ガリレオ・ガリレイの研究と考え方とは? わかりやすく解説!

新科学対話

コペルニクスが「天球の回転について」を書いてから100年近く経った1638年、イタリアの科学者ガリレオ=ガリレイの「新科学対話」という本が出版されました。

この本もまた、科学の歴史に残るすばらしい書物です。
この本の原稿は、その2年も前にできていたのですがイタリアでは、どこからも出版してもらえませんでした。

そこで、あるフランスの身分の高い人の助けをかりオランダのある本屋から出版しました。
カトリック教会の力も、オランダまではおよばなかったからです。

この本は新しい科学者、古い学者、市民の3人が4日間お互いに話をするという形で、おもしろく、活き活きと書いてあります。

そして、古い考えのどこが間違っているかこれにかわる新しい考えかたはどんなものか自然について調べていくにはどうすればよいかということを見事に書きあらわしています。

またこの本には「地球上では、物体がどんな落ち方をするか」という問題についても書いてあります。


落体の研究

鳥の羽根や紙きれなどは、ゆっくり落ちるし鉄の球や石などのように重いものは速く落ちます。

ですから、それまでの学者は「重いものほど、速く落ちる。そして、重さが2倍になれば、落ちる速さも2倍になる」と考えていました。

ところが、鉛の球を1つ用意して、1つの球をもう2つの球の重さの100倍にして同じ高さから同時に落としてみると、ほとんどいっしょに地面に落ちます。

こういうことから考えると、昔からの考えはどこか間違っているのではないか、ということになります。
ガリレオはピサ大学の先生をしていた25才のころから、このことに疑問をもっていました。

ガリレオばかりでなく、それより少し前オランダの科学者ステビンも2つの重さの違う鉛の球を落としてみる観察をしていました。

こうして、ものが、重さで違う落ち方をするという昔の考えが決して正しいものではないことだけは、はっきりしてきていたのです。

落体の法則の発見

ものが落ちるときには、どんな法則に従うのでしょう。
これを発見したのが、ガリレオなのです。

それはガリレオが40才、パドバ大学の先生になって10年あまり経ってからのことでした。

ガリレオはまず、こう考えました。

「鳥の羽根のように軽いものが、あんなにふわふわ落ちていくのはきっと空気が邪魔をするからだろう。もし空気のないところだったらどうなるだろう」

しかし、そのころは真空ポンプはありませんでしたし空気のないところで実験することはできません。

そこでガリレオは、こう考えました。

「もういちど、鉛の球を使ってみよう。鉛の球はすべすべして重い。
空気が邪魔をするにしても、たいしてさしつかえないだろう。

前の観察でも、かなり重さの違った球が、ほとんど同時に地面に落ちている。
だから、鉛の球を使えば真空の中で調べるのと同じことを、空気中でもやれるわけだ」

ガリレオはまず、鉛の球を、高さをかえて落としてみました。
なかなか速くて検討がつきません。
しかし、高ければ高いほど、落ちる速さが増えていくようでした。

こうしてガリレオは「ものが落ちるときの速さは、落ちはじめてから時間が経つにつれて大きくなる」という見通しをつけました。

ところが、その増えていく速さを測ってみようとしても、そのころは、測る道具がありません。
でも、幸いなことに、落としはじめてからの距離と時間が測れます。

そこでガリレオは、この距離と時間とのあいだにはどのような関係があるかをまえに述べた見通しのもとに計算で解こうとしました。

そしてとうとう、つぎのようなことを明らかにしました。

「真空中では、物の落ちる速さは、決まった割合で増えていく。
つまり、物の落ちる距離は落ちるまでにかかった時間の三乗に比例する」



実験で確かめる

物の落ちる運動は、非常に速くて、うまく実験することができません。
ガリレオはいろいろ考えた末、この運動をもっとゆっくりやらせるのに斜面を使うことにしました。

もちろん、ものが落ちる場合も斜面を転がる場合も距離と時間の関係は同じであることを計算や実験で、はっきり確かめた上でのことです。

これだけの準備ができてから、ガリレオは斜面に沿って水をつくりました。
そして、この溝を転がり落ちる球についていろいろに、斜面の傾きをかえたりして100回も調べてみたのです。

その結果、距離と時間とのあいだにはたしかにガリレオの考えていたような関係のあることがわかりました。

このような苦心を重ねて「真空中なら、物体が落ちる運動は物体の重い、軽いの区別なしにどんなものでも決まった加速度を持っている」という落体の法則を発見することができたのでした。




地動説をまとめたコペルニクスの考え方とは? わかりやすく解説!

行き詰った天動説

レオナルドは、すぐれた考えかをたくさんもっていた人です。

しかしその考えは、彼のノートが散り散りになってしまったのでつぎの時代に、直接伝えられませんでした。


これにくらべると、レオナルドより少し後の人で地動説を唱えたニコラウス=コペルニクスのはたらきは大きなものだったのです。

それまで長いこと信じられていたのはプトレマイオスの天動説でした。

これは、太陽や惑星が地球の周りをまわっているという考えかたです。
ところが、この考えかたでは天体、ことに地球に近い火星などの動きが説明しにくしいのです。

地球から見ると火星に西に動くこともあり、東に動くこともあります。
また、しばらく止まっていることもあります。

このような動きを天動説で説明するのは、とてもやっかいなことでした。

コペルニクスの地動説

コペルニクスは、天体の動きを説明するのに考えかたをすっかりかえてみました。
そして、太陽のまわりを地球儀やそのほかの惑星がまわっているとしたほうがよいと思いついたのです。

しかし、コペルニクスの新しい説など誰も信じようとしません。
ことにコペルニクスは、そのころさかんだったカトリック教会の牧師でした。
教会では、天動説が正しいと信じていたので、彼はいろいろと考えあぐんだのです。

しかし彼は「どう見ても、自分の考えのほうが正しい。
なんとかして地動説を世の中に知らせたい」と考えました。

それで友達の助けもあって、書きあげたのが「天球の回転について」という本です。
この本は科学の歴史のうえで忘れることのできない大切な書物のひとつになっています。

できあがった本の一冊が届いたとき、彼は病気で寝ていました。
そして間もなく、さびしくこの世を去ったのです。

しかし彼の地動説はだんだんヨーロッパで認められるようになり古い考えかたを打ち破る新しい科学を築く、きっかけのひとつとなったのです。




レオナルド・ダ・ヴィンチの研究のしかたとは? わかりやすく解説!

いまからおよそ460年ほど昔のことです。
イタリアのフイレンツェという町にある、アルノ川の橋の上でふたりの男が不思議なしぐさを続けていました。

下男らしい男は橋の上からいろいろな形の紙切れを、つぎつぎに落としています。
それをもうひとりの主人らしい立派な男が小さなノートに、熱心にうつしとっています。

紙切れが風邪であちこちに飛び散るのを観察して記録しているのです。

この風変りな男こそあの有名な画家レオナルド・ダ・ヴィンチです。


鳥の研究

レオナルドは、空気の中で、鳥がどのように飛ぶかを調べたこともあります。
そのころはまだ、風邪が起こるのに空気が動くからだということさえわかっていませんでした。

「風の神様が、袋から風をお出しになる。だから風が吹くのだ」などと考えた時代なのです。

こんな時代ですから、鳥がどうして飛べるのかといえば、偉い学者でさえ「神様が飛べとお命じになったからだ」としか答えてくれませんでした。

ところがレオナルドは、鳥を解剖して調べてみました。

そして「鳥の胸の骨格は、1枚で長くなっていること。
胸の筋肉が、翼の運動に都合よくできていること。

翼が特別なしくみで、丈夫にできていること」などを明らかにしました。
そればかりか、人間と鳥との、体のしくみの違いも、はっきりさせたのです。

こうしてレオナルドは、鳥と同じように人間も空を飛べないだろうかと考えたのです。
そして、グライダーや落下傘・飛行機などの工夫をしました。
このほかにも、起重機や、機関砲・潜水器などを発明したのです。

レオナルドが、このようにたくさんのすばらしい研究や発明をしていたことがわかったのはレオナルドの考えをまとめたたくさ人のノートが19世紀の終わりから20世紀にかけてつぎつぎと発見されてからのことです。



レオナルドの研究のしかた

レオナルドは、たくさんの発明をしたほか、私たちの周りにあるものがどう動くか生き物がどのようなかわりかたをするかを研究しました。

また人間の体の中がどんなしくみになっていてどのようなはたらきをしているかということも、よく調べました。

つまり、自然の物事なら、なんでもよく観察し、実験もしたのです。
そのうえよくそのわけを考え、工夫を暮らして、新しい道具や機械をつくったのでした。

レオナルドがいちばん嫌ったのは、人昔からの言い伝えや古い書物においてあることを、そのまま信じこむことだったのです。

化石がどうして出来たかをはじめて正しく説明したのもレオナルドです。
そのころ、心から遠く離れたところにも、貝の化石が見つかるということは謎でした。

そして、キリスト教や星占いの人々が聖書の中の話や星などにかこつけて間違った説明をしていました。

レオナルドは、このような説明の誤りを指摘しました。
そして「化石かでるるあたりは大昔は海で、そこに川が流れこんでいた。

貝は川の泥の中に住んでいたが、やがて海底が持ち上がって陸ができ泥が硬い石になり、貝も化石になったのだ」と説明しました。




ルネサンスのころのヨーロッパの科学の兆しとは? わかりやすく解説!

十字軍と西ヨーロッパの夜明け

ヨーロッパに、ふたたび科学の火が燃えるときがきました。
そのころ、キリスト教を信じる人々の間には一生のうちにいちどは、キリストの墓にお参りする習わしがありました。


キリストの墓は、エルサレム(今のイスラエルの首都)にあります。
人々は、エルサレムまで長い旅を続けました。

ところが、11世紀の中ごろから、トルコ人がエルサレムを占領しお参りの人々を苦しめるようになったのです。

ヨーロッパのキリスト教を信じる人々は十字軍をつくり、エルサレムの土地を奪い返しに出かけました。

そして、アラビア人が非常にすぐれた文化をもった民族であることを知りました。
いままで、キリスト教を信じない民族は野蛮だと思っていたのが全く違っているのに、びっくりしました。

また、イタリアのベネチア・ジェノバ・ピサをはじめミラノ・フィレンツェなどの都市は、東方諸国とさかんに貿易はじめました。

十字軍の遠征とこの貿易のおかけで、ギリシア文化は西ヨーロッパにもちこまれました。
こうしてヨーロッパではギリシアやアラビアの科学を研究する人がたくさんあらわれました。

そして、イタリアのサレルノ・パドバ・ボローニャなどに大学がうまれました。
続いて、フランスのパリ大学、イギリスのオクスフォード大学、ケンブリッジ大学などがつくられました。

このギリシア文化の再発見を、古いものが新しいものにうまれかわるという意味で「ルネサンス」とよんでいます。

ルネサンスは、14世紀のはじめごろイタリアにはじまりだんだん西ヨーロッパに広がっていきました。



びっくり博士

ギリシアの科学を研究する人の中に、ロジャー=ベーコンという人がいました。

ベーコンはイギリスの坊さんで、非常に物知りでした。
人々は、「びっくり博士」というあだ名をつけました。

またベーコンは、人間がひとりで動かせる大きな船や鳥のように空を飛び回る機械、馬や牛にひかせなくても自由に走る車などができないものかと考えていました。

中国で発明された火薬のつくりかたを、はじめて知ったのもベーコンです。

新しい技術と科学

中世の職人や農民たちは苦しい生活の中で、少しずつ技術を進歩させていました。

農民は、すきやくわなどの農具を改良し、水車大工は歯車や軸受などのような
機械のもとになるものを研究していました。

ドイツのド=ピックのように、歯車時計を発明した時計師もいました。
15世紀の終わり頃になると、ドイツのシュバルツは火薬を究明しグーテンベルクは活字印刷術を完成していました。

また、イタリアのフラビオジョーヤが、航海用の羅針盤をつくりました。
このころになると、新しい航路がぞくぞく発見されました。

コロンブスのアメリカの発見に続いてバスコ=ダ=ガマはアフリカの希望峰をまわってインドにいく航路を発見しました。

また、マガリャエンシュ(マゼラン)ははじめて世界を一周して地球がまるいということを証明しました。

こうして科学の研究は、ますますさかんになりギリシアのころのように、科学だけの研究でなく科学が実際に役に立つ技術と結びつくようになったのです。

新しい科学の時代が目の前にきたのです。




キリスト教が科学に与えた影響とは? アラビア数字とは?

頑固なキリスト教

キリスト教をおおやけに信じてもよいようになったのは1600年ぐらい前です。
そして、たちまちのうちに、ヨーロッパ中に広まりました。
しかし、このキリスト教は、科学の味方ではありませんでした。

キリスト教を信ずる人たちは「聖書に書いてあることは、絶対に間違いがない。

自然のいろいろなことを研究しても、本当のことはわからない。
なぜならば宇宙は神様がお作りになったのだから」ということを信じていました。

そのため「地球はまるい」というギリシアの科学者たちが明らかにしたことにたいしても、反対しました。

そして「地球は平たく、宇宙の中心にあるのだ」という考えを広めました。


科学と神学

今から700年ぐらい前です。
トマス=アクイナスという、キリスト教を熱心に信じている学者があらわれました。
アクイナスは、アリストテレスやプラトンの考えを取り入れてキリスト教の学問(これを神学といいます)をつくりあげました。

5月は、まったく科学とかけ離れた学問でした。
しかし人々は、神学の勉強がいちばん、大切なものだと考えました。

また、本当の科学のかわりに、星占いやつまらない金属を金や銀にかえようとする錬金術などの偽の科学もさかんになりました。

そのころ、さかんに読まれた動物物語には「頭がライオンで、体は蟻の形の動物がいた」などと書いてあります。

このように、ヨーロッパでは本当の科学をかえりみないような時代が数百年も続きました。
折角ギリシア人がつくりあげた科学の知恵は、ほとんど忘れられたままだったのです。

ギリシアの科学を受け継いだアラビア人

ヨーロッパでは、まだまだ科学は暗闇の中にありました。
このころ、ヨーロッパの東のほうでは、アラビア人が活躍していました。

アラビアの文化が栄えたのは、およそ1200年ぐらい前から900年ぐらい前までの300年のあいだです。



ギリシアの学問とアラビア人

アラビア人は、ギリシアの科学を研究しました。
アラビアの町、ダマスカスやバグダッドには、天文台や科学の研究所がつくられました。
ここで、ギリシアの科学の本がどんどんアラビア語に直され、研究されました。

もちろん、そのまま暗記したり、信じこんだりしたのではありません。
内容をよく調べ、間違ったところは直しました。

新しいことを発見すると、付け足したりしたのです。
このように、ギリシアに栄えた科学は、アラビア人に受け継がれ後になって西ヨーロッパヘ伝えられました。

アラビア人のほかにギリシアの科学を受け継いだのはずっと後に、東ヨーロッパに栄えたビザンチン帝国の人々でした。

アラビア数字

アラビア人は、ギリシア人からだけでなくインド人からも、いろいろな知恵を受け継ぎました。

とくにインド人が発明した0の記号と、1,2,3……などの数字はアラビア人の手で西ヨーロッパに伝えられたのでアラビア数字といわれるようになりました。

位どりの原理を使って、どんな数でも表わせるアラビア数字は数学の計算に非常に便利です。

この数字の発明は、科学のうえでの、非常な手柄です。




科学嫌いの古代ローマ人の特徴とは? わかりやすく解説!

ローマ人の特徴

やがて、ローマ人がヨーロッパを支配しましたがこのローマ人は、ギリシア人のように天体の動きを調べたり物質のしくみを探ったり、図形の性質を考えたりすることを嫌いました。

ですからローマ人は、科学の新しい発明や発見は、ほとんど何もしていません。

しかし、広い領士を治めるための立派な法律を定めたり大きな建物や道路をつくったり、水道をひいたりしました。

このようにローマ人は、実際の生活に役立つようなことを、どんどんすすめました。


ローマの科学者

ローマ時代にも、科学や技術を研究する人がいなかったわけではありません。

たとえば、ヘロンは、数学が得意でした。数学を使って、測量などをしています。

また、空気や蒸気の性質を研究して水オルガンや、蒸気の力で動く汽力球など、おもしろい器械をつくりました。

プトレマイオスは、「アルマゲスト」という天文の本を書いています。

これはおよそ1800年まえのことです。
この本には天動説のことが、うまくまとめて書いてありました。

この天動説は17世紀まで、天文学の考えかたの中心になりました。
また、このころガレノスという医者があらわれました。

ガレノスは、心臓と血液のはたらきのつながりを詳しく調べしました。
そして、動脈が血液をおくっているということを、はじめて明らかにしました。




アルキメデスってどんな人? わかりやすく解説!

エウクレイデスやエラトステネスや、アリスタルコスはアレクサンドリアのすぐれた科学者でした。

しかし、アルキメデスは、彼らの中でも、とくにすぐれた科学者でした。

アルキメデスは、シシリー鳥のシュラタサイにうまれました。
そして、アレクサンドリアで科学を勉強したのです。

アルキメデスについては、おもしろい話がたくさんあります。


てことアルキメデス

てこは、小さな力で重いものを動かすときに使うしくみです。
アルキメデスは、てこの理屈をよく知っていました。

そのころ、シュラクサイの王様はヒエロンという人でアルキメデスはこの王様に可愛がられていました。

ある日、アルキメデスはヒエロン王にむかって「もしも、私が地球の外に立つことができたら、地球を動かしてみせましょう」と言いました。

ところがヒエロン王には、なかなか、この言葉の意味がわかりませんでした。

そこで、アルキメデスは王様を海岸へ連れていきました。
砂浜には、一艘の大きな船が引き上げられていました。
アルキメデスは1本の綱と滑車をもってきて、その船を楽に動かしてみせました。

王様はびっくりしてしまいました。

そして、やっとアルキメデスのいうことがわかったのです。

アルキメデスと金の冠

あるとき、ヒエロン王は鍛冶屋に金の冠をつくらせました。
ところが、その金の冠に、銀が混ぜてあるという噂が立ちました。

しかし、見ただけでは、ちっともわかりません。
金の冠を壊してみるわけにもいきません。

王様は、なんとかして偽物を見破るように、とアルキメデスに言いつけました。

さすがのアルキメデスも、これにはちょっと困りました。
約束の日は、どんどん近づいていきます。

ところが約束も迫ったある日、アルキメデスは風呂に入ってしまいました。
なにげなく体を沈めると、ざぁーと湯が溢れだしました。

このとき、アルキメデスは飛び上がって喜びました。
やっと、冠の調べ方を思いついたのです。

早速、冠と同じ重さの金のかたまりと銀のかたまりを用意し、つぎのような実験をしました。

まず、水のいっぱい入った器に金のかたまりを入れました。
器から水がこぼれ出します。このこぼれた水の重さをはかりました。

つぎに同じことを銀で試しました。
こぼれた水のかさが金のときより多いことがわかりました。

今度は、金の冠で試してみました。
金だけのかたまりのときより、余計に水がこぼれました。

ですから、この金の冠には銀が混ぜてあったに違いありませんでした。

こうして「物が液体や気体の中にあるとき、その物が押しのけた液体や気体の重さだけ軽くなる」というアルキメデスの原理が発見されました。



武器とアルキメデス

アルキメデスのうまれたシュラクサイとローマが戦争をはじめたときのことです。
アルキメデスは重い石を発射する機械や、大きな起重機のような機械をつくり
城壁に備えつけました。

そして海から攻めてくるローマの軍艦を目がけて大きな石を雨のように打ち出しました。
それでも近づいてくる軍艦は大きな起重機で空高くつりあげられては海に叩きこまれました。

このほかにも、いろいろな武器をつくりました。
これらの新しい武器のためにローマ軍はシュラクサイを攻撃することができませんでした。

しかし、シュラクサイは、ローマ軍に取り囲まれ食料が不足して、ついにローマに降参してしまいました。

図形とアルキメデスの死

戦争も終わったある日のことです。
アルキメデスは砂の上に図形を書いて、なにごとかを考えていました。

このとき、ふたりのローマの兵士が、アルキメデスのところにやってきました。
しかし、それにも気づかずに熱心に考え続けていました。

その兵士は、アルキメデスの書いた図形を踏み消してしまいました。
そこでアルキメデスは「私の図形を邪魔しないでくれ!」と大声で叫びました。

ローマの将軍は「どんなことがあってもアルキメデスを保護するように」という
命令をだしていたのですが、その兵士は怒ってアルキメデスを剣で刺して殺してしまいました。

後に、ローマ人は墓を建て、アルキメデスを称えました。

アルキメデスは、たくさんの発明や発見をしました。
そして、それを実際に役立たせたのです。

もしも、アルキメデスの考えたものが、もっと広く使われていたらアレクサンドリアの文化は、さかんになっていたことでしょう。

しかし、残念なことにアルキメデスの発明した機械は、あまり使われませんでした。

奴隷が機械のかわりとして使われていたからです。




アレクサンドリアの科学者たちとは? わかりやすく解説!

文化の中心、アレクサンドリア

やがてギリシアの国が乱れ、ギリシア人どうしが争っているあいだにアリストテレスの教えを受けたマケドニアの王子アレクサンドロスがマケドニアの王様の位につきました。

この王様はアレクサンドロス大王といわれ地中海はもちろん、エジプトからインドにまたがる大帝国を築きました。

しかし、おしいことに、大王は年若くして死んでしまいました。
大王の家来には、幾人かの強い将軍がいました。

大王が死ぬと、将軍たちはその領土を勝手にわけあってしまいました。
それでも、新しく芽生えた文化は、ますます栄えました。


この文化をヘレニズム文化といいます。
その中心地は、エジプトアレクサンドリアでした。

ここは、アレクサンドロス大王の司令官のひとりブトレマイオスが治めていた国の首都でした。

プトレマイオスは、たいへん科学を重んじ、アレクサンドリアに王立学士院を建てました。
また、この中には、50万冊もの本があるといわれて大図書館もありました。

このため、各国からは、たくさんの学者か集まってきました。
古代で、最もすぐれた科学者といわれたアルキメデスをはじめ大数学者のエウクレイデス(ユークリしド)など立派な科学者がたくさんふあらわれました。

このように、アレクサンドリア時代には数学のようなギリシア時代からの科学が進歩したことはもちろんですがそのほか、地理学や天文学が進歩しました。

アレクサンドロス大王の帝国は長続きしませんでしたがそのためにギリシア時代より遠い国々のあいだで貿易がはじまりました。

そして、科学者たちの目が地理や天文にむけられました。

こうして、エラトステネスのような地理学者やヒッパルコスのような大文学者がうまれたのでした。

エウクレイデス

サワクレイデスは、このころの偉い数学者です。
算数、とくに図形について、熱心に研究しました。
これは、ユークリッドの幾何学といわれています。

エウクレイデスの書いた幾何学の本は200年ほど前まで、そのままの形で学校の教科書として使われたほど値打ちのあるものです。

エラトステネスとアリスタルコス

エラトステネスは地球の周りの長さを、非常に正確に計算した学者です。
アリスタルコスは、世界ではじめて、地動説を言い出した学者です。

しかし、それから1500年ものあいだ、だれもアリスタルコスの地動説を認めませんでした。

そして、コペルニクスやガリレオのころになって、やっと認められるようになったのです。




ソクラテスとプラトン、アリストテレスとその学問とは?

人間の研究者、ソクラテス

ギリシアの政治が乱れて、スパルタとアテナイの町が戦争をはじめました。
そのころ、アテナイの町でソクラテスという偉い学者が、若い人たちを教えていました。

その教えは、正義を重んじることと、国家の法律にしたがうことでした。

戦争のため、アテナイの人々の生活は苦しくなっていました。
そして、自然を研究するよりは、人間を研究することか大事だという考えが強くなっていたので、若い人たちは喜んでソクラテスの教えを受けました。

ソクラテスは、国をまどわす者だという理由で捉えられ牢屋の中で毒を飲まされて死にました。


数学を重んじたプラトン

ソクラテスの弟子に、プラトンという人がいました。
プラトンは、ソクラテスの教えを受け継ぎました。

しかし、ソクラテスとは違って、プラトンは自然のしくみを調べる科学を重んじました。
とくに、数学を熱心に研究したのです。

定規とコンパスだけで描く線・平面・円などの性質を調べる幾何学は立派な人間をつくるもとになると考えたからです。

プラトンの学校の入り口には「幾何学を知らない人は、この門に入ってはならない」という立札があったそうです。

プラトンの弟子、アリストテレス

プラトンの学校に、とても頭がよくて「学校の心臓」といわれる生徒がいました。
この生徒がアリストテレスです。

プラトンが死んだのちは、故郷のマケドニアに帰りその国の王子、アレクサンドロス(アレキサンダー)の先生になりました。

アリストテレスは、どんな学問でも得意でした。
そして、いろいろな学問を、うまくひとつにまとめあげました。
ふつうの学者が、何十人もかかるようなことを、ひとりでやり遂げたのです。

アリストテレスの研究のしかたは、実際にあるものをひとつひとつ調べて、そこからひとつの規則を見つけようとするやりかたです。

このやりかたは、学問のすすめかたの大きなもとになるものでした。



アリストテレスの研究

生物の研究 アリストテレスは、動物を血のあるものと血のないものとにわけました。
そのころ、いっぱんの人は、「クジラは魚だ」と思っていたのですがアリストテレスに「クジラは獣の仲間だ」といいました。

また、人間の腕、獣の前足、鳥の翼、魚の胸ビレは形は違っているけれども同じしくみになっていることも見つけました。

天文の研究

アリストテレスは月や太陽や星などの天体は地球のまわりをまわっているのだと考えました。
そして天体の動きを、できるだけ理屈通りに説明できるような宇宙のしくみを考えだしました。
また、光についても研究しています。

力の研究

ものの動きやもののつり合い、また、引っ張る力についても研究しています。

物質の研究

宇宙のもとになる物質は、水・土・火・空気であり、また、ものの性質は、温かい・冷たい、乾いた・湿ったの4つの性質がもとになっていてこれらの物質と性質とが、いろいろと組み合わさって、あらゆるものができると考えました。

このように、アリストテレスが考えたものの中には、間違いもあります。

しかしそれは今のように科学がすすんでいなかった時代のことですから、しかたがありません。
むしろ、私たちはアリストテレスが学問の研究に熱心であったことを学ばなければならないでしょう。

アリストテレスは、自分の学校の道を歩きながら、弟子にいろいろなことを教えました。

人々はそれをみて、アリストテレスとその弟子のことを「逍遙学派」(ぶらぶら歩きの一派)とよびました。




医学の父、ヒポクラテスとは? 古代ギリシア人の病気の考え方とは?

病気と神様

2400年も昔のギリシア時代のことです。
たいていの人は病気になると、神様におまいりをしました。

そこで、神官においのりをしてもらったり、お守り札を授かったりすると、病気が治ると考えていたからです。

しかし、お祈りやお札で病気が治るはずはありません。
それなのに、神官たちは「信心が足りないから、神様が治してくださらないのだ。

もっとお金を捧げなさい」といって病人からお金をとりました。


医学の父、ヒポクラテス

このころ、コスという町にヒポクラテスというすぐれた医者があらわれました。

ヒポクラテスは、「病気にかかるのは、何か原因があるからだ。その原因を取り除けば、病気は治る。だから、神様などにお参りをしなくてもよいのだ」と人々に教えました。

そのころ、てんかんはギリシア人にとっては、不思議な病気でした。
それで、ギリシア人は、てんかんのことを「神聖な病気」といっていました。

しかし、ヒポクラテスは「てんかんは脳の病気だ。てんかんを神聖な病気などと考えるのは、神官や、やぶ医者の金儲けのたくらみなのだ」と人々に注意しました。

また、アテナイの町にペストという恐ろしい病気が流行ったときのことです。
ペストにかかった人が、つぎつぎに死んでいきました。

ヒポクラテスは、ペストが伝染病であることをすぐ見抜きました。
そして、予防のしかたを考えだしたのです。

ヒポクラテスは、医学の父とよばれて、人々から尊敬されています。




タレスの考えた宇宙のしくみとは? デモクリトスの考えた宇宙のしくみとは?

自由なギリシア人

エジプトやメソポタミアの文明も、だんだん衰えるときがきました。
およそ2600年ほど昔のことです。

地中海のバルカン半島に、新しい民族が活躍しはじめました。
この民族がギリシア人です。

ギリシア人は、冒険好きでした。
また、商売が上手でした。
地中海の沿岸のあちこちに、大きな植民地をつくりました。
そして、たくさんのお金と奴隷を手に入れて、奴隷にいろいろな仕事をさせました。

このために、ギリシア人の生活は楽になり、暇ができてきました。
その暇を利用して、ギリシア人は自由に本を読んだり、考えごとをしたりしました。


タレスの考えた宇宙

小アジアの西海岸に、ミレトスという商業のさかんな町がありました。
ここに、タレスという人がいました。
タレスは、宇宙はいったい何からできているのだろうかと毎日一生懸命に考えていました。

そしてついに、タレスは「宇宙は水からできている」という考えを発表しました。

星も、人間も、家も、もとを正せば、すべて水だというわけです。
学者たちは、びっくりしてしまいました。
人々は「そんなでたらめなことがあるものか。可哀そうに、タレスは気が違ってしまったのだろう」と噂しました。

「宇宙は水でできている」というのは間違っています。

しかし、タレスの考えには、もっと大切な意味があります。
それは「宇宙は神様がつくったものではなく、見たり・触ったりできる物質からできている」ということなのです。

多くの人々が、神様の力を信じている時代に「自然に起こるさまざまな変化は、神様のせいではなく、自然の中に原因がある」と言い張るのは、とても勇気のいることでした。

タレスと図形

また、タレスは口食を言い当てたり、ピラミッドの高さを測ったりしました。
ことに、円や三角形など、図形の研究を熱心にしました。
そして、図形についての大切な性質を、たくさん見つけ出したのです。

これは、後の科学の進歩に、非常に役立ってています。



タレスの考えを広めた人

その後、タレスと同じような考えをもった学者が、何人もあらわれました。

「宇宙は空気でできている」「火からできている」「水・土・火・空気の4つでできている」などと考えた人たちです。

タレスもそうですが、ここらの学者はみな自然のしくみを考えていました。
それで、自然哲学者とよばれています。

この中には、ピタゴラスのように、物質よりも数学を重んじた学者もいます。

デモクリトスと原子

デモクリトスも自然哲学者のひとりです。
デモクリトスは宇宙は原子でてきていると考えました。

もちろん、デモクリトスの考えた原子は今の原子と違っています。
しかし、その考えかたは同じです。

物質を細かくわけていくと物質は非常に細かくなります。
最後には、色も味もなくなり、人間の目にはわからないほどになってしまいます。
このようにして、もっとも小さくなったものがデモクリトスの考えた原子なのです。




ピラミッドと計算術の関係とは? わかりやすく解説!

ピラミッドの大きさ

エジプトのカイロには、いまでも大きなピラミッドが残っています。
これらは5000年も昔に建てられたものです。

いちばん大きい、ピラミッドは高さが138メートルで使った石灰石は575万卜ンもあるものと計算されています。

これはニューヨークにあるエンパイアステート=ビルディングの15倍の重さです。


王様とピラミッド

ピラミッドは、エジプトの王様の墓です。
エジプトでは、王様は、神様と同じに考えられていました。

ですから、工様の命令には、嫌でも従わなければなりませんでした。
この大きなピラミッドをつくるために何百万かのエジプト人が汗を流してはたらいたのです。

ジグラッド

メソポタミアも、エジプトと同じでした。
ここでは、神様をまつる大きな神殿がつくられました。この神殿がジグラッドです。

エジプトとメソポタミアの計算術

エジプト人やメソポタミア人は、神様につかえる王様に税金をおさめましたが
それはお金ではなく、牛・羊・小麦などでした。

神官たちは、それらの種類と数や量とを覚えておかなければなりませんでした。

そこで彼らは、何かの上に印をつけておいて心覚えにし簡単な計算術を発明しました。

また、そういうものを測るため、ものさしや竿秤などを発明しました。
こうして古代人は、ものの量や土地の面積をはかったり暦をつくったりするために、計算術を考えだしました。

彼らは、てこやころのような簡単な道具だけでピラミッドやジグラットをつくりあげたのです。

しかし、どんな方法で、こんなに大きなものをつくったのかはよくわかっていません。
でも、エジプト人やメソポタミア人は、この計算術を利用してそういう大きな建物を、たいへん正確にたてました。

エジプトには、世界でいちばん古い、算数の本が残っています。
また、メソポタミアにも、いろいろの計算をした記録があります。

中には、今の高等学校で教えるような難しい問題を取り上げたものもあります。

1時間が60分、1分が60秒という、60をもとにした数え方はメソポタミア人が発明したものです。

石のような文明

エジプトやメソポタミアの文明は、非常に栄えました。
しかし、王様の命令で政治がおこなわれたので理屈に合わないことでも、正しいとされることがありました。

また、王様の命令で、一度決められたことは、かえることができませんでした。

このような国には、科学の芽生えがあっても、すこやかに育ちません。
エジプトやメソポタミアの文明は、融通の効かない発展の見込みがない、石のようにこちこちの文明でした。




暦が発明されたのはいつ頃か? わかりやすく解説!

生活と暦

火・道具・言葉・文字の発明で大昔の人間の生活は、ずいぶんかわりました。
人間は大きな川の流域で、穀物をつくったり家畜を養ったりして生活するようになりました。

つまり、人間は農業や牧畜をはじめたのです。
取り入れした穀物を大切にしまっておけば一年中、食べ物の心配をしなくても、よくなったのです。

生活にゆとりのできた人々は大勢集まって国をつくり、科学や技術を進歩させました。

ナイル川流域のエジプト人、チグリスやユーフラテス川流域のメソポタミア人、インダス川流域のインド人、黄河流域の中国人などがそうです。

こうしてこれら四大河のほとりには、古代文明か栄えました。

ところで穀物をつくるためには種まきや取り入れの日を、はっきり知っておかなけばなりません。

また、家畜の子供が、いつうまれるかを知る必要もあります。
つまり、毎日の成果に区切りをつける時間の目印が必要になってきたのです。

このために、暦が考えだされました。


メソポタミア人の暦

メソポタミア人は、1年の長さを月の満ち欠けで決めました。
月はいつも同じような動きをくりかえすことがわかったからです。

このような細い月があらわれはじめます。
日が経つにつれて、お盆のようにまるい月になります。

それから、だんだん欠けはじめて、ついに見えなくなります。

メソポタミア人は、このあいだを1か月と決めたのです。
そして、12か月を1年としました。これが太陰暦です。

しかし、季節は太陽の動きにしたがってうつりかわるので太陽をもとにした1年とはあいません。

そのため1年のはじめが、だんだん食い違ってきました。
ある年のはじめに非常に暑かったり、ある年のはじめには雪が降ったりしました。

これでは種まきにも困ります。

そこで何年かに一度、1年を12か月にして、くるいをなくすようにしました。



エジプト人の暦

エジプト人のつくった暦は、メソポタミア人の暦と違ってています。

エジプト人は、ナイル川の大水がいつも同じように繰り返すことに気がつきました。
そこで、ナイル川の大水がはじまり、つぎにまた大水がはじまるまでを1年としたのです。
しかも、ナイル川の大水が、シリウスという星の動きや太陽とも関係があることを確かめました。

こうして、エジプト人は太陽の動きをもとにして1年を365日とする太陽暦をつくりあげました。
この暦では、1か月は30日あります。そして、12か月で1年が終わるようになっています。

1年を12か月とすると5日余りができます。
これは、神様をまつる日として、年の終わりにおきました。




言葉と文字が発明されたのはいつ頃からか? わかりやすく解説!

言葉のはたらき

動物は声を出しますが、人間のように話すことはできません。
話す言葉を知っているということは、非常に便利なことなのです。

たとえば、ある人が山奥でとつぜん、クマに出会いました。
その人が死んだふりをしたところ、クマは噛みつきませんでした。

その人はクマのことを仲間に話して聞かせました。
それを聞いた仲間は、クマにてあっても、まごつかないですむようになりました。

これは、お互いにわかる言葉のおかげです。

また、大人は子どもに自分の経験を話してやりました。
その子どもは、やがて大人になり、子どものころに聞いた話をまた自分の子どもに聞かせます。

こうして昔の人たちの経験が、ずっと後まで伝わるようになりました。


文字の発明

しかし口からロヘの言い伝えの不便な点は、すぐに消えてしまって後に残らないことです。

そこで、人々は言葉を符号であらわし、後の世まで書き残しておく方法を工夫しました。
こうしてできたのが文字です。

人間が文字を書くようになったのは、今から1万年も昔のことです。
もちろん、今日のような紙などありません。
ですから、ほとんど木の板や、石や粘土板に掘り込んだものでした。

このような石や粘土板が、今でもたくさん残っています。

その文字も、はじめは木の幹や石などに刻んだ心覚えのようなもので文字というより、絵に似た絵文字でした。

絵文字はしだいに簡単になり、それを見ただけではもとの形を思いだせないぐらいにまでかわりました。

それが象形文字です。

象形文字は、さらに簡単になり今日私たちが使っている表意文字になったのです。

また、形のないものは表意文字の発言だけを借りいろいろに組み合わせてあらわしていましたがそのうちに発音だけをあらわす表音文字を発明しました。

文字が発明されると人々はできごとや考えを文字で書きあらわすようになりました。
文字にしておくと書いたものがなくならないかぎりいつまでも、間違いなく伝えることができるからです。




火と道具はいつ頃から利用されるようになったのか? わかりやすく解説!

火と道具

火を自由につくりだせるのは、人間だけです。
人間は、この素晴らしい知恵を何万年かの昔に覚えました。

はじめは、自然に起こった山火事の火を乾いた草や木にうつして消えないようにしていました。

しかし、そのうちに、石と石とを打ち合わせたり木ぎれをこすり合わせて、火をつくるようになりました。


火と大昔の生活

火のおかげで、人間は、ほかの動物よりも自由に生活できるようになりました。
恐ろしい獣も火を見ると近よってこないし、寒い地方の冬の夜でも火があれば凍えることがありません。

また、肉や魚を、煮たり焼いたりすることもできます。
生では硬くて食べられなかったものまで、おいしく食べられることがわかったのです。
そればかりか、煮たり、焼いたりすると消化がよいので体もずっと丈夫になりました。

肉や魚などは焼いておくと、長持ちするので毎日の食べ物を集める時間も少なくてすむようになりました。

この余った時間に、人間はいろいろなことを考えたり道具をつくる工夫をするようになりました。

こうして人間は、ますます賢くなったのです。



道具の発明

人間は火を使いはじめたころ道具を発明しました。
今では、私たちの周りに複雑で立派な道具がたくさんあります。

しかし、はじめて使われた道具は、棒切れや石ころでした。
それでも、道具を知らないときよりは、ずっと便利になったに違いありません。

道具の利用

手の届かないところにある木の実も、棒切れで落とすことができます。

硬い肉も、とがった石でわけなく切ることができます。
重い石もてこを使えば、軽々とあげられるし下にころを使えば軽く動かすこともできます。

人間の知恵がもっとすすむと弓矢のような飛び道具、食べ物を入れる土器、丸木船など、いろいろな道具を発明しました。

しかし、こういう道具類は自然にある木や石などを切ったり削ったりしてつくらなければなりません。

つまり、道具をつくる道具が必要でした。

そういう道具として原始人たちがいちばんはじめに使っていたのはとがった天然の石でした。
そのうち、彼らは自然石をとがらせて使うようになりました。

そののち、原始人たちは銅を発見しまもなく銅にすずをくわえて青銅をつくりだしました。

青銅は銅よりもかたく、いろいろな道具に利用されました。
紀元前1000~500年ごろになると鉄器が発明され道具づくりは、にわかに進歩しはじめました。




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