アイソトープの利用はいつ頃から? わかりやすく解説!

アイソトープの存在もまた原子の不思議の1つです。
水素爆弾のところで重水素・三重水素というのがでてきました。

くりかえしますと、ふつうの水素では原子核は1個の陽子で、そのまわりを2個の電子がまわっています。

ところが重水素の原子核は、1個の陽子のほかに1個の中性子を持っています。
また、三重水素には1個の陽子、2個の中性子がふくまれています。

そこで、重水素、三重水素の原子量はふつうの水素のそれぞれほぼ2倍、3倍になります。

このように、原子量は違っても.科学的な性質(たとえば酸素と結合して水をつくるといった)がほとんどまったく同じ物質をイギリスのフレデリック=ソディは同位体(アイソトープ)と名づけました。


はじめのころは、ごく特別なものだけに同位元素があると考えられていましたが1919年に、イギリスのフランシス=ウィリアム=アストンは原子の重さ(原子量)のわずかの違いを区別できる質量分析器というたいへん便利な装置を開発、これを使ってほとんどすべての元素が同位体をもっていることをつきとめました。

ソディは1921年、アストンは1922年いずれも同位体の研究でノーベル化学賞をうけました。
さて、同位体の中には放射能をもっているものもあります。

フランスのアンリ=ベクレルが1896年、ウラン化合物の放射能を発見ついで1898年、同じくフランスのピエール=キュリー・マリー=キュリー夫妻は放射能をもつ元素ポロニウムとラジウムを発見し、分離することに成功しました。

これらの放射性元素は、放射線で(アルファ線・ベータ線・ガンマ線)をはなちながらしだいに壊れていき、別の元素にかわってしまいます。

たとえば、ラジウムは鉛にかわってしまいます。

元素は不変なもの、と長いあいだ信じられていたことが放射性元素の発見でくつがえされてしまったのです。

アルファ線というのは、ヘリウムの原子核(陽子2、中性子2)の流れです。
アルファ線がでて、原子核が壊れることがアルファ崩壊といいます。

アルファ崩壊が起こると、もとの原子の原子番号は2、質量数ぱ4だけ少なくなります。

ベータ線は、中性子が陽子にかわるときに出る電子の流れでベータ線が出てベータ崩壊が起こると陽子が1つ増え中性子が1つ減ることになりますのでもとの原子の原子番号は1つだけ増え質量数はかわりません。

ガンマ線は、透過力の非常に強い、一種の電磁波です。

さて、放射性元素から出る放射線は、さまざまな利用面か持っています。
たとえば、ラジウムから出るガンマ線はいまでもガンの治療などに用いられています。

しかし、利用の道が広いのは放射性同位体です。



たとえば、放射能をもっているウラン235は放射能を持たないウラン238への放射同位体こそがその核分裂性を利用して、原爆や水爆をつくりまた原子力発電をおこなわせることについてはすでに述べました。

このような放射性同位体は、原子炉の中などで人工的につくりだすこともできます。

たとえば、放射能をもたないウラン238に中性子をあてるとプルトニウム239という放射能をもった人工放射性同位体が得られます。

これも原爆で原子力発電の核燃料に用いられます。

とくに用途の広い放射性同位体に、原子炉の中で鉄に中性子をあてて得られるコバルト60です。

これに強いガンマ線を放出し、しかも、ラジウムよりたいへん多量に供給できるのでラジウムのかわりとして、ガンの治療にさかんに利用されています。

またコバルト60のガンマ線を使って、農作物の品腫改良もさかんにすすめられています。

たとえばイネの種にコバルト60からのガンマ線をあてるといろいろなかわりもの(突然変異体)ができますがその中から優秀なものを選び出していくというわけです。

日本の農林省農業技術研究所も茨城県大宮町にガンマーフィールドという大規模な、放射線による農作物の品種改良試験農場をもっておりすでにいくつかの輝かしい成果をあげています。

このガンマ線は工業界でもさかんに利用されています。

たとえば合成繊維やプラスチックをつくるときにこの放射線をあてると、ふつうでは起こりにくい化学反応が簡単に進行していろいろなめずらしい、新しい利用面をもったものがつくれるのです。

日本原子力研究所の高崎研究所は、放射線の工業への利用を専門に研究しているところです。

同位体の中にはトレーサー(追跡子)として使われるものもあります。
放射性同位体のリン32・ヨウ素132などです。

リンは骨の成分であり、ヨウ素は甲状腺から分泌されるサイロキシンというホルモンの成分です。

そこで、放射性のリンやヨウ素を体内に入れることによってリンやヨウ素がどのような経過で骨やホルモンの中にふくまれていくかつまりは生体のからくりがつかめるというわけです。

また、炭素14も同じような目的につかうことができます。
ふつうの炭素は原子量が12ですから、炭素14はそれよりも重い同位体です。
この重い炭素をふくむ二酸化炭素をつくり、これを植物に吸わせます。

すると、植物が二酸化炭素と水と太陽光線とからぶどう糖でんぷんなどをつくりあげる光合成のしくみが炭素14の行方を手がかりにして解き明かされるというわけです。

また古代の化石植物(あるいは建造物)などにふくまれる炭素14を分析してその年代を知る放射線年代測定法にもさかんに利用されています。




原子力発電のはじまりはいつ頃? わかりやすく解説!

原子力の利用は、不幸なことに核兵器という全人類を破滅に導くような悪魔の兵器をつくるということではじまりました。

そしてこの軍事面での原子力の利用はいまもなお続いています。


しかし一方では、原子の核の中に潜められているエネルギーをたとえば電気にかえてエネルギー問題を解決しようという研究もすすめられています。

アメリカがビキニ環礁で水爆実験をおこなったつぎの年すなわち1955年にスイスのジュネーブで、第1回国際原子力利用平和会議が開かれました。

このときソ連は出力5000キロワットの原子力発電所をすでに運転中と発表して世界中を驚かせました。

原子炉の中で、充分にコントロールしながら(制御棒というものを使い、余分の中性子を吸収させます)ウラン235や天然ウランなどの核燃料を燃やす(連鎖的核分裂反応を起こさせる)と非常にたくさんの熱が放出されます。

この熱で水を高温・高圧の蒸気にかえあとはふつうの火力発電と同じように電気を起こさせるのが原子力発電です。

ソ連で5000キロワットの原子力発電所が動き出してからまだ10年そこそこしか経っていないのに今日では全世界ですでに70基以上の発電炉が運転されており1000万キロワット以上の電気が原子力によってつくられています。

また小型で性能のよい原子炉を商船や砕氷船・潜水艦に乗せれば1年以上も燃料の補給なしに走り続けることができます。

アメリカの原子力商船サバナ号、ソ連原子力砕氷船レーニン号アメリカやソ連のたくさんの原子力潜水艦がその例です。

もちろん原子力の平和利用にも問題はあります。

たとえば原子力発電による電気代が今までの火力発電による電気代と同じくらいにすることができるかどうか燃えカスである死の灰を安全に処理できるかどうか(原子炉の数が増えるにしたがい、この問題は悩みの種になっています)原子炉は事故を起こさないか、絶対の安全が確保されるかどうか(イギリスでもアメリカでも事故が起こり、死の灰がばらまかれたことがあります)といったことなどです。

しかし、これらの問題はいずれは満足のいくように解決されるでしょう。
怖いのは、やはり軍事利用の原子炉の問題です。



たとえば1968年5月6日、佐世保港に寄港していたアメリカの原子力潜水艦ソードフィッシュ号は異常に高い放射線をふくんだ水を排出して(アメリカは排出しないと言い張りましたが)、日本国民に大きな不安の種をまきつけました。

公海上では米ソの原子力潜水艦がどんなにたくさんの放射能をまきちらし海水を汚染しているかわかりません。

原手力潜水艦の沈没事故もありました。
座礁あるいは、衝突して原子炉が壊れ一挙に多量の放射能がばらまかれる危険もあります。

それにプランクトンに吸収され、それを食べた小魚の体にうつり小魚を食べた大形の魚の体内に入ることになります。

そのあいだに、放射能はしだいに濃縮された形となり魚を食料とする人間の体を、しだいしだいに蝕んでいく危険も考えられます。

さて、核燃料ウラン資源が、いつかはなくなってしまうことも考えなければなりません。
そこで、海水の中に無限にある重水素を利用する核融合による発電ということもさかんにすすめられています。

この方法ですと、危険な死の灰もほとんどでないということで大きな期待をもたれてはいるのですが、いつ実用化されるか予測することはできない状態です。




水素爆弾が登場・開発されたのはいつ頃? マンハッタン計画とは?

マンハッタン計画

アメリカはただちに、アメリカの科学者およびアメリカに亡命していた世界中のすぐれた科学者たちを集めまたアメリカの工業力をあげて原子爆弾開発計画(ニューヨークにあるマンハッタン工兵管区の陸軍大佐レスリー=グローブスがその推進役に任命されたため、マンハッタン車両という暗号名でよばれました)に着手しました。

その直接の動機は、ハンガリーからアメリカに亡命した物理学者レオ=シラードがアインシュタインを通じてときの大統領ルーズベルトに進言したためです。

たくさんの科学者、技術者たちの夜も日もない突貫的な研究の末2年後1945年の夏に入ろうとするころついに最初の原子爆弾(プルトニウム爆弾)がニューメキシコ州ロスアラモスの研究所で完成7月6日、アラモゴルドの砂漠で爆発実験がおこなわれました。

そして同じく1945年の8月6日にはウラニウム爆弾リトル=ボーイが広島にそして3日後の8月9日にはプルトニウム爆弾ファットマンが長崎に投下され一挙に何十万というたくさんの日本人を殺ししかもそのときの死の灰にさらされた人たちはいまだに恐ろしい放射能障害のために、地獄の苦しみにあっているのです。

この原子爆弾(原爆)は1つでそれまでに使われていた最も性能の高いTNT(トリニトロトルエン)火薬2万トン分に相当する破壊力をもっていました。


水素爆弾の登場

日本の軍部も、原爆の前にはついに幸福に踏み切らざるをえなかったのです。

原爆の開発をルーズベルト大統領にすすめたアインシュタインはそれが実際に使用された(そのときはトルーマン大統領にかわっていましたが)ことにたいして、ひどく良心の傷みを覚えました。

アインシュタインはナチスドイツに先を越されないよう原爆をつくることをすすめはしましたがそれを使うべきではないと考えていたのです。

たとえば1945年6月1日にアインシュタインらは政府にたいし「……もしアメリカが、この新しい無差別殺傷兵器の最初の使用者となるならばアメリカは世界世論の支持をうしなうばかりか、軍備拡張競争に油を注ぐことになろう……」とに言っています。

しかし、アインシュタインらの願いは聞き入れられず日本人がこの悪魔の兵器の力を試すためのモルモットにされてしまったのです。

しかもアインシュタインの予想どおり、戦後軍備拡張競争はますます激しさを増しかぎりない不安と恐怖をはらんだ、冷戦状態をうみだしたのです。

アメリカに引き続き、ソ連もまた原爆をつくることに成功しました。
そこでいっそう強力な兵器をというわけでこんどは水素爆弾(水爆)の開発がはじまりました。

アインシュタインはもちろん、マンハッタン計画の最高指導者として原爆開発に力をつくしたロバート=オッペンハイマーもこの水爆の開発に反対しました。

しかし、あくまでもソ連より優位にたたなければという軍部の強い意見にかんたんに押し切られアインシュタインは「こんど生まれてきたら、決して科学者、ことに原子物理学者になんかなるまい。

最小限の精神の自由が保てるような、大工か行商人にでもなりたい」という言葉を残して死に、オッペンハイマーは赤よばわりされいっさいの原子力研究活動から締め出されてしまいました。

さて、水爆というのは、小型の原爆のまわりを重水素や三重水素(ふつうの水素の原子核に1個の陽子しかもっていませんが重水素のそれは、1個の陽子と1個の中性子、三重水素は1個の陽子と2個の中性子をもっていて原子量がふつうの水素のそれぞれ2倍になっている)やリチウムのような軽い(原子量の小さい)原子でつつんだものです。



起爆装置をはたらかせて、芯になっている原爆を爆発させると1億で℃くらいの高温になりそれがまわりの重水素やリチウムなどのかるい原子核をくっつけ
(分裂の反対で、融合といいます)より重い原子核をつくります。

このときには原爆の爆発以上のものすごいエネルギーが放出されます。
たとえば、1952年、アノリカは南太平洋のエニウェットク環礁で最初の水爆実験をしました。

この水爆はたいへん効率の悪いものでしたがそれでも広島に落とされた原爆150発分の力をもっていました。

1953年、ソ連はアメリカの水爆よりもずっと性能のよい水爆を完成しました。

それは原爆のまわりを、重水素とリチウムを結合させた重水素化リチウムというものでつつんだものです。

アメリカの最初の水爆は重水素と三重水素の気体を零下20℃に保って液化しそれで原爆のまわりをつつんだものですからしかけ全体がたいへん大がかりになり水爆というよりは水爆装置ともいうべきものでした。

これにたいし、ソ連が採用した重水素化リチウムははじめから固体ですから、面倒な装置などは必要がなくまたずっと小型にすることもできたのです。

もちろんアメリカもすぐソ連の後を追いました。
そして1954年2月1日、アメリカは最初の重水素化リチウム水爆の爆発実験をビキニ環礁でおこないました。

このとき、日本の漁船第五福竜丸は立入り禁止区域外にいたにもかかららず、多量の死の灰をを浴び乗組員のひとり、久保山愛吉さんは、ついに放討能障害で命をうばわれました。

この水爆の破壊カは、広島型原爆の実に700倍といわれました。
しかもそれは爆発力についてだけのことであってそのとき飛び散る死の灰の害は、これらにひどいものと思われます。

そして、このような水爆にいまアメリカ・ソ連の両国に何百発も用意されているのです。
さらにイギリスもフランスも、そして隣の中国も原爆や水爆の開発に成功しています。

いま世界中には、この地球を、全人類、全生物を10回でも20回でも完全に破滅させるに充分な量の核爆弾がたくわえられているのです。

しかも、これらの核兵器は爆撃機に積まれ原子力潜水艦に積み込まれさらにはミサイルの弾頭にセットされていつでも投下、あるいは発射できる態勢を整えているのです。

このような危険な状態を、1日も早くなくさなければなりません。




核分裂の発見はいつ頃? エネルギー問題とは? わかりやすく解説!

エネルギー問題

世界全人類が抱えているいちばん大きい問題の1つに、エネルギー問題があります。

人類は古くから家畜のエネルギーや風力(風車)・水力(水車)を利用することを知っていました。

さらに18世紀に入ると、蒸気のエネルギーを利用する道が開けさらに電気のエネルギーを利用することもできるようになりました。


電気のエネルギーは、光としても熱としても動力としても利用できます。
したがって竃気の消費量は年をおって増えていきます。

人々は、まず水力を利用して水車発電機を高速回転させて電気をつくりました(水力発電)。

また石炭や石油や天然ガスなどを燃やし、その熱で蒸気をつくり高圧をかけ、この強力な蒸気によってタービンをまわし発電機をはたらかせて電気をつくりました(火力発電)。

しかし、水力は無限に利用できるものではありません。
日本のように高度に工業が発達し、しかも国土の狭い国では開発できる候補地はもうほとんど残されていません。

いっぽう、石油や石炭の量もかぎられています。
いつかは掘りつくしてしまうことでしょう。

掘りつくしてしまわないまでも、必要なだけの量を賄うことができるかどうか将来は甚だ不安であると見込まれています。

しかも電気エネルギーの消費量は急ピッチで伸びています。

たとえば、世界のエネルギー消費量は1キログラムあたり7000キロカロリーの石炭に換算して1949年には24億トンだったものが、15年後の1964年にはその2倍の50億トンにまで急増しました。

人類がエネルギー資源のなくなることをどんなに恐れているかみなさんもおわかりになると思います。

こうして新しいエネルギー源の開発たとえば太陽熱や地熱や潮力などを利用する道が熱心に研究され一部はすでに実用化されています(たとえばエレクトロニクスのところで述べた太陽電池)。

またエネルギーを有効に利用する道たとえば熱を直接に電気にかえようという
いわゆる直接発電の研究もすすめられています。

しかし、それでエネルギー資源の乏しくなることを大幅にふせぎとめることはまず無理のようです。

そこへ登場してきたのが原子力発電です。



核分裂の発見

1938年といいますから、ナチスドイツのヒトラーが政権をとり世界中を戦争の暗雲がおおいはじめたころドイツの物理学者オットー=ハーンやハインリッヒ=シュトラスマンらは天然ウランの中にわずか0.7パーセントふくまれているウラン235に中性子をあてると原子核が分裂(核分裂)して、原子量のより小さい原子にかわりそのときにたいへんな量のエネルギーを放出することを発見しました。

ひき続きフランスのジョリオ=キュリー・イレーヌ・キュリー夫妻でも同じような事実を発見しました。

原子核の中には驚くべき多量のエネルギーが潜んでいることに人々は一斉に注目しはじめました。

ウラン1キログラムは、石炭3000トン分のエネルギーを持っているというから驚きます。

このエネルギーを利用すれば、どのように強大な破壊力を持つ悪魔の兵器がつくられるか、ナチスドイツも、そして連合国側もただちにそのことに気づきました。

ドイツはチェコのヨアヒムシュタールのウラン鉱山をおさえました。
連合国側はあわてました。

しかし、ファシストたちの手を逃れてアメリカに亡命したイタリアの物理学者
エンリコ=フェルミ(1938年、ノーベル物理学賞を受けるためにストックホルムに行き、そのままアメリカに脱出しました)が1942年、シカゴ大学構内に秘密につくった実験施設で原子核の連鎖的核分裂反応を発見するにおよんで連合同側はナチスドイツに一歩先んじることができました。

連鎖的核分裂反応というのは、ウラン原子核が分裂するとき中性子という粒子が飛出しますが、これがつぎのウラン原子を分裂させつぎつぎと分裂反心を続けさせていくことです。




人工衛星と有人衛星が開発されたのはいつ頃? わかりやすく解説!

国際地球観測年がはじまるまえにアメリカとソ連は人口衛星による観測計画を発表しました。

この両国の競争では、ソ連のほうが先に人工衛星(スプートニク1号)の打ち上げに成功しました(1957年)。

人類史上はじめて、人工の月(人工衛星)が打ち上げられたことによりいよいよ宇宙時代がはじまったのです。


その後、アメリカも人工衛星の打ち上げに成功またイギリス・カナダ・フランスなどもそのあとを追い今日までに打ち上げられた人工衛生の数はもう1000個以上にになっていると思われます。

これらの人工衛生の中には、ソ連のルーニク3号のように私たちがいままで見ることができなかった月の裏側の写真を撮り地球上に電送してきたものもあります(1959年打ち上げ)。

またアメリカのタイロス1号(1960年打ち上げ)のような気象観測用の衛生またテレビや電話の中継をする静止衛星(1963年打ち上げのシンコム1号)もあります。

さらに、ソ連の金星1号(1961年打ち上げ)火星2号(1962年打ち上げ)アメリ力の金星科学調査衛生マリナー2号(1962年打ち上げ)や最初の火星写真を電送してきたマリナー4号(1964年打ち上げ)などのように金星・火星のような、ほかの惑星の探査に乗り出したものもあります。

しかし、宇宙時代も象徴する、最も目覚ましい出来事は人間の乗り込んだ人工衛星、有人衛星の打ち上げ、そして地上への回収の成功でしょう。

この分野でも、まずソ連が成功しました。

1961年、ユーリー=ガガーリン少佐の乗り込んだボストーク1号が地球を1周して無事地上に帰り着きガガーリン少佐は宇宙飛行士第1号になったのです。

この年、同じくソ連のゲルマン・チトフ少佐が地球を17周することに成功しました。



アメリカでは、ようやく1962年、ジョン・ダレン中佐のマーキュリー衛生船による地球3周が最初の成功になりました。

その後もアメリ力とソ連の有人衛生の競争は激しくなりました。

たとえば1963年にはソ連のテレシコワさんがボストーク6号で宇宙飛行に成功
世界初の女性宇宙飛行士になり1964年には同じくソ連の3人乗り宇宙船ボスホート1号が飛行に成功さらに1965年に打ち上げられたボスホート2号ではレオーノフ中佐が初の宇宙遊泳(軌道飛行中の宇宙船から、命綱をつけて船外、つまり宇宙空間に出て作業をしてみること)に成功しました。

いっぽう、アメリカでは1965年ジェミニ6号とジェミニ7号が宇宙でのランデブー(接近していっしょに飛行を続けること)に成功しジェミニ7号は2週間飛行を続けるという史上最長時間の宇宙飛行に成功しました。

また1966年にはジェミニ8号が史上最初のドッキング(宇宙空間)で衛星船どうしをつなぎあわせること)に成功しました。

1968年、アメリ力の打ち上げたアポ口8号は、3人の宇宙飛行士を乗せて人類史上はじめて、月をまわって帰ってきました。

人類がはじめて、肉眼で直接月の裏側を見たわけです。

その後、人間を月に送り届けることが目的であるアメリカのアポロ計画はちゃくちゃくと進行し、1969年の3月には、アポロ9号が地球をまわる軌道の上で、月面着陸船を積んでランデブー・ドッキング・宇宙遊泳などをおこないました。

さらに5月には、アポロ10号が、月をまわる軌道に乗り月面からわずか15キロメートルの高さにまで近づき月面の写真撮影などをおこないました。

このような準備を積み重ねたうえで、1969年、7月21日、アポロ11号に乗ったアームストロング・オルドリン・コリンズの3人の宇宙飛行士のうちアームストロング・オルドリンのふたりが、月面に降り、月の岩石を採集しました。




ロケットが発達しはじめたのはいつ頃? わかりやすく解説!

20億光年の彼方の宇宙の様子を知るとか巨大な星雲同士の衝突を見るということは確かに驚くべきことです。

しかし、地球上の私たちの生活により密接な関係があるのははるかに近い空間、つまり地球の上空1000キロメートルとか2000キロメートルとかいった程度までの空間です。


そこで、地球の上空2000キロメートルくらいまでの高さにわたって大気層を例えば10キロメートルごとに何層にも水平に切ってそれぞれの高度での空間状態を観測する手段がほしいわけです。

この観測は飛行機や気球では無理です。そこへ登場してきたのがロケットです。

ロケットの原型は、すでに古代中国で戦争の兵器として使われていた火箭(火の矢)だということですが、これは近代のロケットとはまるで違ったものです。

現在、世界のいくつかの国で兵器や空間観測用に使われているロケットの原型は第二次大戦中にナチスドイツが開発したV2号、その他のロケット弾などです。

ロケットというのは、その後尾のノズル(ふん射孔)からたくさんのガスをふきだし、その反動で飛ぶもので、空気の密度の非常にうすい高層空間をも飛ぶことができます。

はじめのころの観測用ロケットはせいぜい数十キロメートルくらいでしたが現在では1000キロメートル以上に達することができます。

このロケットに、温度や風向・風速・放射線・地磁気などを測定するための機械装置を積み込み、それぞれ決められた高度のところではたらくようにしておき観測データはテレメーター(遠隔通信装置)で地上に送信させるようにすればそれぞれの高度の空間状態がつかめるわけです。



第二次大戦後、ナチスドイツがつくっていたロケットやその設計図を持ち出したアメリカとソ連はそれをもとにロケットの研究、開発をすすめました。

それが、中距離弾道弾(IRBM)や大陸間弾道弾(ICBM)として実をむすびそれらに核弾頭をつけることによりいわゆる押しボタン戦争の可能性までうみだしまかり間違えば、全地球を破滅させるような兵器となったのです。

いっぽう、科学観測用として開発されたロケットもまた急速に進歩発展を続け、得られたデータは、それまで知ることができなかった高層大気・高層空間(スペース)についての知識を大幅に増やすことに役立ってています。

日本でも、1957年7月1日から1958年12月31日まで世界60か国が参加して行われた国際地球観測年(IGY)をきっかけとして科学観測用ロケットの開発に乗り出しまず、おもちゃのようなペンシル型・ベビー型ロケットから出発10年のちには、全長12メートル、重さ1.5トンというラムダ型ロケットの開発に成功
さらに、1970年2月、4段式ロケット、ラムダ4S型5号機で初の国産人工衛星「おおすみ」を打ち上げることに成功しました。




宇宙開発がはじまったのはいつ頃? わかりやすく解説!

人類は、随分遠い昔から、宇宙やもろもろの天体に関心をよせてきました。

しかし、天休の科学的観測がおこなわれ、その観測結果にもとづいて正しい宇宙の姿が描かれはじめたのは、ルネサンス期以後のことです。


さて、20世紀に入ると天文学はますます大きな発展をとげます。

その原因の第一は、科学者たちが自分の観測した結果にもとづいて自由な考えかたをしてもよいようになったこと(コペルニクスやガリレオの時代は、キリスト教によって厳しい制限をうけていました)、また、望遠鏡などの観測手段が非常な進歩をとげたこと数学の発達などもその理由にあげられます。

まず、1904年、アメリカのカーリフォルニア州ウィルソン山の頂上にウィルソン山天文台が開設されました。

この天文台に1917年、口径258センチの反射望遠鏡がすえつけられました。

反射望遠鏡はもともと、イギリスの科学者アイザク・ニュートンが1670年ごろに発明したもので、それまでの屈折望遠鏡の対物レンズのかわりに凹面鏡を使い、物体からくる光をこの鏡で反射させさらに第二の鏡でこの反射光を観測に適当な場所に集めるようにしたものです。

反射望遠鏡を使うと、星雲のように非常に弱い光しか出していないものの観測もできます。
そこで、ウィルソン山天文台はつぎつぎと新しい星を発見したのです。

ついで、1948年、同じくカリフォルニア州パロマー山天文台に口径508センチの大反射望遠鏡が完成するにおよんで宇宙をさぐる私たちの目は、さらに果てしなく遠いところにまでおよぶことになりました。

この世界一の大反射望遠鏡は、20億光年の彼方の星まで探ることができるのです。
ところが、電波望遠鏡というのを使えば、さらに遠くの星まで探ることができるのです。

天体が電波を出しているということは、誰も予想していなかったことですが1931年、アメリカのベル電話研究所の技師、カール・ジャンスキーという人がまったく偶然の機会から、ある種の電波が天空の彼方から送られてきていることを発見しました。

あまりにも予想外のことでしたのではじめはジャンスキーの発見に疑いをもつ人が多かったのですが第二次大戦中、やはり偶然に太陽からの強い電波が受信されそれ以来、天体からの電波に関する研究がにわかにさかんになり電波天文学という新しい分野がうまれたのです。



それまでの天文学は、いわば光を手がかりにしていました。
ところがこんどは電波という新しい武器が使えるようになったわけです。

電波を出している星、いわゆるラジオ星はつぎつぎと発見され今日ではその数が数千個にも達しています。

これらの星の存在は、光学的研究によって築き上げられたそれまでの天文学による宇宙像を大きくかえさせることになりましたが電波天文学の発達にともない、反射望遠鏡による天体観測にも思いがけない新しい面が開けてきました。

たとえば、こんなことがあります。

1952年、イギリスの電波天文学者ライルとスミスは電波をたよりに白鳥座のラジオ星(2億光年)の位置を正確に決定しましたがこのデーターにもとづいて、パロマー山の508センチ反射望遠鏡をその位置に向けてみたところ、そこではなんとそれぞれ1000億の恒星をふくむ2つの大星雲が激しく衝突しあっているさまがみられたのです。

広大な宇宙空間における、巨大な星雲同士の衝突これほど恐ろしい劇的な眺めも待たないでしょう。

こうして、いわば偶然の機会から誕生した電波天文学はあるいは、それまでの天文学を助けあるいはその限界を越える宇宙の先の先まで探り続け宇宙についての私たちの知識をさらにさらに広げ続けているのです。

いま活躍している世界最大級の電波望遠鏡はイギリスのチェシャー州ジョドレルバンク天文台に備えられているものでそのパラボラ型アンテナの直径は76メートルもあります。

この電波望遠鏡が、アメリカやソ連の打ち上げる人工衛星や人間衛生の宇宙飛行の様子を捕えています。




海上輸送の進歩しはじめたのはいつ頃? わかりやすく解説!

巨大タンカー時代

現在でも、夏の海にはたくさんのヨットを見ることができますがこのヨットは本来、帆に風をうけて海上を走るものです。

それと同じ原理の帆船は、すでに紀元前3500年もの昔から走っていたそうです。


とすると、船というものは一向に進歩しなかったのでしょうか。そんなことはありません。

たとえば、第二次大戦中に活躍したプリンス=オブ=ウェールズ・大和・武蔵などの戦艦、サラトガなどの航空母艦、あるいはクイーン=エリザベス号・ユナイテッド=ラアーツ号などの豪華な客船などを思い浮かべても船が改良され、進歩していることがよくわかります。

しかし船舶界における最も目覚ましい進歩は巨大なタンカー(マンモス=タンカー)ではないでしょうか

1960年当時、世界最大のタンカーはアメリカのユニバース=アポロン号でした。
この船は日本の造船所でつくられたものですがなんと10万トン、ユナイテッド=ステーツ号の2倍も大きいのです。

ところがそれから数年のうちに、タンカーの大型記録はつぎつぎと打ち破られれていくのです。

たとえば、1963年に完成した日章丸は13万5000卜ン、1964年の東京丸は15万トン、1965年の出光丸は25万5000トンそして1971年には37万2400トンの超巨大タンカー日石丸が日本の造船所で進水したのです。

このような巨大タンカーができるようになったのには船の前半と後半を別々にドックでつくりこれらを洋上でつなぎあわせるといった新しい造船技術の進歩があったからです。

この技術は日本で開発されたものです。

日本の造船業は、1971年には全世界でつくられる船の約50パーセントをつくったといわれています。



造船技術の進歩

さきに述べた洋上接合法は最も新しい造船技術ですがほかにもさまざまな技術的進歩がみられます。

まず第一はリベットエ法にかわる溶接法です。

リベッ卜というのは鋲のことで古くは、それぞれの大きさに切断した鋼板や骨格になる材料を1つ1つリベッ卜でくみ立てていましたが溶接法の進歩により、工場内で溶接によりつくりあげたブロックを順にくみ立てていくという流れ作業ができるようになったのです。

また、鋼板を切り取るにも、小さな図面を光学的あるいは電子的に拡大しそのまま自動力ッターで切り抜いていくという方法が考えだされています。

さらに船首にコブのような球状体をつけそれがつくる波によって船体白身のつくる波を打消し波の抵抗を弱める方法なども開発されました。

造船技術の進歩は、潜水艦や水中よく船をうみ、船の底から空気をふきだし船と水とのあいだに空気のクッションをつくりながら進むホーバークラフトなども実現しました。

さらに、プロペラでなく飛行機のようにジェット機関を使う船も研究されていますし原子力を利用する原子力船もすでにつくられています。




汽車から電車、新幹線・自動車が登場・発達したのはいつ頃? 陸上交通の進歩とは?

汽車から電車へ

世界最初の汽車はまずイギリスで走りました。
1825年、ジョージ・スチーブンソンがストックトン~ダーリントン間に蒸気機関車ロコモーション号を走らせたのでした。

それからおよそ半世紀後の1872年には日本でも汽車が走りはじめました。
新橋(いまの汐留貨物駅)と横浜(桜木町)の間27.3キロメートルという短い距離を第1号機関車が走り出したのです。


日本の鉄道が急速な発展をとげたのは戦後、1957年に東海道本線の電化が完成してからです。

電車の歴史も決して新しいわけではありません。

たとえば、日本でも1890年に東京の上野公園で開かれた博覧会にはじめて電車が登場し人気をよびましたし1895年には京都で市内電車が営業運転を開始しています。

世界的には、1881年ドイツのリヒテルフェルでおよそ5キロメートルの区間、36人乗りの小型電車が走ったのが最初です。

はじめは市内電車だけでしたが、やがて地下鉄がうまれます。
世界最初の地下鉄は1863年にロンドンで開通した蒸気機関市でひっぱる地下鉄道を1905年に電化したものです。

日本では1927年、東京に最初の地下鉄がうまれました。

市電も地下鉄も短距離をむすぶだけのものでしたがやがて郊外電車がうまれ、また京都・大阪・神戸といった群市間をむすぶ中距離電車が誕生し、さらに湘南電車が完成して電車による長距離輸送のめどがたち、ついに1957年の東海道本線全線電化、1958年からは東京~大阪間をビジネス特急こだま号が走るようになるとともに日本の鉄道は活気を帯びはじめたのです。

国鉄では1975年までに全線の76パーセントを電化のこりはディーゼル機関車を走らせ煙を吐く汽車を全部なくしてしまう計画をすすめています。

新幹線の登場

1964年10月、東海道新幹線が開通しました。
この新幹線を超特急ひかり号は最高時速210キロメートル平均速度172キロメートルで走ります。

この新幹線は5年の歳月と、3800億円の巨費を投じて完成されたものです。

これに刺激されて、イギリスではロンドン~グラスゴー間に時速241キロメートルの高速電車をアメリカでは、ワシントン~・ニューヨークー~ボストン間に時速225キロメートルの電車を、それぞれ走らせる計画です。

また日本でも新たに、山陽新幹線を建設しここに時速250キロメートルの電車を走らせる予定です。



自動車の発達

現在の自動車の大部分は、ガソリンエンジンを原動機としています。
ライト兄弟の飛行機もガソリンエンジンをつけたものでしたがこのエンジンは1876年、ドイツのゴットリッヒ・ダイムラーが発明したものでした。

ダイムラーは1886年、自分で発明したガソリンエンジンをつけた自動車をつくりました。
今日の自動車の原型になったのは、このダイムラーの自動車です。

同じく、ドイツのカルル・フリードリッヒ・ベンツもダイムラーとは別にガソリンエンジンを発明またスピードをかえる装置や電気着火法・気化器などを発明しました。

のち、ダイムーフーとベンツは協同して自動車製作工場を経営しました。

しかし、その後の自動車工業はアメリカで発展します。

1895年に、チャールズ・ドゥーリエ・フランク・ドゥーリエ兄弟がマサチューセッツ州スプリングフィールドにアメリカ最初の自動車工場をつくりましたが、それから10年もたたないうちにオールズ=モーター・ビュイック・パッカード・キャデラックフォード・オーバーランド・ダイヤモンドなどの自動車製作工場がぞくぞくと設収され、しだいに大工業にまで発展して今日にいたっています。

さて、アメリカの自動車工業ひいては世界の自動車工業をこんなにも急速に発展させた最大の功績者はヘンリー・フォードです。
彼は流れ作業ということを思いついたのです。

コンベアを利用して、部品から完成した自動車をつくる方法(トランスファーマシン方式)で自動車を早く安くつくることを可能にしました。

このトランスファーマシン方式は部品から完成品を自動的に生産するオートメーションを可能にしさらにエレクトロニクスをくみ入れることによりますます完全なものに発達していきます。

機械工業のオートメ化は化学工業のオートメ化をうみだしさらには事務や経営のオートメ化をも実現させつつあります。

自動車そのものの性能の発達も、もちろんたいへんなものです。
ことに電気自動車やロータリーエンジン自動車の将来には大きな期待がよせられています。




ジェット機が発明されたのはいつ頃? わかりやすく解説!

ジェット機の誕生

1939年にはじまった第二次大戦で、ふたたび飛行機は発展期をむかえることなりました。

さて、第二次大戦も終わりに近づくころドイツ空軍は、ブロペラがなく、機首に大きな穴の開いているそしてプロペラ機のスピードをはるかに上まわる不思議な戦闘機をつくり連合軍の飛行機をつぎつぎ落としました。

これこそ世界最初のジエッ卜機(ハインケルHe178型)だったのです。

このジェット機の最高時速は866キロメートルでした。


そのころ、イギリスでもジェット機の研究がかなりすすんでいました。
1941年5月、イギリス空軍のフランク・ホイットルが設計したグロスターE28型機が最初の試験飛行に成功しています。

このグロスター機は時速991キロメートルというそれまでのプロペラ機の記録を大幅に上まわるスピードを出しました。

アメリカのジェッ卜機の研究は、ドイツやイギリスにくらべてかなり立ちおくれていましたが、第二次大戦後、イギリスの研究をうけつぎ、まず1947年、ロッキード社がP80R型シューティング・スターというアメリカ最初のジェット機を製作しました。

このジェット機は時速1003キロメートルという快記録を出しました。
ジェット旅客機も第二次大戦機に開発がはじまりました。

まず1949年、イギリスは世界にさきがけて、四基のジェットエンジンをもち巡航時速790キロメートル、航続距離5710キロメートルというジェット旅客機コメットを就航させました。

このイギリスがほこるコメット機は、まもなく2機続けざまに地中海上で空中分解するという事故を引き起こしました。

機の破片はもちろん海底深く沈んでしまいましたがイギリスの航空省はこの破片を広い集め、徹底的に事故の原因をさぐりました。

この調査の結果が、その後のジェット機の安全設計にどんなに大きな貢献をしたかはかりしれません。

ともかく、ジェット旅客機の発達は時とともにすすみ1958年ころから、大型長距離旅客機ジェットにかぎるという時代にうつりました。



音速の壁を越える

飛行機のスピードが音速を越える、ということは航空関係者の長いあいだの夢でした。
現在のジェット旅客機はまだ音速の壁を越えておりません。

音速のことをマッハといいますが、いまの代表的なジェット旅客機、たとえばダグラスDC‐8とかボーイング727とかはマッハ0.8、ボーイング737は、マッハ0.7ぐらいのスピードしか出せません。

しかし、軍用機なら、マッハ2とか3とかいうものすごいスピードをもったものがあります。

最初に音速の壁を破ったのはアメリカのベル航空会社が試作したロケット機ベルX1号でした。

ロケットは第二次大戦中ドイツによって誘導弾(V2号)として実用化されていましたがそのロケットの原理を飛行機にとりいれたのがベルX1号なのです。

1947年、アメリカ空軍のパイロット、チャールズ・イーガー大尉の乗り込んだペルX1号は、マッハ1.2(時速1440キローートル)のスピード記録を出しました。

このXシリーズは.回を重ねるにしたがってつぎつぎとスピード記録をのばし、1967年にX15号は時速7254キロメートルを出しました。

このXシリーズはあくまでもスピードに挑む特殊な飛行機の開発を目指すものですがふつうのジェット戦闘機もつぎつぎと音速の壁を破りはじめました。

まず、1953年、アメリカ空軍のノースアメリカンF100や海軍のダグラスF100がマッハ1以上のスピードを記録しその3年後の1956年には口ッキードF104、コンベアF106などがマッハ2を越えました。

また、1968年、福岡市の九州大学構内に墜落としたF4ファントムジェット戦闘機はマッハ3に近い高速が出せます。

また.アメリカはすでに、マッハ3.5で飛べるスパイ機A11型をもっています。

超音速輸送機の開発

輸送用大型機はまだ音速を越えるものはありませんが超音速輸送機(SST)の開発も急ピッチですすめられています。

イギリスとフランスの協同開発によるマッハ2.2のアングロ・フレンチトコンコード、アメリカで開発中のマッハ3のSST、ソ連が1968年に完成したと発表したTU144(マッハ2以上)などSST開発競争はますます激しくなりました。




航空機が発達したのはいつ頃? 初期の飛行機とは?

昔から、人間はずいぶん長いあいだ自分の足で歩き荷物を運ぶ場合も、せいぜい馬の力を借りるくらいといったような生活を続けてきました。

しかしながら、交通機関がまるでうまれなかったわけではなく少しずつは進歩してきました。
交通機関・運輸機関が急に発達したのは、やはり、20世紀に入ってからのことです。

輸送・交通機関のなかでも、最も早く発達したのは、いかだや丸木舟です。
しかし今日では、ジエッ卜機が世界中の空をものすごいスピードで飛び交い高遠道路を自動車が突っ走り、海には巨大な夕ンカーが浮かんでいます。

それらの発達のおかげで、世界は日ましにせまくなり人間の生活はますます忙しくなっていきます。


初期の飛行機

はじめて飛行機が登場するのは、20世紀に入ってからのことです。
したがって、航空機こそまさしく20世紀の産物ということができます。

19世紀の末ごろ、アメリカにウィルバー・ライト、オービル・ライトというふたりの兄弟がいました。

家業の自転車製作業にはげみながらも飛行機熱にうかされ最初はグライダーの研究をすすめていましたがグライダーの大先輩ドイツのオットー・リリエンタールが1896年試験飛行中つい落死したので、グライダーに見切りをつけエンジンの動力で飛ぶ方法を考えはじめました。

1903年、ガソリンエンジンつきの複葉プロペラ機フライヤー号で22秒間の飛行に成功しました。

わずか12秒間でも、とにかく空に舞い上がり、実際に飛んだのです。
12月17日、寒い朝、ノースカロライナ州の砂浜でのことです。

ところがこの歴史的な実験に立ちあったのはわずか5人の友だちと群れ飛ぶ、かもめだけだったということです。

その後、1914年にはじまった第一次大戦で飛行機の性能はすばらしく向上しました。

たとえば、ライト兄弟の「フライヤー」号のエンジンはわずか12馬力、スピードは、時速48キロメートルだったのにたいし第一次大戦で活躍した飛行機には200馬力、時速250キロメートルくらいのものがざらにありました。



1918年末に第一次大戦が終わると、飛行機はたいして重要なものとはされなくなりました。
しかし、まもなく、今度は空の乗り物として注目されるようになりました。

まず、1919年にニューヨーク~シカゴ間に定期郵便飛行がはじまり同じ年イギリスはデ・ハビランド(DH19C)という戦時中の爆撃機を改造したものでロンドン~パリ間の定期旅客機航路をひらきました。

また、1927年、アメリカの無名の青年飛行家チャールズ・リンドバーグが自分で設計したライヤン単葉機、スピリッ卜・オブ・セントルイス号に乗ってニューヨークからバリまで大西洋を無着陸で横断飛行することに成功したのです。

ひき続き、スピードも航続距離も急速に向上しました。

1938年、日本の航研機(航空研究所試作長距離機)が木更津・銚子・太田・平塚をむすぶ1周400キロメートルのコースを63時間23分をかけて29周し、航続距離1万165キロメートルという世界記録をたてました。

またスピードのほうは1939年ドイツのメッサーシュミッ卜109九型戦闘機が275馬力のエンジンで時速755キロメートルという大記録をつくりました。




エレクトロニクスが発展と応用とは? わかりやすく解説!

エレクトロニクスの発展は、つきるところを知らないかのようです。

たとえば、モーターのついている機械はかなりの音を立てるのがふつうです。
しかし、ソニーのマグネットダイオードのようなものをスイッチにすればまったく音のしないものができるはずです。

また、ビスマスとテルルの合金に微量の不純物をくわえた半導体を使うと動く部分も、音を出す都分も全くない冷凍装置ができます。

しかもこの場合、電流の方向を加えてやることで、逆に加熱装置にもかえられるのです。
一つの装置で冷やしたり温めたり、という正反対のはたらきが同時にできるこれはどう考えても不思議なようですがエレクトロニクスの利用はそんなことも可能にします。


電子レンジというものはすでに実用化されて、家庭用のものまで売られています。
これを使うと、肉や魚が何秒とか何十秒という短い時間で調理されてしまいます。

これはマグネトロンという特殊な真空管から発振される数千メガサイクルというたいへんな周波数をもった高周波を使うと肉や魚をつくっているいちばん基本的な単位である原子がものすごく揺さぶられそのときでる熱、つまり自分自身が出した熱で自分を料理してしまうということになるのです。

同じ原理で、木材など、なかなか乾燥しにくいものや乾燥がいちように行き渡りにくいものなども、短時間にまんべんなく乾燥させることができます。

太陽電池というものもかなりよく利用されはじめました。
これはホウ素をしみこませたケイ素のうすい板(これも半導体です)が肝心な装置なのですが、この板に太陽の光があたると光が電気にかわるしくみになっているのです。

1954年にアメリカのベル電話研究所で開発されたのが最初ですが日本でもかなり早くから実用化がすすめられ1958年には福島県の信夫山に建てられた無人超短波中継局の電源用に太陽電池が使われました。

これをはじめとして、あちこちの無人灯台などでも使われるようになりました。

アメリカやソ連の人工衛星も太陽電池を電源としていることはみなさんも知っているでしょう。

しかし、いっぱん用の太陽電池の生産は日本が世界一でたとえば、エジプトの砂漠のあちこちに立てられている灯標の電源にも日本の太陽電池が利用されています。

そのうちに、各家庭が屋根を太陽電池でふき自家発電に切り替えるような時代がくるかもしれません。

照明の世界にもエレクトロニクスは夢を運んでくれます。
たとえば、壁全体、天井全体を発光させるいわゆる面照明という新しい照明のしかたをエレクトロニクスは実現させてくれるのです。

これは硫化亜鉛をまぜた塗料を、壁や天井にぬっておきこれに電圧をかけると、ある一定の電圧以上になったとき全体が光りだすのです。

交流電圧をかけると、周波数をかえることによっていろいろな色の光を出させることもできます。




電子計算機・電卓の歴史とは? わかりやすく解説!

さて、電子計算機こそは、エレクトロニクスがうみだした最も偉大な産物といえるかもしれません。

計算には暗算・筆算、それにそろばんや手まわしの計算機を使うやり方などがあります。
しかし、そんな計算はたかがしれています。

20世紀の後半近くになってはじめて登場しその後、日進月歩の勢いで進歩、発展を続けている電子計算機の計算能力にくらべればまるで問題になりません。

電子計算機は数学の専門家が一生かかっても計算しきれないような計算でもおそらく何秒かのうちにやってのけるでしょう。


電子計算機がつくられるまえに電気計算機がうまれました。
それは基本的にはリレー(継電器)を利用したものです。

リレーというのは、電流を通したり切ったり、あるいは方向をかえることによって接点を開閉し、その接点につながるほかの回路の電流が流れたりきれたりする装置のことです。

このリレーをたくさんくみあわせて計算するのがリレー計算機です。
1944年に、アメリカのハーバード大学で世界最初の全自動電気計算機(マーク1型)が完成しました。

このリレーのかわりに真空管やトランジスタに抵抗・コンデンサーをくみあわせた回路を使うのが電子計算機なのです。

電気計算機と電子計算機では、計算のスピードがまるで違います。
たとえば、1946年にペンシルベニア大学で完成した世界最初の真空管式電子計算機(エニアック)はさきに述べた電気計算機より1500倍も計算スピードが速いのです。

しかしながら、この電子計算機も出来てから20年たたないうちにすでに過去のものとなり今日ではそれよりも何千倍も能力の勝る電子計算機ができています。

電子計算機の進歩はまったくすばらしいものだということができます。

さて、電子計算機の世界でも小型高性能化がすすめられています。
はじめのころは、全部、真空管式でしたから性能を高めようとすれば真空管の数を増やさなければなりません。

そうすると、装置全体がたいへん大きいものになるしまた真空管は故障しやすいため、たえず検査し、監視を続けなければなりません。

しかし、トランジスタが電子計算機の悩みをも解決してくれました。
今日の電子計算機は、ほとんど全部トランスジスタ式になり性能がすばらしい、小型のしかも安定したものになっています。

1958年、アメリカのテキサス=インストルメントという会社が集積回路(IC)というものを開発しました。

これは配線部分を印刷することにより卜ランジスタや抵抗を非常に小さい容積にまとめたものでたとえば米粒の大きさの中に卜ランジスタ20個、抵抗40個を詰め込むことができます。

この集積回路はラジオやテレビにも使われていますが電子計算機にくみこむことにより、小型化することができます。

アメリカ空軍は1961年、缶詰ほどの大きさの電子計算機をつくり人工衛星などに詰め込んでいます。



ところで、電子計算機はこのようにすばらしい進歩を続けていますがなんのためにそれほど計算のスピードを上げなければならないのでしょうか。

それは、科学技術の進歩、社会の進歩に伴って手にあまるような膨大な計算を必要とする問題や一瞬のうちに答えを出さなければならないような問題が非常に多くなったからです。

たとえば、ある惑星の軌道を決めるのに天文学者が昼も夜もついで計算して15年もかかったという例があります。

これでは、一生計算し続けてもなにほどのこともわからないわけです。
それが、いまの電子計算機を使えば、おそらく数分以内に答えがでてしまうでしょう。

もっと身近な例で、国勢調査・人口動態調査というのがあります。
日本のように人口の多いところになりますと総理府統計局のお役人さんがいくらがんばっても集計を終えるまでに3年も4年もかかります。

つまり、やっと国勢調査の結果がでたときには人口は調査結果とは全然ことなっていることになり。

つぎの調査をしなければならないときになって、やっとまえの調査結果がわかるということが、これまではやむを得ないこととされていました。

しかし、電子計算機を使えば、データをそろえるまでに年くらいはかかっても、何時間かのうちに結果を集計することができます。

事実、アメリカで電子計算機が発明されたのは国勢調査をできるだけはやくまとめたいという要求からです。

アメリカの大統領選挙でも、日本の衆・参議院の選挙でも電子計算機を使うのが、あたりまえになっています。

また国鉄のみどリの窓ロにいけば、列車っ座席のあるなしはたちどころにわかり、昔のようにいらいらしながら何時間も待つ必要はなくなりました。

これも、全国にはりめぐらした情報網を中央制御でする電子計算機を利用しているおかげです。

そのほか、複雑なレンズの設計、マンモスタンカー・超高層ビルの設計長期予報のための天気図の作製、銀行や大企業の事務管埋などにも電手計算機はいまや欠くことができないものになっています。

また、電子計算機は計算ばかりでなくたとえば、言葉の翻訳、さらには作詞で作曲の仕事までできるのでこの方面の仕事をさせるためのに開発しているものは電子頭脳とか、人工頭脳の名でよばれています。

電子計算機(コンピューター)は人間社会を夢の理想郷(コンピュートピア)にかえてくれるかもしれません。




テレビ・ラジオが発明、登場したのはいつ頃? わかりやすく解説!

エレクトロニクスはほとんどあらゆる科学・技術・産業応分野、また私たちの生活のすみずみまでも大なり小なりの関係をもっています。

ここでは、エレクトロニクスが主役となっている分野にかぎって話をすすめていくことにしましょう。


通信への利用

19世紀までの通信手段としては、1837年にモールスが発明した電信機、1876年にベルが発明し、エジソンによって改良された電話機、そして1895年にマルコーニとポポフがほとんど同時に発明した無線電信機などがありました。

このうち、無線通信は空中を伝わる電波を利用します。
しかし、はじめのころの無線通信は、電波が不安定で雑音も多く安定した無線通信ができませんでした。

さきにお話ししたように、1907年、ド・フォレストが三極真空管の開発に成功しました。

当初は、真空管には電波を検出する検波というはたらきと弱い電流を強い電流にする増幅というはたらきだけしかないと思われていましたが1913年ころには発信する作用もあるということがわかりました。

さらに振動数をかえる変調というはたらきをもたせることもできることがわかりました。
つまり、送信にも受信にも使用でき、しかも非常に安定した通信が可能になったのです。

まず、ラジオが登場しました。

1920年、アメリカのウェスティングハウス社がペンシルベニア州ビッツバーグにKDKA局を建てたのがはじまりです。

そのつぎの年、ニューヨークボクシングの試合をラジオ放送してたいへんな評判をとっだのがきっかけとなり、ラジオは急速に広まっていきます。

1924年には同じくアメリカのゼネラル=エレクトリック社がカリフォルニア州オークランドに建てたKGY局からの放送電波が太平洋をひとまたぎして日本の茨城県平磯にまでとどきました。

日本でも、1925年3月12日、東京放送局(NHKの前身)芝浦仮放送所からJOKAの第一声が流されました。

この日は「放送記念日」に指定されています。

つぎに登場するのはテレビです。

テレビを最初に発明したのはイギリスのジョン・ロギイ・ベアードということになっています(1925年)が今日のテレビとはまるで様子が違うものでした。

現在の方式のテレビ基礎は1933年にロシア生まれのアメリカの電気技術者ウラジミル・ツポリキンが撮像管(アイコノスコープ)を発明したとときにできました。



さて、ラジオやテレビは送信機も受信機もどんどん進歩します。
ことに受信機がトランジシスタ化、すなわち真空管のかわりにトランジスタをくみこむことによってたとえばラジオはポケットサイズ、テレビでは5インチのマイクロテレビといった具合に急速に小型化されました。

ポケットサイズのトランジスタラジオは1956年、5型のマイククロテレビは1956年いずれも日本(ソニー)が世界に先がけて発売しました。

集積回路というのを使うと、さらに小型化できます。

たとえば、タバコの箱の半分ほどの大きさしかないマイクロラジオはすでに市販されています。

テレビについては、もう本格的なカラー時代がきています。
さきにのべたイギリスのベアードは1944年赤・緑・青3色の蛍光体をハチの巣形にならべ3色のピラミッドのようにし、電子ビームを3方向からあてて色つきの像をつくる方法を発明していたのです。

このベアード方式に20万個もの細かい穴を開けたシャドーマスクというものをくみあわせたのがいまいちばん多く使われているカラーテレビ受像方式なのです。

ほかにもいろいろな方式がありますがアメリカでは今述べた方式(NTSC方式)を正式に採用、日本でもこれにならって、1956年12月にNHKがカラーの実験放送を開始(本放送開始は1960年9月)して以来民間放送各社もぞくぞくとカラー放送に踏み切りました。




日本のエレクトロニクスが進歩し始めたのはいつ頃?

日本の科学者・技術者たちは、エレクトロニクスの世界でどんな新しいものをうみだしたでしょうか。
ここでは、基礎的な分野でとくに著しい貢献をした、2、3の例を挙げておきましょう。

東京大学の後藤英一博士が1955年に発明したパラメトロンというのがあります。

これは、フェライト(酸化鉄に、いろいろな金属の酸化物を結合させたものでつくった環状の磁心を主体にし、これにコイルとコンデンサーをくみあわせたもの)これは増幅作用もありますし、記憶させることもできトランジスタと同じように電子計算機にも利用できます。


また、電話交換機や電信機、工業用制御機などにも広く利用されています。

つぎはエサキダイオードです。

これはソニーの研究員だった江崎玲於奈博士が1959年に発明したダイオードです。

ダイオードというのは、もともとは陰極とプレート(陽極)だけをもつ二極真空管にたいして名づけられた名前なのですがそれと同じはたらきをする半導体をもダイオードと呼ぶようになりました。

いろいろな種類のダイオードがあるのですがエサキダイオードは電圧をあげると、ふつうの場合とは逆に電流が流れにくくなるという特性(負性抵抗)をもっています。

ダイオードもトランジスタと同じように非常に純度の高い半導体(ゲルマニウムとかシリコン)を材料にしてつくります。

そこでふつうは純度を高くすることばかりに目を奪われるのですが江崎博土は逆に、不純物を多くしたらどんな結果がでるか実験してみたのです。

すると驚くべきことに、さきに述べた負性抵抗という特性があらわれたのです。

江崎博士は卜ンネル効果という理論を引用しました。
その説明はたいへん難しくなりますから、ここでは省きますが江崎博士の偉いところは、新しく見つかった減少にたいして立派な理論づけもしたということです。

トランジスタの発明者ショックリー博士もエサキダイオードをほめたたえていたということです。

その応用面ですが、非常に高速のスイッチ作用(回路を切ったりつないだりする作用)をもっていますので、電子計算機の論理回路や記憶回路にくみこむのがいちばんの利用面でしょう。



もう1つソニーの例をあげますが、1968年、山田敏之という29才の研究員がマグネット=ダイオードというすばらしい半導体の開発に成功しました。

これは磁気に感じるダイオード、すなわち磁界のかけかたでその中を通る電流の量を調節することができまた磁極の置き方で電流を流したりせき止めたりすることができるものです。

磁気に感じるダイオードはすでに1880年アメリカの物理学者ニドウィン・ハーバード・ホールが発明していますがソニーのマグネット=ダイオードはこれよりも1000倍も感度が良い上に非常に安くつくることができるということです。

ラジオ・テレビ・電気洗濯機・掃除機・冷蔵庫・ドライヤー・発電機にまで広く利用することができるでしょう。

最後に、松下電器産業の若い研究者グループが1968年に開発した感圧素子というのがあります。

これは圧力によって電流を調節できるダイオードです。
これも、機械的な接点のないスイッチご利用できますし重量計や血圧計、マイクロホンやピックアップにも使えるでしょう。

とにかく、最近ようやく日本のエレクトロニクスが世界のエレクトロニクスになりはじめたことをうなずかせる、うれしい発明の数々です。




トランジスタが登場したのはいつ頃? わかりやすく解説!

アメリカのベル電話研究所にいたすぐれた物理学者ウィリアム・ブラドフォード・ショックリーは1935年ごろから、結晶空管と同じような増幅作用をもたせることはできないだろうかということをひたすら考え続けていました。

すでに鉱石検波器(特殊な鉱石と金属あるいは鉱石と鉱石とを軽く接触させて高周波を整流する装置)というものがあり、真空管が実用化される以前のラジオ受信機(鉱石ラジオ受信機)に用いられていたのですからショックリーの狙いは、必ずしも的外れではなかったのです。


しかし、その前途は険しく、ベル研究所の膨大な投資、たくさんの優秀な研究員たちの努力があってしかもなお、実に15年という長い年月の末ショックリーのアイデアはようやく実をむすび最初のトランジスタ、いわゆる点接触型トランジスタがうまれたのです。(1948年)

点接触型トランジスタというのはデルマニウムの結晶の小片にホイスカー電極とよばれる細い金属の針を2本極めて接近させた位置に立てただけのものでした。

しかし、この結晶はたしかに真空管と同じように弱い電流を強くする増幅作用を持っていたのです。
ショックリー、そしてブラッテン・バーディンというふたりの協力者の見事な勝利でした。

残念なことに、この点接触型トランジスタはつくるのがたいへん難しいしショックに弱いという欠点がありました。

そこでショックリーらはさらに努力を続け1950年には点接触型の欠点をすべて取り除いたトランジスタ(電極の針を立てずに、ペースに層状に結合させたもの)をつくりあげることに成功しました。

トランジスタはこのようにアメリカでうまれたものです。

しかし、その実用化のめどがまだ立たないいうちにその技術を導入して、小型のトランジスタラジオをつくりあげたのは当時の東京通信機工業、いまのソニーです。(1955年)

トランジスタは、すばらしい利点を備えています。
しかも、その進歩はまるで留まるところを知りません。

たとえば、結合型をさらに改良したメサ・ランジスタそれよりもさらに安定したブレーナー・ランジスタそしていま話題の集積回路(IC)と、高密度集積回路(LSI)とまさに日進月歩の勢いです。




エレクトロニクスのはじまりはいつ頃? わかりやすく解説!

エレクトロニクス

エレクトロニクスという言葉は50年ほど前までは少なくとも一般の人たちにとってはあまり耳なれない言葉であったかと思われます。

しかし、今日では、それはほとんど全ての人になんの抵抗も感じさせない、いわばいっぱん的な言葉にかわってしまってはいないでしょうか。

とはいうものの、その内容は決して通り一遍のものではなく年とともにしだいにその幅と深みを増してゆくのですから「ああそんなことか」とかんたんに理解していただけるような性質のものではありません。

しかし、ラジオやテレビがエレクトロニクスの産物だと聞けば真空管やトランジスタを応用する世界なのだなとおぼろげながらわかったような気もするでしょう。

エレクトロニクスはふつう「電子装置とその応用に関する科学、技術の分野」であるとされています。

ここにいう電子装置とは、真空・ガス体あるいは半導体の中を電子が移動するときに生じるさまざまな特性を利用するもののことです。

そこで、エレクトロニクスは、電子工学とか電子技術と訳されています。

しかし、エレクトロニクスは、やはり電子という不思議なものの動きや物理的な性質を研究する分野です。

それはともかくとして、エレクトロニクスの発達はさまざまな意味で、いま世界を大きくかえようとしてます。


エレクトロニクスのはじまり

エレクトロニクースは、エレクトロン(電子)に関する学問およびその応用技術ですから、まず、電子の存在が確認されていなければなりません。

原子の中に電子があることは、1892年にオランダの物理学者ヘンドリック・ローレンツが唱えました。
実際に、電子の流れをつかんだのはイギリスのジョセフ・ジョン・トムソンです。(1897年)

その経緯はこうです。

まず、ドイツの技術者のガイスラーという人が2本の電極を入れた放電管の中で、真空放電をおこなわせることに成功したのですがこのとき、陰極からでる放射線に陰極線という名がつけられました。

トムソンは、この陰極線が電界や磁界によって曲げられるという事実からこれは負の電荷をもった微粒子、すなわち電子の流れであることをつきとめたのです。

ついで1904年、同じくイギリスのジョン・フレミングはガイスラー管を発展させて真空にした管の中に陽極と陰極を向い合せにした二極真空管をつくりました。

フレミングの真空管はかんたんな整流や検波にしか使えないものでした。

アメリカのド・フォレストは1907年陽極と陰極との間に制御格子(グリッド)をおくことにより、陽極・陰極間の電流を制御しまた増幅できる三極真空管を発明しました。

真空管は、まず有線電話通信(電話はすでに1876年、アメリカのアレキサンダー・グラハム・ベルによって発明されていました)の中継用に用いられましたがまもなく無線通信の世界で、さらに大きい活躍をすることになりました。

真空管は真空中における電子の動きを利用するものですからもちろん、エレクトロニクスの分野に属するものですがそれが20世紀のはじめにあらわれ、しかも実用化されているのですから思えばエレクトロニクスの歴史もずいぶんと古いものです。






合成樹脂(プラスチック)が工場生産されるようになったのはいつ頃?

合成樹脂(プラスチック)というと、とても新しいもののような気がします。
しかし、1869年にアメリカのジョン・ハイヤッ卜という印刷工がセルロイドを発明しています。

このセルロイドが合成樹脂の元祖であるということはできますがその材料は綿やショウノウであり、いずれも天然のものです。

ちょうど人絹と同じように全くの合成品とは言えません。

それではベークライト(フェノール樹脂の一種)はどうでしょうか。

これはベルギーにうまれた化学者レオ・ヘンドリック・ベークランドが1909年に発明した合成樹脂です。

フェノールとホルムアルデヒドとからつくったもので完全な人工合成樹脂ということができます。

日本で最初に生産された合成樹脂はセルロイド(1908年)ついでベークライト(1914年)、3番目がユリア樹脂(1929年)です。

また、1941年から塩化ビニル樹脂(塩ビ)が1956年にはポリニチレンが生産されました。

そのほか、ほとんどあらゆる合成樹脂が現在、生産されています。




人造繊維が登場しはじめたのはいつ頃? わかりやすく解説!

1938年、アメリカの有名な化学会社デュポン社は「水と空気と石炭からつくられる、クモの糸よりも細く鋼鉄よりも強く、絹よりも美しい繊維」ナイロンを発表しました。

合成繊維、ナイロンの出現は、全世界の人たちの目を見張らせたのですがとくに日本人はたいへん驚きました。


というのは、当時の日本は世界一の生糸・絹織物の生産国でアメリカだけにでも年間5万トンもの絹を輸出していたのです。

ところが、ナイロンの誕生で、あっという間に絹の輸出はストップ、カイコに繭をつくらせて生活していた全国200万におよぶ日本の養蚕農家やその繭から生糸をつむぎ、絹布に織っていた製糸工場・織物工場は絹が売れなくなってたちまち困ってしまいました。

新しい科学、技術の成果が、国全体の運命をもくるわせてしまう例をここにも見ることができます。

それまで衣料として用いられた繊維は四大天然繊維とでも言うべき、植物繊維の綿および麻、動物繊維の絹と羊毛などです。

天然繊維をいくらか加工したものも用いられていましたが繊維といえば、ほとんどが天然繊維でした。

後に、木材パルプを水酸化ナトリウムと二硫化炭素の溶液につけると溶けて赤いどろどろしたもの(ビスコース)になりこれを小さな穴から押し出して固めると立派な繊維になることがわかりました。

1892年、イギリスの化学者クロス・ビーバン・ビードル3人の発見です。

こうしてつくられたのがいわゆる人絹(レーヨン)です。
人絹はたしかに化学的につくりだされるものではありますが原料に木材を使うので、まったくの人工合成品というわけにはいきません。

しかし、ナイロンは違います。

ナイロンの原料は、デュポン社の宣伝文句の通りたしかに石炭(あるいは石油)と水と空気なのです。

そんなありふれたものから絹のような美しい繊維がうまれるとはまるで想像もつかないと思われるでしょうが
化学の魔法は、たしかにこの不思議を現実のものにしてくれたのです。



もちろん、石炭と水と空気を混ぜたところでナイロンができるわけではありません。

石炭からつくる石炭酸と水からつくる水素と空気中にふくまれる窒素とをうまく利用していろいろな複雑な工程をへてまずアジピン酸とヘキサメチレンジアンというものをつくり、この2つをむすびつけてナイロンをつくるのです。(ほかにも、違った方法はあります)

このナイロンという合成繊維つくりだしたデュポン社の技術者たちを指導していたのはウォーレス・ヒューム・力ロザースという、まだ42才の技術者でした。

カロザーズはハーバード大学の講師をしていた33才のときに大デュポン社の有機化学研究所長にむかえられたのですからよほど天才的な人だったのでしょう。

残念なことに、ナイロンが発表される前年の1937年、謎の自殺をとげました。
あまり仕事に熱心だったために、ノイローゼとになったのかもしれません。

さて、ナイロンのあとを追って、つぎつぎと新しい合成繊維が登場します。
まず、1939年、当時京都大学教授だった桜田一郎博士、助手の李昇基博士(現在は北朝鮮で合成繊維工業の指導をしています)らの努力で、木綿によく似た合成繊維ビニロン(ボリビュルアルコール繊維』が発明されました。

またこの年、アメリカのダウ・ケミカル社はポリ塩化ビニリデン系の合成繊維サランを発表1941年にはイギリスのウインフィールドらがポリエステル系の羊毛に似たすぐれた合成繊維を発明この特許を譲り受けたイギリス最大の化学会社ICI(インペリアル=ケミカル=インダストリー)が照り芯の商品名(アメリカではデークロン、日本ではテトロン)で1947年に発売しました。

また1948年にはデュポン社がポリアクリル系のオーロンを1956年にはイタリアのモンテカチーニ社がポリプロピレン系のモプレンを発表するといった具合に、カロザーズによって切り開かれた合成繊維は急速に発展しました。




農薬が発達したのはいつ頃? わかりやすく解説!

20世紀の合成化学の進歩は、農業の世界にもたいへん貢献しました。

イネには昔から三大病害虫がつきものでした。
ウンカとニカメイチュウと、そしていもち病です。

たとえば、早植えして台風の最盛期がくる前に取り入れようとすると
ウソカやニカメイチュウのさかりにぶつかるし
肥料をたくさんほどこし多収穫をねらおうとすれば
いもち病にはびこられる、といった具合です。


ところが、まず1949年ごろからBHCがウンカ退治の有力武器としてまた、1952年ごろからは、パラチオンがニカメイチュウにたいする薬として登場。

さらに1953年ごろから酢酸フェニル水銀などの有機水銀剤がいもち病の特効薬として用いられるようになりイネの大敵にすっかりなりをひそめてしまいました。

こうした新しい農薬の開発は、DDTの登場の歴史に遡ることができます。
1874年.ドイツの化学者ツァイドラーがはじめてDDTを合成しました。

しかし、なんの役に立つかもわからずにほうりだされていたのです。

1938年、スイスの化学者パウル・ミュラーは植物の害虫の防除薬を研究中にツァイドラーの研究を知らずに、DDTを合成しさらにこの薬が強力を殺虫対果を持つことを発見したのです。

1943年ごろから、まずアメリカで大量生産にうつされ農作物の害虫駆除からジャングル戦のマラリア蚊の退治、蚊や蠅などの家庭害虫の駆除に広く使われるようになりました。

BHCはDDTにヒントをえて、イギリスの化学者たちが合成したものでDDTの5倍以上も強力な殺虫剤です。

新しい農薬、殺虫剤は人間の生活を豊かにするうえにはかりしれないほどの貢献をしてきましたがいっぽうではその害毒にも注目しなければなりません。

農薬を使いすぎるために、蛍もドジョウも姿を消し昆虫を餌にしている野鳥の姿も見られなくなり自然のつりあいが大きくて破られることも、農薬の害毒の1つです。

また、農民や田畑の近くに住む人たちが恐ろしい農薬中毒にかかるということや戦争で山野を丸裸かにするために農薬を使うということもあります。

科学の産物は、もし間違った使いかたをすれば人類を滅ぼしてしまうような害毒を生むことになるのだということを深く心に刻みつけておきましょう。






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