笑いたくてしかたがありません。このあいだも、僕はある先生に、どうかわたしのつくった望遠鏡で月や惑星を覗いてみてくださいとお願いしました。そうしたら、嫌だというのです。君がいてくれたら、この大先生のことをいっしょに大笑いできるのですがね」

このように、そのころは望遠鏡で見えるものさえ、本当にされない世の中なのでした。



天文対話

ガリレオがいたパドバの街はベネチア共和国という、かなり自由な国にありました。
カトリック教会の勢いも、それほど強くはありませんでした。
ですから、ここにいるかぎりガリレオが新しい説を唱えても安全だったのです。

ところがガリレオは、昔の恩人の勧めでフィレッツェ公国にうつることになりました。
この国のカトリック教会は、大きな力を持っていました。
そのためにガリレオは、この国でたいへんな不幸を受けることになったのです。

フィレンツェに移ってまもなく、古い考えの学者や神父たちはガリレオが地動説の肩をもっていると言うので、一斉に悪口を言い始めました。

ガリレオをまた、相手の人々の間違いを直そうと遠慮せずに自分の考えを述べました。

しかし、なかなか納得してもらえないばかりか、騒ぎはますます大きくなるばかりでした。

こうなっては、カトリック教会を指図していたローマ法王庁も黙って見ているわけにいかなくなりました。

1616年法王庁はとうとう命令を出して、誰も地動説を唱えてはいけないということになりました。

そのうちに、兼ねてから親しい友人が法王になりました。
ガリレオは、今度は大丈夫と喜んで「天文対話」という書物を書きはじめました。

これは「新科学対話」と同じように3人の人が話し合うという形で書いたものです。

この本ができたのは、1632年でした。

書きあげるまでに6、7年もかかり、そのうえ法王庁で2年もかかって厳重に調べてもらって出したのです。

宗教裁判

「天文対話」には、表向きは天動説が正しいように書いてあります。
しかしよく読むと、地動説が正しいとわかるようになっているのです。
そのうえ法王が言った言葉を、そのまま占い学者の言葉として書いたところもあったのでした。

悪いことに、このことはすぐ見破られてしまいました。
そしてまもなく、ガリレオは宗教裁判所に訴えられてしまったのです。
続いて厳しい取り調べを受け、1633年には、最後の判決が下されました。

ガリレオは、教会の偉い人々や裁判官の前で、地動説は間違っているということをはっきり言わなければならなくなりました。

そのうえ「天文対話」は出せないことになり死ぬまで法王庁の見張りを受けることになったのです。

こうしてガリレオは、大勢の人の前でひざまずき地動説は間違っているという誓いをたてました。

しかし、そのとき立ち上がって「それでも地球は動いている」と言ったと伝えられています。

このように、ガリレオは古い考えに負けることになりましたが正しい科学をあとに残したい、という気持ちがあったことは確かです。




ガリレオ・ガリレイの研究と考え方とは? わかりやすく解説!

新科学対話

コペルニクスが「天球の回転について」を書いてから100年近く経った1638年、イタリアの科学者ガリレオ=ガリレイの「新科学対話」という本が出版されました。

この本もまた、科学の歴史に残るすばらしい書物です。
この本の原稿は、その2年も前にできていたのですがイタリアでは、どこからも出版してもらえませんでした。

そこで、あるフランスの身分の高い人の助けをかりオランダのある本屋から出版しました。
カトリック教会の力も、オランダまではおよばなかったからです。

この本は新しい科学者、古い学者、市民の3人が4日間お互いに話をするという形で、おもしろく、活き活きと書いてあります。

そして、古い考えのどこが間違っているかこれにかわる新しい考えかたはどんなものか自然について調べていくにはどうすればよいかということを見事に書きあらわしています。

またこの本には「地球上では、物体がどんな落ち方をするか」という問題についても書いてあります。


落体の研究

鳥の羽根や紙きれなどは、ゆっくり落ちるし鉄の球や石などのように重いものは速く落ちます。

ですから、それまでの学者は「重いものほど、速く落ちる。そして、重さが2倍になれば、落ちる速さも2倍になる」と考えていました。

ところが、鉛の球を1つ用意して、1つの球をもう2つの球の重さの100倍にして同じ高さから同時に落としてみると、ほとんどいっしょに地面に落ちます。

こういうことから考えると、昔からの考えはどこか間違っているのではないか、ということになります。
ガリレオはピサ大学の先生をしていた25才のころから、このことに疑問をもっていました。

ガリレオばかりでなく、それより少し前オランダの科学者ステビンも2つの重さの違う鉛の球を落としてみる観察をしていました。

こうして、ものが、重さで違う落ち方をするという昔の考えが決して正しいものではないことだけは、はっきりしてきていたのです。

落体の法則の発見

ものが落ちるときには、どんな法則に従うのでしょう。
これを発見したのが、ガリレオなのです。

それはガリレオが40才、パドバ大学の先生になって10年あまり経ってからのことでした。

ガリレオはまず、こう考えました。

「鳥の羽根のように軽いものが、あんなにふわふわ落ちていくのはきっと空気が邪魔をするからだろう。もし空気のないところだったらどうなるだろう」

しかし、そのころは真空ポンプはありませんでしたし空気のないところで実験することはできません。

そこでガリレオは、こう考えました。

「もういちど、鉛の球を使ってみよう。鉛の球はすべすべして重い。
空気が邪魔をするにしても、たいしてさしつかえないだろう。

前の観察でも、かなり重さの違った球が、ほとんど同時に地面に落ちている。
だから、鉛の球を使えば真空の中で調べるのと同じことを、空気中でもやれるわけだ」

ガリレオはまず、鉛の球を、高さをかえて落としてみました。
なかなか速くて検討がつきません。
しかし、高ければ高いほど、落ちる速さが増えていくようでした。

こうしてガリレオは「ものが落ちるときの速さは、落ちはじめてから時間が経つにつれて大きくなる」という見通しをつけました。

ところが、その増えていく速さを測ってみようとしても、そのころは、測る道具がありません。
でも、幸いなことに、落としはじめてからの距離と時間が測れます。

そこでガリレオは、この距離と時間とのあいだにはどのような関係があるかをまえに述べた見通しのもとに計算で解こうとしました。

そしてとうとう、つぎのようなことを明らかにしました。

「真空中では、物の落ちる速さは、決まった割合で増えていく。
つまり、物の落ちる距離は落ちるまでにかかった時間の三乗に比例する」



実験で確かめる

物の落ちる運動は、非常に速くて、うまく実験することができません。
ガリレオはいろいろ考えた末、この運動をもっとゆっくりやらせるのに斜面を使うことにしました。

もちろん、ものが落ちる場合も斜面を転がる場合も距離と時間の関係は同じであることを計算や実験で、はっきり確かめた上でのことです。

これだけの準備ができてから、ガリレオは斜面に沿って水をつくりました。
そして、この溝を転がり落ちる球についていろいろに、斜面の傾きをかえたりして100回も調べてみたのです。

その結果、距離と時間とのあいだにはたしかにガリレオの考えていたような関係のあることがわかりました。

このような苦心を重ねて「真空中なら、物体が落ちる運動は物体の重い、軽いの区別なしにどんなものでも決まった加速度を持っている」という落体の法則を発見することができたのでした。




地動説をまとめたコペルニクスの考え方とは? わかりやすく解説!

行き詰った天動説

レオナルドは、すぐれた考えかをたくさんもっていた人です。

しかしその考えは、彼のノートが散り散りになってしまったのでつぎの時代に、直接伝えられませんでした。


これにくらべると、レオナルドより少し後の人で地動説を唱えたニコラウス=コペルニクスのはたらきは大きなものだったのです。

それまで長いこと信じられていたのはプトレマイオスの天動説でした。

これは、太陽や惑星が地球の周りをまわっているという考えかたです。
ところが、この考えかたでは天体、ことに地球に近い火星などの動きが説明しにくしいのです。

地球から見ると火星に西に動くこともあり、東に動くこともあります。
また、しばらく止まっていることもあります。

このような動きを天動説で説明するのは、とてもやっかいなことでした。

コペルニクスの地動説

コペルニクスは、天体の動きを説明するのに考えかたをすっかりかえてみました。
そして、太陽のまわりを地球儀やそのほかの惑星がまわっているとしたほうがよいと思いついたのです。

しかし、コペルニクスの新しい説など誰も信じようとしません。
ことにコペルニクスは、そのころさかんだったカトリック教会の牧師でした。
教会では、天動説が正しいと信じていたので、彼はいろいろと考えあぐんだのです。

しかし彼は「どう見ても、自分の考えのほうが正しい。
なんとかして地動説を世の中に知らせたい」と考えました。

それで友達の助けもあって、書きあげたのが「天球の回転について」という本です。
この本は科学の歴史のうえで忘れることのできない大切な書物のひとつになっています。

できあがった本の一冊が届いたとき、彼は病気で寝ていました。
そして間もなく、さびしくこの世を去ったのです。

しかし彼の地動説はだんだんヨーロッパで認められるようになり古い考えかたを打ち破る新しい科学を築く、きっかけのひとつとなったのです。




レオナルド・ダ・ヴィンチの研究のしかたとは? わかりやすく解説!

いまからおよそ460年ほど昔のことです。
イタリアのフイレンツェという町にある、アルノ川の橋の上でふたりの男が不思議なしぐさを続けていました。

下男らしい男は橋の上からいろいろな形の紙切れを、つぎつぎに落としています。
それをもうひとりの主人らしい立派な男が小さなノートに、熱心にうつしとっています。

紙切れが風邪であちこちに飛び散るのを観察して記録しているのです。

この風変りな男こそあの有名な画家レオナルド・ダ・ヴィンチです。


鳥の研究

レオナルドは、空気の中で、鳥がどのように飛ぶかを調べたこともあります。
そのころはまだ、風邪が起こるのに空気が動くからだということさえわかっていませんでした。

「風の神様が、袋から風をお出しになる。だから風が吹くのだ」などと考えた時代なのです。

こんな時代ですから、鳥がどうして飛べるのかといえば、偉い学者でさえ「神様が飛べとお命じになったからだ」としか答えてくれませんでした。

ところがレオナルドは、鳥を解剖して調べてみました。

そして「鳥の胸の骨格は、1枚で長くなっていること。
胸の筋肉が、翼の運動に都合よくできていること。

翼が特別なしくみで、丈夫にできていること」などを明らかにしました。
そればかりか、人間と鳥との、体のしくみの違いも、はっきりさせたのです。

こうしてレオナルドは、鳥と同じように人間も空を飛べないだろうかと考えたのです。
そして、グライダーや落下傘・飛行機などの工夫をしました。
このほかにも、起重機や、機関砲・潜水器などを発明したのです。

レオナルドが、このようにたくさんのすばらしい研究や発明をしていたことがわかったのはレオナルドの考えをまとめたたくさ人のノートが19世紀の終わりから20世紀にかけてつぎつぎと発見されてからのことです。



レオナルドの研究のしかた

レオナルドは、たくさんの発明をしたほか、私たちの周りにあるものがどう動くか生き物がどのようなかわりかたをするかを研究しました。

また人間の体の中がどんなしくみになっていてどのようなはたらきをしているかということも、よく調べました。

つまり、自然の物事なら、なんでもよく観察し、実験もしたのです。
そのうえよくそのわけを考え、工夫を暮らして、新しい道具や機械をつくったのでした。

レオナルドがいちばん嫌ったのは、人昔からの言い伝えや古い書物においてあることを、そのまま信じこむことだったのです。

化石がどうして出来たかをはじめて正しく説明したのもレオナルドです。
そのころ、心から遠く離れたところにも、貝の化石が見つかるということは謎でした。

そして、キリスト教や星占いの人々が聖書の中の話や星などにかこつけて間違った説明をしていました。

レオナルドは、このような説明の誤りを指摘しました。
そして「化石かでるるあたりは大昔は海で、そこに川が流れこんでいた。

貝は川の泥の中に住んでいたが、やがて海底が持ち上がって陸ができ泥が硬い石になり、貝も化石になったのだ」と説明しました。




ルネサンスのころのヨーロッパの科学の兆しとは? わかりやすく解説!

十字軍と西ヨーロッパの夜明け

ヨーロッパに、ふたたび科学の火が燃えるときがきました。
そのころ、キリスト教を信じる人々の間には一生のうちにいちどは、キリストの墓にお参りする習わしがありました。


キリストの墓は、エルサレム(今のイスラエルの首都)にあります。
人々は、エルサレムまで長い旅を続けました。

ところが、11世紀の中ごろから、トルコ人がエルサレムを占領しお参りの人々を苦しめるようになったのです。

ヨーロッパのキリスト教を信じる人々は十字軍をつくり、エルサレムの土地を奪い返しに出かけました。

そして、アラビア人が非常にすぐれた文化をもった民族であることを知りました。
いままで、キリスト教を信じない民族は野蛮だと思っていたのが全く違っているのに、びっくりしました。

また、イタリアのベネチア・ジェノバ・ピサをはじめミラノ・フィレンツェなどの都市は、東方諸国とさかんに貿易はじめました。

十字軍の遠征とこの貿易のおかけで、ギリシア文化は西ヨーロッパにもちこまれました。
こうしてヨーロッパではギリシアやアラビアの科学を研究する人がたくさんあらわれました。

そして、イタリアのサレルノ・パドバ・ボローニャなどに大学がうまれました。
続いて、フランスのパリ大学、イギリスのオクスフォード大学、ケンブリッジ大学などがつくられました。

このギリシア文化の再発見を、古いものが新しいものにうまれかわるという意味で「ルネサンス」とよんでいます。

ルネサンスは、14世紀のはじめごろイタリアにはじまりだんだん西ヨーロッパに広がっていきました。



びっくり博士

ギリシアの科学を研究する人の中に、ロジャー=ベーコンという人がいました。

ベーコンはイギリスの坊さんで、非常に物知りでした。
人々は、「びっくり博士」というあだ名をつけました。

またベーコンは、人間がひとりで動かせる大きな船や鳥のように空を飛び回る機械、馬や牛にひかせなくても自由に走る車などができないものかと考えていました。

中国で発明された火薬のつくりかたを、はじめて知ったのもベーコンです。

新しい技術と科学

中世の職人や農民たちは苦しい生活の中で、少しずつ技術を進歩させていました。

農民は、すきやくわなどの農具を改良し、水車大工は歯車や軸受などのような
機械のもとになるものを研究していました。

ドイツのド=ピックのように、歯車時計を発明した時計師もいました。
15世紀の終わり頃になると、ドイツのシュバルツは火薬を究明しグーテンベルクは活字印刷術を完成していました。

また、イタリアのフラビオジョーヤが、航海用の羅針盤をつくりました。
このころになると、新しい航路がぞくぞく発見されました。

コロンブスのアメリカの発見に続いてバスコ=ダ=ガマはアフリカの希望峰をまわってインドにいく航路を発見しました。

また、マガリャエンシュ(マゼラン)ははじめて世界を一周して地球がまるいということを証明しました。

こうして科学の研究は、ますますさかんになりギリシアのころのように、科学だけの研究でなく科学が実際に役に立つ技術と結びつくようになったのです。

新しい科学の時代が目の前にきたのです。




キリスト教が科学に与えた影響とは? アラビア数字とは?

頑固なキリスト教

キリスト教をおおやけに信じてもよいようになったのは1600年ぐらい前です。
そして、たちまちのうちに、ヨーロッパ中に広まりました。
しかし、このキリスト教は、科学の味方ではありませんでした。

キリスト教を信ずる人たちは「聖書に書いてあることは、絶対に間違いがない。

自然のいろいろなことを研究しても、本当のことはわからない。
なぜならば宇宙は神様がお作りになったのだから」ということを信じていました。

そのため「地球はまるい」というギリシアの科学者たちが明らかにしたことにたいしても、反対しました。

そして「地球は平たく、宇宙の中心にあるのだ」という考えを広めました。


科学と神学

今から700年ぐらい前です。
トマス=アクイナスという、キリスト教を熱心に信じている学者があらわれました。
アクイナスは、アリストテレスやプラトンの考えを取り入れてキリスト教の学問(これを神学といいます)をつくりあげました。

5月は、まったく科学とかけ離れた学問でした。
しかし人々は、神学の勉強がいちばん、大切なものだと考えました。

また、本当の科学のかわりに、星占いやつまらない金属を金や銀にかえようとする錬金術などの偽の科学もさかんになりました。

そのころ、さかんに読まれた動物物語には「頭がライオンで、体は蟻の形の動物がいた」などと書いてあります。

このように、ヨーロッパでは本当の科学をかえりみないような時代が数百年も続きました。
折角ギリシア人がつくりあげた科学の知恵は、ほとんど忘れられたままだったのです。

ギリシアの科学を受け継いだアラビア人

ヨーロッパでは、まだまだ科学は暗闇の中にありました。
このころ、ヨーロッパの東のほうでは、アラビア人が活躍していました。

アラビアの文化が栄えたのは、およそ1200年ぐらい前から900年ぐらい前までの300年のあいだです。



ギリシアの学問とアラビア人

アラビア人は、ギリシアの科学を研究しました。
アラビアの町、ダマスカスやバグダッドには、天文台や科学の研究所がつくられました。
ここで、ギリシアの科学の本がどんどんアラビア語に直され、研究されました。

もちろん、そのまま暗記したり、信じこんだりしたのではありません。
内容をよく調べ、間違ったところは直しました。

新しいことを発見すると、付け足したりしたのです。
このように、ギリシアに栄えた科学は、アラビア人に受け継がれ後になって西ヨーロッパヘ伝えられました。

アラビア人のほかにギリシアの科学を受け継いだのはずっと後に、東ヨーロッパに栄えたビザンチン帝国の人々でした。

アラビア数字

アラビア人は、ギリシア人からだけでなくインド人からも、いろいろな知恵を受け継ぎました。

とくにインド人が発明した0の記号と、1,2,3……などの数字はアラビア人の手で西ヨーロッパに伝えられたのでアラビア数字といわれるようになりました。

位どりの原理を使って、どんな数でも表わせるアラビア数字は数学の計算に非常に便利です。

この数字の発明は、科学のうえでの、非常な手柄です。




科学嫌いの古代ローマ人の特徴とは? わかりやすく解説!

ローマ人の特徴

やがて、ローマ人がヨーロッパを支配しましたがこのローマ人は、ギリシア人のように天体の動きを調べたり物質のしくみを探ったり、図形の性質を考えたりすることを嫌いました。

ですからローマ人は、科学の新しい発明や発見は、ほとんど何もしていません。

しかし、広い領士を治めるための立派な法律を定めたり大きな建物や道路をつくったり、水道をひいたりしました。

このようにローマ人は、実際の生活に役立つようなことを、どんどんすすめました。


ローマの科学者

ローマ時代にも、科学や技術を研究する人がいなかったわけではありません。

たとえば、ヘロンは、数学が得意でした。数学を使って、測量などをしています。

また、空気や蒸気の性質を研究して水オルガンや、蒸気の力で動く汽力球など、おもしろい器械をつくりました。

プトレマイオスは、「アルマゲスト」という天文の本を書いています。

これはおよそ1800年まえのことです。
この本には天動説のことが、うまくまとめて書いてありました。

この天動説は17世紀まで、天文学の考えかたの中心になりました。
また、このころガレノスという医者があらわれました。

ガレノスは、心臓と血液のはたらきのつながりを詳しく調べしました。
そして、動脈が血液をおくっているということを、はじめて明らかにしました。




アルキメデスってどんな人? わかりやすく解説!

エウクレイデスやエラトステネスや、アリスタルコスはアレクサンドリアのすぐれた科学者でした。

しかし、アルキメデスは、彼らの中でも、とくにすぐれた科学者でした。

アルキメデスは、シシリー鳥のシュラタサイにうまれました。
そして、アレクサンドリアで科学を勉強したのです。

アルキメデスについては、おもしろい話がたくさんあります。


てことアルキメデス

てこは、小さな力で重いものを動かすときに使うしくみです。
アルキメデスは、てこの理屈をよく知っていました。

そのころ、シュラクサイの王様はヒエロンという人でアルキメデスはこの王様に可愛がられていました。

ある日、アルキメデスはヒエロン王にむかって「もしも、私が地球の外に立つことができたら、地球を動かしてみせましょう」と言いました。

ところがヒエロン王には、なかなか、この言葉の意味がわかりませんでした。

そこで、アルキメデスは王様を海岸へ連れていきました。
砂浜には、一艘の大きな船が引き上げられていました。
アルキメデスは1本の綱と滑車をもってきて、その船を楽に動かしてみせました。

王様はびっくりしてしまいました。

そして、やっとアルキメデスのいうことがわかったのです。

アルキメデスと金の冠

あるとき、ヒエロン王は鍛冶屋に金の冠をつくらせました。
ところが、その金の冠に、銀が混ぜてあるという噂が立ちました。

しかし、見ただけでは、ちっともわかりません。
金の冠を壊してみるわけにもいきません。

王様は、なんとかして偽物を見破るように、とアルキメデスに言いつけました。

さすがのアルキメデスも、これにはちょっと困りました。
約束の日は、どんどん近づいていきます。

ところが約束も迫ったある日、アルキメデスは風呂に入ってしまいました。
なにげなく体を沈めると、ざぁーと湯が溢れだしました。

このとき、アルキメデスは飛び上がって喜びました。
やっと、冠の調べ方を思いついたのです。

早速、冠と同じ重さの金のかたまりと銀のかたまりを用意し、つぎのような実験をしました。

まず、水のいっぱい入った器に金のかたまりを入れました。
器から水がこぼれ出します。このこぼれた水の重さをはかりました。

つぎに同じことを銀で試しました。
こぼれた水のかさが金のときより多いことがわかりました。

今度は、金の冠で試してみました。
金だけのかたまりのときより、余計に水がこぼれました。

ですから、この金の冠には銀が混ぜてあったに違いありませんでした。

こうして「物が液体や気体の中にあるとき、その物が押しのけた液体や気体の重さだけ軽くなる」というアルキメデスの原理が発見されました。



武器とアルキメデス

アルキメデスのうまれたシュラクサイとローマが戦争をはじめたときのことです。
アルキメデスは重い石を発射する機械や、大きな起重機のような機械をつくり
城壁に備えつけました。

そして海から攻めてくるローマの軍艦を目がけて大きな石を雨のように打ち出しました。
それでも近づいてくる軍艦は大きな起重機で空高くつりあげられては海に叩きこまれました。

このほかにも、いろいろな武器をつくりました。
これらの新しい武器のためにローマ軍はシュラクサイを攻撃することができませんでした。

しかし、シュラクサイは、ローマ軍に取り囲まれ食料が不足して、ついにローマに降参してしまいました。

図形とアルキメデスの死

戦争も終わったある日のことです。
アルキメデスは砂の上に図形を書いて、なにごとかを考えていました。

このとき、ふたりのローマの兵士が、アルキメデスのところにやってきました。
しかし、それにも気づかずに熱心に考え続けていました。

その兵士は、アルキメデスの書いた図形を踏み消してしまいました。
そこでアルキメデスは「私の図形を邪魔しないでくれ!」と大声で叫びました。

ローマの将軍は「どんなことがあってもアルキメデスを保護するように」という
命令をだしていたのですが、その兵士は怒ってアルキメデスを剣で刺して殺してしまいました。

後に、ローマ人は墓を建て、アルキメデスを称えました。

アルキメデスは、たくさんの発明や発見をしました。
そして、それを実際に役立たせたのです。

もしも、アルキメデスの考えたものが、もっと広く使われていたらアレクサンドリアの文化は、さかんになっていたことでしょう。

しかし、残念なことにアルキメデスの発明した機械は、あまり使われませんでした。

奴隷が機械のかわりとして使われていたからです。




アレクサンドリアの科学者たちとは? わかりやすく解説!

文化の中心、アレクサンドリア

やがてギリシアの国が乱れ、ギリシア人どうしが争っているあいだにアリストテレスの教えを受けたマケドニアの王子アレクサンドロスがマケドニアの王様の位につきました。

この王様はアレクサンドロス大王といわれ地中海はもちろん、エジプトからインドにまたがる大帝国を築きました。

しかし、おしいことに、大王は年若くして死んでしまいました。
大王の家来には、幾人かの強い将軍がいました。

大王が死ぬと、将軍たちはその領土を勝手にわけあってしまいました。
それでも、新しく芽生えた文化は、ますます栄えました。


この文化をヘレニズム文化といいます。
その中心地は、エジプトアレクサンドリアでした。

ここは、アレクサンドロス大王の司令官のひとりブトレマイオスが治めていた国の首都でした。

プトレマイオスは、たいへん科学を重んじ、アレクサンドリアに王立学士院を建てました。
また、この中には、50万冊もの本があるといわれて大図書館もありました。

このため、各国からは、たくさんの学者か集まってきました。
古代で、最もすぐれた科学者といわれたアルキメデスをはじめ大数学者のエウクレイデス(ユークリしド)など立派な科学者がたくさんふあらわれました。

このように、アレクサンドリア時代には数学のようなギリシア時代からの科学が進歩したことはもちろんですがそのほか、地理学や天文学が進歩しました。

アレクサンドロス大王の帝国は長続きしませんでしたがそのためにギリシア時代より遠い国々のあいだで貿易がはじまりました。

そして、科学者たちの目が地理や天文にむけられました。

こうして、エラトステネスのような地理学者やヒッパルコスのような大文学者がうまれたのでした。

エウクレイデス

サワクレイデスは、このころの偉い数学者です。
算数、とくに図形について、熱心に研究しました。
これは、ユークリッドの幾何学といわれています。

エウクレイデスの書いた幾何学の本は200年ほど前まで、そのままの形で学校の教科書として使われたほど値打ちのあるものです。

エラトステネスとアリスタルコス

エラトステネスは地球の周りの長さを、非常に正確に計算した学者です。
アリスタルコスは、世界ではじめて、地動説を言い出した学者です。

しかし、それから1500年ものあいだ、だれもアリスタルコスの地動説を認めませんでした。

そして、コペルニクスやガリレオのころになって、やっと認められるようになったのです。




ソクラテスとプラトン、アリストテレスとその学問とは?

人間の研究者、ソクラテス

ギリシアの政治が乱れて、スパルタとアテナイの町が戦争をはじめました。
そのころ、アテナイの町でソクラテスという偉い学者が、若い人たちを教えていました。

その教えは、正義を重んじることと、国家の法律にしたがうことでした。

戦争のため、アテナイの人々の生活は苦しくなっていました。
そして、自然を研究するよりは、人間を研究することか大事だという考えが強くなっていたので、若い人たちは喜んでソクラテスの教えを受けました。

ソクラテスは、国をまどわす者だという理由で捉えられ牢屋の中で毒を飲まされて死にました。


数学を重んじたプラトン

ソクラテスの弟子に、プラトンという人がいました。
プラトンは、ソクラテスの教えを受け継ぎました。

しかし、ソクラテスとは違って、プラトンは自然のしくみを調べる科学を重んじました。
とくに、数学を熱心に研究したのです。

定規とコンパスだけで描く線・平面・円などの性質を調べる幾何学は立派な人間をつくるもとになると考えたからです。

プラトンの学校の入り口には「幾何学を知らない人は、この門に入ってはならない」という立札があったそうです。

プラトンの弟子、アリストテレス

プラトンの学校に、とても頭がよくて「学校の心臓」といわれる生徒がいました。
この生徒がアリストテレスです。

プラトンが死んだのちは、故郷のマケドニアに帰りその国の王子、アレクサンドロス(アレキサンダー)の先生になりました。

アリストテレスは、どんな学問でも得意でした。
そして、いろいろな学問を、うまくひとつにまとめあげました。
ふつうの学者が、何十人もかかるようなことを、ひとりでやり遂げたのです。

アリストテレスの研究のしかたは、実際にあるものをひとつひとつ調べて、そこからひとつの規則を見つけようとするやりかたです。

このやりかたは、学問のすすめかたの大きなもとになるものでした。



アリストテレスの研究

生物の研究 アリストテレスは、動物を血のあるものと血のないものとにわけました。
そのころ、いっぱんの人は、「クジラは魚だ」と思っていたのですがアリストテレスに「クジラは獣の仲間だ」といいました。

また、人間の腕、獣の前足、鳥の翼、魚の胸ビレは形は違っているけれども同じしくみになっていることも見つけました。

天文の研究

アリストテレスは月や太陽や星などの天体は地球のまわりをまわっているのだと考えました。
そして天体の動きを、できるだけ理屈通りに説明できるような宇宙のしくみを考えだしました。
また、光についても研究しています。

力の研究

ものの動きやもののつり合い、また、引っ張る力についても研究しています。

物質の研究

宇宙のもとになる物質は、水・土・火・空気であり、また、ものの性質は、温かい・冷たい、乾いた・湿ったの4つの性質がもとになっていてこれらの物質と性質とが、いろいろと組み合わさって、あらゆるものができると考えました。

このように、アリストテレスが考えたものの中には、間違いもあります。

しかしそれは今のように科学がすすんでいなかった時代のことですから、しかたがありません。
むしろ、私たちはアリストテレスが学問の研究に熱心であったことを学ばなければならないでしょう。

アリストテレスは、自分の学校の道を歩きながら、弟子にいろいろなことを教えました。

人々はそれをみて、アリストテレスとその弟子のことを「逍遙学派」(ぶらぶら歩きの一派)とよびました。




医学の父、ヒポクラテスとは? 古代ギリシア人の病気の考え方とは?

病気と神様

2400年も昔のギリシア時代のことです。
たいていの人は病気になると、神様におまいりをしました。

そこで、神官においのりをしてもらったり、お守り札を授かったりすると、病気が治ると考えていたからです。

しかし、お祈りやお札で病気が治るはずはありません。
それなのに、神官たちは「信心が足りないから、神様が治してくださらないのだ。

もっとお金を捧げなさい」といって病人からお金をとりました。


医学の父、ヒポクラテス

このころ、コスという町にヒポクラテスというすぐれた医者があらわれました。

ヒポクラテスは、「病気にかかるのは、何か原因があるからだ。その原因を取り除けば、病気は治る。だから、神様などにお参りをしなくてもよいのだ」と人々に教えました。

そのころ、てんかんはギリシア人にとっては、不思議な病気でした。
それで、ギリシア人は、てんかんのことを「神聖な病気」といっていました。

しかし、ヒポクラテスは「てんかんは脳の病気だ。てんかんを神聖な病気などと考えるのは、神官や、やぶ医者の金儲けのたくらみなのだ」と人々に注意しました。

また、アテナイの町にペストという恐ろしい病気が流行ったときのことです。
ペストにかかった人が、つぎつぎに死んでいきました。

ヒポクラテスは、ペストが伝染病であることをすぐ見抜きました。
そして、予防のしかたを考えだしたのです。

ヒポクラテスは、医学の父とよばれて、人々から尊敬されています。




タレスの考えた宇宙のしくみとは? デモクリトスの考えた宇宙のしくみとは?

自由なギリシア人

エジプトやメソポタミアの文明も、だんだん衰えるときがきました。
およそ2600年ほど昔のことです。

地中海のバルカン半島に、新しい民族が活躍しはじめました。
この民族がギリシア人です。

ギリシア人は、冒険好きでした。
また、商売が上手でした。
地中海の沿岸のあちこちに、大きな植民地をつくりました。
そして、たくさんのお金と奴隷を手に入れて、奴隷にいろいろな仕事をさせました。

このために、ギリシア人の生活は楽になり、暇ができてきました。
その暇を利用して、ギリシア人は自由に本を読んだり、考えごとをしたりしました。


タレスの考えた宇宙

小アジアの西海岸に、ミレトスという商業のさかんな町がありました。
ここに、タレスという人がいました。
タレスは、宇宙はいったい何からできているのだろうかと毎日一生懸命に考えていました。

そしてついに、タレスは「宇宙は水からできている」という考えを発表しました。

星も、人間も、家も、もとを正せば、すべて水だというわけです。
学者たちは、びっくりしてしまいました。
人々は「そんなでたらめなことがあるものか。可哀そうに、タレスは気が違ってしまったのだろう」と噂しました。

「宇宙は水でできている」というのは間違っています。

しかし、タレスの考えには、もっと大切な意味があります。
それは「宇宙は神様がつくったものではなく、見たり・触ったりできる物質からできている」ということなのです。

多くの人々が、神様の力を信じている時代に「自然に起こるさまざまな変化は、神様のせいではなく、自然の中に原因がある」と言い張るのは、とても勇気のいることでした。

タレスと図形

また、タレスは口食を言い当てたり、ピラミッドの高さを測ったりしました。
ことに、円や三角形など、図形の研究を熱心にしました。
そして、図形についての大切な性質を、たくさん見つけ出したのです。

これは、後の科学の進歩に、非常に役立ってています。



タレスの考えを広めた人

その後、タレスと同じような考えをもった学者が、何人もあらわれました。

「宇宙は空気でできている」「火からできている」「水・土・火・空気の4つでできている」などと考えた人たちです。

タレスもそうですが、ここらの学者はみな自然のしくみを考えていました。
それで、自然哲学者とよばれています。

この中には、ピタゴラスのように、物質よりも数学を重んじた学者もいます。

デモクリトスと原子

デモクリトスも自然哲学者のひとりです。
デモクリトスは宇宙は原子でてきていると考えました。

もちろん、デモクリトスの考えた原子は今の原子と違っています。
しかし、その考えかたは同じです。

物質を細かくわけていくと物質は非常に細かくなります。
最後には、色も味もなくなり、人間の目にはわからないほどになってしまいます。
このようにして、もっとも小さくなったものがデモクリトスの考えた原子なのです。




ピラミッドと計算術の関係とは? わかりやすく解説!

ピラミッドの大きさ

エジプトのカイロには、いまでも大きなピラミッドが残っています。
これらは5000年も昔に建てられたものです。

いちばん大きい、ピラミッドは高さが138メートルで使った石灰石は575万卜ンもあるものと計算されています。

これはニューヨークにあるエンパイアステート=ビルディングの15倍の重さです。


王様とピラミッド

ピラミッドは、エジプトの王様の墓です。
エジプトでは、王様は、神様と同じに考えられていました。

ですから、工様の命令には、嫌でも従わなければなりませんでした。
この大きなピラミッドをつくるために何百万かのエジプト人が汗を流してはたらいたのです。

ジグラッド

メソポタミアも、エジプトと同じでした。
ここでは、神様をまつる大きな神殿がつくられました。この神殿がジグラッドです。

エジプトとメソポタミアの計算術

エジプト人やメソポタミア人は、神様につかえる王様に税金をおさめましたが
それはお金ではなく、牛・羊・小麦などでした。

神官たちは、それらの種類と数や量とを覚えておかなければなりませんでした。

そこで彼らは、何かの上に印をつけておいて心覚えにし簡単な計算術を発明しました。

また、そういうものを測るため、ものさしや竿秤などを発明しました。
こうして古代人は、ものの量や土地の面積をはかったり暦をつくったりするために、計算術を考えだしました。

彼らは、てこやころのような簡単な道具だけでピラミッドやジグラットをつくりあげたのです。

しかし、どんな方法で、こんなに大きなものをつくったのかはよくわかっていません。
でも、エジプト人やメソポタミア人は、この計算術を利用してそういう大きな建物を、たいへん正確にたてました。

エジプトには、世界でいちばん古い、算数の本が残っています。
また、メソポタミアにも、いろいろの計算をした記録があります。

中には、今の高等学校で教えるような難しい問題を取り上げたものもあります。

1時間が60分、1分が60秒という、60をもとにした数え方はメソポタミア人が発明したものです。

石のような文明

エジプトやメソポタミアの文明は、非常に栄えました。
しかし、王様の命令で政治がおこなわれたので理屈に合わないことでも、正しいとされることがありました。

また、王様の命令で、一度決められたことは、かえることができませんでした。

このような国には、科学の芽生えがあっても、すこやかに育ちません。
エジプトやメソポタミアの文明は、融通の効かない発展の見込みがない、石のようにこちこちの文明でした。




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